学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
「停電……?」
思わず漏れた自分の声が、暗くなった売場へ吸い込まれていく。
さっきまで当たり前のように頭上を照らしていた照明はすべて消え、残ったのは非常口の誘導灯だけだった。
赤くぼんやりと光るその明かりは、広い地下売場を照らすにはあまりにも頼りない。
静かだった。
——いや、静かすぎる。
さっきまで聞こえていた空調の低い駆動音。
天井から響いていた機械の音。
遠くで動いていた何かの電子音。
それらが、まるで最初から存在していなかったかのように消えている。
百貨店そのものが、一瞬で息を止めたようだった。
「悠斗。」
隣から美玖の声が聞こえる。
暗闇の中では、その声だけがやけにはっきり耳へ届いた。
「スマホ。」
「あ……。」
反射的に制服のポケット――いや、もう制服じゃない。作業着の胸ポケットへ手を入れ、スマホを取り出す。
電源ボタンを押す。
反応しない。
画面は真っ黒なままだ。
「……?」
もう一度押す。
長押しする。
何も映らない。
「……悠斗?」
美玖の声に、俺は首を振る。
「壊れた……?」
学校にいた時は普通に使えていた。
バッテリーも残っていたはずだ。
なのに、まるで中身ごと消えてしまったように何一つ反応が返ってこない。
胸の奥がざわつく。
停電。
それだけならまだいい。
だが、普通の停電とは違う気がした。
何か大きな異常が起きている。
「懐中電灯。」
美玖が落ち着いた声で言う。
「リュックに入れてあったはず。」
「……そうだった。」
肩からリュックを降ろす。
暗くて中が見えない。
手探りで中を探る。
ペットボトル。
乾パン。
包帯。
レトルト食品。
手袋。
「どこだ……。」
指先だけを頼りに探し続ける。
焦れば焦るほど見つからない。
ようやく指先に硬い感触が当たる。
取り出した懐中電灯を点けると、白い光が暗闇を切り裂いた。
「……よかった。」
美玖が小さく息を吐く。
俺も同じだった。
完全な暗闇ではない。
それだけで少し安心する。
美玖ももう一本の懐中電灯を点ける。
二本の光が、広い地下売場を照らしていた。
棚。
買い物カゴ。
商品。
何も変わっていない。
さっきまで見ていた景色と同じだ。
違うのは、光だけ。
そして、その静けさ。
俺は耳を澄ませた。
何か聞こえないか。
奴らの呻き声。
誰かの足音。
館内放送。
何でもいい。
だが聞こえるのは、自分たちの呼吸だけだった。
「……戻ろう。」
このままここへ留まる理由はない。
隼人たちと合流し、1階に戻る。
それが先決だ。
「うん。」
美玖も頷く。
俺は槍を右手へ持ち替え、左手で懐中電灯を構える。
光を床へ落としながら歩き始めた。
一歩。
また一歩。
床へ響く靴音が、妙に大きく聞こえる。
地下雑貨売場は、昼間とは思えないほど暗かった。
商品棚がいくつも並び、光の届かない場所には濃い影ができている。
その影が、人の形にも見えた。
思わずライトを向ける。
何もいない。
掃除用ワゴンだった。
小さく息を吐く。
「……びっくりした。」
美玖が苦笑する。
「私も。」
ほんの少しだけ張り詰めていた空気が緩む。
その時だった。
カタン。
どこかで音がした。
小さな音。
だが、静まり返った館内でははっきり聞こえた。
俺と美玖は同時に顔を上げる。
「……何?」
美玖が小声で聞く。
俺は答えられなかった。
音はエスカレーター側、レジのあった辺りから。
何かが倒れたような、そんな音。
懐中電灯をゆっくり向ける。
棚が並んでいるだけだ。
何も見えない。
……いや。
光の届かない棚の陰。
