委員長であるユキの朝は早い。
朝五時に起床し、冷たい水で顔を洗う。そのまま台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。
(父さんは……今日、早いんだっけ)
ユキよりも早く家を出たらしく、父親の姿はない。
静まり返った家には、自分以外の気配がなかった。
小学生の頃に起きた
誰の声もしない朝は、否応なく二人の記憶を呼び起こす。
(……朝ご飯、作ろっと)
考えることから逃げるように、ユキは卵とベーコンを取り出した。
慣れた手つきでフライパンを操れば、数分も経たないうちに香ばしい匂いが台所へ広がる。
目玉焼きとベーコンを皿に盛り、食卓へ運ぶ。
向かいの席にも、隣の席にも誰もいない。
味はいつもと変わらないはずなのに、一人で食べる朝食はどこか味気なかった。
食器を片づけ、制服に着替える。鞄を持ったユキは、玄関を出る前に小さく声をかけた。
「行ってきます、母さん、ハル」
もちろん、返事はなかった。
扉を開けると、春の朝日が目に飛び込んでくる。冬ならばまだ暗い時間だが、空はすでに明るく、雲一つない。
(いい天気……)
ユキの心とは正反対の、清々しい晴天だった。
□
学校に到着したユキは、窓を開け、提出物を職員室へ運び、担任から頼まれていた書類を配った。
一通り委員長の仕事を終え、自分の席で本を読んでいると、続々とクラスメイトが登校してくる。
「おい、聞いたか!?今日、転入生が来るんだってよ!」
教室へ駆け込んできた生徒の声に、周囲が一斉に反応した。
「転入生って、男子?女子?」
「女子!しかも二人!」
教室の騒がしさが、一段と大きくなる。
(たぶん、エマとヒロのことだろうけど……転入生じゃないよ)
二人も戸籍上は、入学式の日からこの学校の生徒である。ただ一か月近く登校していなかったため、クラスメイトの大半は存在すら知らなかったらしい。
(まあ……そんなか)
高校へ入学して一か月。教室には、すでにいくつものグループが出来上がっている。
普段この場にいない人間など、わざわざ気に留めない。それも仕方のないことなのかもしれない。
やがて、担任が教室へ入ってきた。
「ほら、お前ら。席につけ」
生徒たちは渋々自分の席へ戻る。それでも期待を隠せず、誰もが扉を気にしていた。
「噂を聞いてるやつもいるみたいだが、入学式から休んでいた生徒が今日から登校する。初対面のやつがほとんどだろうから、簡単に自己紹介してもらうぞ」
担任が扉へ顔を向ける。
「入っていいぞ」
古い引き戸が、音を立てて開かれた。
「失礼します」
先に入ってきたのは、長い黒髪と赤い瞳を持つ少女だった。
二階堂ヒロ。
その後ろには、白い髪の毛先が桜色に染まった少女がいる。
桜羽エマ。
ヒロが堂々と歩いているのに対し、エマの身体は目に見えて強張っていた。一歩ごとに、ガチガチという音が聞こえてきそうだった。
ヒロは教壇の中央へ立つと、黒板に自分の名前を書く。
「私の名前は二階堂ヒロ。以後、よろしく」
簡潔な挨拶だった。
しかし、真っ直ぐに伸びた背筋や凛とした声、肩から流れ落ちる黒髪も相まって、その姿はひどく格好よかった。
教室中の男女が、揃ってヒロに見蕩れている。
ヒロは周囲の反応を気にせず、自分の名前を消した。続けて黒板へ別の名前を書く。
桜羽エマ。
(ああ……そういうことか)
ヒロが何をしようとしているのか、ユキにはすぐに分かった。
「ほら、エマ」
「う、うん。ヒロちゃん」
促されたエマは、両手を胸元で落ち着きなく動かしながら前へ出た。
一斉に視線を向けられ、その顔がみるみる赤くなる。
「しゃ、しゃくらばエマです!今日から、よろしくお願いします!」
(噛んだ……)
ユキとヒロは、ほとんど同時に同じことを思った。
一瞬、教室が静まり返る。
失敗したと思ったのか、エマの瞳に涙が滲み始めた。
その直後だった。
