無職転生〜異世界行ったら本気だす〜のエリスのはなしです

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無職転生〜赤髪の剣士と荒野を駆ける遠雷

剣の聖地。そこは、一年を通じて灰色の雲が垂れ込め、吹き付ける風さえも刃のように鋭い、世界で最も過酷な極寒の荒野だった。

遮るもののない大平原の真ん中で、一人の少女が、ただひたすらに木剣を振り下ろしていた。

ドシュッ! ドシュッ!

空気を切り裂く音が、爆音となって周囲の岩肌に反響する。

エリス・ボレアス・グレイラット。かつてアスラ王国の四大上級貴族、ボレアス家の令嬢であり、今や剣の聖地において「狂犬」の名で知られる赤髪の剣士。

彼女のまとう白い道着は、自らの流した汗と、弾け飛んだ皮膚から滲み出た血によって、あちこちが赤黒く染まっていた。

気温は氷点下に達しているというのに、エリスの全身からは、湯気のような熱気が立ち上っている。

「九千、九百、九十、九……!」

数字を刻む彼女の声は、喉が枯れ果てて掠れていた。だが、その瞳に宿る真紅の炎は、寒風に煽られても消えるどころか、ますます激しく燃え盛っていた。

「一万……っ!!」

最後の一振りと同時に、エリスの身体から爆発的な闘気が放たれた。振り下ろされた木剣の風圧だけで、前方の地面が数十メートルにわたって一文字に抉れ、舞い上がった土砂が砂嵐となって周囲を覆う。

エリスは木剣を構えたまま、荒い息を繰り返した。肩が激しく上下し、握り締めた手のひらからは、肉が裂けて鮮血が滴り落ちている。それでも、彼女は木剣を離さなかった。離すわけにはいかなかった。

「まだ……まだ、足りないわ」

エリスは血の混じった唾を地面に吐き捨て、腫れ上がった自分の腕を睨みつけた。

どれだけ剣を振っても、どれだけ身体を痛めつけても、彼女の心の中にある「焦燥感」と「圧倒的な孤独」は、一向に消えてくれなかった。

目を閉じれば、今でも鮮明に思い出す光景がある。

あの龍神オルステッドとの死闘。圧倒的な暴力の前に、自分は何もできなかった。ただ地面に這いつくばり、恐怖に震えることしかできなかった。

そして、自分の目の前で、あの愛おしい少年の胸が貫かれた。ルーデウス・グレイラット。自分の世界のすべてであり、自分が誰よりも守りたかった、ただ一人の少年。

あの時、ルディは自分の身代わりになって死にかけた。自分に剣の才能があるなどと周囲は囃し立てるが、本当の危機の最中、自分は何の役にも立たなかった。ただ守られるだけの、無力な子供のままだったのだ。

だから、彼女はルディの元を去った。彼に並び立ち、今度こそ彼を守れる「本物の強者」になるために。

「おやおや。今日も朝から盛大に吠えているねえ、お嬢ちゃん」

背後から、低く地を這うような、しかし尋常ではない威圧感を孕んだ声が響いた。

振り返ると、そこにはだらしなく長髪を揺らし、肩に大剣を担いだ男が立っていた。剣神ガル・ファリオン。この世界の剣士の頂点に君臨する男だ。その後ろには、エリスの元護衛であり、姉のようでもあった黒狼の剣士、ギレーヌ・デドルディアも静かに控えていた。

ガルはエリスの抉った地面を一瞥し、退屈そうに鼻を鳴らした。

「一万回の素振りか。熱心なこったが、そんなものはただの運動だ。お前の剣には、まだ決定的な何かが足りねえよ」

「……何が足りないって言うのよ!」

エリスはガルを鋭く睨みつけた。その鋭利な眼光は、並の剣士であれば気圧されて一歩退くほどの狂気を孕んでいたが、剣神には通用しない。

「殺気と執念は合格点だ。だがな、お前の剣は『急ぎすぎている』。ルディだか何だか知らねえが、その男の背中に追いつこうとするあまり、自分の足元が見えてねえんだよ。剣王止まりで死にたくなきゃ、一度頭を冷やしな」

