新しくできた風呂屋。
閉店間際。
「この時間なら誰もいないかな。」
ニニャは暖簾をくぐった。
半喰種となった今でも、風呂に入る習慣だけは人間だった頃のままだった。
人混みは苦手だ。
湯気の向こうに人がいるだけで、喰種としての本能が刺激されてしまう。
「独り占めって、いいもんだね。」
肩まで湯に浸かり、大きく息を吐く。
その時だった。
湯気の向こうに人影。
「……あ。」
思わず立ち上がる。
そこには、男と見間違えるほど長身で精悍な顔立ちの女性が静かに湯に浸かっていた。
「ご、ごめんなさい!」
ニニャは慌てて湯から上がろうとする。
しかし女性は穏やかに微笑んだ。
「気にしなくていいのよ。」
静かな声。
「お湯はみんなのものだから。」
そう言って立ち上がると、桶を手に脱衣所へ向かっていった。
「へえ……。」
ニニャはその背中を見送る。
「なんだか……さわやかな人。」
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その夜。
モン・ドーは夜警として町を巡回していた。
「退屈な仕事だが……。」
「手当が出るからな。」
ぼやきながら歩いていると、
「!」
頭上から黒い影が落ちてきた。
とっさに飛び退く。
ドンッ!
石畳が砕ける。
落ちてきたのは、一人の男。
見覚えがある。
悪徳高利貸しだった。
「くっ!」
モン・ドーは空を見上げる。
夜空に浮かぶ黒い人影。
「……フライか!」
魔法で飛行している。
剣では届かない。
人影は夜空へ溶け込むように消えていった。
「逃げたか……。」
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翌朝。
コーヒーショップ「ツアレ」。
モン・ドーはコーヒーを飲みながら昨夜の出来事を話していた。
「――というわけだ。」
ニニャは驚く。
「落ちてきた人って……。」
「悪徳高利貸しだ。」
「散々人を泣かせてきた奴さ。」
「それじゃあ……喰種人が?」
モン・ドーは首を振る。
「違う。」
「元締めも、そんな依頼は受けてないと言ってた。」
先生も静かにうなずく。
「喰種人以外にも動いている者がいる……ということだ。」
モン・ドーは席を立つ。
「まあ、気を付けるんだな。」
その時。
カラン、と扉の鈴が鳴った。
「ごめんください。」
入ってきたのは、大柄な女性だった。
にこやかな笑顔を浮かべ、羊皮紙を差し出す。
「今度できた風呂屋です。」
「よかったら、どうぞ。」
「お、おう。」
モン・ドーは受け取る。
女性は深く一礼すると、そのまま店を出て行った。
ニニャは、その後ろ姿を見送りながら目を見開く。
「あっ。」
「どうした?」
「知ってるのか?」
モン・ドーが尋ねる。
ニニャはうなずいた。
「昨日、お風呂で一緒になった人です。」
「へえ。」
「風呂屋の従業員だったんだ。」
元締めは黙って羊皮紙を眺めていた。
その目だけが、わずかに細くなる。
「……風呂屋、か。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
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夕暮れ。
新しくできた風呂屋の裏手。
薪が山のように積まれた釜場では、湯を沸かす大釜が唸るような音を立てていた。
モン・ドーは物陰から様子をうかがう。
(従業員は……普段ここにいる、と。)
釜の前には、昼間ビラを配っていた大柄な女がいた。
釜の口へ手をかざす。
小さく指を鳴らす。
「──ファイアーボール。」
掌に生まれた火球は、本来の魔法とは比べものにならないほど小さい。
種火程度の熱量。
それを薪へ落とすと、火が静かに燃え上がった。
あとは薪を一本ずつくべ、火加減を調整していく。
(魔法を生活に使うタイプか。)
モン・ドーは少しだけ肩の力を抜いた。
その時だった。
女は足元に置かれていた大きな切り株を持ち上げる。
大人でも抱えるのがやっとの太さ。
斧は使わない。
両手を添え、
メリ……
ミシミシ……
バキィッ!
