バカ王子殿下!!   作:八束祐

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姉が来る!!(後編)

 予行演習から時間がたった。

 その間、ヤマトは毎朝のように日付を確認した。

 

「姉上が来るまで、あと何日じゃ」

 

「昨日から一日減ってますよ」

 

「それは知っておる!」

 

「では聞かなくてもいいのでは?」

 

「つばきの計算が間違っておるかもしれんじゃろ」

 

「一日くらいなら数えられますよ」

 

「信用ならん!」

 

 そう言いながらも、翌朝になるとまた同じことを聞いた。

 予定日まで一週間を切ってからは、さらにひどかった。

 

 夜になっても眠れないと言いながら研究室で歓迎用の装置を作り、昼間になると机へ突っ伏して眠った。つばきが起こそうとしても、姉の名前を呼びながら抱き枕へしがみついて離さない。

 

 それでも本人は、昼寝は睡眠に含まれないと言い張った。

 

 そして、ついに当日を迎えた。

 

 アララ王国国際空港には、朝から多くの人々が集まっている。

 

 海外の要人を待つ役人。企業の客を出迎える社員。

 遠方から戻る家族を待つ者たち。

 

 その中に、一際目立つ少年が立っていた。

 

 珍しく白衣ではなく余所行きの姿をしたヤマトは、両手で巨大な旗を掲げている。

 

 赤、青、金。

 

 荒波を越える船と、大きく跳ねた魚。

 その中央には、黒々とした文字でこう書かれていた。

 

『おいでませ姉上』

 

 どう見ても、漁船に掲げる大漁旗だった。

 

「若王子殿下」

 

 隣に立つつばきが、周囲の視線を気にしながら声をかけた。

 

「なんじゃ」

 

「さすがに、その旗はどうかと思います」

 

「何がじゃ」

 

「大漁旗ですよね?」

 

「めでたそうじゃろ」

 

「お姉さま、魚じゃないですよ」

 

「姉上の帰国は大漁よりめでたい!」

 

「そこは否定しませんけど、もう少し普通の旗があったんじゃないですか?」

 

「普通では目立たん」

 

「目立ちすぎてますよ」

 

 何人かの旅行客が旗を背景に記念写真を撮っている。

 空港職員まで、遠巻きに眺めていた。

 

 ヤマトはまったく気にせず、旗をさらに高く掲げる。

 

「姉上が出口から出た瞬間、俺様の居場所を見つけられるようにしたんじゃ」

 

「若王子殿下のそのつんつんした髪だけでも、結構見つけやすいと思いますけど」

 

「人の頭を目印にするな!」

 

「でも目立ちますよ?」

 

「これは王家の威厳じゃ!」

 

「便利ですねえ、王家の威厳」

 

 つばきが旗の魚を見上げる。

 

「大臣閣下は、止めなかったんですか?」

 

「俺様は一週間前から楽しみにしておったんじゃぞ!」

 

 ヤマトは答えになっていない返事をした。

 

「夜も眠れんかった!」

 

「昼間は寝てましたよね」

 

「夜に眠れんかったんじゃ!」

 

「昨日は午後から夕方まで、ぐっすりでしたけど」

 

「昼寝は昼寝じゃ!」

 

「十分寝てますよ」

 

「姉上を楽しみに待つ俺様の気持ちを考えてみろ!」

 

 ヤマトの声には、珍しく飾り気がなかった。

 つばきは一瞬だけ返事に詰まる。

 

 ここ一週間、ヤマトがどれだけ楽しみにしていたのかは知っている。

 毎日到着予定を確かめ、迎えの車を三度も点検し、姉が歩く場所に小石が落ちていないかまで確認していた。

 

 宮殿では料理の試作も繰り返した。

 

 姉の肖像画は、前回の六十三枚から五十枚へ減らすことに成功した。

 五十枚でも多いという意見は、最後まで聞き入れられなかったのだが……

 

 残りの肖像画十三枚は全部王子の部屋に飾ることにした。

 

「……そう言われると、もう何も言えませんね」

 

「じゃろう!」

 

 ヤマトは勝ち誇り、VIP専用出口へ向き直った。

 

「そろそろじゃな」

 

「飛行機はもう着陸してますね」

 

「姉上は王族じゃ。VIP専用出口から現れるに決まっておる!」

 

「そうですね」

 

「俺様を見たら、きっと走って抱き締めてくれるぞ」

 

「お姉さま、走るでしょうか」

 

