学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
ロープが一度、小さく震えた。
机の脚へ結び付けられた麻縄が、わずかに揺れる。
俺は手元のロープを軽く握り返し、その震えが止まるのを確認した。
「異常なし、か。」
思わず小さく息を吐く。
遼が見張りに立ってから十五分ほど。
連絡方法は、きちんと機能していた。
声を出さずに互いの無事を確認できる。
ただそれだけのことなのに、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなる。
隼人もロープへ目を向けたまま、小さく頷いた。
「ちゃんと使えているな。」
「ああ。」
昼間、工作室で余っていた麻縄をつないで急ごしらえしただけのものだった。
それでも、今は俺たちにとって何より大切な命綱になっている。
ロウソクの火が静かに揺れた。
部屋の中は昼間とは違う静けさに包まれている。
誰も大きな声では話さない。
物音一つが、この夜の校舎ではひどく大きく聞こえてしまう気がした。
女子たちは壁際へ寄せた鍋ややかんを片付け終え、空いたスペースへ腰を下ろしている。
翼は槍を立て掛けた場所を眺めながら、柄が倒れないよう一本一本の位置を直していた。
恒一もその様子を黙って見つめている。
工作室から持ち帰った材料は、ほとんど使い切っていた。
槍は全員分。
バリケードの補強材。
工具。
必要だと思えるものはできるだけ運んできた。
それでも、この家庭科室だけで何日持ちこたえられるのかは誰にも分からない。
そんなことを考えていると、陽向が壁へ背中を預けたまま口を開いた。
「なあ。」
「明日の朝になったら、どうする?」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。
誰もすぐには答えない。
俺も返事に迷った。
今日一日だけでも、状況はあまりにも変わりすぎている。
学校へ閉じ込められ、武器を作り、生き残るためだけに動き続けた。
その延長線上に明日があるなんて、昼間の俺なら考えもしなかった。
静寂を破ったのは葵だった。
「食料は、あと3日くらいかな。」
床へ置かれた段ボール箱を見る。
「水は多めに確保できたけど、食べ物は限りがある。」
「ずっとここにはいられない。」
七海も小さく頷く。
「冷蔵庫の中も、そのうち使えなくなるよね。」
「停電したら全部駄目になるし。」
その言葉に誰も反論できなかった。
今はまだ電気も水道も生きている。
だから生活できているだけだ。
それが止まったら。
家庭科室は、ただの教室になる。
陽向が腕を組みながら天井を見上げた。
「じゃあさ。」
「結局どこか行かなきゃいけないってことだよな。」
「……そうなる。」
俺は短く答えた。
そう。
その答えはもう分かっている。
でも、どこへ。
どうやって。
それはまだ誰にも分からない。
隼人が静かに口を開く。
「動くにしても明るくなってからだな。」
「夜に動くのは無理だ。」
その言葉に皆が頷いた。
今は夜。
校舎の外も中も、昼間とはまるで別の場所に見える。
暗闇は、それだけで人の判断を鈍らせる。
だから朝まで待つ。
それが今できる最善だった。
その時だった。
「……電話。」
美玖がぽつりと呟く。
全員の視線が彼女へ向いた。
「昼も何回か掛けてみたけど、やっぱり繋がらなかった。」
「家にも。」
「警察にも。」
「ネットもずっと駄目。」
静かな声だった。
でも、その一言には昼間から抱えていた諦めが滲んでいた。
莉乃が俯いたまま続ける。
「私も。」
「何回やっても圏外みたいだった。」
「メッセージも送れない。」
部屋の空気がさらに重くなる。
誰もが一度は試していた。
家族。
友達。
連絡が取れれば。
迎えが来れば。
そんな希望は、もう残っていなかった。
俺はスマートフォンを取り出す。
画面は暗いままだ。
電波表示はとうに消えている。
昼間から何度見ても、変わらなかった。
祖父にも。
掛からなかった。
でも、祖父なら。
きっと俺よりずっと冷静に動いている。
そう信じたい。
でも、それを確かめる術はどこにもなかった。
ロウソクの火だけが、小さく揺れていた。
誰も言葉を続けない。
静かな時間だけが流れていく。
この夜を越えた先に何が待っているのか。
誰にも分からなかった。
誰もが思い思いに壁へ寄り掛かり、少しでも体を休めようとしている。
眠っている者はいない。
目を閉じていても、耳だけは外の音を探していた。
時折、校舎のどこかから物が転がるような音が響く。
風なのか。
奴らなのか。
それすら分からない。
俺はロープへ視線を向けた。
細い麻縄は扉の隙間から真っ直ぐ廊下へ伸びている。
今、その先には遼が立っている。
昼間なら何でもない廊下も、夜になるとまるで別の場所に思えた。
暗闇というだけで、人はこんなにも不安になるものなのか。
「……悠斗。」
隣から小さな声が聞こえた。
振り向くと、美玖がこちらを見ていた。
「どうした?」
「少し、いい?」
俺のすぐ隣へ腰を下ろす。
肩が触れるほどではない。
それでも昼間より近い距離だった。
しばらく、お互い何も話さない。
ロウソクの炎だけが二人の間で揺れている。
「……眠くない?」
美玖が小さく笑う。
俺も思わず笑ってしまった。
「全然。」
「そう。」
「美玖は?」
「眠れそうにない。」
「だろうな。」
また静かになる。
