学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
ストックとの兼ね合いもあるので、お盆明けからは少しペースを落とすかと思います。
室内には静けさが戻っていた。
先ほど校舎のどこかから響いた衝撃音は、それ以降聞こえてこない。
それでも、部屋を包む緊張が解けたわけではなかった。
入口近くでは隼人がバリケードの隙間から廊下へ耳を澄ませている。
その横には遼。
二人とも言葉を交わすことなく、じっと外の気配を探っていた。
俺は調理台の縁へ腰を掛け、小さく息を吐く。
疲れている。
腕も足も重い。
頭だけが妙に冴えている。
部屋を見渡す。
葵はノートを開き、何かを確認していた。
莉乃と美咲は集めた食料をもう一度整理している。
結衣は入口から離れた位置で周囲を気に掛けながら座っていた。
部屋の奥では、七海と萌が並んで座っている。
萌はまだ落ち着かない様子で膝を抱え、七海はそんな彼女へ時折小さく声を掛けていた。
恒一は壁へ背を預け、静かに部屋全体を見渡している。
少し離れた壁際。
美玖は膝を抱くように座り、窓から差し込む光をぼんやり眺めている。
誰とも話してはいない。
それでも、さっきまでより肩の力は少しだけ抜けて見えた。
十三人。
ついさっきまで他人だった者同士が、一つの家庭科室で息を潜めている。
共同体と呼ぶにはまだ脆い。
それでも、ここが今の俺たちの居場所だった。
莉乃が棚の奥から段ボール箱を取り出す。
「こっちにもまだ缶詰あったよ。」
「思ったより残ってるね。」
美咲も頷いた。
「調味料も結構ある。」
「まだ使えそう。」
葵がノートへ書き加える。
「水は?」
「流しはまだ出る。」
莉乃が蛇口を軽くひねる。
透明な水が細く流れた。
全員の表情が少しだけ緩む。
水が出る。
それだけでも安心感は大きい。
俺も調理台へ並べられた物を見渡した。
家庭科室だけあって、包丁は十分な数がある。
三徳包丁、牛刀、ペティナイフ。
実習用として揃えられていたものだろう。
十三人へ行き渡らせることはできる。
けれど。
(……それだけじゃ足りない。)
包丁は料理をする道具だ。
振り回すために作られてはいない。
武器にするには相手へ近付かなければならない。
二体、三体と囲まれたら、その距離は致命的になる。
「なぁ。」
部屋中の視線が自然と集まる。
陽向は手に持っていたペットボトルを軽く揺らしながら苦笑した。
「やっぱり思うんだけどさ。」
一拍置く。
「包丁だけじゃ厳しくね?」
誰もすぐには返事をしなかった。
その必要がないくらい、全員が同じことを考えていた。
包丁は十分な数がある。
掃除用のモップも数本ある。だが、それだけだ。
それだけでは到底足りない。
隼人が腕を組む。
「俺もそう思う。」
「逃げるだけならまだいい。」
「でも、この人数を守りながら動くなら、もっと別のものが必要だ。」
遼も静かに口を開いた。
「俺たちがさっき回った特別教室にも、武器として使えそうなものはほとんどなかった。」
「椅子とか机くらいだ。」
翼も頷く。
「長い物が欲しいな。」
「できれば相手へ近づかなくて済む物。」
葵は全員の表情を見回した。
「じゃあ……探しに行く?」
部屋が静まる。
危険なのは分かっている。
だからこそ、誰も軽々しく返事をしない。
そのとき、祖父の工房が頭に浮かんだ。
整然と並ぶ工具。
木材。
金属パイプ。
万力。
作業台。
祖父なら、今この状況で真っ先に何を探すだろう。
ーー道具だ。
祖父はよく言っていた。
『道具は使うためだけじゃない。作るためにもある。』
その言葉が、不意に今の状況と重なった。
「工作室。」
気付けば声が出ていた。
全員がこちらを見る。
「ここの下、三階に工作室がある。」
「工具もあるし、木材や金属パイプも置いてあるはずだ。」
陽向が目を丸くする。
「武器があるってことか?」
「いや。」
俺は首を振る。
「武器じゃない。」
「武器を作るための材料。」
