学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
背中で、家庭科室の扉が静かに閉まる音がした。
カチリ。
小さな音なのに、不思議なくらい耳へ残る。
振り返らない。
振り返れば、きっと足が止まる。
朝日が管理棟の窓から差し込み、廊下の床へ細長い光を落としていた。
昨日まで見慣れていた景色。
何も変わっていないはずなのに、もう別の場所のように感じる。
海人が一歩前へ出る。
肩へ金属バットを担ぎ、小さく振り返った。
「ここからは俺が前に出る。」
「行き先は非常階段で良いんだな。」
「ああ、頼む。」
海人はそのまま歩き始める。
後ろに陽菜。
その後ろに俺。
さらに美玖、莉乃。
隼人、陽向。
そして最後尾に翼。
海人の歩幅は決して速くない。
一歩ずつ慎重に、廊下の先を、死角を確認しながら前へ進む。
一歩進む。
異常なし。
また進む。
その繰り返しだった。
俺も無意識に息を浅くしている。
制服が擦れる音さえ、大きく聞こえた。
廊下は静まり返っている。
奴らの呻き声は聞こえない。
その静けさが、逆に恐ろしかった。
窓の外へ視線を向ける。
校庭には数十体の奴らがうろついていた。
昨日まで野球部やサッカー部が走り回っていた場所。
あのグラウンドでは体育祭も、文化祭もあった。
だが、そんな景色はもう残っていなかった。
今は、生気のない足取りで歩き続ける奴らだけがいる。
ふと立ち止まり、また歩き出す。
その姿に、もう人だった頃の面影は残っていなかった。
海人が拳を軽く上げる。
全員が足を止めた。
管理棟中央付近。
校門側の窓際だった。
「……なぁ。」
小さな声が聞こえる。
陽向だった。
壁を指差す。
「これ、使えねぇか?」
壁面へ格納された避難用脱出シューター。
高層階から避難するための設備だ。
俺は静かに近寄る。
説明プレートへ目を落とした。
展開方法。
固定方法。
使用手順。
頭の中で手順を組み立てていく。
数秒。
誰も声を出さない。
俺は窓の外へもう一度目を向けた。
校庭。
駐車場。
管理棟。
そして、俺たちが向かう管理棟端の非常階段。
このシューターは管理棟中央付近。
十分に離れている。
もし、ここで大きな音を出せば。
奴らは音へ集まる。
その間に非常階段を降りられる。
駐車場を抜ければ、校門まで一直線。
小さく呟く。
「……使える。」
海人が隣に並ぶ。
「何か思いついたか?」
俺は全員を見回した。
「これで奴らを引き付ける。」
「その隙に非常階段を降りる。」
陽菜が窓の外を覗き込む。
「音で集まってくれるかな?」
「多分。」
俺は頷く。
「昨日も、夜も。」
「奴らは音へ反応してた。」
隼人も静かに口を開く。
「やる価値はあるな。」
その言葉で、みんなの表情が少しだけ引き締まった。
俺は足元に置いていた工具箱を見る。
工作室から持ち出した工具箱。
中身は既に空だった。
必要なものは全てリュックへ移してある。
「これを落とそう。」
「惜しいけど。」
この作戦が成功すれば。
学校からの脱出成功の可能性が高まる。
俺は深く息を吸った。
「よし、始めるぞ。」
隼人の言葉にそれぞれが小さく頷く。
海人と隼人がシューターの収納扉の前へしゃがみ込む。
説明書きを確認しながら、海人が頭を掻く。
「初めて触るな、こんなの。」
「俺もだ。」
隼人が短く返す。
二人はレバーを外し、固定金具を解除していく。
収納されていたシューターがゆっくりと窓の外へ展開されていく。
布製の筒が重力に従って一気に伸び、管理棟の壁面へ沿って地上まで垂れ下がった。
窓から覗き込む。
——十分だ。
校門側。
管理棟中央付近。
俺たちが降りる非常階段からは十分遠い。
俺は足元の工具箱を開ける。
今の中身は空だ。
昨夜まで、この箱には工具や釘がぎっしり詰まっていた。
即席の槍を作り。
防御を考え。
何度も蓋を開け閉めした。
短い時間だった。
それでも、この工具箱には随分助けられた気がする。
手元に残っていた金属釘を中に転がしておく。
「いいのか?」
俺は小さく笑った。
「また探せばいい。」
「そうだな。」
陽向がリュックを軽く叩く。
「中身は全部持った。」
莉乃も頷く。
「忘れ物ないよ。」
全員が荷物をもう一度確認する。
槍。
水。
食料。
必要最低限だけ。
俺は工具箱を持ち上げた。
窓際へ歩く。
下を見る。
校庭。
駐車場。
奴らがゆっくり歩き回っている。
まだ奴らには気づかれていない。
「落とすぞ。」
工具箱をシューターの入口へ滑り込ませた。
ゴトン。
鈍い音。
次の瞬間。
工具箱が布の筒の中を勢いよく滑り落ちていく。
ガラガラガラガラッ――
滑る落ちる工具箱の中で釘が踊る。
乾いた金属音がシューター全体へ響いた。
その音は想像以上だった。
全員が思わず息を止める。
次第に音が遠ざかっていく。
数秒。
静寂。
そして。
――ガシャァァン!!
