学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
子どもの頃の俺には、不思議で仕方のない場所があった。
商店街の外れにある、小さな銃砲店。
店の奥には工房があって、そこでは毎日のように金属を削る音が響いていた。
カッ。
カッ。
キュッ。
キュッ。
一定のリズムで繰り返されるその音は、商店街の喧騒とはまるで違う時間を刻んでいるようだった。
初めて連れて来られた頃は、その音が少し怖かった。
でも、気が付けば俺は、その音を聞くために店へ通うようになっていた。
機械油の匂い。
削りたての木の香り。
金属が擦れ合う冷たい匂い。
その全部が混ざった工房の空気を吸い込むと、不思議なくらい心が落ち着く。
学校よりも。
家よりも。
どこよりも好きな場所だった。
何より面白かったのは、じいちゃんの仕事だった。
壊れたものが直る。
ただの金属の塊だった部品が、少しずつ磨かれ、組み合わされ、一つの形になっていく。
子どもだった俺には、それが魔法みたいに見えた。
どうしてそんなことができるのか。
どうしてその工具を使うのか。
見れば見るほど分からなくなって、もっと知りたくなる。
だから休みの日になると、俺は決まってこの店へ来ていた。
今日も家を飛び出し、商店街を抜けて店の引き戸を開ける。
ガラガラ、と木の戸が音を立てた。
「じいちゃん。」
工房の奥では、祖父――修造じいちゃんが作業台へ向かったまま顔を上げた。
「もう来たのか。」
目尻に皺を寄せ、小さく笑う。
その手は止まらない。
細いヤスリを一定の角度で滑らせながら、小さな金属部品を磨いている。
俺はその作業を飽きもせず見つめた。
「宿題は終わったのか?」
「うん。」
「ほんとか?」
「ちゃんと終わらせた。」
「そうか。」
じいちゃんはそれ以上聞かなかった。
嘘をつけばすぐ見抜かれる。
だから最初から正直に言うようになった。
工房の中を見回す。
壁一面に並ぶ工具。
ドライバー。
レンチ。
ヤスリ。
木槌。
万力。
どれも使い込まれているのに、驚くほど綺麗だった。
初めて見る人には雑然として見えるかもしれない。
でも俺には違った。
全部にちゃんと居場所がある。
少しでも違う場所へ置けば、じいちゃんはすぐ気付く。
「今日は何やってるの?」
俺が尋ねると、じいちゃんは作業台の上を顎で示した。
「猟友会の人から預かった散弾銃の整備だ。」
「秋になる前にな。」
「全部見直しておく。」
俺は頷きながら作業を見続ける。
じいちゃんは工具を一本使い終えると、必ず元の場所へ戻した。
そして次の工具を取る。
使う。
また戻す。
その動きには迷いがない。
「じいちゃん。」
「ん?」
「なんで毎回同じ場所に戻すの?」
俺の質問に、じいちゃんは少しだけ笑った。
「探す時間がもったいないからだ。」
「探す時間?」
「ああ。」
ヤスリを置き、今度は真鍮ブラシを手に取る。
「仕事っていうのは、手を動かしてる時間だけじゃない。」
「道具を探してる時間も仕事だ。」
「でもな。」
「その時間じゃ何も進まない。」
ブラシを静かに動かしながら続ける。
「だから道具には帰る場所を作る。」
「使い終わったら必ずそこへ戻す。」
「そうすれば次に困らない。」
俺は壁の工具を見上げた。
一つひとつが形通りに並んでいる。
空いている場所を見れば、何がないのかすぐ分かる。
「家と同じだ。」
じいちゃんは言った。
「帰る場所があるから安心できる。」
「道具も。」
「人もな。」
その言葉の意味は、この時の俺にはまだよく分からなかった。
でも、何となく大事なことを言われた気がして、小さく頷いた。
「よし。」
じいちゃんは木箱を俺の前へ置く。
「今日は手伝ってもらおう。」
