学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
学校を離れて十分ほど。
背後に見えていた校舎は、学校のある丘陵部を下り、住宅街に差し掛かったあたりで視界から完全に姿を消していた。
もう振り返っても見えない。
それだけ離れたという事実に、ほんの少しだけ胸の緊張がほどける。
あそこには、今も葵たちが残っている。
美咲、七海、萌、恒一、結衣も。
それぞれが自分で選んだ場所だ。
あの家庭科室が、少しでも長く彼らの居場所であり続けてくれればいい。
そう願いながら視線を前に戻す。
海人は先頭を歩いていた。
校内にいた時のように一歩ごとに立ち止まることはしない。
歩調は速くも遅くもない。
ただ、交差点や曲がり角へ差しかかるたびに足を止め、壁へ身体を寄せて先を確認する。
俺たちも自然とその動きに合わせる。
住宅街は静かだった。
静かすぎると言ってもいい。
風が電線を揺らし、かすかに唸る音だけが耳へ届く。
昨日までなら、この時間は子どもたちの笑い声や、自転車で通学する高校生の声が聞こえていたはずだ。
今は何もない。
道路脇へ停められた車だけが、持ち主を失ったまま朝日に照らされている。
陽向が周囲を見回し、小さく呟いた。
「……静かだな。」
その声も自然と潜められていた。
海人は振り返らず肩をすくめる。
静かだから安全なんじゃない。
静かだからこそ、何が潜んでいるか分からない。
そのことを、全員が理解していた。
交差点を一つ抜ける。
住宅街の姿は昨日と変わらない。
立ち並ぶ住宅と、点在する店舗。
そこにいるべき人の気配だけが失われていることに、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
その時だった。
カーテンが揺れた。
道路沿いの二階建て住宅。
その二階の窓。
レースカーテンがほんの少しだけ動いた。
——風じゃない。誰かがいる。
俺は思わず足を止めそうになる、
だが、その窓は開かなかった。
声はかからない。
助けを求める声も。
こちらを呼び止める声もない。
ただ、人影だけが一瞬動いて、またカーテンの奥へ消えた。
……生きている人はいる。
でも、外へは出てこない。
出られないのか。出ないと決めたのか。
それは分からない。
陽菜がぽつりと呟いた。
「……いるんだね。」
誰に向けた言葉でもない。
海人が振り返らないまま答える。
「いる。でも…」
少しだけ間が空く。
「助けてはくれない。」
その現実だけが、静かに胸へ落ちた。
俺たちは、もう学校という守られた場所を出た。
ここから先は、誰かが助けてくれるのを待つ世界じゃない。
自分たちで、生き延びるしかない世界だった。
しばらく歩くと、住宅街を抜ける手前で海人が右手を軽く上げる。
全員がその場で止まった。
海人は角の向こうを覗き込み、数秒だけ様子を窺った。
道路の先には幹線道路が見える。
車線の多い、町を南北に貫く大きな道路だ。
海人はゆっくり戻ってきた。
「大通りは避ける。」
「目立つからな。」
「ああ。」
道路を横切るには悪くない。
だが、一度見つかれば隠れる場所が少ない。
それなら多少遠回りになっても、住宅街の細い道を進んだ方がいい。
海人はすぐに進路を変えた。
俺たちも後へ続く。
歩きながら、俺は街の様子を見回した。
電柱には選挙ポスター。
閉じたままの郵便受け。
庭先へ置かれた植木鉢。
どれも昨日までと変わらない。
変わったのは、人だけだった。
ふと道路脇を見る。
一台の軽自動車が、電柱へ軽くぶつかったまま止まっている。
フロントガラスには蜘蛛の巣状のひび。
運転席は空だった。
その車のすぐ横には、買い物袋が一つ落ちている。
中から転がり出たリンゴが、アスファルトの上で黒く変色していた。
誰かが途中まで「いつもの日常」を送っていた証拠。
それだけが取り残されている。
美玖も同じものを見ていたらしい。
「……昨日まで普通だったのに。」
ぽつりと漏らす。
誰も返事はしなかった。
昨日まで。
その言葉だけで十分だった。
昨日の朝。
俺たちは制服を着て学校へ向かっていた。
授業を受けて。
友達と笑って。
放課後の予定を考えていた。
たった一日。
それだけしか経っていない。
それなのに。
街はまるで何年も人が住んでいない廃墟のようだった。
海人が再び立ち止まる。
今度は小さなコンビニが見えていた。
道路沿いに建つ、ごく普通の店舗。