何かが動いた。
ほんのわずかに。
人影のようなものが揺れた気がした。
俺は反射的に声を掛ける。
「……隼人?」
返事はない。
代わりに、その影がゆっくり前へ出てきた。
光が顔を照らす。
血に汚れた店の制服。
濁った目。
口元から垂れる黒ずんだ血。
人間じゃない。
奴らだった。
ゆっくりと棚の間を歩いている。
俺は美玖へ目配せする。
声は出さない。
息だけで合図する。
美玖も静かに頷いた。
ゆっくりと後退する。
その時だった。
吹き抜けになっているエスカレーターの中ほど。
ぼんやりと見えるエスカレーターで、小さな光が三度だけ明滅した。
チッ。
チッ。
チッ。
短く三回。
——隼人だ。
俺はライトを一度だけ短く点灯させ、すぐ消す。
返事。
それだけ伝えれば十分だった。
だが、その直後だった。
地下のさらに奥。
バックヤードの方角から。
ガタン。
ガタン。
ガシャッ。
今度は、一度ではなかった。
何かが倒れる音。
金属がぶつかる音。
複数。
しかも少しずつ、こちらへ近付いてきているように聞こえた。
嫌な記憶が蘇る。
電子ロック。
従業員専用区域。
カードリーダー。
そして――。
開かなかった扉。
俺は懐中電灯の光をそちらへ向ける。
暗い通路。
何も見えない。
何も聞こえない。
……いや。
違う。
何かいる。
そう感じた瞬間。
奥から。
ズル……。
足を引きずるような音が響いた。
美玖の表情が変わる。
「……奴ら?」
俺は槍を握る。
答えの代わりだった。
次の瞬間。
通路の奥。
非常灯の赤い光の中に。
影が現れた。
一体。
二体。
ゆっくりと歩いてくる。
間違いない。
奴らだ。
だが。
数は少ない。
最初はそう思った。
けれど。
その後ろ。
さらに奥。
暗闇の中で、また別の影が動いた。
——一体。
——また一体。
まるで建物の奥から押し出されるように。
奴らが現れ始めていた。
「……電子ロックが。」
俺は呟く。
「解除されたんだ。」
停電とほぼ同時。
偶然じゃない。
電気系統が止まったことで、扉のロックが外れた。
その結果。
地下のバックヤードに閉じ込められていた奴らが、館内へ流れ込んできた。
なぜ、奴らが閉じ込められていたのか。
バックヤードに感染者を閉じ込めていたのか。
それとも、逃げ込んだ人の中に感染者が紛れ込んでいたのか。
今となっては分からない。
美玖がバールを構える。
その手は少し震えていた。
でも。
逃げるだけではない。
もう、美玖も分かっている。
戦わなければならない時があることを。
「悠斗。」
「ああ。」
俺は前を見る。
奴らとの距離はある。
だが。
時間はない。
このままここにいれば、囲まれる。
「回り込む。」
俺が言う。
「みんなと合流する。」
美玖が頷く。
俺たちは最初に見つけた奴らを避けるように大回りしてエスカレーターを目指す。
懐中電灯の光が暗い売場を照らす。
誰もいない。
商品棚。
通路。
静かな百貨店。
ほんの少し前まで。
ここは安全な場所だと思っていた。
食料もある。
水もある。
休める場所もある。
学校を出てから初めて、安心できる場所を見つけたと思った。
でも。
この世界で。
安全な場所なんて存在しない。
そう思い知らされる。
周囲から聞こえる奴らの呻き声が少しずつ大きくなる。
数が増えている。
確実に。
俺と美玖は走る。
だが、大きな音は出せない。
奴らは音に反応する。
だから。
走ることすら慎重になる。
その時だった。
遠くから。
何かが倒れる音が響いた。
ガタンッ。
俺と美玖は足を止める。
音の方向。
一階。
吹き抜けの向こう側。
誰かがいる。
そして。
戦っている。
