世界にあなたはもう一人   作:ザワザワする人

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逃げてはいけない

 

『ヒロちゃん、明日はどんな服を着ていけばいいかな……』

 

エマからそんなメッセージが届いたのは、三人で出かける前日の夜だった。

 

今週末、私たちは初めて学校の外で遊ぶことになっている。

 

本当なら、エマとユキの二人だけで行かせたかった。しかし、エマからどうしても三人がいいと頼まれてしまい、断ることができなかった。

 

(だが、これはチャンスだ)

 

私が同行していれば、二人の仲を進展させるために動ける。

 

むしろ、何もせず二人だけで行かせるより、確実な成果を期待できるかもしれない。

 

(今回で一気に、二人の距離を縮めてみせる!)

 

この作戦において、最も重要なのはエマだ。

 

もともと可愛らしい容姿をしているが、ユキは今のところ、エマを友人としてしか見ていない。

 

ならば、普段と違う姿を見せることで意識させればいい。

 

休日に遊びに出かけるうえで、服装は重要だ。

 

『私に考えがある。明日の朝、私の家へ来てほしい』

 

『ヒロちゃんの家に?わ、分かった!』

 

すぐに返事が届く。

 

「ふふふ……明日が楽しみだ」

 

自分でも驚くほどの笑い声が、静かな部屋へ漏れていた。

 

 

 

 

 

 

「ひ、ヒロちゃん……この服、ちょっと恥ずかしいっていうか……僕には可愛すぎないかな……」

 

「くっ……!」

 

「ヒロちゃん?大丈夫?」

 

(何だ、この生き物は……可愛すぎるにも程がある!)

 

エマに着せたのは、白を基調としたワンピースだった。

 

柔らかな生地の裾には、淡い桜の刺繍が施されている。白い髪と桜色の毛先にもよく合い、エマの柔らかな雰囲気を一層引き立てていた。

 

鏡の前に立つエマは、落ち着かない様子で裾をつまんでいる。

 

「何も問題はない。よく似合っているよ、エマ」

 

「ヒロちゃんがそう言ってくれるなら……これにしようかな」

 

頬を赤く染め、嬉しそうに微笑む。

 

(それ以上、可愛らしい反応をしないでくれ。私の心臓が危ない)

 

目的は、エマの魅力をユキに気づかせることだ。

ここで私が先に倒れていては話にならない。

 

「それじゃあ、今度はヒロちゃんの服を決めよう」

 

(私の服?)

 

思いがけない言葉に、背中へ冷たい汗が流れた。

誘われたときから、エマに何を着せるかしか考えていなかった。自分の服装については、完全に頭から抜け落ちている。

 

(いや、待て。私の服など、どうでもいいのではないか?)

 

今回の目的は、エマとユキの距離を縮めることだ。

 

私が何を着ていようと、作戦には何の影響もない。

 

そう結論づけた私は、迷わず制服へ手を伸ばした。

 

「ひ、ヒロちゃん!?まさか制服で行くつもりなの!?」

 

「ああ。服装など、動きやすければ何でもいいだろう」

 

「駄目だよ!ユキくんも、ヒロちゃんがどんな服を着てくるか楽しみにしてると思う!」

 

時計を見る。

 

集合時間まで、あと二十分ほど。

 

待ち合わせ場所へ向かうには、ここから十分はかかる。

 

「時間がない。私はこれでいい」

 

「僕に任せて!」

 

エマは私の手を両手で握り、真っ直ぐに見上げてきた。

 

「絶対に、ヒロちゃんに似合う服を見つけてみせるから!」

 

(くっ……顔がいい!)

