学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build―   作:UG-san

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Ep.17 夜を越える※

 古い雑居ビルだった。

 

 三階建て。

 駅前から少し離れた場所に建つ、どこにでもありそうな小さなオフィスビル。

 ガラス張りの入口の横に、会社名が並んだ古びた案内板が掛かっている。

 税理士事務所。

 設計事務所。

 そんな文字が読み取れた。

 

 窓ガラスは割れていない。

 入口も閉まったままだ。

 俺は建物全体を見上げた。

 

「……。」

 

 ここを本当に使っていいのか。

 その判断をする必要があった。

 

「どうする?」

 

 隣の美玖が小さく聞く。

 

「中を確認する。」

 

 短く答える。

 

 祖父の店までは、まだ遠い。

 普通に歩けば一時間かからないくらい。

 でも、奴らを避けながら歩けば、その倍近く掛かるはずだ。

 

 今から無理をして進めば、到着までに日が落ちる。

 電気のない街で夜を迎えることは避けたかった。

 

「わかった。」

 

 美玖も異論はないようだった。

 

 俺たちは建物へ近付く。

 歩幅を小さくする。

 足音をできるだけ立てないように。

 道路の向こうには数体の奴らが見える。

 けれど距離は十分ある。

 こちらへ気付く様子はなかった。

 

 地上に出てから、まだ大きな戦闘はない。

 それは幸運だった。

 でも、だからこそ、油断はできない。

 

 建物の中に奴らがいないとは限らない。

 俺は槍を構えたまま、慎重にガラス扉へ手を掛ける。

 

 鍵は、開いていた。

 

 ゆっくり押し開ける。

 扉が軋む音が、静かな街へ響いた。

 一瞬、身体が強張る。

 

 数秒、耳を澄ませる。

 

 何も聞こえない。

 奴らの呻き声も近づいてこない。

 

 周囲から反応はない。

 

「……入る。」

 

 

 中は薄暗かった。

 照明は当然すべて消えている。

 リュックから懐中電灯を取り出し、スイッチを押す。

 

 白い光が静かなロビーを照らした。

 集合ポスト。

 会社名の案内板。

 観葉植物。

 その奥には二階へ続く階段。

 エレベーターはない。

 本当に、小さな事務所ビルだった。

 

「まず一階から確認する。」

 

 一階の事務所のドアへ近付く。

 耳を当てる。

 

 物音はしない。

 

 ゆっくりノブを回す。

 鍵は掛かっていなかった。

 慎重にドアを押し開ける。

 

 部屋の中は、税理士事務所らしい造りだった。

 机が並び、書類棚が壁際を埋めている。

 コピー機。

 応接用の椅子。

 床には書類が少し散らばっている。

 逃げる時に慌てたのかもしれない。

 

 俺は懐中電灯で部屋の奥まで照らす。

 机の下。

 棚の裏。

 給湯スペース。

 トイレ。

 一つずつ確認する。

 

 誰もいない。

 

 奴らもいない。

 美玖と目が合う。

 

「一階は大丈夫。」

 

 美玖も静かに頷いた。

 俺たちは部屋を出て、階段へ戻る。

 

 今度は二階。

 一段ずつ慎重に上っていく。

 踊り場で立ち止まり、耳を澄ませる。

 

 静かだ。

 静かすぎるくらいに。

 その静けさが、逆に落ち着かない。

 

 二階へ上がる。

 扉には設計事務所のプレート。

 俺は槍を構えたまま美玖を見る。

 美玖もバールを握り、無言で頷く。

 ゆっくりドアを開ける。

 

 カチャ。

 静かな音だけが響く。

 

 部屋は一階より少し広かった。

 中央には応接用らしいソファ。

 ローテーブル。

 奥には事務机が並んでいる。

 俺は懐中電灯で部屋を照らしながら、中へ足を踏み入れた。

 

 机の下。

 応接スペース。

 給湯室。

 トイレ。

 隅々まで確認する。

 やはり誰もいない。

 

 美玖がソファを見つめた。

 

「ここなら……休めそう。」

 

