学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD ―Re:Build― 作:UG-san
最初に感じたのは、硬い感触だった。
背中に当たるソファの感触。
慣れない場所。
そして、静かすぎる空気。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
目を開ける。
——薄暗い。
窓にかかったブラインド越しに光を感じる。
周りを見回す。
見知らぬ天井。
白い壁。
事務机。
書類棚。
使われなくなったパソコン。
昨日までなら、誰かが働いていたはずの小さな事務所。
昨日の記憶が少しずつ戻ってくる。
学校
百貨店。
停電。
地下街。
そして、この事務所ビル。
ゆっくり身体を起こす。
わずかに腰に走る痛み。
窮屈な姿勢のまま眠っていたらしい。
でも。
学校を出てから、いや、世界がこうなってから初めて。
落ち着いて横になることができた。
それだけで、身体は少し軽くなっている気がした。
ふと隣を見る。
美玖も眠っていた。
向かい合わせに並んだソファの上で、静かに体を丸めている。
昨夜まで張り詰めていた表情は、今は消えている。
目元には、僅かな疲れが残っていた。
長いまつ毛が頬へ影を落としている。
起きているときは、いつもどこか強気な表情をしている。
何かあれば言い返すし、怖くても簡単には弱音を吐かない。
でも、眠っている時は違った。
まるで昔に戻ったような顔をしている。
小さい頃、一緒に遊んでいた頃の美玖を思い出した。
「……」
しばらく、その顔を見ていた。
昨夜のことが頭をよぎった。
何かを思い出そうとしたわけじゃない。
——ただ、どうしても意識してしまう。
俺たちが置かれている状況は変わっていない。
奴らが街を徘徊している。
仲間たちとも離れたままだ。
ソファの背もたれに掛けられた上着のポケットからスマホを取り出す。
電源ボタンを押す。
——反応なし。画面は真っ黒なまま。
昨日から何度も確認した。
それでも。
もしかしたら戻っているかもしれない。
そんな僅かな期待があった。
壁にかかった時計を見る。
午前六時を少し過ぎたところだった。
電池式と見られる時計は変わらず時を刻んでいる。
スマホの充電が切れたわけではない。
原因は別にある。
立ち上がり、ブラインドを指で開く。
街は朝を迎えている。
なのに。
明かりは戻っていなかった。
信号も消えたままだ。
百貨店で起きた停電。
街全体の異常。
使えなくなった電子機器。
理由は分からない。
ただ。
今まで当たり前だったものが、突然失われた。
その事実だけは変わらなかった。
「……起きてたんだ。」
後ろから声がして、振り返る。
美玖がソファから身体を起こしていた。
少し眠そうな顔。
「ついさっき。」
短く返事をする。
一瞬、お互いに何を言えばいいのか分からない空気が流れた。
何も言葉にはしていない。
でも、互いに意識していることだけは分かった。
「……何か、食べよっか。」
美玖が視線を逸らしながら言う。
「ああ。」
助かった。
今は、その話題のほうがありがたかった。
昨日の夜に残しておいたレトルトと乾パン、ペットボトルの水。
「……朝ごはんって感じじゃないね。」
美玖が少しだけ笑う。
「今の状況で贅沢は言えないな。」
「そうだね。」
二人で並んでソファへ座る。
机も椅子もある。
でも、そこまで移動する気にはならなかった。
昨日まで普通だった場所。
会社員が仕事をしていた場所。
そんな場所で。
俺たちは生きるための食事をしている。
袋を開ける音。
乾パンを噛む音。
それだけが部屋に響く。
温かい料理ではない。
火もない。
電気もない。
それでも、落ち着いて食べ物を口にできるだけで。
少しだけ、人間らしい時間に戻れた気がした。
「……行けそう?」
美玖が聞く。