「走る!」

 

「そうですか」

 

「姉上は俺様が大好きじゃからな!」

 

「若王子殿下も大好きなんですね」

 

「当然じゃ!」

 

 それから十分が過ぎた。

 VIP専用出口は開かない。

 

 二十分。

 

 要人らしい老人と、その随行員が出てきただけだった。

 

 三十分。

 

 ヤマトは旗を持ったまま、落ち着きなく足踏みを始めた。

 

「遅いのう」

 

「荷物を待ってるのかもしれませんよ」

 

「姉上に荷物を待たせるとは、空港は何をしておる!」

 

「普通に待つものです」

 

「俺様が取りに行く!」

 

「入っちゃだめですよ」

 

「王子じゃぞ!」

 

「空港の決まりです」

 

「この国は俺様の国じゃ!」

 

「だからこそ、決まりは守ってください」

 

 つばきがヤマトが来ている服の裾をつかむ。

 ヤマトは不満そうに出口を見つめた。

 

「姉上ぇ……」

 

 その声は、先ほどまでの威勢が嘘のように弱々しかった。

 

『まるで借りてきた猫みたい』

 

 つばきは少し笑いそうになったが、さすがに我慢した。

 

 そのとき、二人の背後から柔らかな声がした。

 

「あらあら~」

 

 ヤマトの肩が跳ねる。

 

「ヤマトじゃない」

 

 聞き間違えるはずがない。

 ヤマトは勢いよく振り返った。

 

 一般到着口から、一人の女性が旅行鞄を引いて歩いてくる。

 

 柔らかな茶色の髪。

 穏やかな目元。

 王宮の回廊に飾られている、先の王妃の肖像画と見間違えるほどよく似た顔。

 

 その隣には、少々さえないスーツ姿の男性がいた。

 

「あ、姉上!」

 

 ヤマトは大漁旗をその場へ放り出し、全力で駆け出した。

 

「なんでそっちなんじゃ!」

 

「あらあら」

 

 大成キクコは両腕を広げる。

 飛び込んできた弟を受け止め、そのままぎゅっと抱き締めた。

 

「普通のお席で来たのよ」

 

「VIP席ではなかったのか!」

 

「飛行機は飛べれば同じでしょう?」

 

「違う!」

 

「功さんとお隣に座れて、楽しかったわ」

 

 ヤマトの表情が一瞬だけ固まった。

 しかしすぐにキクコの胸へ顔を埋める。

 

「姉上!」

 

「はいはい」

 

「会いたかった!」

 

「私もよ」

 

 キクコはヤマトの跳ねた髪を優しく撫でた。

 

「あらあら。少し背が伸びた?」

 

「五センチじゃ!」

 

「まあ、立派になったわねえ」

 

「発明もたくさんした!」

 

「聞いているわ」

 

「国もちゃんと治めておる!」

 

 少し遅れて追いついた大臣が、遠くを見た。

 つばきも空港の天井を見上げた。

 

 キクコだけは何も疑わず、うれしそうに笑っている。

 

「ヤマト君」

 

 横から男性が声をかけた。

 

 キクコの夫、大成功――大成功だった。

 

 四年前、仕事の出張でアララ王国を訪れた、ごく普通の会社員。

 そのとき偶然キクコと出会い、一目惚れされた。

 

 その日のうちに結婚したという、普通という言葉から少しだけ外れた経歴を持っている。

 

「久しぶり」

 

 功が穏やかに手を上げる。

 

「元気だった?」

 

「……」

 

 ヤマトは返事をしなかった。

 聞こえていないように、キクコへさらに強く抱きつく。

 

「姉上!」

 

「はいはい、ここにいるわよ」

 

「姉上は元気だったか!」

 

「元気よ」

 

「ヤマト君?」

 

「姉上!」

 

「やっぱり無視かあ」

 

 功は困ったように笑った。

 怒っているようには見えない。

 

 つばきはそっと功へ頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

「いつもこうなんですか?」

 

「四年前からずっと」

 

「慣れてるんですね」

 

「まあ、少しは」

 

 功が笑う。

 

「でも、返事をしてくれた日もあるよ」

 

「何回くらいです?」

 

「三回くらいかな」

 

「四年間で?」

 

「うん」

 

「それは少ないですねえ」

 

「この前会ったときは、お茶を取ってくれって言われた」

 

「命令じゃないですか」

 

「会話には違いないから」

 

 功は満足そうだった。

 

