学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
家庭科室の中央に結ばれた麻縄へ手を伸ばし、軽く一度引く。
——報告して。
しばらくして、一度だけ返ってくる。
——異常なし。
俺は小さく息を吐いた。
「大丈夫?」
結衣が静かな声で尋ねてくる。
「ああ。」
「異常なしだ。」
ロープから手を離す。
新しい見張り体制。
一時間交代。
男女二人一組。
十分おきに定期連絡。
今、廊下に立っているのは隼人と莉乃だった。
遼がいなくなった夜。
同じ失敗を繰り返さないために決めた約束だった。
部屋の中では、ほとんどの仲間が壁にもたれ掛かって目を閉じている。
眠っているというより、体を休めているだけだ。
誰も深く眠れてはいない。
ロウソクの火が消えかける。
七海が新しいものに火を移し替えた。
俺も工具箱へ背を預けながら、ぼんやりロウソクの火を見つめる。
もう何時間、こうしていただろう。
窓の外はまだ暗い。
けれど、夜の底は少しずつ薄くなってきている。
外は少しずつ白み始めた。
もうすぐ朝が来る。
その時だった。
ロープが三度、強く震えた。
——戻る。
同時に、遠く、教室棟の方からこちらへ駆けてくる足音が響く。
——速い。
それに、一人じゃない。
俺は思わず立ち上がった。
扉が静かに、だが素早く開かれる。
「悠斗!」
滑り込んできたのは隼人と莉乃だった。
隼人はすぐ扉を閉め、槍を構えたまま低く言う。
「誰か来る。」
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
陽向も翼も反射的に槍を掴んだ。
「奴らか?」
陽向が声を潜める。
隼人は首を横に振る。
「分からない。」
「でも複数だ。」
莉乃も頷く。
「足音は人だった…と思う。」
「こっちに向かって急いで走ってきてる。」
奴らじゃない。
そう思いたかった。
けれど、この学校で「人間だから安全」とはもう言えない。
全員が息を殺す。
足音が徐々に近づいてくる。
やがて、扉の向こうで足音が止まった。
「開けてくれ!」
囁くような、だが必死さを感じさせる男の声だった。
「頼む!」
「誰かいるんだろ!」
その声に、部屋の中がざわつく。
聞き覚えのない声。
陽向が俺を見る。
「どうする?」
俺は扉を見つめたまま答えられなかった。
罠かもしれない。
助けを求める生存者かもしれない。
その判断を、一瞬で下さなければならない。
俺は静かに息を吸った。
「……隼人。」
「ああ。」
言葉はそれだけで十分だった。
隼人がゆっくり扉の横へ立つ。
陽向と翼も左右へ散る。
俺は扉の前まで歩き、小さく問いかけた。
「誰だ。」
扉の向こうで、少しだけ間が空く。
「風間海人だ!」
「あいつらに襲われて逃げてきた!」
「頼む!」
「もう後がない!」
扉の向こうから聞こえる声には、切羽詰まった焦りが滲んでいた。
俺は隼人と目を合わせる。
隼人が静かに頷く。
俺も小さく頷き返した。
「開ける。」
ゆっくりと鍵へ手を伸ばした。
カチリ、と鍵が外れる音がした。
「開けるぞ。」
小さく声を掛ける。
隼人が槍を構えたまま頷いた。
陽向と翼も左右へ散り、すぐ動けるよう腰を落とす。
俺はゆっくりと扉を開いた。
そこに経っていたのは、見覚えのない二人。
男子生徒は金属バットを支えにしており、頬には乾いた血がついている。
女子生徒もバッグを抱きかかえ、こちらも中からバットのグリップが顔をのぞかせている。
向こうも、俺達を見るのは初めてらしかった。
男子生徒が荒い息のまま口を開く。
「……頼む、中へ入れてくれ。」
俺は隼人と視線を合わせた。
隼人は扉の隙間から廊下の左右を素早く確認し、小さく頷く。
他に動く影はない。
「……入って。」
二人はほとんど倒れ込むように家庭科室へ入ってきた。
莉乃がすぐに扉を閉める。
全員がしばらく耳を澄ませる。
廊下は静かだった。
足音も。
呻き声も聞こえない。
ようやく隼人が槍を下ろす。
「……追ってきてないな。」
その一言で、部屋の張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
二人は床へ座ったまま何度も息を整え、やがて俺たちを見上げる。
どちらも初めて見る顔だった。
少なくとも同じクラスではない。
萌が水を手渡す。
男子生徒は一気に飲み干した一方、女子生徒は大事そうに抱えて飲み始めた。
「助かった……。」
「お水……。」
葵が二人の前にしゃがみ込む。
「何年生?」
「俺たちは二年。」
男子生徒が返す。
「風間海人。」
そう言って自分の胸を親指で指す。
短く刈った髪。
日に焼けた肌。
制服の着崩し方や鋭い目付きから、少し近寄り難い印象を受ける。