 

結局、私はその申し出を断ることができなかった。

 

 

 

 

 

 

僕は待ち合わせ場所で、エマとヒロを待っていた。

 

(早く来すぎちゃったな……)

 

時計を見ると、集合時間まではまだ二十分ほどある。

 

遅れるよりはいいと思って早めに家を出たけれど、さすがに早すぎた。

 

近くの店でも見て時間を潰そうとしたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

 

エマかヒロだと思ったけど、画面に表示されているのは父さんの名前だった。

 

「もしもし、父さん?」

 

『おお、出てくれたか。悪いな、急に』

 

「いいよ。何か用があるんでしょ?」

 

『やっぱりユキは鋭いな。そのとおりなんだが』

 

「今すぐ何かしてほしいって話なら無理だよ。今日は友達と遊びに来てるから」

 

『それは大丈夫だ。再来週あたりの週末に、少し時間を空けてもらえないか?』

 

「急にどうしたの。親子の時間でも作りたくなった?」

 

『ユキが望むなら、たまには作ってやりたいけどな』

 

「別にいいよ。父さんが忙しいのは知ってるから」

 

少しの沈黙があった。

冗談を言ったつもりなのに、父さんには気を遣わせてしまったらしい。

 

『前に、ネット上のいじめについて相談を受けてる女子高生がいるって話しただろ?』

 

「ずいぶん長いこと担当してる子だよね。半年前くらいからだっけ?長い間、出張に行ってた時期と被ってたし大変だったね」

 

『そう、その子だ。まだ同年代の男子と話すのが難しいらしくてな』

 

「……僕と話してほしいってこと?」

 

『その子にユキのことを話したら、女の子みたいな雰囲気の子なら、大丈夫かもしれないって言っていてな』

 

「女の子みたいな、は余計じゃない?」

 

『ごほん。ともかく、うまくいけば少しずつ他人と話す練習になるかもしれない。無理にとは言わないが、協力してくれると助かる』

 

父さんは弁護士をしている。

正義感が強く、困っている人を放っておくことができない。曲がったことを嫌うところは、少しヒロに似ているかもしれない。

 

「分かった。時間は空けておくよ」

 

『本当か?助かる。ユキなら、きっと……たぶん、仲良くなれる』

 

「ずいぶん曖昧だね」

 

言い終わる前に、通話が切れた。

 

(切られた……)

 

別に、人との会話が得意なわけではない。

 

いきなり知らない相手と二人きりで話すことへの不安はある。

 

ただ、エマとヒロにも一緒に来てもらえば、相手も少しは安心できるだろう。

 

「ユキくーん!」

 

考えていると、後ろからエマの声が聞こえた。

 

振り返れば、こちらへ大きく手を振りながら駆けてくるエマの姿がある。

 

「エ……マ……」

 

思わず言葉を失った。

 

白を基調としたワンピースが、エマの髪や淡い雰囲気によく似合っている。裾に施された桜の刺繍も、走るたびに花びらが舞っているように揺れていた。

 

春の陽光と笑顔まで合わさって、眩しくて直視できない。

 

「あれ?ヒロは?」

 

周囲を見回しても、ヒロの姿がない。

 

ただし、エマの後ろから、長い黒髪が時折見え隠れしていた。

 

(もしかして……隠れてる?)

 

「ほら、ヒロちゃん。ユキくんに見せてあげて!」

 

「だ、だが、エマ……私は……」

 

「大丈夫だから!」

 

エマに手を引かれ、ヒロがエマの後ろから姿を現す。

 

「……すごい」

 

ヒロが着ているのは、黒を基調としたストリート系の服だった。

 

帽子から出した髪は、普段とは違ってポニーテールにまとめられている。もともと凛々しく整った顔立ちをしていることもあり、その服装はヒロの格好よさを強く引き立てていた。

 

「すごく格好いいよね!ユキくんはどう思う?」

 

エマが期待するように聞いてくる。

 

その隣で、ヒロは居心地が悪そうに視線を逸らしていた。

 

(こういうときは、ちゃんと言った方がいいよね)

 

以前、珍しく早く帰ってきた父さんが、酔った勢いで話していたことを思い出す。

 

――いいか、ユキ。相手の服や髪形が似合ってると思ったら、ちゃんと言葉にするんだぞ。

 

途中から眠ってしまったため、それ以降は聞けなかった。それでも今は先人の教えに従うべきだろう。

 

「エマはすごく可愛いよ。白いワンピースが髪や雰囲気に合ってるし、桜の刺繍も綺麗だね。桜羽っていう名字にも合ってると思う」

 

「えへへ……ありがとう、ユキくん!」

 

エマは嬉しそうに、刺繍の入った裾を持ち上げる。

 

続いてヒロへ目を向けた。

 

