予行演習から時間がたった。
その間、ヤマトは毎朝のように日付を確認した。
「姉上が来るまで、あと何日じゃ」
「昨日から一日減ってますよ」
「それは知っておる!」
「では聞かなくてもいいのでは?」
「つばきの計算が間違っておるかもしれんじゃろ」
「一日くらいなら数えられますよ」
「信用ならん!」
そう言いながらも、翌朝になるとまた同じことを聞いた。
予定日まで一週間を切ってからは、さらにひどかった。
夜になっても眠れないと言いながら研究室で歓迎用の装置を作り、昼間になると机へ突っ伏して眠った。つばきが起こそうとしても、姉の名前を呼びながら抱き枕へしがみついて離さない。
それでも本人は、昼寝は睡眠に含まれないと言い張った。
そして、ついに当日を迎えた。
アララ王国国際空港には、朝から多くの人々が集まっている。
海外の要人を待つ役人。企業の客を出迎える社員。
遠方から戻る家族を待つ者たち。
その中に、一際目立つ少年が立っていた。
珍しく白衣ではなく余所行きの姿をしたヤマトは、両手で巨大な旗を掲げている。
赤、青、金。
荒波を越える船と、大きく跳ねた魚。
その中央には、黒々とした文字でこう書かれていた。
『おいでませ姉上』
どう見ても、漁船に掲げる大漁旗だった。
「若王子殿下」
隣に立つつばきが、周囲の視線を気にしながら声をかけた。
「なんじゃ」
「さすがに、その旗はどうかと思います」
「何がじゃ」
「大漁旗ですよね?」
「めでたそうじゃろ」
「お姉さま、魚じゃないですよ」
「姉上の帰国は大漁よりめでたい!」
「そこは否定しませんけど、もう少し普通の旗があったんじゃないですか?」
「普通では目立たん」
「目立ちすぎてますよ」
何人かの旅行客が旗を背景に記念写真を撮っている。
空港職員まで、遠巻きに眺めていた。
ヤマトはまったく気にせず、旗をさらに高く掲げる。
「姉上が出口から出た瞬間、俺様の居場所を見つけられるようにしたんじゃ」
「若王子殿下のそのつんつんした髪だけでも、結構見つけやすいと思いますけど」
「人の頭を目印にするな!」
「でも目立ちますよ?」
「これは王家の威厳じゃ!」
「便利ですねえ、王家の威厳」
つばきが旗の魚を見上げる。
「大臣閣下は、止めなかったんですか?」
「俺様は一週間前から楽しみにしておったんじゃぞ!」
ヤマトは答えになっていない返事をした。
「夜も眠れんかった!」
「昼間は寝てましたよね」
「夜に眠れんかったんじゃ!」
「昨日は午後から夕方まで、ぐっすりでしたけど」
「昼寝は昼寝じゃ!」
「十分寝てますよ」
「姉上を楽しみに待つ俺様の気持ちを考えてみろ!」
ヤマトの声には、珍しく飾り気がなかった。
つばきは一瞬だけ返事に詰まる。
ここ一週間、ヤマトがどれだけ楽しみにしていたのかは知っている。
毎日到着予定を確かめ、迎えの車を三度も点検し、姉が歩く場所に小石が落ちていないかまで確認していた。
宮殿では料理の試作も繰り返した。
姉の肖像画は、前回の六十三枚から五十枚へ減らすことに成功した。
五十枚でも多いという意見は、最後まで聞き入れられなかったのだが……
残りの肖像画十三枚は全部王子の部屋に飾ることにした。
「……そう言われると、もう何も言えませんね」
「じゃろう!」
ヤマトは勝ち誇り、VIP専用出口へ向き直った。
「そろそろじゃな」
「飛行機はもう着陸してますね」
「姉上は王族じゃ。VIP専用出口から現れるに決まっておる!」
「そうですね」
「俺様を見たら、きっと走って抱き締めてくれるぞ」
「お姉さま、走るでしょうか」
「走る!」
「そうですか」
「姉上は俺様が大好きじゃからな!」
