学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
古い雑居ビルだった。
三階建て。
駅前から少し離れた場所に建つ、どこにでもありそうな小さなオフィスビル。
ガラス張りの入口の横に、会社名が並んだ古びた案内板が掛かっている。
税理士事務所。
設計事務所。
そんな文字が読み取れた。
窓ガラスは割れていない。
入口も閉まったままだ。
俺は建物全体を見上げた。
「……。」
ここを本当に使っていいのか。
その判断をする必要があった。
「どうする?」
隣の美玖が小さく聞く。
「中を確認する。」
短く答える。
祖父の店までは、まだ遠い。
普通に歩けば一時間かからないくらい。
でも、奴らを避けながら歩けば、その倍近く掛かるはずだ。
今から無理をして進めば、到着までに日が落ちる。
電気のない街で夜を迎えることは避けたかった。
「わかった。」
美玖も異論はないようだった。
俺たちは建物へ近付く。
歩幅を小さくする。
足音をできるだけ立てないように。
道路の向こうには数体の奴らが見える。
けれど距離は十分ある。
こちらへ気付く様子はなかった。
地上に出てから、まだ大きな戦闘はない。
それは幸運だった。
でも、だからこそ、油断はできない。
建物の中に奴らがいないとは限らない。
俺は槍を構えたまま、慎重にガラス扉へ手を掛ける。
鍵は、開いていた。
ゆっくり押し開ける。
扉が軋む音が、静かな街へ響いた。
一瞬、身体が強張る。
数秒、耳を澄ませる。
何も聞こえない。
奴らの呻き声も近づいてこない。
周囲から反応はない。
「……入る。」
中は薄暗かった。
照明は当然すべて消えている。
リュックから懐中電灯を取り出し、スイッチを押す。
白い光が静かなロビーを照らした。
集合ポスト。
会社名の案内板。
観葉植物。
その奥には二階へ続く階段。
エレベーターはない。
本当に、小さな事務所ビルだった。
「まず一階から確認する。」
一階の事務所のドアへ近付く。
耳を当てる。
物音はしない。
ゆっくりノブを回す。
鍵は掛かっていなかった。
慎重にドアを押し開ける。
部屋の中は、税理士事務所らしい造りだった。
机が並び、書類棚が壁際を埋めている。
コピー機。
応接用の椅子。
床には書類が少し散らばっている。
逃げる時に慌てたのかもしれない。
俺は懐中電灯で部屋の奥まで照らす。
机の下。
棚の裏。
給湯スペース。
トイレ。
一つずつ確認する。
誰もいない。
奴らもいない。
美玖と目が合う。
「一階は大丈夫。」
美玖も静かに頷いた。
俺たちは部屋を出て、階段へ戻る。
今度は二階。
一段ずつ慎重に上っていく。
踊り場で立ち止まり、耳を澄ませる。
静かだ。
静かすぎるくらいに。
その静けさが、逆に落ち着かない。
二階へ上がる。
扉には設計事務所のプレート。
俺は槍を構えたまま美玖を見る。
美玖もバールを握り、無言で頷く。
ゆっくりドアを開ける。
カチャ。
静かな音だけが響く。
部屋は一階より少し広かった。
中央には応接用らしいソファ。
ローテーブル。
奥には事務机が並んでいる。
俺は懐中電灯で部屋を照らしながら、中へ足を踏み入れた。
机の下。
応接スペース。
給湯室。
トイレ。
隅々まで確認する。
やはり誰もいない。
美玖がソファを見つめた。
「ここなら……休めそう。」
入口は一つ。
階段も目の前。
何か来ればすぐ分かる。
ソファもある。
床へ直接寝るよりはずっとましだ。
「悪くない。」
そう答えながらも、俺はまだ決めなかった。
「でも、三階も見ておこう。」
「全部確認してから?」
「ああ。」
上を確認しないまま休むのは落ち着かない。
もし誰かいたら。
もし奴らがいたら。
あとで気付く方が危険だ。
美玖もすぐ頷く。
「行こう。」
俺たちは再び部屋を出る。
夕陽が階段の窓から差し込み、踊り場へ長い影を落としていた。
その影を踏み越えながら、三階へ続く階段を、一段ずつ慎重に上っていく。
古い建物だからか、足を乗せるたびに床板が小さく軋んだ。
その音が妙に大きく聞こえて、自然と足取りが慎重になる。
踊り場で立ち止まり、耳を澄ます。
……何も聞こえない。