 入口は一つ。

 階段も目の前。

 何か来ればすぐ分かる。

 ソファもある。

 床へ直接寝るよりはずっとましだ。

 

「悪くない。」

 

 そう答えながらも、俺はまだ決めなかった。

 

「でも、三階も見ておこう。」

 

「全部確認してから?」

 

「ああ。」

 

 上を確認しないまま休むのは落ち着かない。

 もし誰かいたら。

 もし奴らがいたら。

 あとで気付く方が危険だ。

 美玖もすぐ頷く。

 

「行こう。」

 

 俺たちは再び部屋を出る。

 夕陽が階段の窓から差し込み、踊り場へ長い影を落としていた。

 その影を踏み越えながら、三階へ続く階段を、一段ずつ慎重に上っていく。

 

 古い建物だからか、足を乗せるたびに床板が小さく軋んだ。

 その音が妙に大きく聞こえて、自然と足取りが慎重になる。

 

 踊り場で立ち止まり、耳を澄ます。

 

 

 ……何も聞こえない。

 

 美玖も俺の隣で息を潜めている。

 ゆっくりと三階へ上がり切り、目の前のドアに手を掛けた。

 鍵は掛かっていない。

 

 槍を構えたままドアを押し開く。

 部屋は、事務所というより物置になっていた。

 

 壁際には古いロッカー。

 積み上げられたダンボール。

 使われなくなった事務机。

 書類を入れたままのスチール棚。

 

 どれも薄く埃を被っている。

 人がいた形跡はない。

 

 俺は部屋の奥まで懐中電灯を向けながら、一周する。

 物陰。

 棚の裏。

 窓際。

 確認を終えて、美玖と顔を見合わせた。

 

「……誰もいないね。」

 

「ああ。」

 

 ようやく肩の力が少し抜けた。

 三階まで無人。

 少なくとも、この建物には俺たち以外いないらしい。

 

「二階に戻ろう。」

 夜を明かすなら、やっぱり二階が一番都合がいい。

 

 俺たちは階段を下り、もう一度二階の事務所へ戻った。

 部屋へ入り、ドアを静かに閉める。

 

 入口の鍵を確認する。

 普通のシリンダー錠だった。

 内側から鍵を掛ける。

 カチリ、と小さな音がして、少しだけ安心する。

 

「これで、すぐには入ってこられない。」

 

「うん。」

 

 もちろん、奴らがドアを叩き続ければ、そのうち壊れるかもしれない。

 でも、気付く時間は稼げる。

 

 今一度、部屋を見回す。

 応接スペースのソファ。

 ローテーブル。

 窓にはブラインドが掛かっている。

 その隙間から外を覗いた。

 

 

 道路脇には何台か車が止まったままになっている。

 その中には、大きなトラックもあった。

 二階からなら、もし本当に最後の手段になった時でも、飛び降りる高さは少し抑えられるかもしれない。

 

 もちろん、そんな状況にならないことが一番だ。

 でも、逃げ道がある。

 それだけで安心材料になった。

 

 

 ブラインドを完全に下ろす。

 これだけで、外から室内の様子は殆ど見えない。

 懐中電灯の光も、なるべく外へ漏らしたくない。

 テーブルを少し動かし、光が窓へ向かない位置へ、懐中電灯を置いた。

 

「今日はここで休もう。」

 

 そう言うと、美玖はソファへ腰を下ろした。

 その表情を見て、俺もようやく腰を下ろす。

 百貨店を脱出してから、初めて落ち着いて座った気がした。

 身体中の力が抜けていく。

 それだけ疲れていたらしい。

 

 

 

「……本当に、変わったね。」

 

 美玖が窓の外を見ながら呟いた。

 

「何が?」

 

「街。」

 

 少し間を置いて。

 

「昨日まで普通だったのに。」

 

 学校。

 街。

 百貨店。

 全部、ほんの少し前までは普通だった。

 

 友達と話して。

 授業を受けて。

 それぞれに、帰る場所があった。

 

 それが今は、生きるための場所を探している。

 

 

