シーローン王国の夜は、驚くほどに冷える。
王宮の最果て、西の塔の最上階に位置する宮廷魔術師の個人研究室では、一本の蝋燭の炎が静かに揺れていた。
パチパチと芯が爆ぜる音だけが、静寂に包まれた部屋に響く。
「……ハァ、これで13回目、ですか。やはり、私の頭ではこれが限界なのでしょうか」
ロキシー・ミグルディアは、机の上に広げた分厚い魔導書に、ペンで大きくバツ印を書き込み、深くため息をついた。
彼女のトレードマークである大きな三角帽子は机の脇に無造作に置かれ、いつもは三つ編みにきっちり結われている青い髪も、今は少しほつれて細い肩へと崩れ落ちていた。
現在のロキシーの立場は、シーローン王国の第三王子パックスの家庭教師であり、同時にこの国における魔術の最高峰たる「宮廷魔術師」の役職を与えられている。
市井の人間や城の兵士たちは、彼女を「若くして水聖級魔術を操る天才」「ミグルド族の神童」と呼び、畏敬の念を抱いていた。
だが、ロキシー本人の自己評価は、いつも周囲の賞賛とは真逆のところにある。
「私は天才なんかじゃありません。ただ、人より少しだけ長生きで、人より少しだけ多く魔術の本を読み、人より少しだけ長く杖を振ってきただけの、どこにでもいる凡人です」
それは卑屈ではなく、彼女がこれまでの人生で嫌というほど味わってきた「現実」だった。
故郷であるミグルドの村では、族長を含めた全員が使えるはずの「念話」が自分だけ使えず、疎外感を抱えて飛び出した。
冒険者として必死に生きる中でも、世の中には一握りの「本物の天才」がゴロゴロしているのを目の当たりにしてきた。
そして何より、彼女の心に最も深い楔を打ち込んだのは、かつてアスラ王国の辺境、ブエナ村で出会ったあの少年――ルーデウス・グレイラットの存在だった。
当時、まだ5歳にも満たなかったあの少年は、ロキシーがどれだけ血の滲むような努力を重ねても習得できなかった「無詠唱魔術」を、まるで呼吸をするかのように平然と使いこなしてみせた。
彼が放つ魔術の威力、魔力の総量、精度、そして何よりもその柔軟な発想力。すべてがロキシーの常識を遙かに超越していた。
「ルディなら……」
気がつけば、またその名前を呟いていた。
「ルディなら、こんな術式の構築、一晩どころか数時間で、感覚的に形にしてしまうのでしょうね」
ロキシーが今取り組んでいるのは、彼女が得意とする水系統の魔術をベースにした、完全オリジナルの新魔術の開発だった。
しかしそれは、敵を穿つ水槍でもなければ、広範囲を凍らせる吹雪でもない。攻撃ではなく「防御と捕縛」に特化した、一種の結界魔術である。
開発のきっかけは、現在彼女が教育を担当しているパックス・シーローン王子の、あまりにも横暴で未熟な素行にあった。
パックスは歪んでいる。兄たちへの劣等感、周囲の大人たちへの不信感から、侍女たちに暴力を振るい、力で人を支配しようとする悪癖があった。ロキシーは家庭教師として彼を正そうと日々奔走しているが、言葉が届いている手応えは薄い。
(あの王子のことです。いつか取り返しのつかない大問題を起こすか、あるいは精神的に暴走してしまうかもしれない。その時、周囲の兵士たちが彼を殺そうとする前に……あるいは彼が誰かを傷つける前に、誰も傷つけずに、かつ確実にその身柄を拘束できるような魔術が必要になります)
それは、ひねくれた教え子に対する、ロキシーなりの「不器用な優しさ」の形だった。
だが、その優しさを具現化するための理論が、どうしても形にならない。
「無詠唱が使えれば、術式の途中で魔力の出力をミリ単位で微調整できるのですが……。詠唱という『既定の枠組み』の中で、後から魔力を足し引きするのは、想像以上に困難ですね」
ロキシーは小さな拳をギュッと握りしめ、冷え切った椅子から立ち上がった。