真っ二つ。
まるで乾いたパンでも裂くように、巨大な切り株を左右へ割ってしまった。
「……!」
モン・ドーの表情が変わる。
(なんて馬鹿力だ。)
女は割った薪を丁寧に積みながら、小さく笑った。
「死ぬも地獄。」
一本。
「生きるも地獄。」
もう一本。
炎がぱちぱちと音を立てる。
女は炎を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「もし地獄で神様に会ったら……。」
口元だけが笑う。
「殺しちゃうかもしれない。ウフフフ」
釜場には薪の爆ぜる音だけが響く。
モン・ドーは無意識に剣の柄へ手を伸ばいた。
(……こいつ。)
(ただ者じゃない。)
その瞬間だった。
女は振り返りもしないまま言った。
「盗み見なんて、趣味が悪いわよ。」
モン・ドーの動きが止まる。
「警備兵さん。」
「そこにいるんでしょう?」
モン・ドーはゆっくり物陰から姿を現した。
女は相変わらず釜の火を見つめたまま、穏やかに微笑んでいる。
その笑顔とは裏腹に、モン・ドーは確信していた。
(この女……。)
(俺と同じ"人を喰種"してきた目をしている。)
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喰種人のアジト――古道具屋の地下。
薄暗い部屋に三人の喰種人が座っていた。
元締めは一枚の羊皮紙を広げる。
「今日の依頼じゃ。」
全員の視線が集まる。
「断つべき悪は――悪徳商人。」
「長年、貧しい者に高利で金を貸し、土地も家も奪い取ってきた男じゃ。」
先生が静かに付け加える。
「証拠も十分。」
「泣き寝入りした者は数知れん。」
元締めは煙管を置いた。
「どうやら喰種人に狙われていることを察したらしい。」
「荷をまとめ、今夜にも町を出る準備をしておる。」
モン・ドーが鼻を鳴らす。
「逃げ得はさせねえってことか。」
「うむ。」
元締めはうなずいた。
「救い料は金貨三枚。」
「依頼人は市場で野菜を売る老婆じゃ。」
「金貨三枚は、あの人にとっては全財産に等しい。」
ニニャは静かにうなずく。
「受けます。」
「わたしも。」
モン・ドーも椅子から立ち上がった。
「久しぶりに体を動かせそうだ。」
その時。
ギィ……
地下室の扉が開いた。
「遅れまして。」
落ち着いた女性の声。
現れたのは、背の高い大柄な女性だった。
ニニャは目を丸くする。
「あっ!」
風呂屋で出会った女性。
釜場で薪を素手で裂いていた女性。
女性は穏やかに一礼した。
「初めまして。」
「ゼノビアです。」
「よろしくお願いします。」
モン・ドーは腕を組みながら苦笑する。
「……初めまして、じゃねえだろ。」
「昨日から気になってたぜ。」
ゼノビアは少しだけ笑う。
「仕事では初めて、という意味です。」
元締めも笑みを浮かべた。
「紹介しよう。」
「今日から喰種人として働いてもらう。」
「ゼノビアじゃ。」
ニニャは不思議そうに尋ねる。
「ゼノビアさんも……喰種人なんですか?」
ゼノビアは少しだけ考え、
穏やかに答えた。
「そうね。」
「人助けが好きだから。」
その笑顔は優しかった。
しかしモン・ドーだけは知っている。
あの釜場で聞いた言葉を。
――『死ぬも地獄、生きるも地獄。地獄で神に会ったら、神を殺すかもしれない。』
その一言が、今も耳に残って離れなかった。
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夜。
エ・ランテルの城門近く。
悪徳商人は荷馬車へ財産を積み込んでいた。
「急げ!」
「『喰種人』とかいう連中が俺を狙ってるらしい!」
部下たちは慌ただしく荷を運ぶ。
「帝都まで逃げりゃ安全だ!」
「さっさと積め!」
その時。