「ヒロはすごく格好いい。普段と雰囲気が違うから、こういうのをギャップって言うのかな。ポニーテールも似合ってるよ」

 

「……か、感謝する」

 

ヒロの顔が、みるみる赤くなっていく。

 

慣れない服装を通行人に見られているのが、相当恥ずかしいらしい。

 

「それじゃあ、行こっか」

 

こうして、()()()の初めての休日が始まった。

 

 

 

 

最初に向かったのは映画館だった。

 

私は少し前を歩くエマとユキを追いながら、乱れそうになる思考を必死に整えていた。

 

(正気を保つんだ、二階堂ヒロ)

 

この服を選んだエマに、私を辱める意図などない。

ユキから褒められて動揺したわけでもない。

普段着ない服で、人目が気になっているだけだ。

 

(誰に言い訳しているんだ、私は!)

 

今日の目標を忘れてはいけない。

 

エマとユキの距離を近づけるため、私はここにいる。

 

上映作品を選ぶ段階になり、私は一つの作品を指さした。

 

「ホラー映画はどうだ?」

 

恋愛において、映画館は定番だ。

怖がったエマがユキへすがりつけば、さすがのユキも多少は意識するだろう。

 

「ひ、ヒロちゃん……僕は別の映画がいいかなって……」

 

エマが目に見えて震え始める。

 

(すまない、エマ。君の恋のためなんだ)

 

心の中で謝り、今度はユキへ意見を求めた。

 

「ユキはどうだ?」

 

「ヒ、ヒロが見たいなら……それでいいよ」

 

返事をするユキの表情が、ほんのわずかに曇った。

しかし、作戦のことしか考えていなかった私は、その変化に気づけなかった。

 

座席は、エマ、ユキ、私の順になった。

 

映画は、正体不明の怪物が街へ広まっていくというものだった。暗い画面と不穏な音楽が続き、突然、耳をつんざくような悲鳴が響く。

 

(エマを怖がらせればいいと思っていたが……予想以上に怖いな)

 

こういったものは平気だと思っていた。

 

しかし、いつ何が飛び出してくるか分からない緊張感に、身体が強張っていく。

 

エマの様子を確認しようと、ユキの向こう側へ視線を向けた。その前に、制服の袖を小さく引かれる。

 

(何だ?)

 

隣にいるユキが、私の袖を片手で握っていた。

 

画面から目を逸らさないようにしているが、顔は完全に強張っている。怖くないふりをしたいのか、握っているのは片手だけだった。

 

(ユキも苦手だったのか……)

 

その向こうでは、エマがユキの腕へしがみついている。

 

肝心のユキには、それを意識する余裕すらないようだった。

 

(作戦は失敗か)

 

残念に思うべきなのだろう。

 

それなのに、袖を握る小さな手を見ていると、胸の奥に不思議な満足感が広がっていった。

 

 

 

 

 

 

昼食を終えた私たちは、エマとユキの強い希望で猫カフェへ向かった。

 

動物が嫌いなわけではない。

 

ただ、何を考えているのか全く分からないため、私はどう接すればいいのか迷ってしまう。

 

その点、ユキは入店して間もないうちに、一匹の猫を膝へ乗せていた。

 

「ユキくん……猫ちゃんとは、どうすれば仲良くなれるの?」

 

「僕も詳しくはないよ。いきなり触らずに、声をかけてみたらいいんじゃないかな」

 

「わ、分かった」

 

エマはソファに座る猫と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

そして緊張した面持ちで、口を開く。

 

「に、にゃあ……にゃ、にゃあ……」

 

「ぐっ……!」

 

あまりの可愛らしさに、私は胸を押さえた。

 

「お客様、大丈夫ですか!?」

 

近くにいた店員が、驚いて駆け寄ってくる。

 

「すみません。何でもありません……」

 

危なかった。

エマの猫語には、人の心臓を止めかねない威力がある。

しかし、これならユキも意識したに違いない。そう思ってユキを見る。

 

「にゃあ、にゃにゃ?」

 

ユキも真剣な顔で、膝の上の猫へ話しかけていた。

 

(何なんだ、この二人は……!)