箱の中には、小さな真鍮の部品が整然と並んでいた。
俺は思わず目を輝かせる。
「やっていいの?」
「もちろんだ。」
じいちゃんは頷く。
「ただし。」
人差し指を一本立てた。
「仕事は遊びじゃない。」
「触る前によく見る。」
「分からなかったら聞く。」
「考えて、それから手を動かす。」
「分かったか?」
「うん。」
「よし。」
俺は袖をまくり、作業台へ近付いた。
それが、俺の一番好きな時間の始まりだった。
じいちゃんが俺の前へ置いた木箱の中には、親指の先ほどしかない真鍮の部品がいくつも並んでいた。
一つひとつ形が違う。
丸いもの。
細長いもの。
穴が開いているもの。
どれも使い道なんて分からない。
でも、じいちゃんにとっては全部意味のある部品なんだろう。
「まずはこれ。」
柔らかい布を一枚渡される。
「磨くだけでいい。」
「力は入れなくていいぞ。」
「傷を探すつもりで、ゆっくり。」
「うん。」
俺は真鍮を布で包み、両手でそっと挟む。
キュッ。
キュッ。
布が金属を滑る音だけが工房へ響く。
じいちゃんは向こうで散弾銃の整備を続けている。
細かな部品を並べ替え、油を差し、布で拭き、また組み立てる。
その手元から、一瞬も目が離せなかった。
どうしてそんなに迷わないんだろう。
どうしてそんなに速いんだろう。
どうして全部覚えているんだろう。
俺には不思議で仕方がない。
しばらく磨き続けていると、真鍮が少しずつ光を取り戻してきた。
「じいちゃん。」
「できた。」
俺は少し得意になって部品を差し出した。
じいちゃんは受け取ると、工房の窓際へ持っていく。
朝日へかざし、角度を変えながらじっと眺める。
「……うん。」
「よく磨けてる。」
その一言だけで嬉しくなった。
自然と頬が緩む。
「でもな。」
じいちゃんは部品を返しながら一点を指差した。
「ここ。」
「え?」
俺は目を凝らした。
何も見えない。
「光の当たり方を変えてみろ。」
言われた通り少し傾ける。
「あっ。」
細い一本の線が浮かび上がった。
「傷だ。」
「そう。」
じいちゃんは満足そうに頷いた。
「磨くのは綺麗にするためだけじゃない。」
「傷を見つけるためでもある。」
「見えない傷を見逃すと、あとで困る。」
俺は何度も角度を変えながら傷を見つめた。
さっきまで全然気付かなかった。
「よく見ないと分からないんだ。」
「何でもそうだ。」
じいちゃんは工具を元の場所へ戻しながら言う。
「慌てると見えなくなる。」
「一回止まる。」
「よく見る。」
「それから考える。」
「仕事でも。」
「生活でも同じだ。」
その時の俺には、まだ難しかった。
でも、じいちゃんが言うことは全部覚えておこうと思った。
いつか俺も、じいちゃんみたいになりたい。
そんなことを考えていた、その時だった。
「修造おじいちゃーん!」
元気いっぱいの声が店の外から聞こえた。
俺は思わず吹き出す。
「来た。」
じいちゃんも苦笑する。
「今日も元気だな。」
ガラガラ、と引き戸が勢いよく開いた。
一人の女の子が店へ飛び込んでくる。
肩まで伸びた黒髪が、走った勢いでふわりと揺れた。
そのまま工房へ駆け込もうとして――ぴたり、と止まる。
「あっ。」
足元を見る。
「靴!」
慌てて靴を脱ぎ始めた。
俺は笑いながら言う。
「また忘れてた。」
「忘れてないもん!」
頬を膨らませて振り返る。
「ちゃんと思い出したもん!」
「それ、忘れてたって言うんだよ。」
「違うもん!」
言い返しながらも、ちゃんと靴を揃えて並べる。
じいちゃんはその様子を見て、静かに笑った。
「ちゃんと揃えられたな。」
「うん!」
満足そうに返事をすると、ようやく工房へ上がってくる。
一直線に俺の隣まで来て、作業台を覗き込んだ。
「悠斗!」
「今日は何してるの?」
