十六歳になって、まだ数日しかたっていなかった。
だからつばきは、自分が少しくらい大人になったような気でいた。
新人メイドとして宮殿へ勤め始めたばかりとはいえ、教えられた仕事はきちんと覚えた。
ベッドを整える速さも、銀食器を磨く丁寧さも同期の中では悪くない。
廊下ですれ違う人へ自然に挨拶できるところは、教育係からも褒められている。
この調子なら、しばらくは先輩たちの手伝いをしながら仕事を覚えていくのだろう。
そう思っていた。
今朝、大臣に呼び出されるまでは。
「本日より、若王子殿下付きの侍女を務めてもらいたい」
執務室の机を挟み、大臣はそう告げた。
あまりにも急だったため、つばきは返事をするまでに三秒ほどかかった。
「……私がですか?」
「そうだ」
「今日から?」
「そうだ」
「殿下付きの、侍女?」
「先ほどから同じことを言っている」
「すみません。聞き間違いかなと思いまして」
「聞き間違いではない」
大臣の表情は真剣だった。
冗談を言っているようには見えない。
そもそも大臣が、新人メイドをわざわざ呼び出して冗談を言う理由もなかった。
「でも私、入ったばかりですよ?」
「承知している」
「宮殿の中も、まだ全部覚えてませんし」
「それも承知している」
「若王子殿下にお会いしたこともありません」
「今から会えばよい」
きっぱりと言われ、つばきは口を閉じた。
大臣直属の命令である。
新人の自分に断るという選択肢は、最初からないらしい。
「何か特別な理由があるんでしょうか」
「適性を考慮した結果だ」
「適性」
「若王子殿下のそばで働くために必要なものを、君は持っている」
そこまで言われると、少しだけ期待してしまう。
もしかすると自分には、まだ気づいていない才能があるのかもしれない。
気配りだろうか?礼儀だろうか?
それとも、誰とでもすぐに打ち解けられるところを評価されたのだろうか。
「私、頑張ります」
「うむ」
「若王子殿下のお役に立てるよう、一生懸命務めますね」
「その意気だ」
大臣は深くうなずいた。
「くれぐれも無理はしないように」
「はい」
「危険だと思ったら、頭を守れ」
「……はい?」
「それから、壁際にはなるべく立たないほうがよい」
「どうしてですか?」
「行けばわかる」
大臣はそれ以上、何も説明してくれなかった。
つばきは妙な不安を抱えたまま、若王子のいる研究室へ向かうことになった。
田島波留宮殿の地下。
長い階段を下り、いくつもの頑丈な扉を通り抜ける。奥へ進むほど廊下の壁が厚くなっていくように見えた。
若王子殿下は十歳にして月面都市建設計画を成功させ、世界中の学者が教えを請う存在である。
そんなすごい人のところへ行くのかと思うと身が引き締まる。
途中には、『爆発時は落ち着いて伏せてください』という案内板まで立っている。
「研究室って、爆発するものなんですかね……」
独り言に答える者はいない。
つばきは胸元のリボンを整え、目的の扉の前に立った。
扉には大きく『ヤマトレオン・第一研究室』と書かれている。その下に小さな紙が貼ってあった。
『勝手に入るな。入るなら三回ノックせよ。返事がなくても俺様はたぶんおる』
「入っていいのか悪いのか、どっちなんでしょう」
つばきは言われたとおり三回ノックした。
返事はない。
もう一度ノックする。
やはり返事はない。
「失礼いたします」
慎重に扉を開けた。
最初に目に入ったのは、巨大な機械だった。
天井まで届きそうな金属製の輪がいくつも重なり、その中心で青白い光が明滅している。床には数え切れないほどの配線が走り、机の上には工具や部品、紙束、半分だけ食べられた菓子が乱雑に積まれていた。
研究室というより、機械の森である。
その真ん中に、小さな背中が見えた。
白衣を着た男の子が、椅子の上に片膝を立てて作業台をのぞき込んでいる。
つんつんと跳ねた黒髪。
細い肩。
年齢は聞いていたとおり、十歳ほどにしか見えない。
この子が若王子殿下。
アララ王国最高の頭脳を持ち、世界の科学技術を一人で何百年も進めたとまで言われる天才。