「……海人たちだ。」
暗闇の中。
懐中電灯の光と赤い非常灯だけを頼りに、俺たちは音の方向へ向かった。
だが。
その先に待っていたのは。
想像以上に広がった。
百貨店の崩壊だった。
吹き抜けのある中央フロアへ近づくと、状況はすでに変わっていた。
ほんの数分前まで。
ここは静かな百貨店だった。
人の気配もなく。
商品棚が並ぶだけの、止まった時間の中にいるような場所だった。
それが今は違う。
非常灯の赤い光の中。
大量の人影が動いている。
ゆっくりと。
不自然に。
そして、その数は増え続けていた。
「悠斗!」
上から声が飛ぶ。
「無事か!?」
エスカレーターの中腹。
そこに隼人がいた。
止まったエスカレーターを上る奴らを槍で突き落としている。
その少し上。
一階側の降り口付近には莉乃。
武器を構えながら、周囲を警戒している。
「美玖!」
こちらに気づいた莉乃が叫ぶ。
「大丈夫!」
美玖が返事をする。
「海人!」
陽向の声だ。
いつもの調子とは違う。
焦りを隠していない声。
続いて。
「階段から来てるぞ!」
海人の声。
その瞬間、背筋が冷たくなる。
眼の前にいる奴らだけじゃない。
既に一階にも。
奴らが現れている。
ガンッ!
何かを殴る音。
バット。
海人だ。
さらに。
ガシャァン!
ガラスの割れる音。
誰かの怒鳴り声。
呻き声。
館内のあちこちで音が重なり始める。
そして。
俺たちの目の前でも。
奴らがこちらを向いた。
一体。
また一体。
呻き声が地下売場へ響く。
「ぁ……ぁぁ……。」
「走るぞ!」
俺は叫ぶ。
もう隠れても意味はない。
美玖も同時に走り出した。
一体が通路を塞ぐ。
「邪魔だ!」
槍を突き出す。
狙うのは胸じゃない。
頭。
奴らは頭を潰さなければ止まらない。
穂先が額へ突き刺さる。
手応え。
奴らの身体がその場で崩れ落ちる。
槍を引き抜く。
その間にも、後ろからもう一体。
美玖が一歩前へ出た。
バールを両手で握る。
振り下ろす。
鈍い音。
奴らの顎が跳ね上がり、そのまま後ろへ倒れる。
「行くぞ!」
走る。
エスカレーターまであと十数メートル。
地下の奥からは、まだ影が現れ続けていた。
もう数えられない。
「陽向! 右!」
ガンッ!!
バットが何かを叩き潰す音。
さらに。
「翼!」
「分かってる!」
翼の声。
金属が床を擦る音。
誰かが走る音。
俺たちからは姿が見えない。
一瞬、バックヤードの入口が光に照らされる。
奴らはまるで、暗闇そのものが吐き出しているように、次から次へと地下通路から溢れ出してきていた。
そしてそのすぐ横。
従業員用と思われる、地下から一階へ続く階段。
一体。
また一体。
奴らが上がっていく。
「悠斗!」
美玖が前を指差す。
エスカレーター手前。
三体。
通路を塞ぐように立っていた。
「突破するぞ!」
逃げ道は一つしかない。
俺は槍を構え、一番近い一体へ踏み込む。
穂先が額を貫く。
引き抜く。
そのまま横薙ぎ。
二体目の首元へ。
完全には止まらない。
それでも体勢が崩れる。
その隙へ、美玖が飛び込む。
バールを振り下ろす。
鈍い音。
二体目が倒れる。
三体目と一瞬睨み合う。
「……ッ!?」
既に、エスカレーターとの間には新たな奴らが現れていた。
まるで、百貨店そのものが奴らに飲み込まれてくような錯覚を覚える、
「隼人!」
莉乃の声が響く。
「こっちも囲まれちゃう!」
見上げた隼人の顔には焦りが浮かんでいた。
エスカレーターで地下からの奴らを押し留めていたが、上からも来れば挟み撃ちになってしまう。
エスカレーターは、もう逃げ道ではなくなり始めていた。
その時。
別の方向から大きな音が響いた。
ガンッ!