「若王子殿下も大好きなんですね」
「当然じゃ!」
それから十分が過ぎた。
VIP専用出口は開かない。
二十分。
要人らしい老人と、その随行員が出てきただけだった。
三十分。
ヤマトは旗を持ったまま、落ち着きなく足踏みを始めた。
「遅いのう」
「荷物を待ってるのかもしれませんよ」
「姉上に荷物を待たせるとは、空港は何をしておる!」
「普通に待つものです」
「俺様が取りに行く!」
「入っちゃだめですよ」
「王子じゃぞ!」
「空港の決まりです」
「この国は俺様の国じゃ!」
「だからこそ、決まりは守ってください」
つばきがヤマトが来ている服の裾をつかむ。
ヤマトは不満そうに出口を見つめた。
「姉上ぇ……」
その声は、先ほどまでの威勢が嘘のように弱々しかった。
『まるで借りてきた猫みたい』
つばきは少し笑いそうになったが、さすがに我慢した。
そのとき、二人の背後から柔らかな声がした。
「あらあら~」
ヤマトの肩が跳ねる。
「ヤマトじゃない」
聞き間違えるはずがない。
ヤマトは勢いよく振り返った。
一般到着口から、一人の女性が旅行鞄を引いて歩いてくる。
柔らかな茶色の髪。
穏やかな目元。
王宮の回廊に飾られている、先の王妃の肖像画と見間違えるほどよく似た顔。
その隣には、少々さえないスーツ姿の男性がいた。
「あ、姉上!」
ヤマトは大漁旗をその場へ放り出し、全力で駆け出した。
「なんでそっちなんじゃ!」
「あらあら」
大成キクコは両腕を広げる。
飛び込んできた弟を受け止め、そのままぎゅっと抱き締めた。
「普通のお席で来たのよ」
「VIP席ではなかったのか!」
「飛行機は飛べれば同じでしょう?」
「違う!」
「功さんとお隣に座れて、楽しかったわ」
ヤマトの表情が一瞬だけ固まった。
しかしすぐにキクコの胸へ顔を埋める。
「姉上!」
「はいはい」
「会いたかった!」
「私もよ」
キクコはヤマトの跳ねた髪を優しく撫でた。
「あらあら。少し背が伸びた?」
「五センチじゃ!」
「まあ、立派になったわねえ」
「発明もたくさんした!」
「聞いているわ」
「国もちゃんと治めておる!」
少し遅れて追いついた大臣が、遠くを見た。
つばきも空港の天井を見上げた。
キクコだけは何も疑わず、うれしそうに笑っている。
「ヤマト君」
横から男性が声をかけた。
キクコの夫、大成功――大成功だった。
四年前、仕事の出張でアララ王国を訪れた、ごく普通の会社員。
そのとき偶然キクコと出会い、一目惚れされた。
その日のうちに結婚したという、普通という言葉から少しだけ外れた経歴を持っている。
「久しぶり」
功が穏やかに手を上げる。
「元気だった?」
「……」
ヤマトは返事をしなかった。
聞こえていないように、キクコへさらに強く抱きつく。
「姉上!」
「はいはい、ここにいるわよ」
「姉上は元気だったか!」
「元気よ」
「ヤマト君?」
「姉上!」
「やっぱり無視かあ」
功は困ったように笑った。
怒っているようには見えない。
つばきはそっと功へ頭を下げた。
「申し訳ありません」
「大丈夫、大丈夫」
「いつもこうなんですか?」
「四年前からずっと」
「慣れてるんですね」
「まあ、少しは」
功が笑う。
「でも、返事をしてくれた日もあるよ」
「何回くらいです?」
「三回くらいかな」
「四年間で?」
「うん」
「それは少ないですねえ」
「この前会ったときは、お茶を取ってくれって言われた」
「命令じゃないですか」
「会話には違いないから」
功は満足そうだった。
つばきは、ヤマトがこの人を嫌いきれない理由が少しわかった気がした。
「ところでヤマト君、その旗は?」