もっと近寄りがたい人物を想像していた。
けれど実際に目の前にいるのは、作業台へ夢中で身を乗り出している、小さな男の子だった。
白衣の袖は少し長く、指先が半分隠れている。
床へ届かない足が、椅子の横でぶらぶら揺れていた。
かわいい。
つばきは思わずそう感じた。
もちろん王子に向かって口にするわけにはいかない。けれど、噂で聞く世界最高の天才と、目の前の十歳の男の子が、まだ頭の中でうまく重ならなかった。
「おい」
「はい!」
突然声をかけられ、つばきは背筋を伸ばした。
ヤマトがいつの間にか振り返っている。
猫のようにつり上がった目が、つばきを頭から足元まで眺めた。
「誰じゃ、おぬし」
「本日より若王子殿下付きの侍女を務めさせていただきます、つばきと申します」
「つばき」
「はい」
「苗字は?」
「ありません」
「そうか」
ヤマトは椅子から飛び降りた。
つばきの前まで歩いてくると、遠慮なく顔を見上げる。
近くで見ると、やはり十歳の男の子だった。
生意気そうな目つきをしている。口元から少しのぞく八重歯も、本人の自信の強さを表しているようだった。
けれど、小さい。
つばきより頭一つ以上低い。
「十六歳か?」
「はい。数日前になったばかりです」
「新人じゃな」
「そうです」
「殿下付きの経験は?」
「ありません」
「実験助手は?」
「それもありません」
「科学知識は?」
「学校で習った範囲でしたら」
「ほとんどないということじゃな」
「そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですかぁ」
つい普段の調子で返してしまい、つばきは口を押さえた。
「申し訳ありません」
初対面の王子に対する言葉ではなかった。
怒らせたかもしれない。
しかしヤマトは怒るどころか、少しだけ目を丸くしたあと、口元をにやりと上げた。
「俺様に言い返すのか」
「いえ、その、失礼いたしました」
「おもしれー女だから別によい」
ヤマトはつばきの周囲を一周した。
「逃げもせんのじゃな」
「逃げるようなことがありました?」
「さあの」
「その言い方、ちょっと怖いです」
「でっひゃひゃひゃひゃ!」
ヤマトが突然、大きな声で笑った。
目が糸のように細くなり、八重歯がはっきり見える。
笑うとずいぶん幼くなる。
「気に入ったぞ、つばき」
「ありがとうございます」
「では服を脱げ」
「えぇ!?」
つばきは両腕で自分の年齢の割には大きな胸元を隠し、反射的に数歩後ずさった。
「な、何をおっしゃってるんですか!?」
「服を脱げと言ったんじゃ」
「聞こえてました! 聞こえてましたけど、どうしてですか!?」
「着たままでは着られんじゃろ」
「何を!?」
「何をそんなに慌てておる」
「慌てますよ! 初対面ですよね、私たち!」
「それがどうした」
「どうしたって……若王子殿下、そういうことを簡単に女の子へ言っちゃだめですよ!」
「何を勘違いしておるんじゃ」
ヤマトは呆れたように眉をひそめると、作業台の横に置かれた銀色の箱を開けた。
中には黒い布のようなものが折りたたまれている。
取り出して広げると、人の体にぴったり沿う形をした全身用のスーツだった。
「これを着せるに決まっておるじゃろ」
「……これ?」
「半重力利用型全身機動スーツ、略して半用型スーツなのじゃ」
ヤマトは当然のように言った。
「服の上からでは計測に誤差が出る。下着の上に直接着る必要があるんじゃ」
「先に説明してくださいよ!」
「聞かれなかったからのう」
「服を脱げって言われたら、普通はいろいろ考えます!」
「何をじゃ?」
「それは……いろいろです!」
「変なやつじゃな」
「若王子殿下にだけは言われたくないです」
また言い返してしまった。
けれどヤマトは楽しそうだった。
「そこの衝立を使え。着方は内側に書いてある」
「私が着るんですか?」
「ほかに誰がおる」
「若王子殿下が着ればいいじゃないですか」
「俺様は記録をせねばならん」
「一人でできないんです?」
「できる」
「じゃあ、ご自分で」
「嫌じゃ」
「なんでですか!」