「……荷物、確認しようか。」

 

「そうだな。」

 

 気持ちを切り替える。

 感傷に浸っている時間はない。

 

 リュックを開き、中身を一つずつ確認する。

 ペットボトルの水。

 乾パン。

 栄養補助食品。

 缶詰。

 包帯。

 消毒液。

 懐中電灯。

 予備の電池。

 簡単な工具。

 

 思っていたより多く残っている。

 

「食べよう。」

 

 美玖が言う。

 

「倒れたら意味ないから。」

 

 その言葉に、俺は少し笑った。

 

「そうだな。」

 

 

 レトルト食品。

 乾パン。

 残っていた飲み物。

 二人とも、しばらく無言でそれを口へ運んだ。

 

 豪華とは程遠い。

 飲み物で流し込む。

 味なんてほとんど分からない。

 

 それでも、不思議なことに。

 落ち着いて食べ物を口にできる。

 ただ、それだけで少しだけ人間らしい時間を取り戻したような気がした。

 

 学校を出てから、ずっと気を張り続けてきた。

 食べることすら「生きるための作業」だった。

 

 でも今は違う。

 ほんの少しだけ。

 心にも余裕ができていた。

 

 

「……みんな、大丈夫かな。」

 

 美玖が小さく言った。

 誰のことか、聞く必要はなかった。

 別れた仲間たち。

 

「大丈夫だ。」

 

 俺は答える。

 根拠なんてない。

 でも、そう言いたかった。

 

「みんな、約束した。」

 

 生きて再会する。

 あの時の言葉。

 簡単な約束だった。

 でも、今の俺たちには、それが支えだった。

 

「明日には着けそう?」

 

「ここからなら一時間もかからない。」

「奴らを警戒しながらでも、午前中には着けるはずだ。」

 

 店にたどり着ければ、必要な物を揃えられる。

 そこに祖父がいるかは分からない。何が残っているかは分からない。

 祖父自身がいるかも分からない。

 でも。

 行く理由はある。

 

 装備。

 道具。

 情報。

 

 そして。

「みんな、きっと集まる。」

 

 美玖は少しだけ目を伏せた。

 

「……うん。」

 

 その返事には。

 願いに近いものが混じっていた。

 

 

 その時だった。

 

 ――ドォンッ。

 

 腹の底へ響くような低い音が、遠くから聞こえた。

 俺も美玖も同時に顔を上げる。

 数秒後。

 もう一発。

 

 ――ドォンッ。

 

 乾いた拳銃の音じゃない。

 もっと重く、空気を震わせるような発砲音だった。

 俺は思わず窓の方を見る。

 もちろん、ブラインド越しでは何も見えない。

 

「……銃?」

 

 美玖が小さく呟く。

 

「多分。」

 

 それ以上のことは分からない。

 どこで。

 誰が。

 何に向けて撃っているのか。

 

 でも、一つだけ確かなことがある。

 まだ、この街には戦っている誰かがいる。

 その音は、静まり返った街へ吸い込まれるように消えていった。

 俺は無意識に拳を握る。

 祖父の店まで行けば、何か分かるかもしれない。

 そんな根拠のない期待だけが、胸の中へ小さく残った。

 

 

 銃声が聞こえなくなってからも、しばらく俺たちは黙ったままだった。

 

 時計を見る。

 午後七時前。

 

 窓の外はもう薄暗い。

 ブラインドの隙間から見える空も、群青色へ変わり始めていた。

 これから先は、懐中電灯がなければ何も見えない世界になる。

 

 百貨店で感じた不安が、また胸の奥に戻ってくる。

 

「今日はもう動かない。」

 

 俺はそう言って荷物をまとめ始めた。

 美玖も小さく頷く。

 

「うん。」

 

 ソファを壁際へ寄せる。

 テーブルも少し動かし、入口が見える位置へ。

 万が一誰か――いや、何かが入ってきても、すぐ動けるようにしておきたかった。

 準備を終えると、部屋は急に静かになった。

 

 やることがなくなったのだ。

 俺は腕時計を見た。

 まだ眠るには少し早い。

 