「……作る?」
葵が小さく聞き返した。
「包丁だけじゃ足りない。」
「都合の良い武器が見つかるとも限らない。」
「でも、材料があれば作れる。」
「長い柄も作れるし、固定する材料もあるかもしれない。」
祖父の工房で何度も見てきた光景が頭の中で組み上がっていく。
金属パイプ。
木材。
ボルト。
針金。
ガムテープ。
完璧な武器は無理でも、今よりは確実に生き残る可能性を上げられる。
隼人が静かに頷いた。
「行く価値はあるな。」
陽向はすぐに立ち上がる。
「決まりだな。」
しかし葵はすぐには頷かなかった。
ノートを開き、ゆっくり口を開く。
「探索は必要。」
「でも、全員で行くわけにはいかない。」
その言葉で部屋の空気が引き締まる。
ここから先は、誰が危険を背負うのかを決めなければならないのだ。
重い沈黙が家庭科室を包む。
危険なのは誰の目にも明らかだった。
今こうして息をつけているのは、この部屋がまだ奴らに見つかっていないからに過ぎない。扉一枚向こうへ出れば、その保証はどこにもない。
誰を行かせるのかという話は簡単には決められなかった。
だからこそ、最初に口を開く。
「俺は行く。」
工作室を提案した以上、言い出した本人が行かないという選択肢は考えられない。
祖父の工房で工具を見て育った俺なら、必要なものを見極められる可能性も高い。
隣に陽向が来る。
「俺も。」
「悠斗一人じゃ荷物持てねぇし。」
「それに。」
少しだけ笑う。
「工作とか昔から苦手だから、見てみたい。」
その言葉に、張り詰めた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「作るのは戻ってきてからだからな。」
隼人も立ち上がる。
「俺も行く。」
「工具を見る目は悠斗に任せる。」
「周りは俺が見る。」
遼も壁から身体を起こした。
「俺も行こう。」
「荷物を持つ人間は一人でも多い方がいい。」
俺は三人を見回した。
誰も無理をしている顔ではない。
自分で考え、自分で決めている。
止める理由はなかった。
「じゃあ俺も。」
神谷恒一が静かに手を挙げた。
家庭科室の視線が一斉に集まる。
「人数は多い方がいい。」
「俺も行くよ。」
その申し出は自然だった。
断る理由もないように思えた。
だが。
「神谷くん。」
葵が静かに口を開く。
「ありがとう。」
「でも、ここを守る人も必要。」
葵はゆっくり家庭科室を見回す。
「探索に人を出し過ぎると、残った人が危ない。」
「神谷くんと秋月くんには、ここに残ってほしい。」
「見張りが手薄にならないように。」
恒一は少しだけ俯いた。
探索へ行きたい気持ちはあったのだろう。
それでもすぐに顔を上げ、小さく頷く。
「分かった。」
翼も小さく頷く。
「ここは任せて。」
その返事を聞き、葵も安心したように微笑んだ。
「ありがとう。」
こうして役割が決まる。
探索へ向かうのは4人。
俺。
陽向。
隼人。
遼。
家庭科室に残る九人が、俺たちを静かに見つめていた。
これで探索隊と残留組が決まった。
美咲が引き出しを開け、軍手を四組探し出してきた。
「これ、素手よりはいいと思う。」
遼が受け取る。
「助かる。」
萌が少し戸惑った様子で周囲を見回し、小さな袋を差し出した。
「……飴。」
声は小さい。
「長く歩くなら。」
一瞬、部屋の空気が和らぐ。
陽向が思わず笑った。
「それ、地味に嬉しい。」
「ありがとな。」
萌は照れくさそうに小さく頷き、七海の後ろへ少し隠れるように下がった。
そのやり取りを見ながら、俺は改めて思う。
少しずつだが、この部屋の空気は変わってきている。
さっきまで赤の他人だった者同士が、自然に言葉を交わし始めている。
それは決して安心しているからではない。
生き残るために必要だからだ。
だからこそ、その変化は大きかった。
俺は先端を外したモップを一本手に取った。
柄の太さを確かめる。
長さは十分。
だが、このままではただの棒だ。
(工作室に着けば……。)