「失敗したとき危ないじゃろうが!」
「私ならいいんですか!?」
「おぬし、丈夫そうじゃからな」
つばきは言葉を失った。
大臣の言葉が頭によみがえる。
『危険だと思ったら頭を守れ』
『壁際には立たないほうがよい』
「もしかして、私が殿下付きに選ばれた理由って……」
「知らん。俺様が選んだわけではないからのう」
「そうですよね……」
「早くせい。時間がもったいない」
「はいはい、わかりましたよ」
「返事は一回じゃ」
「はい」
つばきはスーツを抱え、衝立の裏へ回った。
メイド服を脱ぎ、説明どおりに黒いスーツへ足を通す。
見た目は薄い布なのに、触ると少しひんやりしている。
体を通すたび自動的に縮み、つばきの手足へぴったり合った。
首元まで引き上げると、小さな音が鳴り響く。
『着用者を認証しました』
「しゃべった!」
「当然じゃ。音声案内機能じゃ」
「びっくりするので先に言ってください!」
「おぬしは注文が多いのう」
「初日から説明が足りないんですって!」
つばきはスーツの上からメイド服を着直そうとした。
「そのまま出てこい」
「えぇ?」
「服を着たら動きが見えんではないか」
「でも、これ、体の形がかなり出るんですけど」
「計測用じゃからな」
「少し恥ずかしいです」
「誰も気にせん」
「若王子殿下しかいないから言ってるんですよ」
「俺様も気にせん」
「そういう問題でしょうか……」
仕方なく、つばきは衝立から出た。
ヤマトは彼女の姿そのものには興味を示さず、手首や足首についた装置を確認している。
「サイズ自動調整は問題なし。神経伝達補助も正常じゃな」
「これ、本当に安全なんですか?」
「理論上はな」
「理論上」
「まだ誰も着たことがない」
ヤマトはこちらを見ずに書類越しに答える。
「今すぐ脱いでもいいです?」
「だめじゃ」
「やっぱり大臣に相談してから」
「俺様の命令と大臣の命令、どちらを聞くんじゃ」
「すごく困る質問ですね」
「殿下付きなら俺じゃろ」
「こういうときだけ立場を使うんですね……」
ヤマトは満足そうに操作盤へと向かった。
「まずは音声テストじゃ、聞こえるか?」
ヤマトの子供の声でありながらも、少し年老いたような口調が耳に響く。
「通常歩行を開始する。そこを歩いてみよ」
つばきは慎重に一歩踏み出した。
体が少し軽い。
二歩、三歩と進むうちに、その違いがはっきりしてくる。足裏が床へ触れる時間が短い。まるで体重が半分になったようだった。
「わあ……」
「どうじゃ?」
「すごく軽いです」
「現在、重力負荷を六十パーセントまで減らしておる」
つばきはその場で足踏みをした。
動きやすい。
腕を上げても、足を曲げても、ほとんど重さを感じない。
「これ、ずっと動いてても疲れなさそうですね」
「その程度の機能で驚くんじゃあない。これは移動用スーツじゃ」
「移動用?」
「軽く跳んでみよ」
つばきは床を見た。
「軽くでいいんですよね?」
「うむ。ほんの軽くじゃ」
「天井にぶつかったりしません?」
「この出力ならせいぜい三メートルじゃ」
「三メートルって十分高くないですか!?」
「研究室の天井は十二メートルある。問題ない」
「そういう問題じゃない気もしますけど……」
「早くせい」
「はいはい」
つばきは膝を軽く曲げた。
普段なら、ほんの二十センチほど浮く程度の力で床を蹴る。
次の瞬間、体が上へ飛んだ。
「きゃあああ!」
床が一気に遠ざかる。
机の上を越え、機械の輪を横切り、つばきは三メートルほどの高さまで跳び上がった。
体がふわりと止まる。
そのまま、ゆっくり床へ降りていく。
足が着いた瞬間、つばきは目を輝かせた。
「すごい!」
「じゃろう!」
「今、すごく高く跳びましたよ!」
「三・二メートルじゃな」
「もう一回やってもいいですか?」
「よいぞ」
つばきは今度は少し強めに床を蹴った。
四メートル。
さっきより高い。
体が羽のように軽い。
「すごい、すごい!」
着地するなり、もう一度跳ぶ。
今度は前へ。
床を蹴るたび、研究室の中を大きく飛び越えられる。
机から机へ、機械の隙間を抜けて、金属の足場へ。