美玖も俺の隣で息を潜めている。
ゆっくりと三階へ上がり切り、目の前のドアに手を掛けた。
鍵は掛かっていない。
槍を構えたままドアを押し開く。
部屋は、事務所というより物置になっていた。
壁際には古いロッカー。
積み上げられたダンボール。
使われなくなった事務机。
書類を入れたままのスチール棚。
どれも薄く埃を被っている。
人がいた形跡はない。
俺は部屋の奥まで懐中電灯を向けながら、一周する。
物陰。
棚の裏。
窓際。
確認を終えて、美玖と顔を見合わせた。
「……誰もいないね。」
「ああ。」
ようやく肩の力が少し抜けた。
三階まで無人。
少なくとも、この建物には俺たち以外いないらしい。
「二階に戻ろう。」
夜を明かすなら、やっぱり二階が一番都合がいい。
俺たちは階段を下り、もう一度二階の事務所へ戻った。
部屋へ入り、ドアを静かに閉める。
入口の鍵を確認する。
普通のシリンダー錠だった。
内側から鍵を掛ける。
カチリ、と小さな音がして、少しだけ安心する。
「これで、すぐには入ってこられない。」
「うん。」
もちろん、奴らがドアを叩き続ければ、そのうち壊れるかもしれない。
でも、気付く時間は稼げる。
今一度、部屋を見回す。
応接スペースのソファ。
ローテーブル。
窓にはブラインドが掛かっている。
その隙間から外を覗いた。
道路脇には何台か車が止まったままになっている。
その中には、大きなトラックもあった。
二階からなら、もし本当に最後の手段になった時でも、飛び降りる高さは少し抑えられるかもしれない。
もちろん、そんな状況にならないことが一番だ。
でも、逃げ道がある。
それだけで安心材料になった。
ブラインドを完全に下ろす。
これだけで、外から室内の様子は殆ど見えない。
懐中電灯の光も、なるべく外へ漏らしたくない。
テーブルを少し動かし、光が窓へ向かない位置へ、懐中電灯を置いた。
「今日はここで休もう。」
そう言うと、美玖はソファへ腰を下ろした。
その表情を見て、俺もようやく腰を下ろす。
百貨店を脱出してから、初めて落ち着いて座った気がした。
身体中の力が抜けていく。
それだけ疲れていたらしい。
「……本当に、変わったね。」
美玖が窓の外を見ながら呟いた。
「何が?」
「街。」
少し間を置いて。
「昨日まで普通だったのに。」
学校。
街。
百貨店。
全部、ほんの少し前までは普通だった。
友達と話して。
授業を受けて。
それぞれに、帰る場所があった。
それが今は、生きるための場所を探している。
「……荷物、確認しようか。」
「そうだな。」
気持ちを切り替える。
感傷に浸っている時間はない。
リュックを開き、中身を一つずつ確認する。
ペットボトルの水。
乾パン。
栄養補助食品。
缶詰。
包帯。
消毒液。
懐中電灯。
予備の電池。
簡単な工具。
思っていたより多く残っている。
「食べよう。」
美玖が言う。
「倒れたら意味ないから。」
その言葉に、俺は少し笑った。
「そうだな。」
レトルト食品。
乾パン。
残っていた飲み物。
二人とも、しばらく無言でそれを口へ運んだ。
豪華とは程遠い。
飲み物で流し込む。
味なんてほとんど分からない。
それでも、不思議なことに。
落ち着いて食べ物を口にできる。
ただ、それだけで少しだけ人間らしい時間を取り戻したような気がした。
学校を出てから、ずっと気を張り続けてきた。
食べることすら「生きるための作業」だった。
でも今は違う。
ほんの少しだけ。
心にも余裕ができていた。
「……みんな、大丈夫かな。」
美玖が小さく言った。
誰のことか、聞く必要はなかった。
別れた仲間たち。
「大丈夫だ。」
俺は答える。
根拠なんてない。
でも、そう言いたかった。
「みんな、約束した。」
生きて再会する。
あの時の言葉。
簡単な約束だった。
でも、今の俺たちには、それが支えだった。
「明日には着けそう?」
「ここからなら一時間もかからない。」
「奴らを警戒しながらでも、午前中には着けるはずだ。」
店にたどり着ければ、必要な物を揃えられる。
そこに祖父がいるかは分からない。何が残っているかは分からない。
祖父自身がいるかも分からない。
でも。