功が床に落ちた大漁旗を指さす。
ヤマトは無視したまま、旗を拾った。
「姉上、見よ!」
「あらあら」
「姉上を迎えるために作らせたんじゃ!」
「お魚がいっぱいねえ」
「めでたいじゃろ!」
「ええ、とっても」
キクコは恥ずかしがるどころか、心からうれしそうに笑っていた。
つばきはもう何も言わないことにした。
似た者姉弟なのかもしれない。
王宮へ到着すると、正門から大広間まで赤い絨毯が敷かれていた。
楽団が一斉に演奏を始める。
衛兵たちは整列し、料理人や使用人たちも一列に並んで頭を下げた。
庭園には季節の花。
回廊には金色の飾り。
壁にはキクコの肖像画が五十枚。
「あらあら……」
キクコもさすがに足を止めた。
「これは、少し恥ずかしいわねえ」
「姉上のためじゃ!」
「こんなに私の顔を飾らなくてもよかったのよ?」
「本当は二百枚用意する予定だったんじゃ」
「つばきさんが止めてくれたの?」
「はい。なんとか五十枚まで」
「ありがとう」
「五十枚でも多いと思うんですけどね」
「姉上の美しさを表すには足りん!」
「あらあら」
キクコは頬へ手を当てる。
「ヤマトは昔から大げさねえ」
「大げさではない!」
「でも、うれしいわ」
「そうじゃろ!」
ヤマトは満足そうに胸を張った。
その後ろで、功が二人分の旅行鞄を持ち直す。
「ヤマト君。荷物はどこへ置けばいいかな?」
「……」
「客室でいい?」
「姉上!」
「はい?」
「こちらじゃ! 料理もいっぱいあるぞ!」
「まあ、楽しみね」
「ヤマト君、荷物だけでも」
「姉上!」
見事なまでの無視だった。
つばきはしばらく見守っていたが、さすがに気の毒になった。
「若王子殿下」
「なんじゃ」
「功さまにも返事をしてあげたらどうです?」
「なぜじゃ」
「さすがに、ずっと無視するのはやりすぎだと思いますよ?」
ヤマトは功をちらりと見る。
すぐに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「あやつは王家の宝を盗んでいった泥棒猫じゃ」
「泥棒猫って」
「姉上をアララ王国から連れ去ったんじゃぞ!」
「結婚ですよね?」
「その日のうちにじゃ!」
「それは、まあ、驚きますけど」
「城へ入れてやっておるだけ、ありがたいと思ってほしいものじゃな!」
つばきは言葉に詰まった。
キクコは王女だった。
母のいないヤマトにとって、姉であり、母代わりでもあった人物。
その姉が、出会ったその日に結婚すると言い、日本へ行ってしまった。
ヤマトからすれば、たしかに突然奪われたように感じたのかもしれない。
「でも、功さまはちゃんとお姉さまを大事にしてるんですよね?」
「それは当然じゃ!不幸にしてるならば死刑じゃ!」
「だったら少しくらい」
「当然のことをしておるだけじゃ!」
「そうですけど」
功は旅行鞄を抱えながら苦笑する。
「気にしてないよ」
「本当にすみません」
「ヤマト君は昔から優しいからね」
「誰がじゃ!」
ヤマトがすぐに振り返った。
功は笑顔を崩さない。
「聞こえてたんだ」
「おぬしの声が大きかっただけじゃ!」
「普通の声だったけどなあ」
「俺様は耳がよいんじゃ!」
「じゃあ、さっきまでの話も聞こえてた?」
「聞こえておらん!」
「どっちなの?」
「うるさい!」
キクコが口元を押さえて笑う。
「二人とも仲良しさんねえ」
「仲良くない!」
「そうかなあ」
「功は黙れ!」
初めて名前を呼ばれた功が、少しだけ目を見開いた。
「今、名前で呼んでくれたね」
「呼んでおらん!」
「呼んだよ」
「気のせいじゃ!」
「そういうことにしておくよ」
「なんじゃ、その言い方は!」