不安はすぐに消えていた。
体が軽くなる感覚。
空中へ浮かぶ瞬間。
風が頬をなでる気持ちよさ。
「若王子殿下、これ楽しいです!」
「でっひゃひゃひゃひゃ! そうじゃろう!」
「空まで飛べそう!」
「ふむ、飛べるぞ」
「えっ?」
ヤマトが操作盤のレバーを押し上げた。
「出力上昇じゃ!」
背中にある装置から、低い駆動音が響く。
つばきの足が床から離れた。
「わっ」
今度は跳んでいない。
体が勝手に浮いていく。
一メートル、二メートル、三メートル。
つばきは手足を動かしながら、研究室の天井近くまで上昇した。
「本当に飛んでる!」
「半重力場で重力をほとんど相殺しておる。姿勢制御装置を使えば自由に移動できるぞ」
「どうやるんですか?」
「右手を前へ出せ」
つばきが右手を伸ばす。
体がゆっくり前へ進んだ。
「わあ!」
「手の向きで進行方向を決めるんじゃ。左手を出せば左へ曲がる」
つばきは言われたとおりに動いた。
少しぎこちないものの、空中で曲がれた。
大きな機械を避け、研究室の中を一周する。
「すごいですよ、これ!」
「そうじゃろう、そうじゃろう!」
「鳥みたいです!」
「速度を上げれば、町の外まで一息じゃ!」
「お仕事に使えそうですね!」
「そうじゃ! 階段も廊下も無視して飛べる!」
「お掃除道具を運ぶのも楽になりそう!」
「なぜ最先端の発明を掃除へ使うんじゃ!」
「私、メイドですから」
つばきは空中で笑った。
ヤマトも操作盤の前で笑っている。
初対面の緊張など、いつの間にかなくなっていた。
生意気で、説明が足りなくて、人使いも荒い。
けれど自分の発明を褒められたときの顔は、年相応の男の子そのものだった。
やっぱりかわいいかもしれない。
つばきがそう思った瞬間、背中の装置が大きく鳴った。
『出力、規定値を超過』
「えっ?」
体が急に加速した――
「きゃっ!」
「なんじゃ!?」
つばきは研究室の端から端まで、一気に飛んだ。
慌てて右手を引く。
止まらない。
「若王子殿下、止まりません!」
「緊急制御装置を使え!」
「どうやるんですか!?」
「胸元の赤いボタンじゃ!」
「赤いボタンが三つあります!」
「一番大きいやつ!」
「全部同じ大きさですよ!」
「なぜじゃ! 設計図では違ったぞ!」
「作ったの若王子殿下ですよね!?」
壁が迫る。
つばきは慌ててボタンを一つ押した。
『飛行速度を上昇します』
「違うやつ押したようです!」
「それではない!」
「先に言ってくださいよぉ!」
さらに加速する。
風で髪が後ろへ流れた。
「止めてください!」
「今やっておる!」
ヤマトが操作盤を叩く。
「緊急停止!」
『緊急制御装置から応答がありません』
「なんでじゃ!」
「こっちが聞きたいです!」
「つばき、頭を守れ!」
「初日に聞きたくない指示です!」
つばきは両腕で顔を覆った。
そのまま研究室の壁へ激突する。
どごおおおん、と大きな音が響いた。
壁に人の形の穴が開く。
つばきは勢いを失わないまま、隣の廊下へ飛び出した。
「まだ止まりません!」
「左手を下へ向けろ!」
「こうですか!?」
左手を床へ向ける。
つばきの体は急降下した。
「逆じゃあああ!」
床へ突っ込み、石材を砕きながら長い溝を作る。
ようやく速度が落ちた。
つばきは廊下の真ん中で、うつ伏せに倒れた。
数秒の沈黙。
背中の装置から、細い煙が立ち上る。
『飛行試験を終了します』
「終了するのが遅いですよ……」
つばきはかすれた声でつぶやいた。
研究室の壁に開いた穴から、ヤマトが顔を出した。
「つばき!」
「はい……」
「生きておるか!?」
「なんとか……」
つばきがゆっくり顔を上げる。
額に少しすすがついている。髪は乱れ、全身スーツにも白いほこりが積もっていた。
それでも大きなけがはない。
ヤマトはつばきの無事を確かめると、すぐに小型端末を取り出した。
「すばらしい!」
「何がですか……」
「最高速度、時速百八十七キロ! 壁への激突時もスーツ本体に破損なし! 着用者も意識あり!」
「実験データを取ってる場合ですか!?」
