学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
全員の自己紹介が終わると、家庭科室には短い静寂が訪れた。
それまで張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ気がする。
名前を知ったからといって、互いを理解できたわけではない。
それでも、知らない誰かではなくなった。
その違いは、この状況では思っていた以上に大きかった。
「……ひとまず、座ろうか。」
葵の一言で、それぞれが近くの椅子や床へ腰を下ろし始める。
調理台の周囲。
窓際。
壁際。
自然と空いた場所へ散らばっていく。
俺も壁際へ置かれた丸椅子へ腰を掛けた。
座面が軋み、僅かに軋む。
その音だけで、不思議と身体から力が抜けていく。
ずっと立ちっぱなしだったことに、今さら気付いた。
正面では莉乃が美玖の隣へ座っている。
さっきまで掴んでいた制服の袖は離していたが、それでも距離は近い。
まるで「ここにいていいんだよ」と無言で伝えているようだった。
美玖も拒まない。
ただ静かに座り、部屋の様子を見渡している。
少し離れた場所では、七海と萌、それに恒一が並んでいた。
萌はまだどこか落ち着かない様子で部屋を見回し、恒一は膝の上へ手を揃えて座っている。
七海だけは相変わらず無表情だった。
もう一度だけ美玖へ視線を向けると、すぐに逸らした。
俺はその様子を頭の片隅へ留める。
今は何も起きていない。
だからこそ、忘れないようにしておく。
葵は調理台の上へ大学ノートを広げると、ペンを手に取った。
「まずは人数を確認するね。」
誰も異論はない。
葵はゆっくりと全員の顔を見回した。
「最初に家庭科室へ集まった3Aの九人。」
俺たちを見る。
「それから橘くんたちが連れてきた夕樹さん。」
美玖が少し顔を上げる。
「桐山くんと秋月くんが保護した三人。」
恒一たちも頭を下げた。
葵はペンを走らせる。
「……全部で十三人。」
十三。
数字にしてしまえば、それだけだった。
けれど俺は、その数字を見つめたまま考える。
家庭科室へ最初に集まった時は九人。
短時間で四人増えた。
助かった人が増えた。
本来なら喜ぶべきことだ。
だが、その一方で――。
食料も、水も、寝る場所も。
すべて十三人分必要になる。
その現実もまた、同時に存在していた。
葵も同じことを考えていたのだろう。
「次に、今ある物資を確認するね。」
調理台の上へ視線が集まる。
そこには家庭科室に残されていた食材が並んでいた。
調理実習用として保管されていた米。
乾麺。
缶詰。
レトルト食品。
調味料。
未開封の飲料水。
実習で使う予定だった野菜や乾物も少量残っている。
量だけを見れば、決して少なくはない。
さらに、その横には遼たちが持ち帰った菓子や飲料、それにいくつかの保存食品が並べられていた。
遼が口を開く。
「特別教室を中心に見て回った。」
そう言って袋の中身を示す。
「廊下や教室に置かれたままの鞄もあったから、中を確認して使えそうなものだけ持ってきた。」
飲みかけではないペットボトル。
非常食代わりの栄養補助食品。
包装されたままの菓子。
財布や私物には手を付けていないらしい。
「……誰かが置いていった鞄か。」
陽向が小さく呟く。
その言葉に、部屋の空気が一瞬だけ重くなる。
持ち主は。
無事なのだろうか。
誰もその先は口にしなかった。
葵はノートへ内容を書き込みながら頷く。
「ありがとう。」
今度は俺へ視線が向く。
「橘くんたちは?」
「俺たちは音楽室方面と空き教室を中心に回った。」
そう答える。
「途中で美玖を見つけて、一緒に戻ってきた。」
余計な説明はしない。
今必要なのは結果だけだ。
「食料は少しだけ。」
陽向が袋を持ち上げる。
「あとは水。」
隼人も補足する。
「こっちも教室はほとんどそのままだった。慌てて逃げた形跡は多かったけど。」
葵は一つずつ頷きながら書き留めていく。
しばらくは、紙へ文字を書く音だけが家庭科室へ響いていた。
やがてペンが止まる。
「……ありがとう。」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
調理台の近くにいた美咲が立ち上がる。
「お水、配るね。」
美咲はペットボトルを一本ずつ配り始める。
俺の前にも一本置かれる。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
美咲は柔らかく笑って次の人のところへ向かう。
全員の手元へ飲み物が行き渡ると、部屋のあちこちでキャップを開ける音が鳴った。
カチッ。
カチッ。
その音だけが、不思議と日常を思い出させる。
俺も一口、水を飲む。
乾いていた喉へ冷たい水が流れ込み、ようやく息がつけた気がした。