つばきは二人を見比べる。
無視しているときより、ずっと会話になっていた。
ヤマト本人は気づいていないだろう。
その日は、宮殿中が夜までにぎやかだった。
ヤマトはキクコの隣から離れようとしなかった。
料理を一つずつ説明し、自分の発明を見せ、最近行った政務については少しだけ内容を盛って話した。
キクコは何を聞いても「あらあら」と笑い、弟の頭を撫でた。
功が会話へ加わろうとすると、ヤマトは一度は無視した。
けれど功が日本の新しい菓子や玩具の話をすると、横を向きながら聞き耳を立てていた。
「この前、新しい遊園地ができたんだ」
「ふん」
「大きな空中回転式の乗り物があるらしいよ」
「俺様ならもっと速いものを作れる」
「乗ってみたい?」
「興味などない」
「じゃあ今度、三人で行こうか」
「姉上と俺様の二人でよい!」
「じゃあ、僕は荷物持ちかな」
「勝手についてくるな!」
「はいはい」
追い払っているようで、完全には拒絶していない。
つばきには、それがおかしかった。
夜も遅くなり、宮殿が静まり返ったころ。
つばきは仕事を終え、自室へ戻ろうとしていた。
廊下の窓から月明かりが差し込んでいる。
「つばきさん」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、キクコが一人で立っていた。
昼間の華やかな服から、落ち着いた部屋着へ着替えている。
「お姉さま。まだ起きていらしたんですか?」
「少しだけ眠れなくて」
「あら、若王子殿下と一緒ですね」
「あらあら。そうなの?」
「来られる一週間前から、夜は眠れないって言ってました」
「昼間は?」
「よく寝てました」
「あらあら」
キクコは楽しそうに笑ったあと、少しだけ表情を和らげた。
「少し、お話してもいいかしら?」
「もちろんです」
二人は廊下の窓辺へ並んだ。
夜の庭園には、歓迎用の花がまだ咲いている。
昼間の演奏も歓声も消え、噴水の水音だけが静かに聞こえた。
「ヤマトは、いつもあんな感じ?」
「どのあたりでしょう」
「元気で、皆さんを困らせていて、それでも皆さんに囲まれているところ」
「だいたい、いつもです」
「そう」
キクコはほっとしたように息を吐いた。
「あの子ね、私が結婚すると話したとき、泣かなかったの」
「そうなんですか?」
「ええ」
キクコの視線が、庭園の奥へ向く。
「功さんと出会ったその日に、私はこの人と結婚するって決めたでしょう?」
「はい」
「家族や大臣たちに伝えたら、皆びっくりしていたわ」
「それは驚くと思います」
「あらあら。私も今考えると、少し急ぎすぎたかしらねえ」
「少しでしょうか」
「でも、今も幸せだから」
キクコは穏やかに笑った。
「でもね…ヤマトだけは、何も言わなかったの」
「何も?」
「最初に少し黙って、それから『そうか。幸福を祈ってる』って」
つばきは昼間、姉へ抱きついて離れなかったヤマトを思い出した。
「笑っていたのよ」
「若王子殿下が?」
「ええ。とてもきれいに」
キクコの声が少しだけ寂しくなる。
「でも、あの子があんなふうに笑うときは、本当の気持ちを隠しているときなの」
「お姉さまに心配をかけたくなかったんでしょうね」
「そうだと思うわ」
「平気なふりをしただけです」
つばきは庭園を眺めながら答えた。
「若王子殿下って、そういう子ですからね」
「そういう子?」
「自分が寂しいって言ったら、お姉さまが困ると思ったんですよ」
「……そうね」
「だから我慢したんです。自分が泣くより、お姉さまが笑ってるほうを選んだんだと思います」
キクコはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「あらあら」
「今も功さまを嫌ってるように見せてますけど、たぶん本気で嫌いなわけじゃないですよ」
「そうかしら」
「だって、本気で嫌いなら名前も呼びませんし、話も聞きません」
「たしかに、今日は名前を呼んでいたわね」
「すぐ否定してましたけど」
「あらあら」
「本当は仲良くしたいんじゃないですかねえ」
「では、どうしてあんなに無視するのかしら」
「素直じゃないからです」
つばきは迷わず答えた。
「家族のことになると、特に」
「あなたは、ヤマトのことをよく見ているのね」
「殿下付き侍女ですから」
「まだ仕え始めたばかりでしょう?」
「そうですけど、若王子殿下ってわかりやすいですよ」
「本人が聞いたら怒りそうねえ」
「絶対怒りますね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「私ね――」
キクコが庭園へ目を戻す。
「日本へ行ってからも、あの子のことがずっと心配だったの」
「はい」
「父もいなくなってしまって、母のことも知らなくて。私まで国を出てしまったでしょう?」
先王が亡くなったのは、つばきが宮殿へ奉公する少し前だった。
王妃は、ヤマトが生まれたときに亡くなっている。
ヤマトに残された一番近い家族は、遠く日本で暮らす姉だけだった。
「でも、今日見て安心したわ」
キクコは宮殿の奥を振り返る。
「大臣さんも、皆さんも、あなたも」
「私もですか?」
「ええ」
キクコは優しく微笑んだ。
「あの子を叱って、笑って、追いかけてくれている」
「追いかけるのは、だいたい政務とかから逃げるからですけどね」
「あらあら」
「でも若王子殿下は、寂しくないと思いますよ」
「そうね」
「寂しくなる暇もないくらい、毎日何かやらかしてますから」
「それなら安心だわ」
キクコはつばきの手へ、そっと自分の手を重ねた。
「これからも、あの子をよろしくね」
「はい」
「少しわがままだけど」
「…少しですか?」
「…とてもわがままだけど」
「はい」
「優しい子だから」
「知ってます」
つばきが笑う。
「ちゃんと見ておきますね」
キクコは安心したように目を細めた。
「あらあら。よかった」
三日たち帰国の日が来た。
アララ空港の滑走路には、日本行きの飛行機が待っている。
ヤマトは行きと同じ大漁旗を持ってきていた。
文字だけが変わっている。
『また来ませい姉上』
「少しだけ言葉が変じゃないですか?」
「気持ちが伝わればよい!」
「そうですかねえ」
つばきはもう止めなかった。
キクコはヤマトの前へかがみ、両腕で抱き締める。
「ヤマト、楽しい三日間だったわ」
「次はもっと長くおれ」
「功さんのお仕事があるからねえ」
「仕事などやめればよい!」
「さすがに生活できなくなるでしょう?」
「俺様が養う!」
「ヤマトに甘えてばかりではいけないわ」
「姉上ならいくらでも甘えてよい!」
「ありがとう」
キクコはヤマトの髪を優しく撫でた。
「また来るわね」
「絶対じゃぞ」
「ええ」
「電話も毎日せよ」
「毎日ヤマトの相手してたら、功さんが寂しがるかもしれないわ」
「知ったことではない!」
「あらあら」
キクコはもう一度ヤマトを抱き締め、飛行機へ向かう。
入れ替わるように、功がヤマトの前へ立った。
「じゃあ、ヤマト君」
「……」
「元気でね」
ヤマトは答えない。
功は慣れた様子で笑い、キクコのあとを追おうとした。
「……おい」
小さな声が背中へ届く。
功が振り返った。
「何?」
ヤマトは功を見ていなかった。
腕を組み、明後日の方向へ顔を向けている。