 つばきは、ヤマトがこの人を嫌いきれない理由が少しわかった気がした。

 

「ところでヤマト君、その旗は?」

 

 功が床に落ちた大漁旗を指さす。

 ヤマトは無視したまま、旗を拾った。

 

「姉上、見よ!」

 

「あらあら」

 

「姉上を迎えるために作らせたんじゃ!」

 

「お魚がいっぱいねえ」

 

「めでたいじゃろ!」

 

「ええ、とっても」

 

 キクコは恥ずかしがるどころか、心からうれしそうに笑っていた。

 

 つばきはもう何も言わないことにした。

 似た者姉弟なのかもしれない。

 

 王宮へ到着すると、正門から大広間まで赤い絨毯が敷かれていた。

 楽団が一斉に演奏を始める。

 衛兵たちは整列し、料理人や使用人たちも一列に並んで頭を下げた。

 

 庭園には季節の花。

 回廊には金色の飾り。

 

 壁にはキクコの肖像画が五十枚。

 

「あらあら……」

 

 キクコもさすがに足を止めた。

 

「これは、少し恥ずかしいわねえ」

 

「姉上のためじゃ!」

 

「こんなに私の顔を飾らなくてもよかったのよ?」

 

「本当は二百枚用意する予定だったんじゃ」

 

「つばきさんが止めてくれたの?」

 

「はい。なんとか五十枚まで」

 

「ありがとう」

 

「五十枚でも多いと思うんですけどね」

 

「姉上の美しさを表すには足りん!」

 

「あらあら」

 

 キクコは頬へ手を当てる。

 

「ヤマトは昔から大げさねえ」

 

「大げさではない!」

 

「でも、うれしいわ」

 

「そうじゃろ!」

 

 ヤマトは満足そうに胸を張った。

 その後ろで、功が二人分の旅行鞄を持ち直す。

 

「ヤマト君。荷物はどこへ置けばいいかな?」

 

「……」

 

「客室でいい?」

 

「姉上!」

 

「はい?」

 

「こちらじゃ! 料理もいっぱいあるぞ!」

 

「まあ、楽しみね」

 

「ヤマト君、荷物だけでも」

 

「姉上!」

 

 見事なまでの無視だった。

 つばきはしばらく見守っていたが、さすがに気の毒になった。

 

「若王子殿下」

 

「なんじゃ」

 

「功さまにも返事をしてあげたらどうです?」

 

「なぜじゃ」

 

「さすがに、ずっと無視するのはやりすぎだと思いますよ?」

 

 ヤマトは功をちらりと見る。

 すぐに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。

 

「あやつは王家の宝を盗んでいった泥棒猫じゃ」

 

「泥棒猫って」

 

「姉上をアララ王国から連れ去ったんじゃぞ!」

 

「結婚ですよね?」

 

「その日のうちにじゃ!」

 

「それは、まあ、驚きますけど」

 

「城へ入れてやっておるだけ、ありがたいと思ってほしいものじゃな!」

 

 つばきは言葉に詰まった。

 

 キクコは王女だった。

 母のいないヤマトにとって、姉であり、母代わりでもあった人物。

 

 その姉が、出会ったその日に結婚すると言い、日本へ行ってしまった。

 ヤマトからすれば、たしかに突然奪われたように感じたのかもしれない。

 

「でも、功さまはちゃんとお姉さまを大事にしてるんですよね?」

 

「それは当然じゃ!不幸にしてるならば死刑じゃ!」

 

「だったら少しくらい」

 

「当然のことをしておるだけじゃ!」

 

「そうですけど」

 

 功は旅行鞄を抱えながら苦笑する。

 

「気にしてないよ」

 

「本当にすみません」

 

「ヤマト君は昔から優しいからね」

 

「誰がじゃ!」

 

 ヤマトがすぐに振り返った。

 功は笑顔を崩さない。

 

「聞こえてたんだ」

 

「おぬしの声が大きかっただけじゃ!」

 

「普通の声だったけどなあ」

 

「俺様は耳がよいんじゃ!」

 

「じゃあ、さっきまでの話も聞こえてた?」

 

「聞こえておらん!」

 

「どっちなの?」

 

「うるさい!」

 

 キクコが口元を押さえて笑う。

 

「二人とも仲良しさんねえ」

 

「仲良くない!」

 

「そうかなあ」

 

「功は黙れ!」

 

 初めて名前を呼ばれた功が、少しだけ目を見開いた。

 