「「「「「かわいいいいいいいい!」」」」」
教室を揺らすほどの歓声が上がる。
「えっ!?な、なに!?」
エマは驚き、助けを求めるようにヒロを見た。ヒロも予想外だったのか、わずかに目を見開いている。
(今度は声に出すんだ……)
「お、お前ら落ち着け!本人が困ってるだろ!」
担任が声を張り上げるものの、騒ぎはしばらく収まらなかった。
やがて、一人の生徒が教室を見渡す。
「ちょっと待て。二人の席って、まさか……」
ユキの席は、一番左の最後尾。
その右隣と、すぐ後ろの席だけが空いている。
「二人の席は、あそこの二つだ」
担任がユキの方を指さした。
(お願いだから、静かに来て……)
昨日のうちに席の位置は伝えてある。
ここで親しい反応をされれば、次の休み時間に何を聞かれるか分からない。
エマとヒロが、こちらを見る。
「あっ、ユキくん!」
エマが心底嬉しそうな声を上げた。
(分かってた。なんとなく、こうなる気がしてた……)
「「「「「はあああああ!?」」」」」
本日二度目の絶叫が、校舎を揺らした。
今度のエマは周囲を気にせず、弾む足取りでユキのもとへやってくる。
「隣の席なんて、すごいね!」
満面の笑みを浮かべ、ユキの隣へ座った。
友達と隣同士なのは、ユキも嬉しい。
ただし、周囲から向けられる鋭い視線さえなければ、の話だった。
続いてヒロが悠然と歩いてくる。
そのまま後ろの席へ向かうかと思いきや、ユキのそばで足を止めた。
口元に、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「これからよろしく頼む、ユキ」
(絶対、どうなるか分かってて言ったよね!?)
教室から声は上がらなかった。
代わりに、クラスメイトたちの目尻が一斉に吊り上がる。
「二人ともユキと知り合いだったのか。それなら、学校案内もユキに任せる。委員長なんだし、頼んだぞ」
「……はい」
火に油を注いだ二人には、ぜひとも反省してほしかった。
□
最初の休み時間は、想像していたほど大変ではなかった。
その代わり、エマとヒロが質問攻めにされていた。
大勢に囲まれたエマは、明らかに戸惑っている。助け舟を出したかったが、今声をかければ余計に騒ぎが大きくなるだろう。
ヒロは慣れているらしく、危なっかしいエマを庇いながら、質問を手際よく捌いていた。
本当に大変だったのは、その次の休み時間だった。
エマがヒロをトイレへ誘い、二人が教室を出る。
扉が閉まった瞬間、教室中の視線がユキへ向いた。
あっという間に机の周囲を囲まれ、逃げ道を失う。
「……それで、遺言はあるか?」
「どうしてそうなるの!?まずは話を聞いて!」
「あの二人と、どういう関係だ!」
周囲の生徒たちが一斉に頷く。
「昨日たまたま会って、友達になっただけだよ。本当にそれだけ!」
「昨日会ったばかりにしては距離が近すぎるだろ!」
「友達なら普通でしょ!?」
「連絡先は交換したのか?」
「交換して……三人のグループも作ったよ」
「確信犯じゃねえか!」
「だから、何の確信なの!?」
必死に訴えても、誰も聞く耳を持ってくれない。
すると、一人の男子が真剣な表情を浮かべた。
「……いや、待て。これはむしろ、悪い話じゃないぞ」
「どういうこと?」
「ユキはそこで待ってろ。みんな、こっちへ来い」
ユキだけを残し、クラスメイトたちは教室の隅で円陣を組んだ。
声を潜めているため、会話の全容は聞き取れない。
「もし……ユキ以外の男が……」
「二人と付き合うようになったら……」
「………うっ、これが脳破壊……」
端々の言葉をつなげても、意味が分からなかった。
そこへ、エマとヒロが戻ってくる。
「ユキくん、聞いて!さっきヒロちゃんがね!」
「エマ、それは言わなくていい」
「廊下で会った人に一目惚れされて、いきなり告白されたんだよ!さすがヒロちゃんだよね!」