ここで諦めて寝てしまえば楽になれる。だが、凡人である自分が努力すらやめてしまえば、本当に何も残らなくなってしまう。彼女は己を奮い立たせるように、研究室の片隅にある実験空間へと向かった。そこは強固な魔力障壁で囲まれた、安全な魔術の実験場だ。
ロキシーは愛用の右手を模した杖を構え、深く息を吸い込んだ。
標的となるのは、実験場の中央に置かれた、人間の成人男性ほどの大きさがある木人形だ。
「――誇り高き水の精霊よ。集いて、我が命に従え。形を成し、檻となりて、理不尽なる力を拒絶せよ……っ!」
凜とした声が室内に響く。
詠唱の完了と共に、ロキシーの杖の先から、大量の水が濁流となって噴き出した。
しかし、それはただの水ではない。ロキシーの緻密な魔力制御によって、極限まで分子の密度を高め、粘り気を持たせた「粘水」の塊である。
水流はまるで生き物のようにうねり、意思を持っているかのように木人形の足元から巻き付いていった。
ここまでは計画通り、いや、これまでで最高の精度だった。水流は木人形を完全に包み込み、球体の形を形成していく。
しかし、ここからが本当の難所だった。
「――『水檻(ウォータージェイル)』、定着(アンカー)!」
術式を固定し、魔術の構造を自立させようとした、その瞬間。
――パリン。
空間がひび割れるような、乾いた嫌な音が響いた。
固定しようとした外側の魔力壁と、内側でうねる粘水の圧力のバランスが、ほんのわずかに不均等だったのだ。
均衡を失った魔術は、一瞬で暴走する。
「しまっ――」
ロキシーが身構えるよりも早く、圧縮されていた大量の水が、爆ばく発的な勢いで四方八方へと弾け飛んだ。
ザザザァァァァァッ!!
容赦ない冷水のシャワーが、実験場の壁に跳ね返り、ロキシーの全身に降り注ぐ。
「うわっ、冷たっ……!」
悲鳴を上げる間もなく、ロキシーは頭から足の先までずぶ濡れになった。
宮廷魔術師としての威厳が詰め込まれた立派な魔術師ローブは、一瞬にして大量のを吸って鉛のように重くなり、彼女の華奢な体を地面へと引きずり込もうとする。
前髪からはポタポタと冷たい水滴が滴り落ちて、メガネをかけていない彼女の視界を遮り、床に大きな水たまりを作っていく。
「うぅ……冷たいです。それに、重い……」
ロキシーはべったりと額に張り付いた青い髪を乱暴にかき上げ、悔しそうに唇を噛んだ。
夜の寒気と冷水が相まって、体温が急速に奪われていくのがわかる。指先が寒さで微かに震え始めていた。
だが、彼女の瞳の奥にある「青い炎」は、少しも消えていなかった。
むしろ、失敗すればするほど、彼女の中の頑固な職人気質が目を覚ます。
「……やはり、術式の終端における魔力の配分が、外側に偏りすぎているのですね。内側の水圧を維持しようとするあまり、境界線の強度が耐えきれなくなっている」
彼女はタオルを手探りで掴むと、濡れた顔と髪をガシガシと乱暴に拭いた。
線が、濡れて重くなったローブを脱ぎ捨て、白いインナーシャツ姿のまま、すぐに机へと戻った。暖炉に火を入れる時間すら惜しかった。
彼女はノートを開き、今しがたの失敗データを脳内で反芻しながら、ペンを走らせる。
カリカリ、カリカリと、ペン先が紙を削る音だけが室内に戻ってくる。
(ルディのような本物の天才は、感覚という名の翼で、10メートルの崖をひとっ飛びに超えてみせます。でも、私にはそんな翼はありません。だから、理論という名の梯子を1段ずつ組み立てて、10回失敗して、ようやく半歩進む。それでいいんです。それこそが、私の戦い方なのですから)
彼女はノートに新しい数式を書き足していく。
水圧の分散比率を「4対6」から「4.5対5.5」へ。さらに、固定化の際の魔力収束の速度を、コンマ数秒だけ遅らせる。
文字で書けば簡単だが、それを詠唱のイントネーションや、杖に込める魔力の強弱だけで再現するのは、気の遠くなるような職人技が必要だった。