「今、名前で呼んでくれたね」

 

「呼んでおらん!」

 

「呼んだよ」

 

「気のせいじゃ!」

 

「そういうことにしておくよ」

 

「なんじゃ、その言い方は!」

 

 つばきは二人を見比べる。

 

 無視しているときより、ずっと会話になっていた。

 ヤマト本人は気づいていないだろう。

 

 その日は、宮殿中が夜までにぎやかだった。

 ヤマトはキクコの隣から離れようとしなかった。

 料理を一つずつ説明し、自分の発明を見せ、最近行った政務については少しだけ内容を盛って話した。

 キクコは何を聞いても「あらあら」と笑い、弟の頭を撫でた。

 

 功が会話へ加わろうとすると、ヤマトは一度は無視した。

 けれど功が日本の新しい菓子や玩具の話をすると、横を向きながら聞き耳を立てていた。

 

「この前、新しい遊園地ができたんだ」

 

「ふん」

 

「大きな空中回転式の乗り物があるらしいよ」

 

「俺様ならもっと速いものを作れる」

 

「乗ってみたい?」

 

「興味などない」

 

「じゃあ今度、三人で行こうか」

 

「姉上と俺様の二人でよい!」

 

「じゃあ、僕は荷物持ちかな」

 

「勝手についてくるな!」

 

「はいはい」

 

 追い払っているようで、完全には拒絶していない。

 つばきには、それがおかしかった。

 

 夜も遅くなり、宮殿が静まり返ったころ。

 つばきは仕事を終え、自室へ戻ろうとしていた。

 

 廊下の窓から月明かりが差し込んでいる。

 

「つばきさん」

 

 後ろから声をかけられた。

 振り返ると、キクコが一人で立っていた。

 

 昼間の華やかな服から、落ち着いた部屋着へ着替えている。

 

「お姉さま。まだ起きていらしたんですか?」

 

「少しだけ眠れなくて」

 

「あら、若王子殿下と一緒ですね」

 

「あらあら。そうなの?」

 

「来られる一週間前から、夜は眠れないって言ってました」

 

「昼間は?」

 

「よく寝てました」

 

「あらあら」

 

 キクコは楽しそうに笑ったあと、少しだけ表情を和らげた。

 

「少し、お話してもいいかしら?」

 

「もちろんです」

 

 二人は廊下の窓辺へ並んだ。

 夜の庭園には、歓迎用の花がまだ咲いている。

 

 昼間の演奏も歓声も消え、噴水の水音だけが静かに聞こえた。

 

「ヤマトは、いつもあんな感じ?」

 

「どのあたりでしょう」

 

「元気で、皆さんを困らせていて、それでも皆さんに囲まれているところ」

 

「だいたい、いつもです」

 

「そう」

 

 キクコはほっとしたように息を吐いた。

 

「あの子ね、私が結婚すると話したとき、泣かなかったの」

 

「そうなんですか?」

 

「ええ」

 

 キクコの視線が、庭園の奥へ向く。

 

「功さんと出会ったその日に、私はこの人と結婚するって決めたでしょう?」

 

「はい」

 

「家族や大臣たちに伝えたら、皆びっくりしていたわ」

 

「それは驚くと思います」

 

「あらあら。私も今考えると、少し急ぎすぎたかしらねえ」

 

「少しでしょうか」

 

「でも、今も幸せだから」

 

 キクコは穏やかに笑った。

 

「でもね…ヤマトだけは、何も言わなかったの」

 

「何も?」

 

「最初に少し黙って、それから『そうか。幸福を祈ってる』って」

 

 つばきは昼間、姉へ抱きついて離れなかったヤマトを思い出した。

 

「笑っていたのよ」

 

「若王子殿下が?」

 

「ええ。とてもきれいに」

 

 キクコの声が少しだけ寂しくなる。

 

「でも、あの子があんなふうに笑うときは、本当の気持ちを隠しているときなの」

 

「お姉さまに心配をかけたくなかったんでしょうね」

 

「そうだと思うわ」

 

「平気なふりをしただけです」

 

 つばきは庭園を眺めながら答えた。

 

「若王子殿下って、そういう子ですからね」

 

「そういう子?」

 

「自分が寂しいって言ったら、お姉さまが困ると思ったんですよ」

 

「……そうね」

 

「だから我慢したんです。自分が泣くより、お姉さまが笑ってるほうを選んだんだと思います」

 

 キクコはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく笑う。

 