自分のことでもないのに、エマは心から誇らしそうだった。
ヒロは気まずそうに顔を背けている。耳まで赤くなっているあたり、相当恥ずかしいらしい。
二人の対照的な様子が微笑ましく、ユキも自然と笑みをこぼした。
それを見たクラスメイトたちは、なぜか納得したように頷き合う。
そして全員が、ユキへ向かって親指を立てた。
(結局、何を話してたんだろう……)
それ以降、二人との関係を問い詰められることはなかった。
□
昼休みになると、ユキは二人を連れて校内を回った。
「ここが実験室で、その隣が準備室。向こうに見えるのがパソコン室だよ」
「広いね。僕、一人だったら迷っちゃいそう」
「迷ったら僕かヒロに連絡してね。迎えに行くから」
「なぜ私まで含まれているんだ?」
「ヒロなら今日中に、校内の配置を全部覚えそうだから」
「……否定はできないな」
そんな会話をしながら廊下を歩いていると、近くの教室から上級生が顔を出した。
「ユキじゃん!また
「また今度ですよ。今は二人を案内してるので」
先輩はエマとヒロに気づき、教室から飛び出してきた。
「あ、この子たちが噂の二人か!」
「あ、あの……桜羽エマです。よろしくお願いします」
「二階堂ヒロです。よろしくお願いいたします」
(ヒロの敬語、なんだか新鮮)
先輩は二人を見比べたあと、ユキの肩を抱き寄せた。
「おいおい、両手に花じゃないか。一体どうやったんだ?」
「何の話ですか?二人は友達ですよ」
「……は?」
「え?」
先輩はユキから離れ、頭を抱えた。
先輩は片手を振り、逃げるように教室へ戻っていった。
(本当に、どうしたんだろう)
ユキには最後まで分からなかった。
□
校内を一通り回った三人は、最後に屋上へ向かった。
扉を開けると、春の風が吹き込み、ユキの前髪を揺らす。
「それで、ここが屋上。昨日も来てるから、説明する必要はないけどね」
「昨日はゆっくり見る余裕がなかったからな」
「うわあ……やっぱり、すごく綺麗!」
エマは屋上の中央まで駆けていき、楽しそうに街並みを眺めている。
隣に立つヒロを見ると、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「楽しそうだな、エマは」
風になびく黒髪が陽光を受けて艶めく。
普段の凛々しい姿とは違う柔らかな表情に、ユキは素直に綺麗だと思った。
「僕たちも、お昼にしよっか」
三人でベンチへ腰を下ろす。
気づけば、ユキが真ん中に座っていた。
(……狭い)
少し動けば、エマやヒロの肩に触れてしまう。
向かいのベンチへ移ろうと立ち上がりかけたとき、制服の袖を引かれた。
「どこか……行っちゃうの?」
袖をつかんでいるエマが、不安そうな瞳でユキを見上げていた。
「ごめん。狭いから、向かいに座ろうと思っただけで……」
「僕は……ユキくんの隣で食べたいな」
今にも泣き出しそうなエマを前に、罪悪感が押し寄せる。
「ご、ごめん!ここで食べよう!」
ユキが慌てて座り直すと、エマはたちまち表情を明るくした。
□
ヒロは、二人のやり取りを黙って観察していた。
(私には分かる)
ユキの袖をつかみ、隣にいてほしいと訴えたエマ。
それだけではない。ユキに話しかけるときの声も、向ける笑顔も、昨日までとは明らかに違う。
長年培われたエマへの勘が、一つの答えを示していた。
(エマは、ユキのことを好いている!)
ユキの容姿は、亡くなったユキと瓜二つ。
それがきっかけなのかもしれない。
しかし、エマが彼に向ける笑顔は、失った誰かを重ねているだけのものには見えなかった。
(エマに好きな人ができるとは……)
ヒロにはエマの魅力を誰よりも理解しているのは、自分という自負がある。
柔らかな髪。小柄な身体。くりくりとした桜色の瞳。小動物を思わせる愛らしさ。
だというのに、ユキの態度からは照れも恋愛感情も感じられない。
(これっぽっちも、エマを女性として見ていない……!)