「じいちゃんの手伝い。」
俺は真鍮を持ち上げて見せる。
「これ磨いてる。」
「いいなぁ。」
目を輝かせる。
「私もやりたい!」
俺は苦笑した。
「じいちゃん次第。」
二人同時にじいちゃんを見る。
じいちゃんはその視線に気付くと、わざとらしくため息をついた。
「そう言うと思った。」
作業台の引き出しを開け、小さな布をもう一枚取り出す。
「じゃあ、仕事を頼もう。」
その一言で、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「やる!」
「頑張る!」
じいちゃんは笑いながら、小さな真鍮部品を一つ手渡す。
「悠斗。」
「教えてやれ。」
「うん。」
俺は少しだけ胸を張った。
さっきまで教わる側だった俺が、今度は教える側になる。
「こうやって持って。」
「強く握らなくていい。」
「優しく。」
彼女は真剣な顔で頷く。
「こう?」
「そうそう。」
「布を滑らせるだけ。」
ぎこちない手つきで真鍮を磨き始める。
キュッ。
キュッ。
二人分の音が工房へ重なった。
じいちゃんは何も言わず、その様子を静かに見守っていた。
その優しい目に気付いた俺は、少しだけ嬉しくなった。
工房には、今日もいつもの穏やかな時間が流れていた。
工房の中へ、二人分の布が金属を磨く音が重なる。
キュッ。
キュッ。
最初はぎこちなかった彼女の手つきも、少しずつ慣れてきた。
真鍮の部品を落とさないように両手で包み込み、真剣な顔で布を動かしている。
さっきまでの元気いっぱいな様子とはまるで違う。
その横顔を見ていると、思わず笑ってしまった。
「なに?」
すぐに気付かれてしまう。
「いや。」
「ちゃんとやってるなって。」
「当たり前だもん。」
得意そうに胸を張る。
「修造おじいちゃんのお手伝いだもん。」
その返事が妙に可笑しくて、俺はまた笑ってしまった。
「笑わないでよ。」
「ごめん、ごめん。」
そう言いながらも笑いは止まらない。
「もう。」
少しだけ頬を膨らませる。
でも、その表情もすぐ笑顔へ戻った。
じいちゃんはそんな俺たちを見ながら、小さく肩を揺らして笑っている。
「二人とも。」
「手は止めるな。」
「あ。」
慌てて布を動かし始める。
じいちゃんは苦笑しながら首を振った。
「仕事ってのはな。」
「楽しくやるのはいい。」
「でも、手はちゃんと動かす。」
「遊ぶ時は遊ぶ。」
「仕事する時は仕事する。」
「それだけは忘れるな。」
「はーい。」
俺たちの返事がまた揃う。
じいちゃんは満足そうに頷いた。
その時だった。
ガラガラ、と引き戸が静かに開いた。
「お父さん。」
柔らかな女性の声が店へ入ってくる。
「お邪魔するわね。」
振り向くと、母さんが買い物袋を提げて立っていた。
その隣には、もう一人。
優しそうな女性が微笑んでいる。
「あら。」
工房を覗き込みながら笑う。
「今日は二人でお手伝いしてるの?」
じいちゃんが笑って答えた。
「手伝いというより、弟子だな。」
「まだ半人前にも届かんが。」
「またそんなこと言って。」
母さんも笑う。
「この子、ここへ来るのが本当に楽しみなのよ。」
「分かる。」
隣の女性も頷いた。
「うちも同じ。」
「休みになると『修造おじいちゃんのところ行く!』ばっかり。」
母さんと女性は顔を見合わせて笑った。
昔から仲が良い二人らしく、自然と会話が続いていく。
「今度また一緒に買い物でも行かない?」
「いいわね。」
「子ども達はお父さんに預けて。」
「じゃあ来週あたりに。」
「ウチは託児所じゃないぞ。」
「あら、聞こえてたの?」
そんなやり取りを聞きながら、俺たちはまだ真鍮を磨いていた。
「できた!」
彼女が嬉しそうに部品を持ち上げる。
じいちゃんは受け取ると、また窓際で光にかざした。