「あらあら」

 

「今も功さまを嫌ってるように見せてますけど、たぶん本気で嫌いなわけじゃないですよ」

 

「そうかしら」

 

「だって、本気で嫌いなら名前も呼びませんし、話も聞きません」

 

「たしかに、今日は名前を呼んでいたわね」

 

「すぐ否定してましたけど」

 

「あらあら」

 

「本当は仲良くしたいんじゃないですかねえ」

 

「では、どうしてあんなに無視するのかしら」

 

「素直じゃないからです」

 

 つばきは迷わず答えた。

 

「家族のことになると、特に」

 

「あなたは、ヤマトのことをよく見ているのね」

 

「殿下付き侍女ですから」

 

「まだ仕え始めたばかりでしょう?」

 

「そうですけど、若王子殿下ってわかりやすいですよ」

 

「本人が聞いたら怒りそうねえ」

 

「絶対怒りますね」

 

 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

 

「私ね――」

 

 キクコが庭園へ目を戻す。

 

「日本へ行ってからも、あの子のことがずっと心配だったの」

 

「はい」

 

「父もいなくなってしまって、母のことも知らなくて。私まで国を出てしまったでしょう?」

 

 先王が亡くなったのは、つばきが宮殿へ奉公する少し前だった。

 王妃は、ヤマトが生まれたときに亡くなっている。

 

 ヤマトに残された一番近い家族は、遠く日本で暮らす姉だけだった。

 

「でも、今日見て安心したわ」

 

 キクコは宮殿の奥を振り返る。

 

「大臣さんも、皆さんも、あなたも」

 

「私もですか?」

 

「ええ」

 

 キクコは優しく微笑んだ。

 

「あの子を叱って、笑って、追いかけてくれている」

 

「追いかけるのは、だいたい政務とかから逃げるからですけどね」

 

「あらあら」

 

「でも若王子殿下は、寂しくないと思いますよ」

 

「そうね」

 

「寂しくなる暇もないくらい、毎日何かやらかしてますから」

 

「それなら安心だわ」

 

 キクコはつばきの手へ、そっと自分の手を重ねた。

 

「これからも、あの子をよろしくね」

 

「はい」

 

「少しわがままだけど」

 

「…少しですか?」

 

「…とてもわがままだけど」

 

「はい」

 

「優しい子だから」

 

「知ってます」

 

 つばきが笑う。

 

「ちゃんと見ておきますね」

 

 キクコは安心したように目を細めた。

 

「あらあら。よかった」

 

 三日たち帰国の日が来た。

 

 アララ空港の滑走路には、日本行きの飛行機が待っている。

 ヤマトは行きと同じ大漁旗を持ってきていた。

 

 文字だけが変わっている。

 

『また来ませい姉上』

 

「少しだけ言葉が変じゃないですか?」

 

「気持ちが伝わればよい!」

 

「そうですかねえ」

 

 つばきはもう止めなかった。

 キクコはヤマトの前へかがみ、両腕で抱き締める。

 

「ヤマト、楽しい三日間だったわ」

 

「次はもっと長くおれ」

 

「功さんのお仕事があるからねえ」

 

「仕事などやめればよい!」

 

「さすがに生活できなくなるでしょう?」

 

「俺様が養う!」

 

「ヤマトに甘えてばかりではいけないわ」

 

「姉上ならいくらでも甘えてよい!」

 

「ありがとう」

 

 キクコはヤマトの髪を優しく撫でた。

 

「また来るわね」

 

「絶対じゃぞ」

 

「ええ」

 

「電話も毎日せよ」

 

「毎日ヤマトの相手してたら、功さんが寂しがるかもしれないわ」

 

「知ったことではない!」

 

「あらあら」

 

 キクコはもう一度ヤマトを抱き締め、飛行機へ向かう。

 入れ替わるように、功がヤマトの前へ立った。

 

「じゃあ、ヤマト君」

 

「……」

 

「元気でね」

 

 ヤマトは答えない。

 

 功は慣れた様子で笑い、キクコのあとを追おうとした。

 

「……おい」

 

 小さな声が背中へ届く。

 功が振り返った。

 

「何?」

 

 ヤマトは功を見ていなかった。

 腕を組み、明後日の方向へ顔を向けている。

 

「お前が姉上を守るんじゃ」

 

「……うん」

 

「姉上は少し天然じゃからな」

 

「知ってるよ」

 

「知らない人についていくかもしれん」

 

