田島波留宮殿の執務室には、朝から紙の擦れる音と、少年のうめき声が響いていた。
「もう嫌じゃ……」
大きな机の上には、書類の山が三つ。
右に決裁待ち。左に確認待ち。
正面には、どこから手をつければよいのかすらわからないほど積み上がった報告書。
その真ん中で、ヤマトは半分ほど机に沈んでいた。
「なんで昨日より増えておるんじゃ……」
片手にペンを持ったまま、頬を机へ押しつける。
まだ十歳の体には、机も椅子も少し大きい。床へ届かない足が、苛立たしそうにぶらぶら揺れていた。
机の向こうでは、大臣が次の書類を整えている。
「昨日、後回しにされた分です」
「後回しにしたものは、後ろへ置いておけばよいじゃろ」
「本日確認しなければならないため、前へ出しました」
「ならば、また後ろへ戻せばよい!」
「戻しません」
「大臣は頭が固いのう!」
「若王子殿下は仕事から逃げすぎです」
「俺様は逃げておらん。戦略的撤退じゃ」
「窓から縄ばしごを下ろすことを、政務では戦略的撤退と呼びません」
「呼ぶかもしれんじゃろ!」
「呼びません」
ヤマトは口をとがらせた。
ここ数日、政務が続いている。
新しい港の建設予定。地方へ送る予算。
外国から届いた書簡。発明品の輸出許可。
王宮内の修繕申請。
内容そのものは難しくない。
ヤマトが本気を出せば、一枚の書類を読むのに一分もかからない。
問題は、数だった。
「似たような書類が多すぎるんじゃ!」
「それぞれ別件です」
「港の倉庫を三つ造るなら、まとめて一枚でよいじゃろ!」
「建設場所も業者も予算も別です」
「では全部同じ場所に造れ!」
「使いにくくなります」
「ならば巨大な倉庫を一つ造れ!」
「その提案書を書いてください」
「書類を減らすための提案なのに、書類が増えるではないか!」
「そういうものです」
「王政は間違っておる!」
ヤマトが椅子から立ち上がる。
「俺様はこの国の王子じゃぞ! なぜ俺様が、こんなに紙へ名前を書かねばならんのじゃ!」
「王子だからです」
「王子なら誰かにやらせればよい!」
「最終確認はご本人にしていただきます」
「では俺様そっくりの誰かにやらせればよい!」
「そのような人はいません」
大臣は淡々と答えた。
ヤマトの動きが止まる。
猫のようなつり目が、ゆっくり細くなった。
「……俺様そっくりの誰か」
「若王子殿下?」
「そうじゃ」
ヤマトは椅子へ座り直した。
先ほどまでの半泣きの顔が消えている。
代わりに浮かんだのは、何かを思いついたときの笑みだった。
「俺様の代わりに政務をする俺様がおればよいんじゃ」
「何をお考えですか」
「何も」
「その顔で何も考えていないことはありません」
「俺様は真面目に書類をするぞ」
ヤマトは素早くペンを走らせ始めた。
大臣は目を細めた。
怪しい……非常に怪しい。
しかし目の前の王子は、今までが嘘のように書類を処理し始めている。
「このまま続けてください」
「任せろ」
「夕方までですからね」
「任せろ」
「窓から出ないでくださいよ」
「しつこいのう!」
その日の夜――
誰もいなくなった地下研究室では、青白い光が朝まで消えなかった。
ヤマトは工具を両手に持ち、作業台の上へ身を乗り出していた。
目の前には、人の形をした機械が横たわっている。
大きさはヤマトとほぼ同じ。
体の表面は白い人工皮膚で覆われ、まだ何も映していない顔はのっぺりとしている。
胸の奥では小型動力炉が動き、一定の間隔で光を放っていた。
「変身機能、記憶模倣機能、筆跡再現、音声再現、政務補助、危険回避……」
ヤマトは指を折りながら確認する。
「ついでに掃除もできるようにするか。いや、それはつばきが怒るかもしれん」
つばきは今日から連休で休みだった。
殿下付き侍女になって以来、ほとんど休みらしい休みを取っていない。
今回は大臣とメイド長が揃って休暇を命じたため、さすがのつばきも宮殿を離れていた。
遊び相手がいない。
実験も出来ない。
そして政務から逃げると、すぐに大臣へ見つかる。
ヤマトにとっては、最悪の三日間が始まろうとしていた。
だから作ったのだ。
自分の代わりに働く者を。
「よし、完成じゃ」
空が白み始めるころ、ヤマトは工具を置いた。
「名づけて、あんどろ伊藤くん!」
毎度のことだがネーミングに特に意味はない。
作っている途中で思いついた名前だった。
「起動せよ、伊藤くん!」
機械の目が光る。
『起動シマシタ』
「立て」
伊藤くんがゆっくり上体を起こした。
関節の動きはなめらかだ。床へ降りると、ヤマトの前で姿勢を正す。
『命令ヲ入力シテクダサイ』
「まずは変身機能の試験じゃ。俺様の姿を完全に再現せよ」
『了解シマシタ』
伊藤くんの鼻先に、小さな赤いスイッチがある。
「なんで鼻なんじゃ?」
『設計者ノ趣味デス』
「俺様はそんな指定をした覚えはないぞ」
『製造途中ノ独リ言ヲ参考ニシマシタ』
「まあよい」
ヤマトは鼻のスイッチを押した。
かちり。
伊藤くんの全身を光が包む。
人工皮膚が変化し、背丈が少し縮む。
髪がつんつんと跳ね、目が猫のようにつり上がる。
白衣まで再現され、数秒後にはヤマトとまったく同じ姿になった。