 

可愛らしすぎる。

 

先にエマを見て耐性を得ていなければ、今度こそ倒れていたかもしれない。

 

「にゃあ」

 

一匹の真っ白な猫が、私のもとへ近づいてきた。

 

警戒する様子もなく膝の上へ飛び乗り、その場で丸くなる。

 

「すごいですね。この子、滅多に人へ懐かないんですよ」

 

店員が感心したように声を上げた。

 

私は恐る恐る手を伸ばし、白い背中を撫でる。柔らかな毛が指の間を通り、猫は気持ちよさそうに目を細めた。

 

「ユキくん、気持ちよさそうですね」

 

「……え?」

 

「あ、この子の名前です。雪みたいに真っ白なので、ユキくんっていうんですよ」

 

「本当だ。人の方のユキくんにも、少し似てるかも」

 

別の猫を抱いたエマが近づいてくる。

 

「僕、こんなに気まぐれじゃないと思うけどな」

 

人の方のユキも、エマの後ろから顔を出した。

 

「でも、猫のユキくんは、ヒロちゃんにだけ懐いてるみたい」

 

「それは、たまたまだろう」

 

「ユキくんは、ヒロちゃんのことが大好きなんだね」

 

「その言い方は――」

 

言葉を遮るように、膝の上の猫が喉を鳴らした。

 

エマは楽しそうに笑い、人の方のユキを見上げる。

 

「だって、人の方のユキくんもヒロちゃんのことが好きだもんね?」

 

(な、何を聞いているんだ、エマ!)

 

答える必要はない。

 

そう思う私の前で、ユキはためらいもなく頷いた。

 

「うん。好きだよ」

 

顔へ一気に熱が集まった。

 

(落ち着け、二階堂ヒロ!友人としてに決まっている!)

 

ユキは、こういうことを何のためらいもなく口にする人間だ。

 

自分に言い聞かせている間に、白猫が私の膝から降りた。

 

足元を一周し、身体を擦りつけてくる。

 

「急にどうしたんだ?」

 

次の瞬間、背後から肩へ飛び乗ってきた。

 

「おっと……」

 

驚いて顔を向けると、猫の鼻先が頬へ触れた。

 

「猫のユキくんが、ヒロちゃんにキスした!」

 

「その言い方をやめろ、エマ!」

 

エマの笑い声が、猫カフェの中へ響く。

 

ユキも困ったように笑っていた。

 

火照った頬は、店を出るまで冷めなかった。

 

 

 

 

 

 

猫カフェを出た後、私は広場の椅子で休んでいた。

 

二人は飲み物を買いに行っている。

 

一人になると、どうしても先ほどのことを思い出してしまう。

 

(あれは、エマの言い方が悪かったからだ)

 

猫が頬へ触れただけなのに、あのような言い方をされたら、照れない方がおかしい。

 

そもそもユキも、簡単に好きなどと言うべきではない。

 

「ああ、もう……」

 

一人で考えていると、余計に顔が熱くなる。

 

私は立ち上がり、飲み物を買いに行った二人のもとへ向かった。

 

すぐに自動販売機が見えてくる。

 

しかし、エマとユキの周囲には、見知らぬ男たちが集まっていた。

 

「そんな小さいやつといるより、俺たちと遊んだ方が楽しいって」

 

「え、ええと……僕は……」

 

自分よりも遥かに大きな相手に囲まれ、エマは完全に萎縮している。

 

その前に立ち、ユキが庇っていた。

 

「そういうの、やめませんか。本人も嫌がってますから」

 

口調は穏やかだった。

 

しかし、遠目からでも無理をしていることが分かる。

 

瞳孔が大きく開き、額には汗が滲んでいる。顔色も悪く、エマを庇うように広げた手は震えていた。

 

以前、ユキが口にした言葉を思い出す。

 

――ヒロの【正しさ】に、どうこう言えるほど僕も立派じゃない。

 

あの言葉は、おそらくユキの【禁忌】に触れていた。

 

今のユキは、過去の記憶を押し殺しながらエマを守っている。

 

ただ、友人を守るために。

 

(君は【正しい】よ、ユキ)

 

私は駆け出した。

 

「エマ!ユキ!」

 