「お前が姉上を守るんじゃ」
「……うん」
「姉上は少し天然じゃからな」
「知ってるよ」
「知らない人についていくかもしれん」
「さすがについていかないと思うけど」
「昔、おぬしについていったではないか!」
「あれは結婚したんだよ」
「同じようなものじゃ!」
「違うと思うなあ」
「とにかく!」
ヤマトはさらに顔をそらした。
「姉上を泣かせたら、俺様が許さん」
功は少しだけ目を丸くした。
それから穏やかに笑う。
「ありがとう、ヤマト君」
「勘違いするな!」
「え?」
「姉上が泣けば、俺様も迷惑なんじゃ!」
「……うん」
「おぬしのために言っておるのではない!」
「わかってる」
「本当にわかっておるのか!」
「ちゃんと守るよ」
「当然じゃ」
「また遊びに来るね」
「姉上を連れてこい」
「もちろん」
「おぬし一人では来るな」
「それは少し寂しいなあ」
「知らん!」
功は笑いながら、ヤマトへ小さく手を振った。
飛行機の階段を上る途中、キクコが振り返る。
「あらあら、功さん」
「何?」
「ヤマト、ちゃんとありがとうって言えたわね」
「言えてないよ」
「言っておらん!」
滑走路にヤマトの声が響いた。
キクコは楽しそうに笑う。
「姉上まで笑うな!」
「またね、ヤマト」
「絶対に来るんじゃぞ!」
「ええ~」
扉が閉じる。
飛行機はゆっくり滑走路を進み、速度を上げた。
大きな翼が地面を離れる。
ヤマトは旗を持ったまま、空を見上げていた。
飛行機が小さくなっても、まだ目をそらさない。
つばきはその隣へ並んだ。
「若王子殿下」
「なんじゃ」
「功さまに、ちゃんと言えたじゃないですか」
「何をじゃ」
「姉上をお願いしますって」
「命令しただけじゃ!」
「そういうことにしておきます」
「本当に命令じゃぞ!」
「はいはい」
「返事は一回じゃ!」
「はい」
少しの沈黙。
飛行機が雲の向こうへ消えていく。
ヤマトは旗の柄を握ったまま、小さく息を吐いた。
「……また来るとよいな」
「きっと来ますよ」
「姉上は約束を守るからのう」
「功さまも一緒に」
「姉上だけでよい!」
「でも功さまのお話、ちゃんと聞いてましたよね?」
「聞いておらん!」
「遊園地の乗り物、気になってたでしょう?」
「俺様ならもっとすごいものを作れると思っただけじゃ!」
「一緒に行きたいんです?」
「違う!」
「じゃあ、今度聞いてみますね」
「勝手なことをするな!」
つばきは笑った。
ヤマトはむっとした顔で空を見上げ続けている。
「若王子殿下って、家族のことになると本当に不器用ですよね」
少しだけ間があった。
「……うるさい」
ヤマトはそれだけ答え、つばきより先に歩き出した。
耳が少し赤くなっている。
つばきは気づいていたが、何も言わなかった。
代わりに、地面へ置き忘れられた大漁旗を拾い上げる。
「若王子殿下、旗を忘れてますよ」
「つばきが持て!」
「私がですか?」
「殿下付き侍女じゃろ!」
「こういうときだけ言いますよねえ」
「帰ったら研究じゃ!」
「駄目ですこれから政務ですよ?」
「姉上との別れで心が傷ついた。今日は休む!」
「だめです」
「少しくらい優しくせい!」
「姉上に、ちゃんと見ておきますって約束しましたから」
「姉上と何を話したんじゃ!?」
「内緒です」
「俺様の話じゃろ!」
「さあ、どうでしょう」
「教えろ!」
「政務が終わったら考えます」
「絶対に逃げてやる!」
「大臣閣下が空港の出口で待ってますよ」
「なぜじゃ!」
出口の前では、大臣が書類の山を抱えて立っていた。
ヤマトの叫びが、また空港中へ響く。
つばきは大漁旗を肩へ担ぎ、その後ろを楽しそうについていった。