「ああ。」
俺は頷く。
「できるだけ早くに店へ向かいたい。」
「誰か、先に着いているかもしれない。」
祖父の店。
そこは、みんなが向かう場所。
隼人たちも。
海人たちも。
きっと、そこを目指している。
そう信じるしかなかった。
俺たちは荷物をまとめる。
学校から持ち出したもの。
百貨店で手に入れたもの。
必要なものが揃っていることを確認する。
最後に部屋を見回した。
ただの事務所。
それだけだった。
「行こう。」
「うん。」
槍を握り直し、俺は入口の鍵を開けた。
カチリ。
小さな音。
扉を開ける。
朝の冷たい空気が廊下へ流れていた。
俺たちは二階の事務所を出る。
人の気配も、奴らの気配もない。
階段を下りる。
外へ出る前に、周囲を確認する。
静かな街。
遠くに見える奴らの姿。
そして。
祖父の店へ続く道。
「行こう。」
二人で歩き出した。
帰る場所へ向かうために。
事務所ビルを出ると、朝の冷たい空気が身体を包んだ。
昨日の夕方とは違う。
明るい。
たったそれだけで、少しだけ安心できる。
俺と美玖は、建物の影を選びながら歩く。
祖父の店までは約三キロ。
その大半が商店街を通る道だった。
奴らに出くわさなければ、それほどの距離ではない。
そう考えていた。
けれど。
商店街の入口へ差し掛かったところで、俺は足を止めた。
「……。」
——道路脇、何かが転がっている。
奴らだった。
一体。
頭部が大きく損傷している。
その少し先に、もう一体。
こちらも倒れたまま動かない。
「……誰かがやった。」
俺はしゃがみ込み、周囲を見回す。
地面に、小さな筒が落ちていた。
拾い上げる。
樹脂と金属で出来た、見慣れた形状の筒。
空のショットシェル。
「散弾銃……。」
昨日の夜、聞こえた銃声を思い出す。
あの、腹の底へ響くような音。
拳銃とは違う。
もっと重い音だった。
俺はショットシェルを手の中で転がした。
「昨日の銃声と同じかも。」
美玖が横から覗き込む。
「誰かが戦ったってこと?」
「ああ。」
誰かがここを通った。
それだけは間違いなかった。
俺は立ち上がり、周囲を見る。
商店街の入口。
閉じたシャッター。
誰もいない歩道。
そして。
倒れた奴ら。
昔から知っている場所だった。
休日になれば、祖父の店へ向かう途中で何度も通った。
高校に入ってからも、週末に店へ顔を出す時は、この道を歩いた。
昔と変わらない。
そう思った。
けれど。
シャッターは閉まっている。
店の前には誰もいない。
道路には動かなくなった車が残っている。
見慣れた商店街は。
別の場所のようだった。
「……先に進もう。」
今は、それを考えている時間はない。
美玖も頷く。
二人で商店街へ入る。
昨日の夕方に通った駅周辺とは違い、人の姿はない。
でも、その静けさの中に、昨日とは違うものがあった。
戦った跡。
それが、少しずつ増えていく。
道路脇。
車の影に、人影が倒れていた。
一体。
二体。
頭部には大きな損傷。
身体には複数の傷。
その近くにまた、見慣れた赤茶色の小さな筒。
「誰かが戦ったのかな。」
「……たぶん。」
俺は答える。
奴らだけじゃない。
道路脇には黒ずんだ血痕が残っていた。
人間のもの。
でも、襲われた人間の姿は、そこにはない。
近くの壁には、いくつかの弾痕が残っていた。
その下にも、乾いた血の跡。
誰かがここで襲われた。
そして、別の誰かが助けようとした。
そんな光景が、頭の中に浮かぶ。
でも、死体はない。
残っているのは。
奴らになった者たちだけ。
さらに商店街を進む。
シャッターの前。
歩道の端。
交差点の脇。
そこかしこに、奴らの死体が転がっている。
一体。
また一体。
数体がまとめて倒れている場所もあった。
どれも動かない。
頭部に大きな損傷があるものが多かった。
俺はそのたびに足を止める。
そして、周囲を見る。
しばらくして、また違う痕跡が見えた。