二人の手をつかみ、その場から走り出す。

 

背後から声が聞こえたが、振り返らなかった。

 

人の多い通りまで逃げ、ようやく足を止める。

 

「ご、ごめん……ヒロちゃん」

 

息を切らしながら、エマが謝る。

 

「謝る必要はない。怖かっただろう。二人が無事なら、それでいい」

 

ユキへ目を向けた。

 

顔色は先ほどよりも悪くなっている。

 

浅く速い呼吸を繰り返し、胸元を押さえていた。

 

「ユキくん……?」

 

エマが呼んでも、ユキは俯いたまま反応しない。

 

私はユキの正面にしゃがみ込み、両肩をつかんだ。

 

「ユキ、私を見ろ!」

 

無理にでも顔を上げさせ、視線を合わせる。

 

その瞳には、涙が溜まっていた。

 

私はそこで、言葉を選んだ。

 

ここで私やエマが謝れば、ユキはまた自分のせいだと思う。自分が二人に迷惑をかけたのだと、さらに追い詰められてしまう。

 

「大丈夫だ。私もエマも、ここにいる」

 

「一人ではない。もう危険な場所からは離れた。だから、ゆっくり息をしろ」

 

ユキの背中へ手を添え、呼吸に合わせて一定の速さで撫でる。

 

「私の呼吸を見ろ。ゆっくりでいい」

 

しばらくすると、乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。

 

「ごめん……二人とも、ごめん……」

 

ユキは辛そうに言葉を絞り出す。

 

その隣へ、エマもしゃがみ込んだ。

 

「よしよし。大丈夫だよ、ユキくん」

 

幼い子供を落ち着かせるように、ユキの頭を撫でる。

 

張り詰めていたものが切れたのか、ユキはゆっくりと私の背中に腕を回し、抱きしめた。

 

小さな嗚咽が、耳元へ漏れる。

 

私は何も言わず、ユキの背中を撫で続けた。

 

エマも隣から、優しく頭を撫でている。

 

その姿は、先ほどの猫カフェで猫を可愛がっていたときによく似ていた。

 

 

 

 

ユキが落ち着いてからは、ゲームセンターへ行き、買い物もした。

 

途中、私が二人に似合いそうな服を見つけるたびに試着を勧めたため、エマからは何度も休憩を挟もうと提案された。

 

帰る頃には、空が茜色に染まっていた。

 

少し混んでいた電車の中で、私とエマは並んで座り、ユキは目の前に立っている。

 

「二人とも、今日は楽しかった?」

 

「すっごく楽しかったよ!」

 

エマが迷いなく答える。

 

「私も楽しかった」

 

私も素直に頷いた。

 

「よかった……」

 

ユキは大きく息を吐き、安堵したように笑う。

 

「女の子と遊びに出かけたのなんて、昔、妹と行ったときくらいだったから。二人が楽しんでくれてるか、少し心配だったんだ」

 

「妹がいるのか?」

 

「うん。三歳下の妹がいたんだ」

 

“いた”。

 

その過去形に、エマも気づいたらしい。

 

「妹さんは……」

 

「………昔、病気で亡くなったんだ。もともと身体が丈夫じゃなかったから」

 

ユキの声が、わずかに震えている。

 

「……すまない。無神経なことを聞いた」

 

「ヒロは悪くないよ。僕が勝手に話したことだから」

 

ユキは笑っていた。

 

しかし、それが私を安心させるための笑顔であることは分かった。

 

(私はまた、ユキを傷つけたのか)

 

胸の奥に罪悪感が広がりかけた、そのときだった。

 

車内に、赤子の泣き声が響く。

母親が必死にあやしているが、一向に泣き止まない。周囲へ何度も頭を下げ、その顔には疲労と焦りが滲んでいた。

乗客の中には、露骨に嫌そうな顔をする者もいる。

 

近くに立つ男性が、大きく舌打ちをした。

 

(何だ、その態度は)

 

赤子が泣くことなど、母親にも止められない場合がある。

 

責めるような態度を取ることは、【正しくない】。

 

立ち上がろうとした私を、ユキが手で制した。

 

「……ユキ?」

 

「大丈夫。少し待ってて」

 