工具さえあれば、もう少し使えるものにできる。
祖父ならどうするだろう。
そんなことを考えながら柄を握る。
葵が立ち上がる。
「無理はしないこと。」
「危ないと思ったら、諦めてでも帰ってきて。」
「全員で帰ってくることを優先して。」
その言葉へ、頷く。
「分かった。」
隼人も短く返す。
「無理はしない。」
陽向は親指を立てた。
「任せろ。」
「いや、任せるのはちょっと不安かな。」
莉乃が苦笑する。
「ひどっ!」
思わず陽向が声を上げる。
家庭科室のあちこちから小さな笑いが漏れた。
また、ほんの数秒。
それだけだった。
それでも、笑えた。
笑える余裕がまだ残っている。
それだけで少しだけ救われる気がした。
美玖は部屋の隅からその様子を静かに見ていた。
言葉はない。
表情も大きく変わらない。
一瞬だけ俺と視線が合う。
何かを言いたそうにも見えた。
だが、美玖は何も口にせず、小さく目を伏せた。
俺も何も言わない。
今はそれでいい。
隼人が家庭科室の扉へ近付く。
「行くぞ。」
部屋の空気が変わる。
行動の時間だ。
慎重にバリケードの机を少しずつ動かしていく。
木が床を擦る音が、小さく家庭科室へ響いた。
その音がやけに大きく聞こえる。
俺たちは四人で廊下へ出る。
廊下から聞こえてくるのは、風が窓を揺らす音だけ。
奴らの姿はまだ見えない。
「行こう。」
目的地は三階の工作室。
奴らが現れてから、まだ足を踏み入れていない場所だ。
背後で家庭科室の扉が静かに閉まる。
最後にバリケードを戻す鈍い音が聞こえ、再び廊下には静寂だけが残った。
俺はゆっくり息を吐く。
目の前には誰もいない廊下がまっすぐ伸びている。
昼間だというのに薄暗く感じるのは、カーテンが風に揺れ、陽射しを遮っているからだろうか。
それとも、自分の気持ちのせいか。
「……行くぞ。」
隼人が小さく言う。
四人は自然と隊列を作った。
先頭は隼人。
その少し後ろに俺。
さらに遼。
最後尾を陽向が歩く。
窓から差し込む風が、廊下へ落ちたプリントをゆっくりと転がしていく。
昨日までなら、誰かが笑いながら拾っていたかもしれない。
そんなことを考えた瞬間、自分で苦笑した。
昨日。
いや、まだ昨日ですらない。
ほんの数時間前まで、この学校はいつも通りだった。
それなのに、今では人の気配すらない。
窓ガラス越しに校庭が見えた。
運動場。
体育倉庫。
バックネット。
どれも昨日までと変わらない。
違うのは、その景色の中に人間の営みが消えてしまったことだけだった。
校庭の向こうで、数人の制服姿がゆっくりと歩いている。
遠すぎて顔までは分からない。
分からない方がいい。
知っている誰かだったとしても、今の俺には確かめる術も勇気もなかった。
「見るな。」
前を歩く隼人が、小さく言う。
俺は無言で視線を戻した。
分かっている。
今は感傷に浸る時間じゃない。
目的は工作室だ。
使えるものを持ち帰ること。
それだけを考えろ。
管理棟の中央階段へ差しかかる。
三階へ下りるには、この階段を使うしかない。
隼人が手を上げ、全員を止めた。
耳を澄ませる。
俺も息を止める。
静かだ。
何かを引きずるような音が一度だけ聞こえたが、それ以上は続かない。
隼人が小さく頷く。
俺たちは一段ずつ慎重に階段を下っていった。
手すりへ体重を掛けない。
靴底もなるべく床へ擦らない。
今は少しでも音を立てたくなかった。
三階へ到着すると、空気が少し変わった。
ここへ来ること自体は珍しくない。
ここから渡り廊下でつながった教室棟三階で授業を受けていたのも去年のことだ。
けれど──。
奴らが現れてから、この階へ足を踏み入れるのは初めてだった。
その事実だけで、見慣れた廊下がまるで別の場所に思えた。
人気はない。
声も聞こえない。
窓から差し込む光だけが、長い廊下を照らしている。
最初に見えたのは第2音楽室だった。
扉は半開き。
中には倒れた譜面台がいくつも転がり、床には楽譜が散乱している。
黒板には、
『校歌練習』