地上でシューターから工具箱が勢いよく飛び出し、アスファルトへ激突した。
鋭い破裂音が校舎全体へ響き渡る。
窓ガラスが微かに震えた。
俺たちは一斉に身を伏せる。
誰も声を出さない。
耳だけが外へ向いていた。
……
……
最初に動いたのは校庭だった。
一体。
二体。
三体。
奴らが一斉に顔を上げる。
そして。
呻き声を上げながら音のした方向へ歩き始めた。
駐車場も同様に。
管理棟の陰から。
車の間から。
奴らが次々と姿を現し、音のした方へ集まり始める。
呻き声が重なっていく。
「……動いた。」
陽菜が小さく呟く。
俺も頷いた。
「ああ。」
まだだ。
まだ動かない。
俺たちはその場で様子を見続けた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
奴らは次々と音のした場所へ吸い寄せられていく。
非常階段側にいた奴らも、ほとんどが中央へ向かっていた。
海人が窓の外を見ながら、小さく笑う。
「思った以上だな。」
最後にもう一度、非常階段側を確認する。
見える範囲に奴らはいない。
今しかない。
「行こう。」
海人がバットを握り直す。
「頭使うのも悪くねぇな。」
誰かが小さく笑った。
次の瞬間には全員の表情が再び引き締まる。
陽動は成功した。
けれど。
無事に学校を出るまでが、本当の勝負だ。
海人が先頭に立つ。
俺たちは窓際を離れ、再び廊下を歩き始めた。
陽動は成功した。
だからといって、安全になったわけじゃない。
どこか一体でもこちらへ残っていたら、それだけで脅威だ。
管理棟の端。
非常階段へと続く扉が見えてくる。
海人が立ち止まり、そっと耳を当てる。
数秒。
俺も思わず息を止める。
向こうから聞こえるのは風だけだった。
海人がゆっくりとノブへ手を掛ける。
ギィ……
扉が少しだけ開く。
隙間から外を確認する。
左。
右。
下。
慎重に視線を動かしたあと、小さく振り返った。
頷く。
道は開いていた。
海人が最初の一歩を踏み出す。
陽菜が続く。
俺も静かに非常階段へ足を乗せた。
朝の空気が肌へ触れる。
校舎の中より少しだけ冷たい。
鉄製の階段は夜露でわずかに湿っていた。
足を滑らせれば終わる。
一段ずつ。
一歩ずつ。
慎重に降りていく。
階段を踏む靴底の音だけが小さく響く。
校庭の方へ視線を向ける。
奴らはまだ脱出シューターの付近に集まっている。
工具箱が落ちた場所を囲むように。
何体もの奴らが呻きながら歩き回っていた。
作戦はまだ生きている。
俺は胸の奥で小さく安堵する。
あと少し。
あと少しで地上だ。
前を歩く海人が手すりへ軽く手を掛け、速度を少しだけ落とした。
その動きだけで、全員が同じように歩幅を合わせる。
最後尾の翼も時折振り返りながら周囲を警戒している。
その表情には焦りはない。
ただ冷静だった。
ようやく最後の踊り場へ着く。
地上まで残り一階。
海人が再び立ち止まる。
体を低くし、出口の様子を確認する。
俺も自然と槍を握る手へ力が入った。
数秒。
海人は静かに右手を下げる。
俺たちは最後の階段を降り始める。
地面が少しずつ近付いてくる。
非常階段の出口。
その向こうには学校の駐車場。
並んだ車。
校門へ続く道。
あと少しで。
俺たちは学校の外へ出られる。
海人が地上へ降り立つ。
周囲を素早く見回す。
バットを構えたまま、後ろ手に小さく手招きした。
俺も続いて地面へ足を着ける。
アスファルトの感触が靴底へ伝わった。
建物を無事に降りた。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
だが、安心するにはまだ早い。
海人は駐車場へ視線を向け、小声で言った。
「車沿いに進む。」
「陰を伝って行くぞ。」
俺は頷く。
全員が身を低くし、停められた車列の間へ静かに入り込んだ。
校門は、もう目の前だった