ガンッ!
何かを連続して叩き潰す音。
「海人!」
陽菜の声。
階段の踊り場。
そこに海人がいた。
中腹まで降りてきたが、登ってくる奴らに阻まれている。
バットを振り、奴らを押し返しているが、その数は多い。
懐中電灯の光が階段の下を照らす。
その光の先は奴らで埋まっていた。
一体や二体なら。
海人なら突破できる。
でも。
あれは違う。
倒しても。
倒しても。
後ろから新しい奴らが押し寄せる。
「こっちも増えてるぞ!」
陽向が叫ぶ。
「分かってる!」
一瞬だけ視線が交わる。
海人。
隼人。
俺。
言葉はなくても分かった。
全員で逃げるのは無理だ。
なら。
生き残るために。
分かれるしかない。
次の瞬間。
海人が叫んだ。
「分かれるぞ!」
よく通る声だった。
「生きて外で合流する!」
正面入口。
駅側。
そして、地下街。
確認しておいた脱出口が、そのまま生きる。
海人は最初から、そのために全員で確認させたのだ。
もう迷っている時間はなかった。
「目的地は!」
「祖父さんの店!」
「商店街の先に進めばわかる!」
場所はみんなで確認している。
隼人も叫ぶ。
「俺たちは駅側へ行く!」
エスカレーター中腹。
隼人は莉乃を確認する。
莉乃も頷いた。
「俺たちは正面から出る!」
海人の横。
陽向が奴らを押し返しながら笑った。
「派手なのは任せろ!」
こんな状況なのに。
一瞬だけ。
いつもの陽向だった。
そのことが。
逆に苦しかった。
胸の奥が締め付けられる。
最後に一度頷くと、海人たちの姿は階段の上へと消えていく。
分かれる。
その意味は分かっていた。
ここまで。
学校を出て。
街を歩いて。
百貨店まで来た。
ずっと一緒だった。
それが。
今。
終わる。
エスカレーターを登った隼人がこちらを振り返る。
「悠斗!」
「また後でな!」
一瞬、言葉に詰まる。
でも、俺は頷いた。
「ああ。」
「絶対にだ!」
それ以上はいらなかった。
隼人の姿が視界から消える。
俺は美玖を見る。
美玖もこちらを見ていた。
不安そうな顔。
でも。
逃げたいという顔ではなかった。
覚悟を決めた顔だった。
「……行こう。」
隼人と莉乃は駅側へ。
海人、陽向、翼、陽菜は正面入口へ。
俺と美玖は地下街へ続く通路へ。
三つの方向。
三つの道。
それぞれが。
生き残るための道だった。
美玖と走る。
背後から。
奴らの呻き声。
仲間が戦う音。
聞こえる。
でも、振り返らない。
振り返ればきっと、足が止まる。
今は、生きることを優先する。
地下街へ続く通路。
防火扉が見える。
俺は懐中電灯で先を照らす。
暗い。
狭い。
でも。
道はある。
「美玖!」
二人で駆ける。
直後、背後から大きな音が響いた。
ドンッ!!
海人か。
隼人か。
分からない。
でも、まだ戦っている。
俺は防火扉へ手を伸ばす。
重い扉を押し開ける。
冷たい空気が流れ込む。
美玖が飛び込む。
俺も続く。
地下街への入口。
そこへ一歩踏み出した瞬間。
俺は最後に一度だけ振り返った。
赤い非常灯に照らされた百貨店。
そこに。
仲間たちの姿はもう見えなかった。
ただ、遠くから。
戦う音だけが聞こえていた。
俺は扉を閉める。
金属音が地下街へ響く。
それは、仲間と自分たちを隔てる音にも聞こえた。
そして。
美玖と二人。
暗い地下街へ走り出した。