学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
――誰か、いるのか。
喉を震わせる程度の、小さな声だった。
返事が返ってくるとは思っていなかった。
それでも、呼びかけずにはいられなかった。
家庭科室を出てから、十分ほどが過ぎていた。
管理棟四階。
俺たちは食料や飲み物、それに役立ちそうな物資を探しながら、できるだけ物音を立てないよう廊下を進んできた。
どの教室も扉は閉まっている。
静かだった。
いや、本当は静かじゃない。
耳を澄ませば、校舎のあちこちから様々な音が聞こえてくる。
遠くで誰かが叫ぶ声。
ガラスの割れる音。
重たい物が倒れる衝撃。
そして、どこかを走る足音。
それらは壁や床を伝い、ぼんやりとここまで届いていた。
学校全体は、今も崩壊を続けている。
それなのに、この廊下だけ時間が止まったようだった。
俺たち三人の呼吸だけが、不自然なくらい大きく聞こえる。
返事はない。
扉の向こうから、人の気配も感じられない。
「……誰もいないのか。」
陽向が小さく呟く。
その声さえ、静まり返った廊下では大きく感じた。
俺は答えず、扉を見つめ続ける。
すると。
――ゴン。
鈍い音が、教室の中から響いた。
三人同時に息を止める。
聞き間違いじゃない。
さっき聞こえた音と同じだった。
誰かが机にぶつかったような。
そんな重たい音。
「……また鳴った。」
隼人が俺の隣まで歩み寄る。
俺はゆっくり頷いた。
「ああ。」
教室の中には何かいる。
それだけは間違いない。
けれど、その音には妙な違和感があった。
助けを求める声は聞こえない。
扉を叩く音もしない。
ただ。
一定の間隔で。
――ゴン。
鈍い音だけが響く。
俺はゆっくり扉へ近付いた。
取っ手へ手を掛ける。
冷たい。
手汗のせいなのか、それとも金属そのものの冷たさなのか分からない。
耳を扉へ当てる。
息を止める。
しばらく何も聞こえない。
やっぱり気のせいだったのか。
そう思った時だった。
ズ……。
床を擦るような音。
ゆっくり。
本当にゆっくりと近付いてくる。
そして。
――ゴン。
またぶつかる音。
思わず眉が寄る。
歩く。
止まる。
ぶつかる。
また歩く。
そんな動きを繰り返しているように聞こえた。
人が教室を歩いているなら、こんな動き方はしない。
何かがおかしい。
俺は扉から耳を離し、小窓へ視線を向けた。
ゆっくりと中を覗く。
教室の照明は消えたままだった。
窓際から差し込む午後の光だけが、室内をぼんやり照らしている。
最初は何も見えなかった。
目が暗さに慣れる。
教卓。
整然と並んだ机。
数脚だけ倒れた椅子。
その奥。
人影が動いた。
一人。
……いや。
二人。
三人。
制服姿の生徒だった。
しかし、その歩き方がおかしい。
背中を丸め。
俯いたまま。
目的もなく教室の中を歩いている。
誰とも話さない。
互いを見ることもない。
そのうちの一人が、机へ肩をぶつけた。
――ゴン。
さっきの音だ。
すると。
少し離れた場所を歩いていた二人が、同時に顔を上げた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
音が鳴った机の方へ歩き始める。
思わず息を呑む。
偶然か。
いや。
今の動きは……。
俺はもう一度、その三人を目で追った。
やがて三人はまた別々に歩き始める。
そして。
また一人が壁へ肩をぶつける。
――ゴン。
同じだった。
また残りの二人が音の方を向く。
歩く。
止まる。
また歩き始める。
俺は小窓から目を離した。
「どうだった?」
陽向が小声で尋ねる。
「三人いる。」
「生徒か?」
「制服は着てる。」
それ以上は言葉が続かなかった。
あれを普通の生徒だとは思えない。