コツ、コツ、と足音が近づく。
月明かりの中、一人の尼僧が歩いてきた。
白い修道服。
穏やかな笑み。
「……?」
悪徳商人は眉をひそめる。
「あなたが○○さんですね。」
「そうだが……何か用か?」
尼僧――ゼノビアは柔らかく微笑んだ。
「今から私と、いいところへ行きましょう。」
「は?」
「何を言ってる。」
「忙しいんだ。」
「まあ、そう言わずに。」
ゼノビアは自然な仕草で悪徳商人の腕をつかんだ。
「ぐっ!」
思った以上の力だった。
振りほどけない。
「離せ!」
ゼノビアは穏やかな声のまま、小さく唱える。
「――フライ。」
二人の身体がふわりと浮き上がる。
「なっ!?」
「ご、ご主人様!」
部下たちが悲鳴を上げる。
その前へ、黒い影が飛び出した。
「あなたたちは許しません。」
ニニャの左目が赤く染まる。
腰から赫子が伸び、一気に部下たちをなぎ倒した。
「ぐあっ!」
「ば、化け物!」
逃げようとする者を、モン・ドーの剣が打ち倒す。
「あとはゼノビアか。」
モン・ドーは空を見上げた。
夜空。
はるか上空。
悪徳商人は震えていた。
「お、おい!」
「助けてくれ!」
ゼノビアは町の灯を見下ろし、楽しそうに微笑む。
「きれい。」
「とてもいい風景ね。」
「そう思わない?」
「思う!」
「思うから!」
「お願いだ!」
「もう降ろしてくれ!」
ゼノビアは少し首をかしげる。
「何よ。」
「もう降りたいの?」
「……しょうがないわね。」
そう言うと、
握っていた手を、
静かに離した。
「うわあああああっ!!」
悲鳴が夜空に吸い込まれる。
やがて――
ドンッ。
鈍い音が石畳に響いた。
静寂。
ニニャは思わず目をそらす。
「……。」
「うわあ……。」
モン・ドーも帽子を深くかぶり直した。
「相変わらず容赦ねえな……。」
ゆっくりと地上へ降りてきたゼノビアは、返り血一つ浴びていない。
夜風に髪を揺らしながら、残念そうにつぶやく。
「せっかくの、いい風景だったのに。」
「もう少し楽しめばよかったかしら。」
くすり、と笑う。
そして何事もなかったかのように闇の中へ歩き去っていった
ニニャはその背中を見送り、小さくつぶやく。
「……ゼノビアさんって。」
モン・ドーが苦笑する。
「敵にはしたくねえ相手だな。」
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人物紹介 ゼノビア
名前:ゼノビア
所属:喰種人
表の顔:風呂屋の従業員(釜場担当)
幼少期は家庭環境に恵まれず、幼い頃に母と生き別れる。
その後は父と二人で暮らしていたが、貧困に追い詰められた父は無理心中を図る。ゼノビアだけが生き残り、その出来事が心に深い傷を残した。
成長後は僧侶となり、人々を救う道を志す。しかし、長い年月を経て再会した母を前に、それまで抑え込んでいた感情が噴き出し、衝動的に母を手にかけてしまう。
その罪を抱えたまま教団を去り、各地を放浪する「はぐれ暗殺者」として生きていたところを元締めと出会う。
元締めは彼女の腕前だけでなく、その奥底に残る善性を見抜き、喰種人へ迎え入れた。
普段は温厚で人当たりがよく、風呂屋では客にも従業員にも慕われる存在。
しかし悪人を前にすると一切の容赦はなく、その処刑方法は大胆かつ豪快である。
重度の躁鬱気質を抱え、「人はいずれ死なねばならない」という考えに取りつかれている。その一方で、弱き者を救うことには誰よりも真剣であり、喰種人としての使命には忠実である。
長身で体格がよいため男性と間違えられることも少なくない。
本人は最初こそ笑顔で訂正するが、しつこくからかわれると「欲求不満解消」と称して相手を思い切り殴り飛ばすのが癖となっている。
モデル 【必殺必中仕事屋稼業】印玄