駐車場には軽トラックが一台。
買い物客の車らしい軽自動車が一台。
どちらも停まったまま。運転席に人影はない。
出入り口のガラス戸は半開きのままだ。
看板の電気はまだ点いている。
店内に人影は見えない。
海人は低い声で言う。
「補給する。」
隼人が頷いた。
「まずは中を確認だな。」
海人は何も言わず、自動ドアの前まで歩く。
ゆっくりと店内を覗き込む。
数秒。
静寂。
やがて小さく顎を引いた。
「……行ける。」
俺たちは静かに店内へ足を踏み入れた。
店内は、拍子抜けするほど静かだった。
自動ドアは半開きのまま止まり、冷房も止まっている。
それでも棚の商品はほとんど手つかずだった。
昨日まで営業していたままの姿。
雑誌コーナー。
レジ。
ホットスナックのケース。
コーヒーマシン。
どれも時間だけが止まったようにそこへ残っている。
海人は入口付近で立ち止まり、店内全体を見渡した。
レジ裏。
バックヤード。
トイレ。
死角になりそうな場所を、一つずつ順に確認していく。
数分後、ようやくこちらを振り返った。
「問題ない。」
全員がようやく小さく息を吐く。
「十分だけ休もう。」
俺が言うと、みんな自然と商品棚の間へ散っていった。
とはいえ、誰も気を抜いてはいない。
入口付近には海人と隼人が残り、外の様子を交代で確認している。
俺は店内を見回した。
「必要な物だけ持っていこう。」
陽向が乾パンを手に取る。
「腹は減ってるけど、持てる量には限界があるな。」
「ああ。」
リュックの容量も考えなければならない。
俺たちは相談しながら棚を回る。
まず水。
二リットルのペットボトルは重すぎる。
五百ミリボトルを一人数本。
パン。
おにぎり。
栄養補助食品。
缶詰は重量を考え、最低限だけ。
美玖は黙々と賞味期限を確認しながら袋へ詰めていく。
莉乃はレジ横から使い捨てライターを見つけた。
「これも持っていこう。」
「火は貴重だからね。」
陽菜はビニール袋を束ごと抱えてくる。
「ゴミ袋にもなるし、水も運べるよ。」
「いいな。」
隼人が頷いた。
翼は文房具コーナーで立ち止まる。
ボールペン。
油性マジック。
メモ帳。
全部リュックへ入れた。
記録を残せる道具は、この先きっと必要になる。
そして、雑誌ラックの横。
旅行コーナーに一冊の道路地図帳が立て掛けられていた。
俺は思わず手に取る。
「地図だ。」
海人もこちらへ歩いてくる。
「使えるか?」
市内地図。
観光案内。
道路地図。
数冊を取り出して、イートインスペースへ地図を広げた。
全員が自然と集まってくる。
机の上へ広げられた市街地図。
普段なら見ることもない縮尺だった。
俺は現在地を指差す。
「ここが学校。」
次に道路をなぞる。
「ここが俺たちのいるコンビニ。」
さらに指を東へ滑らせる。
「この先が駅前。」
陽向が地図へ顔を近付ける。
「結構あるな。」
「歩いて三十分くらいか。」
俺は頷く。
「順調なら。」
海人が腕を組んだ。
「順調じゃなかったら?」
「もっと掛かる。」
信号。
渋滞した車。
奴ら。
迂回。
いくらでも時間は延びる。
俺はさらに地図を東へ辿った。
駅前を抜ける。
古くからある商業地区。
そのさらに先。
住宅が少なくなり始めた辺りを指差す。
「祖父の店は、この辺。」
全員が地図を見る。
海人が静かに口を開いた。
「駅前より先か。」
「ああ。」
「かなり歩くな。」
「そうなる。」
しばらく誰も喋らなかった。
地図の上の一本の道。
実際にはそこに何が待っているのか、誰にも分からない。
隼人が静かに言う。
「店には何がある?」
俺は少し考えて答えた。
「工具。」
「作業設備。」
「あと、祖父の備蓄。」
陽向が身を乗り出してくる。
「銃砲店って言ってたろ。」
「銃は置いてないのか?」
誰かが息を呑む音がした。
俺は正直に答える。
「可能性はある。」
「でも、整備やメンテナンスをメインにしている店だから。」
「それに、店が無事とも限らない。」
「荒らされている可能性だってある。」
海人は地図から目を離さない。
数秒。
黙ったまま考えていた。
やがて小さく頷く。
「それでも。」
「今はそこが一番可能性がある。」
俺も頷き返す。
「ああ。」
海人が地図を軽く叩いた。
「じゃあ決まりだ。」
「まずは駅前を抜ける。」
「その先の店を目指す。」
陽菜が静かに口を開く。
「みんなの家はどうするの?」
「店に着いてから考える。」
「バラバラになるのは避けたい。」
「まずは、拠点になる場所を確保する。」