けれど、校庭にいた奴らと同じだと断言する勇気もなかった。
まだ情報が足りない。
見えたものだけで決めつけるのは危険だ。
そんな時、不意にじいちゃんの声が頭に浮かんだ。
工具を初めて持たせてもらった日のことだった。
古びた作業机の前で、じいちゃんは笑いながら言った。
――まず見ろ。
――触るのは、その後だ。
焦って手を出した道具ほど怪我をする。
子どもの頃は、ただの口癖だと思っていた。
でも今は違う。
相手が道具でも、人でも。
分からないものほど、先に観察しなければならない。
俺はもう一度小窓を見た。
確かめたい。
あいつらは、本当に音へ反応しているのか。
その時だった。
制服のポケットへ入れた手が、小さな四角い感触に触れた。
……そうだ。
授業中。
考え事をしながら指で転がしていた消しゴム。
無意識に、そのままポケットへ入れていた。
ポケットの中で、それを握りしめる。
ほんの数センチ四方の白い消しゴム。
さっきまで何気なく持っていただけの物が、不思議と心強く感じられた。
――まず見ろ。
――触るのは、その後だ。
じいちゃんの言葉が頭の中で静かに繰り返される。
まだ決めつけるな。
見えたものだけで判断するな。
もう一つ、確かめる。
それからだ。
俺は陽向と隼人へ目を向けた。
「少し試したいことがある。」
二人とも俺の声に頷いた。
「試す?」
隼人が小さく聞き返す。
「ああ。」
俺は教室の扉を指差した。
「この教室、出入口が二つあるだろ。」
俺たちがいる前側の扉。
そして後側にも、もう一つの扉。
距離は十メートルほど。
扉の外にはロッカーが並んでいる。
「向こうには誰もいないか。」
陽向が慎重に廊下の奥を確認する。
左右を見渡し、小さく首を振った。
「大丈夫。」
「分かった。」
俺は消しゴムを指先で持ち直した。
鼓動が少しだけ速くなる。
もし予想が外れたら。
ただ音を立てるだけになる。
だが、今はそれでもいい。
分からないまま扉を開ける方が危険だ。
息を整え、軽く腕を振る。
消しゴムは静かな放物線を描き、教室後方の扉に当たって落ちた。
――コン。
乾いた音が廊下へ響く。
三人とも息を止めた。
一秒。
二秒。
三秒。
教室の中で変化が起きる。
小窓の向こう。
さっきまで教室の中央付近をふらついていた三人が、ほとんど同時に後方の扉へ顔を向けた。
その動きには迷いがなかった。
まるで、その音だけを追い掛けるように。
ゆっくりと歩き始める。
思わず息を呑む。
偶然じゃない。
机にぶつかった音。
そして今の音。
どちらにも同じ反応を見せた。
「……やっぱり。」
思わず小さく呟く。
「どうした?」
陽向が耳元で囁く。
「音だ。」
俺は目を離さないまま答える。
「あいつら……音を追ってる。」
断定はできない。
だが少なくとも、目の前で起きた現象はそれ以外に説明がつかなかった。
三人が教室後方へ集まる。
その分だけ、今まで死角になっていた教室の奥が見える。
教材棚。
窓際。
倒れた机。
その陰に、小さな影が見えた。
……人だ。
誰かがしゃがみ込んでいる。
制服姿の女子生徒だった。
膝を抱えるように体を縮め、じっと息を潜めている。
最初は誰なのか分からなかった。
光の加減で顔もはっきり見えない。
だが、その髪がゆっくりと揺れた瞬間。
見覚えのある横顔が、ほんのわずかに覗く。
胸の奥が強く脈打つ。
見間違えるはずがない。
幼い頃、祖父の店によく遊びに来ていた女の子だった。
母親同士が仲が良く、家族ぐるみの付き合いだった。
中学へ入る頃には自然と疎遠となった。
同じ高校へ進学しても、廊下ですれ違う程度。
向こうも俺も、どちらから話しかけることもなくなっていた。
それでも。
忘れるはずがない。
あの横顔を。
……美玖だった。
思わず、時間が止まったような気がした。