それでも、この沈黙は嫌じゃなかった。
話題がなくても、隣に誰かがいるだけで少しだけ気持ちが落ち着く。
「……ありがと。」
突然、美玖が呟いた。
「ん?」
「助けてくれて。」
昼間の教室。
俺たちが助けに入った時のことだとすぐ分かった。
「俺だけじゃない。」
「みんなで助けた。」
「うん。」
それだけ言うと、美玖は少しだけ目を伏せた。
それ以上は何も続けない。
俺も無理に話を広げなかった。
壁際では陽向が大きく欠伸を噛み殺している。
「眠い……。」
「だから言っただろ。」
隼人が苦笑する。
「昼間動き回りすぎなんだよ。」
「しょうがねぇだろ。」
「止まったら死ぬと思ってたし。」
その言葉に何人かが小さく笑う。
ほんの一瞬だけ、家庭科室の空気が和らいだ。
そんな時だった。
ロープが、二度。
小さく震えた。
ピン、と張った麻縄が確かに揺れる。
俺は反射的に立ち上がった。
隼人も同時にロープを見る。
「二回……。」
「要注意。」
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
誰も声を出さない。
陽向が槍へ手を伸ばした。
葵も扉へ目を向ける。
俺はロープを見つめたまま、小さく息を整えた。
要注意。
何かを見つけた。
でも、まだ戻る合図じゃない。
遼は今も廊下にいる。
——確認している最中なんだ。
そう考えるのが自然だった。
時間だけが静かに過ぎていく。
ロウソクの火が揺れる。
誰も口を開かなかった。
数分。
いや。
実際には一、二分だったのかもしれない。
それでも、その沈黙はひどく長く感じられた。
俺は何度もロープへ目を向ける。
もう一度、何か合図が来るかもしれない。
そう思いながら。
だが、麻縄は静かなままだった。
遼から連絡が来ない。
部屋の誰もが、それに気付いている。
俺はゆっくりとロープを手に取った。
二度。
短く引く。
――戻ってきて。
ロープは静かに張ったまま動かない。
返事はなかった。
俺は少しだけ待つ。
廊下を歩いている途中なのかもしれない。
何かを確認していて、すぐには返せないだけかもしれない。
そう自分へ言い聞かせる。
数秒。
十秒。
二十秒。
何も起きない。
部屋の空気が、ゆっくりと重くなっていく。
陽向が小さく呟いた。
「……遅くないか?」
誰も返事をしない。
俺はもう一度ロープを握り直した。
今度は少しだけ強く。
二度。
短く引く。
――戻ってきて。
それでも。
返事はなかった。
隼人が静かに立ち上がる。
「悠斗。」
「ああ。」
もう、待っているだけでは駄目だ。
俺は壁へ立て掛けてあった槍を手に取った。
昼間、自分たちで作ったばかりの一本。
柄を握る手に、自然と力が入る。
「確認してくる。」
その言葉に、陽向も立ち上がろうとした。
「俺も――」
「待て。」
隼人が制する。
「人数は多すぎても動きづらい。」
「俺と悠斗。」
「あと……翼。」
壁際で槍を整えていた翼が顔を上げた。
「分かった。」
その落ち着いた返事が、少しだけ心強い。
俺は女子たちへ向き直る。
「すぐ戻る。」
葵が静かに頷いた。
「気を付けて。」
美玖も何か言い掛けたが、言葉にはならなかった。
ただ、小さく頷くだけだった。
俺は扉へ手を掛ける。
音が鳴らないよう、ゆっくりと開く。
冷えた空気が部屋へ流れ込んできた。
廊下は暗い。
昼間よりもずっと長く感じる。
ロウソクの光は扉の前で途切れ、その先は闇が広がっていた。
俺たちはロープをまたがないよう足元へ気を付けながら、静かに廊下へ出る。
扉は少しだけ開けたままにしておいた。
いつでも戻れるように。
遼が立っていた見張りの位置までは、それほど距離はない。
足音を殺して歩く。
槍を握る手が汗ばんでいた。
見張り場所へ着く。
そこには――
誰もいなかった。
思わず辺りを見回す。
「遼。」
小さく呼ぶ。
返事はない。
槍も落ちていない。
ロープだけが静かに廊下へ伸びていた。
まるで、さっきまで誰かがそこへ立っていたことだけを伝えているようだった。
「どこ行った……。」
陽向なら叫んでいたかもしれない。
でも今は、誰も声を張り上げられない。
俺たちは顔を見合わせた。
隼人が静かに前を指差す。
「階段。」
管理棟の中央階段。
昼間も通った場所だ。
俺たちは互いに頷き合い、さらに奥へ歩き始めた。
ゆっくり。
一歩ずつ。
耳を澄ませながら。
階段が近付くにつれて、廊下の暗さはさらに濃くなっていく。
昼間なら気にも留めなかった防火扉。
掲示板。
空き教室の入口。
その一つ一つが、黒い影になって視界を遮っていた。
その時、不意に翼が足を止めた。
「……悠斗。」
小さな声だった。
「どうした?」
翼は防火扉の向こうを見つめたまま答える。
「昼間は普通に見えてた。」
「でも夜だと……。」
一度言葉を切る。
「見えない場所が多すぎる。」
俺も周囲を見回した。
確かにそうだった。
昼間は一直線に見渡せた廊下が、夜になると扉や柱の影で細かく途切れている。
少し先ですら、何があるのか分からない。
昼と同じ校舎なのに、まるで別の場所だった。
俺は小さく息を吐く。
この先へ進めば、もっと死角は増える。
それでも遼がいる保証はない。
逆に、俺たちまで戻れなくなる可能性の方が高かった。
隼人も同じ結論だったらしい。
「戻ろう。」
「今は無理だ。」
俺は最後にもう一度だけ暗闇を見つめる。
遼の姿は、どこにもなかった。
俺たちは静かに踵を返し、家庭科室への道を戻り始めた。