途中まで書かれた文字が、そのまま残されていた。
誰かが消すこともなく。
誰かが続きを書くこともなく。
時間だけが止まっている。
その隣の美術室も同じだった。
描きかけのキャンバス。
乾きかけた絵の具。
机の上へ置きっぱなしの筆。
制作途中の作品が、そのまま教室の主を待ち続けている。
遼が静かに呟いた。
「……戻るつもりだったんだろうな。」
その一言が胸へ刺さる。
きっと誰もがそうだった。
少し避難して。
少し落ち着いたら。
また授業へ戻る。
そんな風に思っていたはずだ。
俺たちだってそうだった。
あの時は。
まだ。
そう信じていた。
廊下の一番奥。
古びたプレートが視界へ入る。
『工作室』
目的地だ。
隼人が俺達を手で制する。
工作室の扉だけが静かに俺たちを待っていた。
隼人はすぐには扉を開かなかった。
取っ手へ手を掛けたまま耳を寄せる。
俺たちも自然と息を潜めた。
中から物音は聞こえない。
誰かが動く気配もない。
それでも油断はできなかった。
奴らは、人間のように話し声を上げたり足音を立てたりはしない。
だからこそ、気付いた時には目の前にいることもある。
隼人がこちらを振り返り、小さく頷いた。
俺も頷き返す。
ゆっくりと力が込められる。
ガラ……。
金属製の引き戸がわずかに開く。
耳障りな擦過音が静かな廊下へ小さく響いた。
全員の身体が強張る。
数秒。
何も起きない。
さらに少しだけ扉を開く。
中は薄暗かった。
窓際のカーテンが半分閉じられ、差し込む光が工作台の上へ斜めに落ちている。
隼人が先に一歩踏み込んだ。
左右を確認する。
続いて俺。
遼。
最後に陽向が周囲を確認し、静かに扉を閉めた。
工作室特有の匂いが鼻をついた。
木材。
油。
鉄。
祖父の工房とまではいかないが、どこか懐かしい匂いだった。
自然と肩の力が少し抜ける。
部屋の中央には大きな工作台が二つ。
壁際には工具棚。
その手前には去年まで授業で使っていた木工旋盤が並び、使いかけの木材がそのままに万力に固定されていた。
奥には材料棚。
俺は工具棚へ近付く。
ドライバー。
ペンチ。
金槌。
ノコギリ。
万力。
使えそうなものは多い。
だが――。
「……あれ。」
違和感。
視線が自然と一点へ吸い寄せられる。
棚の中央付近。
そこだけが、不自然に空いていた。
遼も俺の視線を追う。
「どうした?」
俺は工具棚を指差した。
「ここ。」
「いくつか、ない。」
三人も近付いてくる。
周囲には工具が整然と並んでいる。
なのに、その一角だけがぽっかりと空いていた。
まるで必要な物だけを選んで持ち出したように。
隼人が静かに呟く。
「授業で使ったまま……じゃないな。」
「ああ。」
俺も頷いた。
「戻すなら、こんな空き方にはならない。」
祖父は工具の置き場所に厳しかった。
一本でも違う場所へ置けばすぐ気付く。
だから俺も自然と、棚の"違和感"には敏感になっていた。
陽向が棚を覗き込む。
「誰かが持って行ったってことか?」
「多分。」
俺は短く答える。
「しかも、慌ててじゃない。」
「必要な物だけ選んでる。」
遼が工作台へ視線を移した。
「こっちも見てくれ。」
俺たちはそちらへ向かう。
工作台の上には木屑が散っていた。
それ自体は珍しくない。
問題は、その中に混じる一本の細い木片だった。
断面が白い。
切り口も新しい。
まだ時間があまり経っていない。
俺は指先でそっと持ち上げる。
「最近切った跡だ。」
「最近?」
陽向が聞き返す。
「授業の残りじゃなくて?」
俺は首を振った。
「切ったばかりの木は色が違う。」
「乾いてない。」
隼人も床へしゃがみ込む。
工作台の周囲を静かに見回し、
やがて一言だけ呟いた。
「……誰かが来てる。」
その言葉に、部屋の空気が変わる。
静かだった工作室が、急に誰かの気配を残した場所へ見えてきた。
陽向が思わず声を潜める。
「ってことは、生き残ってる奴が……?」
俺はすぐには頷かなかった。
可能性はある。
だが、それだけだ。