ユキは母親と赤子のもとへ歩いていった。

 

「すみません。少しだけ、いいですか?」

 

鞄から取り出したのは、小さな緑色のボールだった。

 

「これは普通のボールなんだけど……こうするとね」

 

ボールを両手で包み、ふっと息を吹きかける。

 

手を開くと、ボールは小さな緑色の風船へ変わっていた。

 

いつの間にか、赤子は泣くのをやめ、それに夢中になっている。

 

ユキが風船を軽く弾くたび、赤子の目が動きを追いかけた。

 

今度は風船を手の中へ握り込む。

 

「あれ?色が変わっちゃった」

 

再び開いた手の中には、紫色のボールが載っていた。

 

ボールは握って開くたびに、赤、青、黄色と次々に色を変えていく。

 

「お母さん。この子は、何色が好きですか?」

 

「え?この子は……白いものが好きだと思います」

 

「白かあ。僕一人だと、少し難しいかも」

 

ユキは赤子の前へ、握った拳を差し出した。

 

「ちょっとだけ、力を貸してくれる?」

 

赤子が、小さな手でユキの拳へ触れる。

 

ユキがゆっくり手を開くと、そこには純白のボールがあった。

 

「すごい。君のおかげで白くできたよ」

 

赤子が楽しそうに笑う。

 

「これは僕からのプレゼント。魔法のボールだよ」

 

ユキは母親へ確認してから、赤子へボールを手渡した。

 

「すみません。本当にありがとうございます」

 

「いえ。僕の方こそ、手伝ってもらいましたから」

 

私は自然と拍手をしていた。

 

それにつられ、周囲の乗客からも拍手が起こる。

 

まるで、一人のマジシャンが演目を締めくくったようだった。

 

ユキは恥ずかしそうに顔を赤くし、私たちのもとへ戻ってきた。

 

「もう、拍手はいいってば」

 

誰にも聞こえないような小さな声で訴えてくる。

 

「誰にでもできることではない。格好よかったぞ」

 

心からの本音だった。

 

ユキはさらに顔を赤くし、困ったように目を逸らした。

 

隣を見ると、エマはいつの間にか眠っていた。

 

穏やかな寝息を立てる姿は、先ほどユキが泣き止ませた赤子のようだった。

 

やがて目的の駅へ着き、母親と赤子が電車を降りる。

 

赤子は窓の向こうから、ユキへ向かって笑顔で手を振っていた。ユキも優しく笑い、姿が見えなくなるまで手を振り返している。

 

その駅で多くの乗客が降り、車両は急に静かになった。

 

ユキは空いた私の隣へ腰を下ろす。

 

「本当にすごいな、ユキは」

 

心の中で思っていた言葉が、自然と口から漏れた。

ユキは、ぽかんとした顔で私を見ている。

 

「私はあの状況で、舌打ちをした男性を注意しようとした。それが【正しい】ことだと思ったからだ。だが、注意したところで赤子は泣き止まない。母親を、さらに居心地の悪い立場へ追いやっていたかもしれない」

 

黙っているユキへ、言葉を続ける。

 

「君は違った。誰かを責めるのではなく、あの場にいた全員を笑顔にした」

 

今日、ユキに助けられた人は、あの母親だけではない。

 

エマも、私もそうだった。

 

怖くて仕方がなかったはずなのに、ユキはエマの前へ立った。

 

自分が傷つくことよりも、友人を守ることを選んだ。

 

「君は、私にとっても、あの母親にとってもヒーローだよ」

 

ユキは何も言わなかった。

 

眠っているエマを起こさないように、電車は静かに走り続ける。

 

しばらくして、ユキがゆっくりと口を開いた。

 

「僕は……」

 

それから先の言葉を探すように、一度だけ目を伏せる。

 

「ヒーローなんかじゃないよ」

 

ユキが口にしたのは、それだけだった。

 

その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。

 

悲しんでいるのか、苦しんでいるのか。

 

それとも、自分の感情を悟られないよう、心の奥深くへ押し込めているのか。

 

私に分かったのは、ただ一つ。

 

それが謙遜でも、照れ隠しでもなく。

 

ユキの心から出た言葉だということだけだった。

 

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