行く理由はある。
装備。
道具。
情報。
そして。
「みんな、きっと集まる。」
美玖は少しだけ目を伏せた。
「……うん。」
その返事には。
願いに近いものが混じっていた。
その時だった。
――ドォンッ。
腹の底へ響くような低い音が、遠くから聞こえた。
俺も美玖も同時に顔を上げる。
数秒後。
もう一発。
――ドォンッ。
乾いた拳銃の音じゃない。
もっと重く、空気を震わせるような発砲音だった。
俺は思わず窓の方を見る。
もちろん、ブラインド越しでは何も見えない。
「……銃?」
美玖が小さく呟く。
「多分。」
それ以上のことは分からない。
どこで。
誰が。
何に向けて撃っているのか。
でも、一つだけ確かなことがある。
まだ、この街には戦っている誰かがいる。
その音は、静まり返った街へ吸い込まれるように消えていった。
俺は無意識に拳を握る。
祖父の店まで行けば、何か分かるかもしれない。
そんな根拠のない期待だけが、胸の中へ小さく残った。
銃声が聞こえなくなってからも、しばらく俺たちは黙ったままだった。
時計を見る。
午後七時前。
窓の外はもう薄暗い。
ブラインドの隙間から見える空も、群青色へ変わり始めていた。
これから先は、懐中電灯がなければ何も見えない世界になる。
百貨店で感じた不安が、また胸の奥に戻ってくる。
「今日はもう動かない。」
俺はそう言って荷物をまとめ始めた。
美玖も小さく頷く。
「うん。」
ソファを壁際へ寄せる。
テーブルも少し動かし、入口が見える位置へ。
万が一誰か――いや、何かが入ってきても、すぐ動けるようにしておきたかった。
準備を終えると、部屋は急に静かになった。
やることがなくなったのだ。
俺は腕時計を見た。
まだ眠るには少し早い。
「交代で休もう。」
そう提案すると、美玖がこちらを見る。
「見張りってほどじゃないけど。」
「……そうだね。」
この建物に奴らがいる気配はない。
入口にも鍵を掛けた。
それでも、完全に気を抜く気にはなれなかった。
「俺が先に起きてる。」
「じゃあ、少し休ませてもらうね。」
美玖はそう言うとソファへ腰掛ける。
そのまま横になるかと思ったが、一度こちらを見て、小さく笑った。
「眠れたら、だけど。」
「俺もたぶん同じだ。」
思わず苦笑する。
今日一日で起きたことを考えれば、すぐ眠れる方がおかしい。
美玖は小さく肩をすくめると、そのままソファへ身体を預けた。
俺は窓際へ移動し、ブラインドをほんの少しだけ指で開く。
街は暗かった。
本当に暗い。
街灯は一本も点いていない。
信号も消えたまま。
建物の窓にも灯りはない。
昼間とはまるで別の街だった。
遠くで奴らの呻き声が聞こえる。
それ以外には、風が吹き抜ける音しかない。
時折、その静けさを破るように。
――ドォン。
また遠くで重い銃声が響いた。
一発だけ。
その音も、すぐ夜へ吸い込まれていく。
「……。」
誰なんだろう。
その疑問は浮かんだ。
でも、それ以上考えても答えは出ない。
そのまましばらく外を眺めてから、俺はブラインドを閉じ直した。
その時だった。
「……悠斗。」
背後から声がした。
振り返る。
美玖はソファに座り直していた。
「どうした?」
「……寝れなかった。」
苦笑しながら言う。
「やっぱり。」
俺も笑ってしまう。
「眠れそう?」
「全然。」
美玖は立ち上がると、ゆっくり俺の隣まで歩いてきた。
「隣、いい?」
「もちろん。」
俺は、壁にもたれかかるようにして座る。
美玖もその場へ腰を下ろした。
少し距離を開けて。
壁を背にして並んで座る。
しばらくは何も話さなかった。
静かな時間だけが流れていく。
「本当に寝られないのか?」
俺が小声で聞く。
美玖は少しだけ視線を逸らした。
「……うん。」
短い返事。
でも。
それだけではない気がした。
静かな部屋。
外から聞こえる音はほとんどない。
街は暗くなり始めている。
電気のない世界。
明かりの消えた建物。
遠くにいる奴らの気配。
本来なら。
こんな状況で落ち着けるはずがない。
でも。
隣に誰かがいる。
それだけで、不思議と少し安心できた。
「……変な感じだね。」
美玖が呟いた。
「何が?」
「こうして二人でいること。」
