朝のエ・ランテル。
コーヒーショップ「ツアレ」。
カリ、カリ、カリ……
静かな店内に、コーヒーミルを回す音だけが響く。
ニニャは慣れた手つきで豆を挽いていた。
(……あの時。)
高利貸しの屋敷。
拷問。
そこまでは覚えている。
だが、その後の記憶だけが、まるで霧がかかったように思い出せない。
気が付けば、自分は古道具屋の地下で眠っていた。
元締め。
モン・ドー。
先生。
三人とも、どこか安心したような顔をしていた。
「どうなったんですか。」
何度尋ねても、
「まあ、終わったことじゃ。」
「気にするな。」
「思い出さなくても構いません。」
そう言うだけで、誰も詳しく話そうとはしなかった。
(……でも。)
胸の奥に、何かが変わってしまったような感覚だけは残っている。
「いらっしゃいませ。」
扉のベルが鳴る。
入ってきたのは、四十代ほどの女性だった。
丸顔で、人のよさそうな笑顔。
買い物帰りのような大きな袋を抱えている。
「あなたがニニャちゃん?」
「はい。」
女性は満面の笑みでうなずいた。
「今日からよろしくねぇ。」
「え?」
「元締めさんから言われたの。」
「今日から、この『ツアレ』を手伝うことになったのよ。」
ニニャは目を丸くする。
「えっと……。」
「あなたは?」
女性は胸を張って笑った。
「細かいことは気にしない、気にしない。」
「みんなからは"おばさん"って呼ばれてるわ。」
「おばさん?」
「そう。」
「だから、おばさんでいいの。」
ニニャは思わず苦笑した。
「よろしくお願いします……おばさん。」
「はい、よろしく!」
店内に明るい笑い声が響く。
その様子を向かいの屋根の上から眺める人影があった。
元締めである。
モン・ドーが隣に立つ。
「本当に、あのおばさんで大丈夫なのか?」
元締めは煙管をくゆらせながら笑う。
「大丈夫じゃ。」
「ああ見えて、なかなか面白い人物でな。」
「ニニャには、ああいう太陽みたいな人間が必要なんじゃよ。」
モン・ドーは肩をすくめる。
「俺は不安しかねぇけどな。」
元締めは静かに店を見つめた。
「さて。」
「今日は平和に終わればいいがのう。」
その願いとは裏腹に、この日もまた「ツアレ」の扉を、救いを求める誰かが叩こうとしていた。
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少女はカウンターにしがみつくようにして言った。
「お願い……助けて……。」
服は泥と埃にまみれ、頬には殴られた痕が残っている。
ニニャは慌てて椅子を引いた。
「座ってください。」
温かいコーヒーを差し出す。
少女は震える手でカップを持ちながら、小さく口を開いた。
「盗賊たちに……。」
「見張りをさせられてるんです。」
「旅人を見つけると知らせろって……。」
「弟が人質なんです。」
声が震える。
「逆らったら……弟を殺すって……。」
「でも……もう嫌……。」
「もう耐えられない……。」
涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
ニニャは拳を握った。
姉・ツアレを思い出す。
助けを求めても、誰も助けてくれなかった日々。
その時だった。
「大丈夫。」
おばさんが、いつもの柔らかな笑顔で少女の前にしゃがみ込む。
「私たちが助けてあげる。」
「だから安心しなさい。」
少女は涙で濡れた目を上げる。
おばさんは優しく少女の瞳を見つめた。
「もう怖がらなくていい。」
穏やかな声。
少女の緊張が、少しずつほどけていく。
「……。」
まぶたが重くなる。
「あれ……?」
体から力が抜け、そのまま静かに眠り込んでしまった。
ニニャは驚く。
「寝ちゃった……。」
おばさんは少女をそっと抱き上げた。
「疲れてたんだね。」
「ニニャちゃん。」
「この子は二階で寝かせてあげよう。」
「はい。」
二人は少女を二階の部屋へ運び、毛布を掛ける。
寝息を確認すると、おばさんは静かに部屋を出た。
階段を降りながら、さっきまでの柔らかな笑顔が消える。
喰種人の顔だった。
「盗賊のアジトは分かったからね。」
ニニャは驚いて振り返る。
「え?」
「さっき、この子が話してくれたことと、服についた土や草、それに靴の泥。」
「十分よ。」
「だいたい場所は見当がついた。」
ニニャは目を丸くする。
「そんなので……。」
おばさんはウインクした。
「長く生きてると、こういう勘だけは鋭くなるの。」
そして、にっこり笑う。
「さあ。」
「弟ちゃんを助けに行こう。」
その笑顔は町の優しいおばさんそのものだった。
しかし、その目だけは獲物を逃さない喰種人の鋭さを宿していた。