「貴重な初回飛行データじゃぞ!」
「私、壁にぶつかったんですけど!」
「それも記録した!」
「記録しないで助けてくださいよ!」
ヤマトは端末へ夢中で数値を打ち込んでいる。
「緊急制御装置の信号経路に不具合あり。赤いボタンは形を変える必要あり。壁への衝突時、着用者の姿勢が崩れる問題もあるのう」
「壁にぶつからないようにしてください!」
「次はそこを直す」
「次」
つばきは床へ手をついたまま固まった。
「今、次って言いました?」
「当然じゃ。改良型を作らねばならん」
「誰が着るんですか?」
ヤマトが顔を上げた。
つばきを見る。
つばきもヤマトを見る。
二人の間に短い沈黙が落ちた。
「おぬしじゃ」
「私、今日が初日なんですけど!」
「だから何じゃ」
「これから毎日こうなるんですか!?」
「毎日ではない」
「よかった……」
「新しい発明が完成した日だけじゃ」
「それ、ほとんど毎日じゃないですか!?」
「俺様は天才じゃからの!」
「私、どうなるのぉ!?」
つばきの嘆きが、壊れた壁と廊下へ響き渡った。
ヤマトは端末を抱えたまま、八重歯を見せて笑う。
「でっひゃひゃひゃひゃ! 心配するな。おぬしは丈夫じゃ!」
「全然安心できません!」
「それに面白い!」
「気に入る理由がひどいですよ!」
「これからよろしく頼むぞ、つばき!」
ヤマトが手を差し出した。
つばきは床へ座ったまま、その小さな手を見つめた。
断れるものなら断りたい。
今すぐ大臣のところへ戻り、人選を考え直してほしいと頼みたい。
けれどヤマトは楽しそうだった。
初めて会ったばかりなのに、もうずっと前からの知り合いのような顔で笑っている。
つばきは小さく息を吐いた。
「……よろしくお願いします、若王子殿下」
差し出された手を握る。
ヤマトは満足そうにうなずいた。
「うむ!」
「でも次からは、実験の前にちゃんと説明してくださいね」
「気が向いたらな」
「そこは約束してください!」
そのころ、研究室から少し離れた廊下では、大臣とメイド長が壁に開いた人型の穴を眺めていた。
穴の向こうからは、つばきの抗議する声と、ヤマトの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
メイド長は深いため息をついた。
「大臣閣下」
「何だね」
「なぜ新人のあの子を、若王子殿下付きに選んだのですか?」
「適性を考慮した結果だ」
「新人ですよ。まだ十六歳になったばかりです」
「承知している」
「礼儀や気配りは申し分ありませんが、科学の知識もありません」
「それも承知している」
メイド長は廊下に刻まれた長い溝へ目を落とした。
普通の人間なら、壁へ激突した時点で医務室へ運ばれている。
しかしつばきは、もう自分の足で立ち上がり、ヤマトへ文句を言っていた。
「では、何を基準に?」
大臣は腕を組み、落ち着いた声で答えた。
「あの子は人より頑丈だったからさ」
メイド長はしばらく黙った。
研究室から、つばきの声が響く。
「服を脱げって言うときは、先に理由を説明してください!」
「まだ気にしておったのか!」
「気にしますよ!」
「でっひゃひゃひゃひゃ!」
メイド長はもう一度、深いため息をついた。
「……ほかに理由は?」
「若王子殿下と話が合いそうだった」
「今、付け足しましたね?」
「気のせいだ」
二人の前を、壊れた機械の部品が煙を上げながら転がっていった。
「若王子殿下!」と叫ぶつばきの声があたりに響く。
その直後、廊下を歩く兵士が
「ああ、またバカ王子殿下がやらかしたのか」
と当たり前のように流す。
これがここでは日常なのだ。
こうして、つばきの殿下付き侍女としての初日は終わった。
壊れた壁、一枚。
壊れた床、十二メートル。
半重力スーツ、一着。
そしてヤマトが、新しい侍女をすっかり気に入るまでにかかった時間。
およそ十五分。
つばきが自分の人選理由を知るのは、それからずっと先のことだった。
悠里ちゃんの二章ラストまで書いていたテキストが入ったPCが中のデータごと吹っ飛びました。
外付け補完し忘れてる自分が憎い!