ガルはそう言い残すと、ひらひらと手を振って去っていった。

残されたギレーヌが、静かにエリスの傍らへと歩み寄る。ギレーヌの単眼には、かつて我が儘放題だったお嬢様が、見違えるような戦士へと変貌していく喜びと、それ以上の深い懸念が浮かんでいた。

「エリス、今日の修行はここまでにしよう。これ以上は筋肉が断裂する。手当てをしなければ、明日の剣が鈍るぞ」

「嫌よ、ギレーヌ。ボクはまだやれる。ルディは、ボクがこうして休んでいる間にも、もっと先へ行っているかもしれないのよ? ボクは立ち止まっていられないの!」

エリスの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるような悲痛さを帯びていた。

ルディの才能は異常だった。彼は魔術の天才であり、頭脳明晰で、いつでも大人のように先を見据えていた。彼と一緒にいた数年間、エリスは常に「置いていかれる恐怖」と戦っていた。

もし自分がここで甘えれば、二度と彼と同じ世界には戻れないような気がして、怖くて仕方がなかったのだ。

ギレーヌは何も言わず、ただエリスの前に一歩踏み出し、自身の愛刀の手柄に手をかけた。

「ならば、私が相手になろう。言葉でわからないのなら、剣で教えるしかないな」

「望むところよ……!」

エリスは一瞬で戦闘態勢に入った。

先ほどまでの疲労が嘘のように、全身の闘気が再び跳ね上がる。

二人の間に、張り詰めた緊張感が漂う。剣の聖地に吹く極寒の風が、二人の赤髪と黒髪を激しく揺らした。

先手を打ったのはエリスだった。

彼女は地面を爆発的な脚力で蹴り飛ばし、一瞬でギレーヌの懐へと肉薄した。光の速さに達するとされる、剣神流の真髄『光の太刀』。

「おおおおおっ!!」

エリスの木剣が、文字通り光の軌跡を描いてギレーヌの首筋へと奔る。

しかし、ギレーヌの動きはそれを上回っていた。ギレーヌは最小限の動きでエリスの刃をかわし、同時に自身の剣の腹で、エリスの脇腹を容赦なく強打した。

ゴホッ、とエリスの口から空気が漏れる。

しかし、今のエリスは「狂犬」だ。一撃をもらった程度で止まるはずがない。彼女は打たれた勢いを利用してその場で鋭く反転し、二の太刀、三の太刀を、まるで嵐のような連続攻撃で繰り出していく。

キィン! ガガガガンッ!

木剣と真剣がぶつかり合い、凄まじい火花が散る。エリスの剣は、野生の獣そのものだった。軌道が読めず、どこからでも一撃必殺の威力が飛んでくる。

ギレーヌはそれをすべて完璧にいなしながら、徐々にエリスを壁際へと追い詰めていった。

「エリス、お前の剣は強い。だが、独りよがりだ!」

ギレーヌの鋭い一喝と共に、強烈なカウンターがエリスの胸元を捉えた。

「キャッ……!」

エリスの身体が宙を舞い、数メートル先の岩肌へと激しく叩きつけられた。背中の骨がきしみ、激痛が走る。持っていた木剣が手からこぼれ落ち、カラカラと音を立てて転がった。

「う、うあ頭……っ」

エリスは這いつくばったまま、地面を殴りつけた。悔しくて、涙が出そうだった。ギレーヌにすら、まだこうして完璧にあしらわれてしまう。こんなことで、あの龍神オルステッドに勝てるはずがない。ルディを助けられるはずがない。

ギレーヌは剣を鞘に収め、へたり込むエリスの前にしゃがみ込んだ。そして、大きな温かい手で、エリスの乱れた赤髪を優しく撫でた。

「エリス。ルーデウスはお前を置いていきはしない。あの少年は、お前が思っている以上に、お前を深く愛していた。それは、一緒に旅をした私が一番よく知っている」

ギレーヌの優しい声が、エリスの頑なな心を少しずつ溶かしていく。

「……知ってるわよ。ルディが優しいことくらい、ボクが一番よく知ってるわ。だから……だからこそ、ボクが強くならなきゃ意味がないのよ。あの優しさに甘えて、またルディを死なせるわけにはいかないの」