「……うん。」
「上出来。」
その一言だけで彼女は飛び上がる。
「やった!」
その勢いで、布が床へ落ちた。
「あっ。」
布を拾い、大事そうに抱えて立ち上がった。
じいちゃんは満足そうに笑う。
「そうだ。」
「まず自分でやる。」
「困ったら人を頼る。」
「順番を間違えるな。」
「うん!」
元気よく頷く。
母さんたちは、その様子を少し離れた場所から微笑ましく見守っていた。
工房の中は、笑い声でいっぱいだった。
工具の音。
じいちゃんの声。
母さんたちの笑い声。
俺たちの笑い声。
全部が混ざって、心地よかった。
ずっとこの時間が続けばいい。
子どもだった俺は、本気でそう思っていた。
やがて母さんが時計を見る。
「あら。」
「もうこんな時間。」
隣の女性も頷いた。
「そろそろ帰ろうか。」
そして優しく声を掛ける。
「美玖。」
「帰るよ。」
「えぇー。」
彼女は、少しだけ名残惜しそうに振り返った。
「もう?」
「また来られるでしょう?」
「うーん……。」
少し考えてから、俺の方を向く。
「悠斗!」
「また来るね!」
俺は笑って大きく頷いた。
「うん。」
「また明日!」
「また明日!」
俺たちの声が重なる。
じいちゃんは工房の入口まで出てきて、俺たちを見送ってくれた。
その穏やかな笑顔を見ながら、俺は母さんと一緒に店をあとにした。
店を出ると、夕方の柔らかな陽射しが商店街を橙色に染めていた。
昼間の賑わいも少し落ち着き、八百屋の店先では店じまいの準備が始まっている。
遠くからは商店街の放送が流れ、風鈴が小さく鳴った。
俺は母さんの隣を歩きながら、何度も後ろを振り返る。
工房の前では、じいちゃんがまだ立っていた。
腕を組みながら、俺たちが角を曲がるまで見送ってくれている。
その少し前を歩いていた彼女も、何度も何度も振り返った。
「悠斗!」
手を大きく振る。
「また明日!」
俺も負けじと手を振り返す。
「また明日!」
その声に、じいちゃんが小さく笑う。
母さんたちも顔を見合わせて微笑んでいた。
あの日の帰り道は、きっといつもと同じだった。
明日も学校へ行って。
放課後になれば、また工房へ寄って。
じいちゃんの仕事を見て。
少しだけ手伝って。
彼女と笑って。
そんな毎日が、ずっと続くものだと思っていた。
工房には帰る場所があった。
じいちゃんがいて。
母さんがいて。
彼女がいて。
誰かが「おかえり」と言ってくれる。
それが当たり前だった。
じいちゃんが言っていた言葉を、あの頃の俺は仕事の話だと思って聞いていた。
「道具には帰る場所を作る。」
「使い終わったら、必ずそこへ戻す。」
「帰る場所があるから安心できる。」
「道具も、人もな。」
あの時は、その意味なんて分かっていなかった。
でも、今なら分かる。
帰る場所は、人を強くする。
待っていてくれる誰かがいるから、人は前へ進める。
だからこそ――失った時の痛みは、何より大きい。
あの日の工房。
機械油の匂い。
金属を削る音。
じいちゃんの大きな背中。
俺たちの笑い声。
母さんたちの穏やかな笑顔。
その全部が、俺にとっての「当たり前」だった。
そして、その当たり前が永遠に続くものだと、本気で信じていた。
人は未来を知らない。
だから、何気ない一日を「特別」だとは思わない。
けれど、その何気ない一日こそが、あとになって何よりも大切な思い出になる。
あの日の夕暮れも、きっとその一日だった。
俺は最後にもう一度だけ振り返る。
工房の前で、じいちゃんが静かに手を上げた。
俺も手を振り返した。
それが、子どもの頃の俺にとって、何気ない「いつもの一日」の終わりだった。
そして――。
誰もまだ知らなかった。
この平穏な日々が、ある春の日を境に、音を立てて崩れていくことを。
――あの日までは。