決定だった。
今は、とにかく前へ進むしかないのだから。
街路を抜けると、建物の数が少しずつ増え始めた。
住宅街だけだった景色に、小さな医院やクリーニング店、個人経営らしい食堂が混じるようになる。
それでも、人影はない。
シャッターは半分閉まり、駐車場には放置された車が並んでいる。
風が吹くたび、どこかで看板が軋む音だけが響いた。
海人は歩く速度を落とさず、それでも絶えず左右へ視線を配っていた。
交差点へ差しかかったところで、不意に右手を軽く上げる。
全員がその場で止まった。
海人は指先だけで前方を示す。
道路脇。
電柱の陰。
そこに、一体。
スーツ姿のまま、ふらつくように立っている奴らがいた。
こちらにはまだ気付いていない。
海人は無言で金属バットを握り直す。
「……海人。」
俺は小さく呼び止める。
海人が振り返る。
「俺がやる。」
一瞬だけ、海人の目が俺を見る。
否定も、励ましもしない。
ただ静かに一歩だけ横へ退いた。
「……分かった。」
俺は槍を握り直す。
昨日作った即席の槍。
学校では何度も握った。
でも――
実際に奴らへ向けるのは、これが初めてだった。
喉が乾く。
手のひらに汗が滲む。
ゆっくり距離を詰める。
あと三歩。
二歩。
一歩。
奴らがゆっくり顔をこちらへ向けた。
濁った瞳。
力なく開く口。
低い呻き声。
腕が伸びてくる。
体が勝手に後ろへ逃げたがる。
怖い。
怖い。
それでも。
ここで退けば。
後ろのみんなが危ない。
「――ッ!」
踏み込む。
槍を両手で握り、頭部を狙って突き出す。
ガツッ――!
鈍い衝撃が腕へ伝わった。
槍先がこめかみの辺りへ食い込み、奴らの頭が大きく揺れる。
体勢を崩したその瞬間、俺は反射的に槍を横へ捻った。
奴らの体から力が抜ける。
膝が折れ、そのまま道路へ倒れ込んだ。
動かない。
もう起き上がってこない。
俺は息を止めたまま、その姿を見下ろす。
終わった。
本当に、終わった。
手から力が抜ける。
槍を引き抜こうとしても、思うように動かない。
震えている。
腕が。
足が。
全身が。
「……上出来だ。」
海人が静かに近付き、槍の柄を一緒に握る。
二人で少しだけ捻る。
ズッ、と嫌な感触と共に槍が抜けた。
海人は何も言わない。
槍を返し、肩を軽く叩いただけだった。
「行くぞ。」
「ああ……。」
声が掠れていた。
倒れた奴らはもう動かない。
——俺が、倒した。
その事実だけが胸の奥へ重く沈んだ。
美玖が黙って俺の隣へ来る。
ペットボトルを差し出した。
「……飲んで。」
俺は受け取り、一口だけ水を流し込む。
——冷たい。
それだけで、少しだけ現実へ戻れた気がした。
「ありがとう。」
美玖は小さく頷く。
「うん。」
陽向が倒れた奴らを見下ろしながら頭を掻く。
「……思ったより普通だな。」
誰へ向けた言葉でもない。
隼人が静かに答える。
「普通じゃない。」
短い一言。
「慣れちゃいけない。」
陽向も、それ以上は何も言わなかった。
海人が前を向く。
「まだ一体だ。」
その言葉で全員の表情が引き締まる。
俺たちは再び歩き始めた。
街はまだ静かだった。
でも、その静けさの中で。
俺はもう、さっきまでの俺ではなかった。
初めて奴らを倒した。
生きるために。
誰かを守るために。
その事実だけが、胸の奥へ重く残っていた。
しばらく歩くと、建物の密度がさらに増していく。
道路の先には、高いビル群が少しずつ姿を見せ始めていた。
海人がその方向を見ながら呟く。
「街の中心が近いな。」
俺も頷く。
「ああ。」
地図で見た位置関係を思い出す。
この先に駅前。
そのさらに先に、古い商店街。
祖父の銃砲店は、その商店街の外れにある。
まだ距離はある。
今日中に着けるかどうかも分からない。
それでも。
俺たちには目指す場所ができた。
陽向が歩きながら小さく笑う。
「とりあえず、今日は生き延びることだけ考えようぜ。」
莉乃も笑って頷いた。
「そうだね。」
その声に、みんなも少しだけ表情を緩める。
朝日が街を照らしている。
昨日と変わらないはずの景色。
でも。
昨日と同じ世界では、もうなかった。
それでも俺たちは歩く。
止まらない。
止まれば終わる。
学校を離れ。
初めて街へ出て。
初めて戦って。
ようやく一歩だけ前へ進んだ。
その先に待つものは、まだ誰にも分からない。
けれど。
俺たちには今、向かうべき場所がある。
祖父の店。
そこへ辿り着くために。
俺たちは静かな街を歩き続けた。