けれど、その表情にはどこか仲間を守ろうとする必死さも見えた。
隣の女子も軽く頭を下げる。
「朝比奈陽菜です。」
「助けてくれてありがとう。」
疲れているはずなのに、その笑顔だけはどこか明るい。
場の空気を少しでも和らげようとしているのが伝わってきた。
「大変だったね。」
「こっちはみんな三年。」
簡単に全員を紹介すると、海人はゆっくり頷く。
「やっぱり。」
「ここで合ってた。」
「ここを知ってたのか?」
隼人が尋ねると、海人は首を横へ振った。
「俺たちが隠れてた教室に、三年の人が一人いた。」
「昨日、アンタたちが家庭科室へ向かったのを知ってたって。」
「もし学校のどこかで生き残るなら、家庭科室かもしれないって。」
——そういうことか。
教室へ残ると言っていた数名のクラスメイト。
そのうちの誰かが、海人たちへこの場所を伝えていた。
俺は静かに頷く。
「その人は?」
海人の表情が曇る。
「……分からない。」
短く答えたあと、俯く。
「昨日は一緒だった。」
「でも。」
拳を握る。
「夜中に、大量の奴らが校舎内へ入ってきた。」
部屋の空気が再び重くなる。
全員が黙って海人の話を聞いていた。
「机で入口を塞いでた。」
「最初は持つと思ってた。」
「でも、一階からどんどん上がってきた。」
「誰かのスマホが鳴って、ドアに奴らが殺到した。」
金属バットを見下ろす。
「俺は最後までドア押さえてた。」
「陽菜だけでも逃がそうと思った。」
「窓から逃げるわけにもいかない。」
「迷っている間に、連中にドアが壊された。」
「だから隙を見て廊下へ飛び出した。」
陽菜も静かに続ける。
「みんな、ばらばらになっちゃった。」
「私たちは、とにかく家庭科室だけ目指して走ってきたの。」
海人はゆっくり顔を上げた。
「……下の階はもう駄目だ。」
その一言に、部屋の全員が息を呑んだ。
「一階だけじゃない。」
「下へ行くほど、奴らがうようよいる。」
「まともに降りようなんて思うな。」
俺は思わず隼人を見る。
隼人も同じことを考えているようだった。
この学校は、時間が経つほど安全じゃなくなっている。
海人の話が終わると、部屋の中は静まり返った。
誰もすぐには言葉を返せない。
「ここなら救助が来るまで持ちこたえられるかもしれない」と思っていた。
けれど、その考えは今、音を立てて崩れ始めていた。
窓の外はすっかり明るくなっていた。
夜が終わった。
けれど、状況は何一つ良くなっていない。
俺は立ち上がる。
「……遼のいた場所をもう一度見てくる。」
昨夜は暗くて確認できなかった。
朝になった今なら、何か分かるかもしれない。
美咲が顔を上げた。
「私も行く。」
「駄目だ。」
俺は首を横に振る。
「奴らが近くにいるかもしれない。」
美咲は何か言い返そうとした。
その前に七海がそっと肩へ手を置く。
「……待とう。」
その一言だけだった。
美咲は唇を噛み、ゆっくり頷いた。
俺は隼人、陽向、翼へ視線を向ける。
「四人で行く。」
「すぐ戻る。」
三人も無言で頷く。
槍を手に取り、静かに家庭科室を出た。
廊下は静かだった。
昨夜と違い、窓から差し込む朝の光が床を照らしている。
それでも、静けさは、その不気味さは何も変わらない。
四人で足音を殺しながら、遼がいたはずの見張り場所まで進む。
そこには――何もなかった。
槍も。
血も。
遼の姿も。
俺は思わず周囲を見回す。
「……ない。」
陽向が小さく呟く。
「やっぱり、様子を見に行ったんだ。」
俺は黙って頷く。
昨夜。
階下から物音がした。
遼はそれに気付いていた。
だから、確認へ向かった。
俺たちはその先へ視線を向ける。
管理棟、中央階段。
防火扉のある辺り。
慎重に歩を進める。
階段の手前まで来たところで、翼が足を止めた。
「……あった。」
俺たちも視線を向ける。
踊り場の床へ一本の槍が転がっていた。
俺たちが昨日作った即席の槍。
間違いない。
遼のものだった。
そのすぐ近く。
床へ黒く乾き始めた血痕が点々と残っている。
量は多くない。
けれど、誰かが傷を負ったことだけは分かった。
俺はゆっくり周囲を見る。
遼の姿はない。
どこにも。
いない。
陽向が小さく拳を握る。
「遼……。」
誰も返事をしなかった。
防火扉の横へ目を向ける。
昨日の夜。
もし遼が階下の様子を確かめようとして、ここから下を覗き込んだとしたら。
その瞬間。
すぐ横の物陰に潜んでいた奴らに、不意を突かれたとしたら。
そう考えれば、この場所へ槍だけが残っている理由も説明がつく。
俺は槍を拾い上げる。
柄には、乾いた血が少しだけ付いていた。
俺はそれを強く握り締める。
「……戻ろう。」
隼人が静かに言った。
俺はもう一度だけ踊り場を見渡す。
それでも、遼の姿は見つからなかった。
四人は誰も口を開かないまま、家庭科室への道を引き返した。