ここへ来た誰かが、今も無事とは限らない。
そう考える方が自然だった。
希望だけで動けば、判断を誤る。
祖父ならきっとそう言う。
だから俺は答えを飲み込んだ。
「……今は必要なものを持ち帰ろう。」
「考えるのは、その後だ。」
隼人も静かに頷く。
「目的を忘れるな。」
俺たちは改めて工具棚へ向き直った。
限られた時間の中で、本当に必要な物を選び始める。
俺は工具棚の前へしゃがみ込む。
必要なのは、多く持ち帰ることじゃない。
使える物を持ち帰ること。
それが一番重要だった。
祖父の工房では、工具箱一つにも決まった並びがあった。
使う頻度。
重さ。
取り出しやすさ。
全部に理由がある。
だからこそ、今も自然と手が動いていた。
必要なのは工具そのものではない。
それを使って「武器を作れる道具」だ。
ノコギリ。
ペンチ。
ガムテープ。
結束線。
木ネジが入ったケース。
釘は少ないか……。
少し迷って首を振る。
今は要らない。
釘を打ち込む際に大きな音が出る。
打ち込む道具もない。
持ち帰るならネジの方が応用が利く。
ふと、先程の光景を思い出す。
工具棚の一角、あそこにあったのは釘打ち機か。
武器に使えると思って持ち出したのかもしれない。
隣では遼が工具箱を開き、中身が暴れないよう古布を詰め始めていた。
「そのまま入れると音が出る。」
俺が言う前に、遼が口を開く。
「布を挟めば少しは静かになるだろ。」
俺は思わず頷いた。
「その方がいい。」
遼は大きく頷き返すこともなく、黙々と手を動かす。
必要なことを、必要なだけ。
そんな性格がよく表れていた。
一方で陽向は材料棚の前に立ち、金属パイプを一本ずつ持ち上げていた。
「これ軽い。」
「こっちは重い。」
「悠斗、どっちがいい?」
俺は手を止めて近付く。
二本を持ち比べた。
片方は薄肉のアルミパイプ。
軽いが、簡単に曲がりそうだ。
もう一本は鉄製。
少し重い。
だが、十分な強度がある。
「こっち。」
鉄パイプを手渡す。
「重いけど折れにくい。」
「長さもちょうどいい。」
陽向は肩へ担ぐ。
「おっ。」
「これならモップより全然マシだ。」
隼人が木材置き場を見ていた。
角材を一本持ち上げ、
軽く重さを確かめる。
「柄に使えそうだ。」
俺もその木材を見る。
ホームセンターならどこにでもありそうな角材。
太さも十分。
包丁を固定できれば、即席の槍として使えるかもしれない。
もちろん実際にうまくいくかは分からない。
だが、試す価値はある。
「二本持っていこう。」
「了解。」
隼人が短く返す。
必要な物がまとまっていく。
「これくらいなら持っていけるか。」
その時だった。
――ゴトッ。
部屋の外。
廊下から、何かが倒れるような音が響いた。
四人の動きが一斉に止まる。
誰も声を出さない。
耳だけが扉の向こうへ集中する。
音は一度だけでは終わらなかった。
……ズリ。
何かを引きずるような音が、工作室の前をゆっくりと近付いてきていた。
……ズリ。
また音がした。
廊下。
しかも、工作室のすぐ近くだ。
誰も動かない。
動けない。
工具箱を持ち上げたまま、俺は呼吸を止める。
心臓の鼓動だけが妙に大きく聞こえた。
ズ……リ。
一定ではない。
足を引きずるような、不自然な音。
昨日までこの学校で聞いていた足音とは、まるで違う。
隼人が右手を上げる。
"動くな"
その合図だった。
全員がその場で静止する。
陽向も金属パイプを持ったまま息を潜めている。
遼はロープを握ったまましゃがみ込み、扉を見つめていた。
ズリ。
ズリ。
音は確実に近付いてくる。
扉の前まで来た。
そこで止まる。
時間が止まったようだった。
汗で滑りそうになる手をゆっくりと握り込む。
頼む。
そのまま行ってくれ。
こちらに気づくな。
心の中で何度も繰り返す。
しかし。
コン。
何かが扉へ当たった。
四人の肩が一斉に震える。
コン。
もう一度。
強くぶつけたわけではない。
身体を預けたような、偶然触れただけの音。
隼人は視線だけで俺を見る。