「高校に入ってからは、ほとんど話したことなかったよね。」
「……そうだな。」
思い返してみる。
小学生の頃は、家も近くて、一緒に遊ぶこともあった。
学年が上がるにつれて、一緒に遊ぶことは減ったが、それでも仲は良かったと思う。
中学に入ってから、二人の道は分かれていった。
俺は事故で両親を、美玖は病気で母親を亡くし、美玖は不良グループとつるむようになって。
俺はその姿を遠くから見るだけになっていた。
話しかけることもなく。
話しかけられることもなく。
高校でも、ただ同じ学校へ通う幼馴染になっていた。
「こんなふうに話すなんて。」
「不思議な感じ。」
美玖が少し笑う。
学校で見たものとは違った。
無理して作ったものじゃない。
少しだけ素の表情。
「でも。」
美玖が続ける。
「今は、一番近くにいる。」
昨日と今日だけで。
俺たちは何度も危険な場所を通った。
学校を脱出した。
街を歩いた。
百貨店で奴らに囲まれた。
そして、仲間と別れた。
その中で。
美玖は何度も俺の隣にいた。
「怖くないのか?」
自然と口から出た。
美玖は少し考える。
「怖いよ。」
即答だった。
「今でも。」
窓の外を見る。
暗くなった街。
「明日どうなるか分からないし。」
「……。」
「また誰かがいなくなるかもしれない。」
その言葉が胸に刺さる。
俺も同じことを考えていた。
でも。
美玖は続ける。
「でも。」
少しだけ間を置いて。
「一人じゃないから。」
そう言った。
俺は何も返せなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙は。
以前なら気まずいものだったかもしれない。
でも、今は違った。
何も話さなくても、隣にいることが分かる。
ふと、美玖の肩が俺の肩へ触れた。
避けようとはしない。
俺も動かなかった。
子供の頃には、何度も隣にいたはずなのに。
高校へ入ってからは、一度もなかった距離。
それが今は、不思議なくらい自然だった。
「……。」
「……。」
美玖も何も言わない。
ただ、肩が触れたまま。
静かに前を見ていた。
俺も視線を落とす。
聞こえるのは。
二人の呼吸だけ。
近い。
そう思った。
さっきまで、ただ隣に座っていただけだった。
でも、今は。
相手の存在を強く感じる。
美玖の体温。
小さな息遣い。
わずかな動き。
危険な世界の中で。
唯一、普通の人間らしい感覚だった。
「悠斗。」
美玖が小さく呼ぶ。
「ん?」
返事をする。
美玖は何か言おうとして、少し迷った。
「……ありがとう。」
「何が?」
「色々。」
短い言葉。
「学校から出た時も。」
「百貨店でも。」
「今も。」
俺は首を振る。
「俺だけじゃない。」
「美玖がいたから、ここまで来られた。」
それは本心だった。
もし、一人だったら。
俺はもっと早く心が折れていたかもしれない。
美玖は少し俯いた。
そして、小さく笑った。
「……そっか。」
また沈黙。
でも、今度は。
さっきより温かい沈黙だった。
外は完全に暗くなっていた。
窓の向こう。
街灯は点かない。
建物の明かりもない。
本当に、世界から光が消えたようだった。
それでも。
この部屋には。
二人分の呼吸がある。
美玖が少しだけ顔を上げる。
視線が合う。
何か言葉にする必要はなかった。
この数日間。
生きることだけを考えていた。
誰かを守ること。
逃げること。
判断すること。
でも。
今だけは。
ただ一人の人間として。
隣にいる相手を見ていた。
距離が、少しずつ近づく。
美玖の目が揺れる。
俺も。
動けなかった。
あと少し。
そう思った瞬間――。
外から。
遠くで何かが倒れる音がした。
二人とも、わずかに身体を強張らせる。
反射的に周囲を見る。
でも、音は一度きりだった。
また静寂が戻る。
美玖が小さく息を吐いた。
「……まだ、慣れないね。」
「ああ。」
俺も答える。
そして。
再び隣を見る。
さっきまでとは少し違う。
何かが変わった。
そう感じた。
でも。
それが何なのか。
今はまだ言葉にできなかった。
ただ。
この暗い世界の中で。
俺たちは。
互いの存在を確かめるように。
静かに夜を過ごした。