エリスは膝に顔を埋め、小さな声で絞り出すように言った。

彼女が本当に恐れているのは、ルディに嫌われることではない。ルディが自分のせいで傷つき、この世界から消えてしまうことだった。あの時の絶望を、彼女は二度と味わいたくなかった。

ギレーヌはふっと微笑み、エリスの肩をぽんと叩いた。

「お前のその執念があれば、必ず届く。だが、身体を壊しては元も子もない。今日はもう戻り、温かいスープでも飲もう。ガルが言ったことも一理ある。時には休むことも、強くなるための修行だ」

エリスはしばらく無言でいたが、やがて小さく「……わかったわよ」と呟き、ゆっくりと立ち上がった。全身の筋肉が猛烈に悲鳴を上げていたが、不思議と、心の重荷は少しだけ軽くなっていた。

その日の夜、剣の聖地にある粗末な石造りの宿舎の一室。

暖炉の中でパチパチと薪が燃え、ささやかな温もりが部屋を満たしていた。

エリスはベッドの上に座り、ギレーヌに手当てしてもらった包帯だらけの自分の両手を見つめていた。

机の上には、ギレーヌが作ってくれた、具だくさんの野菜スープが置かれている。湯気が優しく立ち上り、エリスの鼻腔をくすぐった。

スプーンを手に取り、スープを一口口に運ぶ。

温かい液体が喉を通り、冷え切った身体の芯へと染み渡っていく。その瞬間、エリスの脳裏に、かつて魔大陸を旅していた頃の記憶が蘇った。

あの過酷な魔大陸の旅の途中、ルディはいつも、どんなに疲れていても美味しい食事を作ってくれた。得体の知れない魔獣の肉を、魔法を駆使して柔らかくし、エリスが喜ぶような味付けにしてくれたのだ。

「美味しい?」と首を傾げて聞いてくるルディの、あの少しだらしない、だけど本当に嬉しそうな笑顔。

「……ルディの作ったスープの方が、ずっと美味しかったわ」

エリスはぽつりと呟いた。ギレーヌのスープも十分に美味しいのだが、何かが決定的に違っていた。それはきっと、料理に込められた「優しさ」と、それを受け取る自分自身の「安心感」の差なのだろう。

今の自分には、そのどちらも欠けている。

ここにいるのは、ただ牙を研ぎ続けることしかできない、孤独な狂犬だ。

エリスはスープを飲み干すと、ベッドから降りて窓辺へと歩み寄った。

窓の外には、漆黒の夜空が広がっている。剣の聖地の夜空には、時折、パチパチと紫色の電光が走ることがある。荒野を駆ける遠雷だ。その激しく、孤独に鳴り響く雷の光が、どこか自分自身の生き様のように思えて、エリスは目を細めた。

「ルディ。あんたは今、どこで何をしてるのよ」

窓ガラスに額を押し付け、冷たさを感じながら、エリスは遥か遠くの空へと問いかけた。

届くはずのない言葉。それでも、言わずにはいられなかった。

「ボクは、あんたがびっくりするくらい、強くなってみせるわ。ギレーヌも、あのムカつく剣神も、みーんな叩きのめして、この世界で一番強い剣士になってみせる」

エリスは胸元に手を当てた。そこには、かつてルディから貰った、小さな魔術の教本の一部が、大切にお守りとしてしまわれていた。

「だから、あんたも絶対に死なないで待ってなさいよ。もしボクが迎えに行く前に、他の女とよろしくやってたら……絶対にただじゃおかないんだから!」

エリスは拳をギュッと握り締め、夜空に向かって不敵に笑ってみせた。

彼女の心にあるのは、もはや悲壮感だけではない。必ずルディの元へ帰るという、絶対の確信と、ボクが彼を守るという誇り高き意志だった。

翌朝、夜明け前のまだ薄暗い時間。

剣の聖地の荒野には、再び、空気を切り裂く凄まじい爆音が響き渡っていた。

ドシュッ! ドシュッ!

昨日よりも一回り鋭く、そして重みを増したエリスの剣が、灰色の世界を切り裂いていく。

彼女の修行は、これからも続いていく。あの愛おしい少年の元へ、胸を張って「本気で」駆け抜けるその日まで。


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