深夜2時を回る頃。
静まり返った廊下から、ペタペタと締まりのない足音が近づいてくるのが聞こえた。
ロキシーの優れた聴覚は、それが誰のものであるかを瞬時に理解する。
バタン! と乱暴に扉が開かれた。
「おい、ロキシー! 起きているのはわかっているぞ!」
現れたのは、シルクの寝間着をだらしなく着崩した、太った少年――パックス・シーローンだった。
その手には、半分ほど中身の減った高級な果実酒のボトルが握られている。まだ10代前半だというのに、その顔は酒と傲慢さで醜く歪んでいた。
「パックス殿下……。このような深夜に、宮廷魔術師の私室にノックもなしに入るとは、王族としての品格を疑われますよ。それに、またお酒ですか。家庭教師として、看過できませんね」
ロキシーはペンを置き、冷徹な、しかしどこか呆れたような視線を教え子に向けた。
パックスはふん、と鼻を鳴らし、部屋の中に散らばる水たまりと、濡れたロキシーの姿を見て下品に笑った。
「なんだ、その無様な姿は! 天才魔術師と名高いお前が、夜な夜な部屋で水遊びか? 傑作だな! そんなことより、僕の命令を聞け。明日からの魔術の講義だが、退屈な基礎理論はすべて省け。僕に早く、あの兄貴たちを消し去るような、一撃で城を吹き飛ばすような攻撃魔術を教えろ!」
パックスの言葉には、肥大化した自己顕示欲と、それと同等の深い劣等感が渦巻いていた。
彼は優秀な兄たちと比較され、宮廷内で孤立している。だからこそ、手っ取り早い「圧倒的な力」を求めていた。
ロキシーは静かに立ち上がり、パックスの前に歩み寄った。
彼女の身長はパックスよりも低いが、その佇まいには、数多の修羅場を潜り抜けてきた上級冒険者としての、そして「教師」としての確固たる威厳があった。
「パックス殿下。魔術とは、あなたの歪んだプライドを満たすための道具ではありません。基礎を怠る者に、強大な魔術を制御することは不可能です。それは、暴走する馬車の手綱を子供に握らせるようなもの。私はあなたを人殺しにするために、ここにいるのではないのです」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
パックスは顔を真っ赤にし、持っていた酒瓶を床に投げつけた。
ガシャーン! と激しい音を立ててガラスが砕け、赤い液体が床に広がる。
「お前も僕を馬鹿にするのか! どいつもこいつも、僕を無能だと笑いやがって! お前は僕の所有物だ! 僕が命じれば、お前なんかいつでも首をはねられるんだぞ!」
パックスの叫びは、悲痛な子供の悲鳴のようでもあった。
彼はロキシーの反応を確かめるように睨みつけたが、ロキシーの瞳には、恐怖も、怒りもなかった。ただ、深い哀れみと、それでも見捨てないという静かな覚悟だけがあった。
「……今夜はもう遅いです。お部屋に戻って頭を冷やしなさい、パックス殿下。明日の講義は、予定通り朝8時から、基礎の魔力循環から始めます」
「チッ……! 役立たずの青髪女め、覚えていろよ!」
パックスは激しく足を踏み鳴らし、吐き捨てるようにして部屋を去っていった。
再び静寂が戻った研究室で、ロキシーは割れた酒瓶の破片を、水魔術と土魔術を組み合わせて手際よく片付けた。
「ハァ……本当に、手のかかる男の子ですね」
彼女はぽつりと呟いた。
パックスの傲慢さは危険だ。いつか破滅を呼び込む。
だからこそ、今自分が開発しているこの「誰も傷つけない檻」の魔術は、絶対に完成させなければならなかった。
「さて、夜明けまでにはまだ時間がありますね」
ロキシーは再び杖を握った。
全身の疲労はピークに達しており、筋肉は悲鳴を上げていたが、脳細胞だけはパックスとのやり取りを経て、逆にクリアに冴え渡っていた。