シャッター。
道路。
そこに残る、小さな弾痕。
散弾ではない。
もっと細かく、一直線に残った跡。
少し離れたところに、先端がくびれた、鈍く光る金属製の薬莢を見つける。
ショットシェルとは違う形。
重さ。
大きさ。
確かめるように掌へ乗せる。
祖父の店。
そこで扱われていたものを、俺は知っている。
散弾銃だけじゃない。
狩猟用のライフル銃も扱っている。
「悠斗?」
美玖が呼ぶ。
「大丈夫。」
俺は立ち上がる。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていた。
店の近くで。
これだけの戦闘の跡がある。
偶然とは思えない。
誰かが祖父の店を目指したのか。
それとも、店から逃げてきたのか。
答えはまだ分からない。
でも、確実に言えることがある。
この先に、何かが残っている。
俺たちは商店街を進む。
閉じた店。
静かな道。
残された戦いの跡。
そして。
少しずつ近付いてくる。
祖父の店。
歩くたびに、少しずつ景色が変わっていく。
駅に近い場所ほど、人の往来を想定した大きな店舗が多かった。
だが、奥へ進むにつれて、小さな店が増えていく。
昔ながらの商店。
個人経営の店。
俺は何度も周囲を確認しながら歩いた。
奴らの姿。
人の気配。
動くもの。
そのいずれもここにはない。
静かだった。
その静けさが。
逆に不気味だった。
この時間なら店を開ける準備をしている人がいたはずだ。
シャッターを上げる音。
店先を掃除する音。
通学する学生の声。
そんな日常があった。
でも。
今は何もない。
「……。」
美玖も黙って歩いている。
二人の間には、少しだけ気まずさが残っている。
それでも、歩く速度は自然と揃っていた。
商店街の終わりが見えてくる。
アーケードの向こう。
朝の光が差し込んでいる。
俺は少しだけ息を吐いた。
ここまで来た。
昨日、学校を出たときには。
こうして美玖と二人で、祖父の店まで向かうことになるとは思っていなかった。
でも。
必ず辿り着く。
そう決めていた。
商店街を抜ける。
その先の道路沿い。
少し離れた場所に。
見覚えのある建物があった。
「……あそこ。」
俺が呟く。
美玖が隣から見る。
「お祖父さんの店?」
「ああ。」
昔から、何度も通った場所。
子供の頃。
祖父の仕事を見るために通った場所。
両親の事故があってからは。
数年、祖父と一緒に住んだ場所。
高校へ入ってからも。
休日には時々顔を出していた。
店の奥から聞こえる工具の音。
金属を磨く匂い。
祖父が作業をしながら振り返る姿。
全部覚えている。
だからこそ、近付くにつれて違和感が大きくなった。
店の前に、何かが散らばっている。
段ボール。
工具。
部品。
棚から出されたような物。
そして、割れたガラス。
「……荒らされてる。」
美玖が小さく言う。
俺は返事をしなかった。
シャッターは完全には閉まっていない。
中程まで、無理やり開けられたような跡がある。
鍵が壊されているようにも見える。
周囲を見るが、奴らの姿はない。
でも、ここにも。
戦った痕跡が残っていた。
店の前の道路。
空の薬莢。
弾痕。
そして、血の跡。
誰かがここで戦った。
誰かがこの場所を使った。
俺は店を見る。
店の奥は暗い。
祖父は、ここにいるのか。
それとも、別の場所へ移ったのか。
「入るぞ。」
美玖が頷く。
「気をつけて。」
その声には、少しだけ不安が混じっていた。
槍を構え、ゆっくり近付く。
入口の前。
手を伸ばす。
その瞬間、昔の記憶が蘇る。
『悠斗、勝手に触るなよ。危ないからな』
祖父の声。
子供の頃、何度も聞いた言葉。
ここから先は、俺が知っている祖父の店とは違う。
今の世界で、誰かが生き残るために使った場所だ。
俺は手を伸ばした。
そして。
祖父の店の中へ続く入口を、ゆっくりと開いた。