学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
四階へ上がる最後の一段を踏み越えた瞬間、全員が小さく息を吐いた。
まだ安心はできない。
だが、少なくとも階段下から聞こえていた気配はもう追ってきてはいなかった。
先頭を歩く隼人は、そのまま足を止めず、家庭科室へ続く廊下を見渡す。
静かだった。
窓から吹き込む風が、廊下へ落ちた紙切れをゆっくりと転がしていく。
奴らの姿は見えない。
それでも俺たちは足音を殺しながら歩いた。
荷物を抱えている分だけ、帰り道の方が神経を使う。
角材が壁へ当たらないように。
工具箱が揺れないように。
鉄パイプ同士が触れ合わないように。
四人とも自然と歩幅を合わせていた。
やがて、家庭科室の扉が見える。
机で築いたバリケードは、出る時と変わらずそこにあった。
隼人が扉の前でしゃがみ込み、小さく二度叩く。
コン。
コン。
ほんのわずかな間。
室内から机を動かす音が聞こえてくる。
「隼人?」
莉乃の声だった。
「俺だ。」
「開けるね。」
ゆっくりと扉が開く。
まず見えたのは、どこか張り詰めた表情の莉乃だった。
その顔が俺たちを見るなり、少しだけ柔らかくなる。
「……よかった。」
俺たちは順番に家庭科室へ入り、最後に恒一が扉を閉める。
すぐに残留組が机を元の位置へ戻し始めた。
重い机が床を擦る音が部屋へ響き、やがて再び家庭科室は閉ざされた空間になる。
「おかえり。」
葵が静かに言う。
その一言が合図だったように、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
入口近くで机を押さえていた翼が、小さく肩の力を抜く。
「本当に戻ってきたな……。」
誰に向けたわけでもない呟きだった。
恒一も静かに頷きながら、扉へ耳を澄ませていた身体をようやく離す。
「途中で何かあったんじゃないかって、ずっと気になってた。」
「悪い。」
隼人が短く返す。
「少し手間取った。」
「無事ならそれでいいよ。」
恒一はそう言って小さく笑う。
部屋の奥では萌が胸へ手を当て、小さく息を吐いていた。
「よかったぁ……。」
ほとんど聞こえないくらい小さな声だった。
その隣で七海は腕を組んだまま立っている。
表情は相変わらず変わらない。
だが。
「遅かった。」
そう一言だけ言って視線を逸らした。
責めているわけではない。
心配していたことを素直に言えないだけだと、何となく分かった。
「悪かった。」
遼が苦笑すると、七海は小さく鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。
陽向はその場へ座り込み、大きく息を吐く。
「疲れたぁ……。」
「いやマジで。」
「途中、心臓止まるかと思った。」
「止まってないから大丈夫。」
美咲が苦笑する。
「そういう問題じゃねぇって。」
陽向が肩を落とすと、部屋のあちこちから小さな笑いが漏れた。
その笑いを聞いて、俺もようやく実感する。
帰ってこられた。
全員無事で。
「本当に、心配したんだから。」
その言葉とは裏腹に、莉乃の表情には安堵の色が浮かんでいた。
「ごめん、ごめん。」
陽向が照れ隠しのように頭を掻く。
「ちゃんと全員帰ってきただろ?」
「そういう問題じゃないでしょ。」
莉乃は呆れたように笑いながら、陽向の肩を軽く叩いた。
「四人とも、お疲れさま。」
「まずは座って。」
「荷物はそのあとでいいから。」
葵の穏やかな声を聞いて初めて、自分でも思っていた以上に身体へ力が入っていたことへ気付く。
工具箱の重さが急に腕へ戻ってきた。
「……ああ。」
陽向が鉄パイプを並べる。
俺も工具箱を調理台の上へ置いた。
遼は角材を壁際へ立て掛ける。
残留組の視線が自然と集まる。
「結構持ってきたね。」
莉乃が目を丸くした。
「工具もある。」
美咲も興味深そうに覗き込む。
俺は工具箱を開けた。
中には布で包んだ工具が整然と並んでいる。
「音が鳴らないようにしてある。」
遼が静かに言う。
葵は感心したように頷いた。
「色々持って来れたね。」
俺は一本ずつ工具を取り出していく。
ドライバー。
ペンチ。
ラジオペンチ。
モンキーレンチ。
ガムテープ。
結束線。
木ネジ。
小さな金具。
家庭科室にあった包丁も調理台へ並べる。
そして鉄パイプ。
角材。
それらを見渡しながら、頭の中で組み合わせを考える。
祖父ならどうする。
固定は。
重心は。
強度は。
何度も工房で見てきた作業が、自然と思い浮かぶ。
「……橘くん。」
葵が俺を見る。
「何か作れそう?」
俺はすぐには答えなかった。
工具と材料をもう一度見渡す。
頭の中で組み立てる。
一本の角材。
包丁。
ボルト。
結束線。
ガムテープ。
完璧ではない。
それでも。
「できると思う。」
静かに答えた。
「ちゃんとした武器とは言えない。」
「でも、このまま包丁だけで戦うよりはずっといい。」
部屋の空気が少しだけ変わる。
希望。
そんな大げさなものではない。
それでも、何もしない状況からは一歩進める。
そんな空気だった。
陽向が嬉しそうに身を乗り出す。
「やっぱ悠斗すげぇな。」
「まだ何も作ってない。」
苦笑しながら返す。
「作れてから言ってくれ。」
「じゃあ期待してる。」
「それが一番プレッシャーなんだけどな。」
陽向が笑う。
その笑いにつられて、隼人もわずかに口元を緩めた。
遼は壁へ立て掛けた角材を一本持ち上げる。
「必要な時は俺も手伝う。」
「ありがとう。」
「そんなに器用じゃないけど、一人よりは早い。」
「十分助かる。」
そのやり取りを見ていた恒一が口を開く。
「探索の途中はどうだった?」
部屋の空気が少し引き締まる。
俺たちは工作室への行き来で見たことを順番に話した。
工具棚。
無くなっていた工具。
新しい切り口の木材。
そして。
「工作室の前まで奴らが来た。」
部屋が静まり返る。
「気付かれはしなかった。」
「階段でも、本当に紙一重だった。」
萌が小さく息を呑む。
七海も表情を引き締めた。
葵はノートを開き、静かに書き加えていく。
「工作室付近にも奴らが徘徊。」
「工具の一部は既に持ち出されている。」
「階段付近も危険。」
ペン先が止まる。
「……生存者がいる可能性。」
俺は頷いた。
「可能性だけだけど。」
「誰かが先に来てた。」
家庭科室へ静かな沈黙が落ちる。
校内のどこかに、まだ誰かがいる。
それは希望にもなり、不安にもなる情報だった。
俺は再び工具へ視線を落とす。
考えることは山ほどある。
バリケード。
武器。
見張り。
食料。
水。
そして、明日。
いや。
次の一時間先ですら、何が起きるか分からない。
だからこそ。
今できることをやるしかない。
俺は一本の角材を作業台へ置いた。
その隣へ包丁を並べる。
ラジオペンチを手に取る。
祖父の工房で何度も見てきた作業を思い浮かべながら、小さく息を吐いた。
「……始めよう。」
俺のその一言に、家庭科室にいた全員が静かに頷いた。
この日初めて。
俺たちは"逃げるため"ではなく、生き残るための準備を始めた。