「交代で休もう。」

 

 そう提案すると、美玖がこちらを見る。

 

「見張りってほどじゃないけど。」

 

「……そうだね。」

 

 この建物に奴らがいる気配はない。

 入口にも鍵を掛けた。

 それでも、完全に気を抜く気にはなれなかった。

 

「俺が先に起きてる。」

 

「じゃあ、少し休ませてもらうね。」

 

 美玖はそう言うとソファへ腰掛ける。

 そのまま横になるかと思ったが、一度こちらを見て、小さく笑った。

 

「眠れたら、だけど。」

 

「俺もたぶん同じだ。」

 

 思わず苦笑する。

 

 今日一日で起きたことを考えれば、すぐ眠れる方がおかしい。

 美玖は小さく肩をすくめると、そのままソファへ身体を預けた。

 

 俺は窓際へ移動し、ブラインドをほんの少しだけ指で開く。

 

 街は暗かった。

 本当に暗い。

 街灯は一本も点いていない。

 信号も消えたまま。

 建物の窓にも灯りはない。

 昼間とはまるで別の街だった。

 

 遠くで奴らの呻き声が聞こえる。

 それ以外には、風が吹き抜ける音しかない。

 時折、その静けさを破るように。

 

 ――ドォン。

 

 また遠くで重い銃声が響いた。

 一発だけ。

 その音も、すぐ夜へ吸い込まれていく。

 

「……。」

 

 誰なんだろう。

 その疑問は浮かんだ。

 でも、それ以上考えても答えは出ない。

 そのまましばらく外を眺めてから、俺はブラインドを閉じ直した。

 

 その時だった。

 

「……悠斗。」

 

 背後から声がした。

 

 振り返る。

 美玖はソファに座り直していた。

 

「どうした?」

 

「……寝れなかった。」

 

 苦笑しながら言う。

 

「やっぱり。」

 

 俺も笑ってしまう。

 

「眠れそう?」

 

「全然。」

 

 美玖は立ち上がると、ゆっくり俺の隣まで歩いてきた。

 

「隣、いい?」

 

「もちろん。」

 

 俺は、壁にもたれかかるようにして座る。

 美玖もその場へ腰を下ろした。

 少し距離を開けて。

 

 壁を背にして並んで座る。

 しばらくは何も話さなかった。

 静かな時間だけが流れていく。

 

「本当に寝られないのか?」

 

 俺が小声で聞く。

 美玖は少しだけ視線を逸らした。

 

「……うん。」

 

 短い返事。

 でも。

 それだけではない気がした。

 

 静かな部屋。

 外から聞こえる音はほとんどない。

 街は暗くなり始めている。

 

 電気のない世界。

 明かりの消えた建物。

 遠くにいる奴らの気配。

 

 本来なら。

 こんな状況で落ち着けるはずがない。

 でも。

 隣に誰かがいる。

 それだけで、不思議と少し安心できた。

 

「……変な感じだね。」

 

 美玖が呟いた。

 

「何が?」

 

「こうして二人でいること。」

「高校に入ってからは、ほとんど話したことなかったよね。」

 

「……そうだな。」

 

 思い返してみる。

 

 小学生の頃は、家も近くて、一緒に遊ぶこともあった。

 学年が上がるにつれて、一緒に遊ぶことは減ったが、それでも仲は良かったと思う。

 

 中学に入ってから、二人の道は分かれていった。

 俺は事故で両親を、美玖は病気で母親を亡くし、美玖は不良グループとつるむようになって。

 俺はその姿を遠くから見るだけになっていた。

 

 話しかけることもなく。

 話しかけられることもなく。

 高校でも、ただ同じ学校へ通う幼馴染になっていた。

 

「こんなふうに話すなんて。」

「不思議な感じ。」

 

 美玖が少し笑う。

 

 学校で見たものとは違った。

 無理して作ったものじゃない。

 少しだけ素の表情。

 

「でも。」

 

 美玖が続ける。

 

「今は、一番近くにいる。」

 