俺も頷く。
まだだ。
まだ開ける気配はない。
奴らは扉を開けようとしているわけじゃない。
ただ、そこに立っているだけだ。
……ズリ。
再び音が動き始めた。
少しずつ。
少しずつ。
工作室の前を通り過ぎていく。
その音が遠ざかるまで、誰一人呼吸すらまともにできなかった。
やがて。
完全に聞こえなくなる。
それでも隼人は手を下ろさない。
五秒。
十秒。
二十秒。
十分すぎるほど待ってから、ようやく小さく息を吐いた。
「……行った。」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
陽向がその場へしゃがみ込み、小さく笑った。
「寿命縮んだ……。」
「まだ縮めるには早い。」
隼人がぼそりと返す。
そのやり取りに、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。
だが、安心している暇はない。
「急ごう。」
俺は工具箱へ視線を戻す。
「他の奴らがいつ寄ってくるかもしれない。」
「そうだな。」
俺たちは来た時と同じ隊列を作る。
先頭は隼人。
その後ろに俺。
続いて遼。
最後尾を陽向が務める。
荷物が増えた分だけ、全員の動きは慎重だった。
俺は工具箱を胸へ抱え直す。
中では布に包まれた工具がわずかに触れ合うだけで、大きな音はしない。
遼の判断は正しかった。
静かな廊下を、一歩ずつ戻る。
工作室を離れても、誰一人として気を緩めなかった。
美術室。
第2音楽室。
さっき通った景色が逆向きに流れていく。
誰も口を開かない。
耳は常に廊下の奥と階段の方向を探っていた。
やがて、中央階段が見えてくる。
家庭科室へ戻るには、この階段を使う必要がある。
隼人が右手を軽く上げる。
全員がその場で止まった。
耳を澄ませる。
静かだ。
風が窓を鳴らす音だけが、校舎の中を流れている。
隼人は小さく頷くと、一段目へ足を掛けた。
一段。
二段。
三段。
俺たちも一定の間隔を空けて続く。
荷物があるせいで足取りは自然と遅くなる。
それでも焦る方が危険だった。
踊り場までたどり着く。
四階までの折り返し地点。
その時だった。
――ガタン。
階下。
二階の方から、何かが倒れる音が響いた。
四人の足が止まる。
次の瞬間。
ズリ……
ズ……
何かを引きずるような音が、ゆっくりと階段を上がってきた。
隼人が即座に振り返る。
声はほとんど息だけだった。
「端に寄れ。」
俺たちは反射的に壁際へ身体を寄せた。
踊り場の死角。
階段の下からは、一瞬だけ見えなくなる位置だ。
俺は工具箱を胸へ抱き寄せる。
陽向も金属パイプを身体へ密着させた。
遼は角材が壁へ当たらないよう慎重に角度を変えている。
誰も音を立てない。
呼吸さえ押し殺した。
ズリ……
ズリ……
音が近付く。
階段を、一段ずつ。
何かが上ってくる。
その速度は驚くほど遅い。
だからこそ恐ろしい。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
やがて。
普通の足音ではない。
靴底を擦るような音が三階、踊り場のすぐ下まで来た。
もう数歩。
それだけで姿が見える距離だった。
俺は無意識にモップの柄を握り締める。
心臓が喉元までせり上がる。
頼む。
そのまま。
気付くな。
その願いが通じたのか。
ズリ……
音は踊り場の下で止まった。
数秒。
いや、数十秒だったのかもしれない。
時間の感覚がなくなる。
やがて。
ガン。
どこか別の場所で何かが倒れる音が響いた。
すると。
ズリ……
ズリ……
"奴ら"の気配が、ゆっくりと音のした方向へ離れていく。
隼人はまだ動かない。
十分近く感じられる時間を置いてから、ようやく小さく囁いた。
「……今だ。」
四人はほぼ同時に身体を起こす。
階段を駆け上がりたい衝動を必死に押さえながら、一段ずつ足を進める。
急げ。
だが音は立てるな。
相反する二つの命令を身体へ叩き込みながら、俺たちは四階を目指した。