隣では陽向が勢いよくペットボトルを傾けている。
「ぷはぁっ!」
半分近く一気に飲み干し、大きく息を吐いた。
「生き返る……。」
「飲みすぎ。」
隼人が呆れたように言う。
「いや、喉カラカラだったんだって。」
「後で足りなくなっても知らないぞ。」
「……あ。」
陽向が慌ててペットボトルを見る。
その様子に、部屋のあちこちから小さな笑いが漏れた。
ほんの数秒。
それだけだった。
誰も本当に笑えたわけじゃない。
それでも、その数秒だけは、この部屋が少しだけいつもの学校に戻った気がした。
笑い声は、すぐに静まった。
誰しも、いつまでも笑っていていい状況ではないことは理解している。
それでも、ほんの一瞬だけ肩の力が抜けたのは確かだった。
陽向も照れくさそうに頭を掻きながら、小さく笑う。
「悪い悪い。ちゃんと残しとく。」
「最初からそうして。」
隼人がため息混じりに返す。
二人のやり取りを見ていると、いつもの学校に戻ったような錯覚を覚える。
……本当に、一瞬だけ。
ペットボトルの蓋を閉めながら、俺は家庭科室の中を見回した。
十三人。
狭くはないはずの家庭科室が、思っていたよりもずっと狭く感じる。
壁際には集められた食料。
調理台の上には葵が書き込んだノート。
入口には机と椅子で組まれた簡易的なバリケード。
そして、それぞれが少しずつ距離を取りながら座る生徒たち。
これが、今の俺たちの拠点だった。
葵はノートを閉じると、一度深く息をついた。
「今は……ここを動かない。」
「それでいい?」
その言葉に、誰も反対しない。
「まずは休憩を取ろう。」
「見張りは交代しながら続ける。」
「夕方になる前に、入口の机や椅子も再確認したいかな。」
確認するように一つずつ話していく。
今のところ、それが最善だろう。
隼人も頷いた。
「見張りは俺もやる。」
「俺も。」
遼がすぐに続く。
陽向も手を挙げる。
「じっとしてる方が落ち着かねぇし。」
その言葉に翼が苦笑した。
「無理するなよ。」
「してねぇって。」
自然と役割が決まっていく。
誰かが命令したわけじゃない。
必要だから、自分で動く。
その流れができ始めていた。
俺は椅子へ背中を預け、小さく息を吐く。
疲れている。
足も重い。
それでも頭だけは妙に冴えていた。
部屋の中を改めて見渡す。
葵はノートを見返しながら何か考えている。
莉乃は美玖の隣に座り、小声で話しかけていた。
美玖も短く返事をしている。
さっきより表情は少し柔らかい。
一人きりでいた時とは違う。
ここに居場所を作ろうとしているようにも見えた。
一方で、七海はその様子を遠くから眺めていた。
何も言わない。
ただ見ているだけ。
萌はそんな七海と美玖を交互に見て、小さく視線を落とした。
恒一はその空気を感じ取っているのか、誰にも話しかけず静かに座っている。
誰も間違ってはいない。
でも、まだ一つの集団にはなりきれていない。
そんな印象だった。
俺がそんなことを考えていると、不意に陽向が隣へ腰を下ろした。
「なぁ。」
「ん?」
「考え事。」
「……分かるか。」
「顔見りゃな。」
陽向は笑う。
「昔からそうだ。」
俺も思わず苦笑する。
祖父にもよく言われた。
『考える時に顔へ出る』
と。
直そうかとも考えたが、結局直らなかった。
「まぁ、お前が考えてるなら大丈夫だろ。」
陽向は何気なくそう言った。
根拠なんてない。
励まそうとしたわけでもない。
本当にそう思って言っているだけだ。
だからこそ、その言葉は妙に胸へ残った。
俺は返事の代わりに小さく肩を竦める。
葵がゆっくり立ち上がる。
「今は、休める人は休んで。」
「これから先のことは……また落ち着いて考えよう。」
誰も急かさない。
答えを出そうともしない。
それでよかった。
まだ今日一日さえ終わっていない。
今必要なのは、休息だった。
それぞれが壁へ寄り掛かったり、机へ突っ伏したりし始める。
陽向は「少し寝る」と言って腕を枕にした。
隼人は入口近くへ移動し、見張りの位置へ座る。
俺も目を閉じようとした、その瞬間だった。
――ガァンッ!!
校舎のどこかから、何かが激しくぶつかるような音が響いた。
部屋の空気が張り詰める。
全員が顔を上げた。
眠気など、一瞬で吹き飛ぶ。
俺も反射的に立ち上がる。
音は近くではない。
それでも、同じ校舎の中だ。
誰かがいるのか。
それとも――奴らか。
隼人はすでに入口の小窓から外の様子を伺っていた。
陽向も立ち上がる。
葵はノートを抱き寄せ、美玖たちも息を呑んで音のした方を見つめる。
家庭科室は再び静寂に包まれた。
ほんの数分前まで、この教室には笑い声があった。
その笑い声は、校舎の一つの音だけで完全に消えた。
さっきまで感じていた束の間の安堵は、あまりにも簡単に打ち砕かれる。
俺は無意識に拳を握り締めた。
――まだ何一つ終わっていない。