 昨日と今日だけで。

 俺たちは何度も危険な場所を通った。

 

 学校を脱出した。

 

 街を歩いた。

 

 百貨店で奴らに囲まれた。

 

 そして、仲間と別れた。

 

 その中で。

 美玖は何度も俺の隣にいた。

 

「怖くないのか?」

 

 自然と口から出た。

 美玖は少し考える。

 

「怖いよ。」

 

 即答だった。

 

「今でも。」

 

 窓の外を見る。

 暗くなった街。

「明日どうなるか分からないし。」

 

「……。」

 

「また誰かがいなくなるかもしれない。」

 

 その言葉が胸に刺さる。

 俺も同じことを考えていた。

 

 でも。

 美玖は続ける。

 

「でも。」

 

 少しだけ間を置いて。

 

「一人じゃないから。」

 

 そう言った。

 

 俺は何も返せなかった。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 沈黙は。

 以前なら気まずいものだったかもしれない。

 

 でも、今は違った。

 何も話さなくても、隣にいることが分かる。

 

 ふと、美玖の肩が俺の肩へ触れた。

 避けようとはしない。

 俺も動かなかった。

 

 子供の頃には、何度も隣にいたはずなのに。

 高校へ入ってからは、一度もなかった距離。

 それが今は、不思議なくらい自然だった。

 

 

「……。」

「……。」

 

 美玖も何も言わない。

 ただ、肩が触れたまま。

 静かに前を見ていた。

 俺も視線を落とす。

 

 聞こえるのは。

 二人の呼吸だけ。

 

 近い。

 そう思った。

 

 さっきまで、ただ隣に座っていただけだった。

 

 でも、今は。

 相手の存在を強く感じる。

 

 美玖の体温。

 小さな息遣い。

 わずかな動き。

 

 危険な世界の中で。

 唯一、普通の人間らしい感覚だった。

 

「悠斗。」

 

 美玖が小さく呼ぶ。

 

「ん?」

 

 返事をする。

 美玖は何か言おうとして、少し迷った。

 

「……ありがとう。」

 

「何が?」

 

「色々。」

 

 短い言葉。

 

「学校から出た時も。」

「百貨店でも。」

「今も。」

 

 俺は首を振る。

 

「俺だけじゃない。」

「美玖がいたから、ここまで来られた。」

 

 それは本心だった。

 もし、一人だったら。

 俺はもっと早く心が折れていたかもしれない。

 

 美玖は少し俯いた。

 そして、小さく笑った。

 

「……そっか。」

 

 また沈黙。

 でも、今度は。

 さっきより温かい沈黙だった。

 

 外は完全に暗くなっていた。

 窓の向こう。

 街灯は点かない。

 建物の明かりもない。

 本当に、世界から光が消えたようだった。

 

 それでも。

 この部屋には。

 二人分の呼吸がある。

 

 美玖が少しだけ顔を上げる。

 視線が合う。

 何か言葉にする必要はなかった。

 

 この数日間。

 生きることだけを考えていた。

 

 誰かを守ること。

 逃げること。

 判断すること。

 

 でも。

 今だけは。

 

 ただ一人の人間として。

 隣にいる相手を見ていた。

 

 距離が、少しずつ近づく。

 

 美玖の目が揺れる。

 

 俺も。

 動けなかった。

 

 あと少し。

 そう思った瞬間――。

 

 外から。

 

 遠くで何かが倒れる音がした。

 二人とも、わずかに身体を強張らせる。

 反射的に周囲を見る。

 

 でも、音は一度きりだった。

 

 また静寂が戻る。

 美玖が小さく息を吐いた。

 

「……まだ、慣れないね。」

 

「ああ。」

 

 俺も答える。

 そして。

 再び隣を見る。

 

 

 さっきまでとは少し違う。

 何かが変わった。

 そう感じた。

 

 でも。

 それが何なのか。

 今はまだ言葉にできなかった。

 

 ただ。

 この暗い世界の中で。

 俺たちは。

 

 互いの存在を確かめるように。

 静かに夜を過ごした。

 

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