「さすがについていかないと思うけど」

 

「昔、おぬしについていったではないか!」

 

「あれは結婚したんだよ」

 

「同じようなものじゃ!」

 

「違うと思うなあ」

 

「とにかく!」

 

 ヤマトはさらに顔をそらした。

 

「姉上を泣かせたら、俺様が許さん」

 

 功は少しだけ目を丸くした。

 それから穏やかに笑う。

 

「ありがとう、ヤマト君」

 

「勘違いするな!」

 

「え?」

 

「姉上が泣けば、俺様も迷惑なんじゃ!」

 

「……うん」

 

「おぬしのために言っておるのではない!」

 

「わかってる」

 

「本当にわかっておるのか!」

 

「ちゃんと守るよ」

 

「当然じゃ」

 

「また遊びに来るね」

 

「姉上を連れてこい」

 

「もちろん」

 

「おぬし一人では来るな」

 

「それは少し寂しいなあ」

 

「知らん!」

 

 功は笑いながら、ヤマトへ小さく手を振った。

 飛行機の階段を上る途中、キクコが振り返る。

 

「あらあら、功さん」

 

「何?」

 

「ヤマト、ちゃんとありがとうって言えたわね」

 

「言えてないよ」

 

「言っておらん!」

 

 滑走路にヤマトの声が響いた。

 キクコは楽しそうに笑う。

 

「姉上まで笑うな!」

 

「またね、ヤマト」

 

「絶対に来るんじゃぞ!」

 

「ええ~」

 

 扉が閉じる。

 飛行機はゆっくり滑走路を進み、速度を上げた。

 

 大きな翼が地面を離れる。

 ヤマトは旗を持ったまま、空を見上げていた。

 

 飛行機が小さくなっても、まだ目をそらさない。

 つばきはその隣へ並んだ。

 

「若王子殿下」

 

「なんじゃ」

 

「功さまに、ちゃんと言えたじゃないですか」

 

「何をじゃ」

 

「姉上をお願いしますって」

 

「命令しただけじゃ!」

 

「そういうことにしておきます」

 

「本当に命令じゃぞ!」

 

「はいはい」

 

「返事は一回じゃ!」

 

「はい」

 

 少しの沈黙。

 飛行機が雲の向こうへ消えていく。

 

 ヤマトは旗の柄を握ったまま、小さく息を吐いた。

 

「……また来るとよいな」

 

「きっと来ますよ」

 

「姉上は約束を守るからのう」

 

「功さまも一緒に」

 

「姉上だけでよい!」

 

「でも功さまのお話、ちゃんと聞いてましたよね?」

 

「聞いておらん!」

 

「遊園地の乗り物、気になってたでしょう?」

 

「俺様ならもっとすごいものを作れると思っただけじゃ!」

 

「一緒に行きたいんです?」

 

「違う!」

 

「じゃあ、今度聞いてみますね」

 

「勝手なことをするな!」

 

 つばきは笑った。

 ヤマトはむっとした顔で空を見上げ続けている。

 

「若王子殿下って、家族のことになると本当に不器用ですよね」

 

 少しだけ間があった。

 

「……うるさい」

 

 ヤマトはそれだけ答え、つばきより先に歩き出した。

 耳が少し赤くなっている。

 つばきは気づいていたが、何も言わなかった。

 

 代わりに、地面へ置き忘れられた大漁旗を拾い上げる。

 

「若王子殿下、旗を忘れてますよ」

 

「つばきが持て!」

 

「私がですか?」

 

「殿下付き侍女じゃろ!」

 

「こういうときだけ言いますよねえ」

 

「帰ったら研究じゃ!」

 

「駄目ですこれから政務ですよ?」

 

「姉上との別れで心が傷ついた。今日は休む!」

 

「だめです」

 

「少しくらい優しくせい!」

 

「姉上に、ちゃんと見ておきますって約束しましたから」

 

「姉上と何を話したんじゃ!?」

 

「内緒です」

 

「俺様の話じゃろ!」

 

「さあ、どうでしょう」

 

「教えろ!」

 

「政務が終わったら考えます」

 

「絶対に逃げてやる!」

 

「大臣閣下が空港の出口で待ってますよ」

 

「なぜじゃ!」

 

 出口の前では、大臣が書類の山を抱えて立っていた。

 ヤマトの叫びが、また空港中へ響く。

 

 つばきは大漁旗を肩へ担ぎ、その後ろを楽しそうについていった。

 

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