ユキにとってエマは、純粋に友人なのだ。
(これほど可愛らしい少女を前にして、本当に何も感じないのか!?)
ヒロは膝の上で拳を握った。
(エマの親友として、この恋を成就させる責任が私にはある!)
「ヒロ、どうかした?」
「なっ……! 、いや、何でもない!」
突然声をかけられ、心臓が大きく跳ねる。
考えを見抜かれたのかと思ったが、ユキは不思議そうに首を傾げているだけだった。
「あっ、そうだ。さっき先輩が言っていた
エマが、期待に満ちた目でユキを見つめる。
「ああ……別に、そんなにすごいことじゃないよ」
「見てみたい!ヒロちゃんも見たいよね?」
「あ、ああ。せっかくだから見てみたいな」
ユキは仕方がなさそうに笑い、立ち上がった。
手には、一枚のコインが握られている。
「これは何の変哲もない、普通のコイン。触ってみる?」
エマが受け取り、表と裏を確かめる。
「本当に普通のコインだね」
「そのとおり」
コインを受け取ったユキは、指から指へ流れるように転がした。
落ちそうになるたびに別の指が受け止め、再び親指の位置へ戻ってくる。
「すごい……」
エマが見入っている。
(コインロールか。しかし、本番はここからだろう)
ユキが親指でコインを弾く。
高く舞い上がったコインが陽光を反射し、落下したところを右手で受け止めた。
左手は身体の後ろに隠されている。
「右手と左手。コインが入っているのは、どっちでしょう?」
「ええと……右手、かな」
「本当に?右手でいいの?」
「違うのかな……ヒロちゃんはどう思う?」
ヒロが答える前に、ユキが続ける。
「当てた方のお願いを、僕が一つ聞くっていうのはどう?」
(何だと!?)
ヒロの心が大きく揺れた。
エマに正解させれば、ユキとの仲を進展させるお願いをさせられる。
ただし、そのためにはコインの位置を見抜かなければならない。
ユキは確かに右手で受け止めた。
しかし、あまりにも分かりやすい。何らかの方法で、左手へ移した可能性が高い。
「私は……左手だ」
「それじゃあ、僕は右手にするね」
エマが右手を選ぶ。
ユキは左手を前へ出し、小指からゆっくりと開いていく。
そこには何もなかった。
(よし!)
これでエマの正解だ。
ところがユキは、続いて右手も開いた。
そこにもコインはない。
「……は?」
「コイン、消えちゃったの?」
「ヒロ、右のポケットを見てみて」
言われるままポケットへ手を入れると、指先に硬いものが触れた。
取り出して手を開く。
そこには、先ほどのコインが載っていた。
「なっ……どうして私のポケットに入っているんだ!?」
「すごい!いつ入れたの、ユキくん!?」
「それを言ったら、マジックじゃなくなっちゃうよ」
ユキは、悪戯を成功させた子供のように笑った。
「二人とも不正解。今度は僕のお願いを聞いてもらおうかな」
「約束は約束だ。私にできることであれば、何でも言ってくれ」
「僕も聞くよ。何をすればいいの?」
ユキは二人の間へ座り直す。
少しだけ照れくさそうに視線を彷徨わせたあと、二人を見た。
「今週の日曜日、三人で遊びに行かない?」
エマの表情が、ぱっと明るくなる。
「うん!絶対に行く!」
「まだ行き先も決まっていないぞ、エマ」
そう言いながらも、ヒロの口元には笑みが浮かんでいた。
学校の外で三人が過ごす一日。
それは、エマとユキの仲を進展させる絶好の機会に違いない。
(任せろ、エマ。君の恋は、私が必ず成就させてみせる)
そんな決意を胸に秘めるヒロの隣で、ユキは二人が応じてくれたことに、ただ安堵していた。
もちろん、ヒロが何を企んでいるのかなど、知る由もなかった。