14回目、失敗。水流が霧となって霧散した。
15回目、失敗。今度は強度が足りず、木人形の重みに耐えきれずに決壊した。
16回目、失敗。あと一歩のところで、魔力の連結が解けた。
そして、時計の針が深夜3時半を指そうとする頃。
通算「17回目」となる実験が始まった。
ロキシーは実験場の中央に立ち、大きく深呼吸をした。
冷たい空気が肺を満たし、意識が極限まで研ぎ澄まされる。
彼女は目を閉じ、ブエナ村のあの広大な麦畑を思い浮かべた。自分がルディに、初めて水聖級魔術『雷光一閃』を見せたあの日。あの時、自分は間違いなく、魔術の深淵と一体になっていた。
「――誇り高き水の精霊よ。集いて、我が命に従え。形を成し、檻となりて、理不尽なる力を拒絶せよ……!」
詠唱の声は、先ほどよりも一段と低く、そして透き通っていた。
杖の先から放たれた粘水流が、滑らかなシルクのように木人形を包み込んでいく。ロキシーの頭脳は、今や完全に魔力の流れを掌握していた。パックスの激昂も、自身の疲労も、すべてが美しい数式へと還元されていく。
(ここです。ここで、外側の魔力壁を急激に収縮させるのではなく、内側の水圧の変化に合わせて、優しく、浸透するように……!)
「――『水檻(ウォータージェイル)』、定着(アンカー)!!」
最後のキーワードが紡がれた瞬間、部屋の空気が一瞬だけ、ピリッと張り詰めた。
弾ける音も、崩壊する音もしない。
次の瞬間、木人形の周囲を囲んでいた水流は、完全にその動きを止め、まるで最高級のクリスタルで作られたかのような、完璧な半球体の「水の檻」となって空間に固定された。
内側の水は、激しくうねっているにもかかわらず、外側の透明な魔力壁によって完全に遮断され、床には1滴の水もこぼれてこない。
木人形は、その驚異的な水圧と粘性によって、指一本動かすことができない状態で完全に捕縛されていた。
「……できた」
ロキシーの口から、小さく、けれど確かな歓喜の吐息が漏れた。
彼女は杖を下げ、完成した『水檻』に近づき、そっと手を触れてみた。ひんなりとした確かな手応え。魔力の供給を止めない限り、この檻は物理的な攻撃をも遮断する絶対の盾となる。
「やりました……。ついに、私だけの魔術が、形になりました」
まだ実戦で使うには詠唱が長すぎるし、魔力の消費量も馬鹿にならない。実用化に向けての改善の余地は、それこそ山ほどあるだろう。
それでも、誰の真似でもない、天才の模倣でもない、凡人であるロキシー・ミグルディアが、自分の足と頭で歩みを進め、新しい魔術の扉をこじ開けたのだ。
彼女は魔術を解除し、木人形がどさりと床に倒れるのを見届けると、限界を迎えた身体をソファへと投げ出した。
もう、指一本動かす力も残っていなかった。
インナーシャツが微かに湿っていて寒かったが、胸の奥は、これまでにないほどの達成感と温かさで満たされていた。
彼女は開け放たれた窓の向こう、東の地平線が微かに紫色へと染まり、夜明けが近づいているを見つめた。
その遥か東の先には、かつて自分が旅立ったアスラ王国があり、職務を全うしている愛おしい元教え子が住んでいる。
(ルディ。私は今、新しい一歩を踏み出しましたよ。あなたの足元には到底及びませんが、私はまだ、あなたの前を歩く『先生』でいられていますか?)
彼女はふっと、少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
(いつかまたあなたに会えたときに、胸を張って『私が先生です』と言えるように……。私は明日も、その次の日も、本気で頑張るとしましょう)
心地よい疲労感の波に揺られながら、青髪の若き宮廷魔術師は、小さな愛らしい寝息を立てて、深い眠りへと落ちていくのだった。
その寝顔は、城の誰よりも、本気で生きた者の美しさに満ちていた。