静かな午後。
コーヒーショップ「ツアレ」には、ゆったりとした時間が流れていた。
カラン――。
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」
いつもの笑顔で迎えたニニャだったが、入ってきた客の姿を見て表情が変わる。
「……元締め。」
老人は何も言わずカウンター席へ腰を下ろした。
「何にされます?」
「コーヒーを。」
「……はい。」
ニニャは丁寧に豆を挽き、湯を注ぐ。
香ばしい香りが店内に広がる。
静かに差し出された一杯を、元締めはゆっくり口へ運んだ。
「……うむ。」
一口。
二口。
「うまいな。」
カップを静かに置く。
店内はしばらく沈黙に包まれた。
やがて元締めが口を開く。
「ニニャ。」
「……はい。」
「昨日の夜、一人の男が死んだ。」
ニニャの肩がぴくりと震える。
「腹を一突き。見事な喰種だった。」
「……。」
「お前さんの仕業だな。」
長い沈黙。
やがてニニャは小さくうなずいた。
「……許せなかったんです。」
「酒を飲めば女房に暴力を振るう。子供まで殴る……。」
「だから……。」
元締めは目を閉じる。
「そうか。」
そして静かに首を横へ振った。
「だが、お前さんは一つ間違えた。」
ニニャは顔を上げる。
「もう少し深く調べるべきだった。」
「……え?」
「昨日、お前さんに助けを求めてきた女。」
「はい。」
「もう今頃は、その男とは別の男と手に手を取って旅の空だ。」
「……え。」
「男は確かに乱暴者だった。」
「だが、女もまた男を騙し、金を持ち出し、愛人と逃げる算段をしていた。」
ニニャの顔から血の気が引く。
「そ……そんな……。」
「お前さんは、女の涙だけを信じた。」
元締めは冷めかけたコーヒーを見つめながら言う。
「涙は本物でも、真実とは限らん。」
「……。」
「だから喰種人には掟がある。」
「依頼人を裁くな。」
「裁くのは悪だけだ。」
ニニャは震える手を見つめる。
昨夜、自分が振るった赫子。
正しいと信じていた一撃が、初めて重く感じられた。
元締めは席を立ち、代金を置く。
「覚えておけ。」
「一人を救えば、誰かが泣くこともある。」
「だから俺たちは、人の涙ではなく、真実を見る。」
そう言い残すと、老人は静かに店を後にした。
残されたニニャは、冷めたコーヒーカップを見つめながら、自分がまだ「喰種人」として未熟であることを痛いほど思い知るのだった。
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店内に流れる静かな時間。
元締めに言われた言葉が、ニニャの胸に重くのしかかっていた。
「人の涙だけを信じるな。真実を見ろ。」
その言葉は、あの夜の出来事を思い出させる。
半喰種として蘇り、ナザリックを去って間もない頃。
彼女の胸を支配していたのは、人間と異形の狭間で生きる苦しみではなかった。
ただ一つ。
復讐。
姉、ツアレ・ベイロン。
貧しさにつけ込まれ、貴族の妾として連れ去られ、飽きられれば奴隷として売り飛ばされた。
その元凶である男爵だけは、どうしても許せなかった。
「……殺す。」
その一念だけで、ニニャは男爵の屋敷へ向かった。
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男爵は自室で金貨を積み上げていた。
「くくく……次は国王派か。それとも貴族派か。」
「勝つ方につけば、どちらでもよい。」
机いっぱいに広げられた金貨を撫でながら、醜く笑う。
その時だった。
ギィ……
扉がゆっくりと開く。
「誰だ!」
「勝手に入るな!」
苛立った男爵が怒鳴る。
部屋へ静かに入ってきたのは、一人の少女だった。
「男爵。」
「ツアレ・ニーニャ・ベイロンを覚えていますか。」
「あなたが妾として連れ去った女性です。」
男爵は眉をひそめる。
「……?」
「そんなもの、一々覚えておらん。」
「女など掃いて捨てるほどおる。」
「用がないなら出て行け。」
ニニャは静かに目を閉じた。
「……そうですか。」
次の瞬間。
左目が赫く染まる。
腰から百足のような赫子が音もなく伸びる。
男爵の顔が青ざめた。
「ば、化け物!」
逃げようと背を向ける。
しかし遅かった。
ズンッ――。
赫子が男爵の背中を貫く。
「が……あ……。」
金貨が床へ散らばる。
男爵は必死にもがく。
机を掴み、床を這い、助けを呼ぼうと口を開く。
だが、赫子はさらに深く食い込み、その命を奪った。
やがて身体は動かなくなる。
部屋に残ったのは、転がる金貨と静寂だけだった。
ニニャはその亡骸を見下ろいた。
「……終わった。」
復讐は果たした。
なのに、胸の中は少しも晴れなかった。
その時、廊下の奥から、ゆっくりと杖をつく音が聞こえてきた。
コツ……コツ……。
「見事だな。」
振り向くと、一人の老人が立っていた。
それが――
後に「元締め」と呼ばれる男との、最初の出会いだった。