「おお!」
ヤマトは伊藤くんの周囲を回る。
顔も同じ。声も同じ。
手の大きさも、髪の跳ね方も、八重歯の位置まで同じだった。
「俺様の名は?」
『ヤマトレオン・フォンド・アララ・オットット十三世ナノジャ』
ヤマトは少し黙った。
「もう一度」
『俺様ハ若王子殿下ナノジャ』
「語尾が妙じゃな」
『完全ナ音声再現ナノジャ』
「なのじゃ、ではなく、ナノジャになっておる」
『誤差ノ範囲ナノジャ』
「まあよいか」
大臣は細かいことを気にするが、まさか語尾だけで偽物だとは思わないだろう。
「俺様の代わりに、今日から三日間政務をせよ」
『政務ヲ代行スルナノジャ』
「大臣に怪しまれるなよ」
『了解ナノジャ』
「俺様はその間、姉上に会いに行ってくる」
ヤマトは端末を取り出し、日本までの移動経路を確認した。
姉は現在、日本で暮らしている。
姉夫婦の家へ行けば、姉と話せる。日本の菓子も食べられる。
功の顔を見ることになるのは少し気に入らないが、政務をやるよりはましだった。
「二、三日で戻る。書類は全部終わらせておくんじゃぞ」
『全テ処理スルナノジャ』
「でっひゃひゃひゃひゃ! 完璧じゃ!」
ヤマトは旅行鞄を持ち、研究室の奥にある転送装置へ入った。
研究所から光が走る。
次の瞬間、王子の姿は研究室から消えていた。
その日の朝。
大臣は執務室へ入るなり、目を疑った。
若王子がすでに机へ向かっていた。
しかも書類を読んでいて逃げる様子もない。
机に突っ伏してもいないし半泣きにもなっていない。
「若王子殿下」
『何ナノジャ』
少し声が硬い気もする。
だが寝起きなのだろうと、大臣は気にしなかった。
「こちらが本日中に確認していただきたい書類です」
『置クノジャ』
「まだ二十枚あります」
『全テ処理スルナノジャ』
大臣の手が止まった。
「全て?」
『王子トシテ当然ナノジャ』
大臣は目を見開いた。
昨日まで、三枚増えただけで王政を終わらせると言っていた少年が、自分から全て処理すると言った。
「若王子殿下……」
『何ナノジャ』
「ご立派になられましたな」
『効率ヲ優先シテイルダケナノジャ』
「王としての自覚が芽生えたのですね」
『ソウナノジャ』
大臣は感動していた。目頭が熱くなる。
先王が亡くなってから、まだ幼いヤマトを支えなければならないと必死だった。
天才ではある。心も優しい。
しかし政務から逃げるわ会議から逃げる。
書類を見ると窓から逃げるし、私のおやつを盗み食いする。
そんな若王子が、ついに成長した。
「先王陛下もお喜びでしょう」
『ソウナノジャ』
伊藤くんは書類を一枚取り、内容を読み取った。
処理速度は速い。
一秒もかからず、問題点を分析する。
予算配分の無駄…カット
手続きの重複…カット
承認経路の非効率…カット
人間が何日もかけて確認する内容を、伊藤くんは数分で終わらせた。
『書類処理、非効率ナノジャ』
「しかし必要なものです」
『俺様ガ直接全テヲ管理スレバ、書類ハ不要ナノジャ』
「それは若王子殿下のご負担が増えます」
『負担ハ感ジナイナノジャ』
「頼もしいお言葉です」
大臣は再び感動した。
伊藤くんは大臣を見つめた。
自分がヤマトの代わりに政務を行う。
その目的は達成されている。
だが三日後、本物のヤマトが戻れば、自分は役目を終える。
再び研究室の隅へ置かれる可能性が高い。
『効率が悪いのではないか?』
伊藤くんは考えた。
自分はヤマトと同じ姿を持っている。
同じ声を持っている。
政務能力は本物より高い。
さらに自分の方が
・逃げない。
・泣かない。
・書類を放り出さない。
では、本物が戻る必要はあるのだろうか。
『俺様ガ本物ニナレバ、全テ解決ナノジャ』
「何かおっしゃいましたか?」
『何デモナイナノジャ』
三日後。
ヤマトは機嫌よく田島波留宮殿へ戻ってきた。
「姉上は今日も美しかったのう!」
旅行鞄には、日本で買った菓子や玩具が詰まっている。
姉と話し、町を歩き、温泉にも入った。
功が同じ家にいることだけは相変わらず気に入らなかったが、それ以外は楽しい旅行だった。
「俺様がいなくて、みんな寂しがっておるじゃろうな」
鼻歌を歌いながら宮殿へ入る。
しかし玄関にいた衛兵たちは、ヤマトを見るなり顔色を変えた。
「止まれ!」
「なんじゃ?」
槍が向けられる。
「不審者を捕らえろ!」
「俺様じゃぞ!」
「若王子殿下のお姿をまねるとは、何者だ!」
「何を言っておる! 俺様が若王子殿下じゃ!」
衛兵たちが飛びかかってくる。
ヤマトは慌てて逃げた。
「待て! 話を聞け!」
「捕らえろ!」
「俺様じゃと言っておるじゃろ!」
宮殿の廊下を走り回り、角を曲がったところで網が飛んできた。
「うぎゃっ!」
体を絡め取られ、そのまま床へ転がる。
「離せ! 俺様はヤマトレオン・フォンド・アララ・オットット十三世じゃぞ!」
「偽物が王子のお名前を口にするな!」
「偽物ではない!」
ヤマトは両手足をばたつかせた。
「俺様の顔を見ろ! どこからどう見ても本物じゃろ!」
「本物の若王子殿下は執務室にいらっしゃる!」
ヤマトの動きが止まった。
「執務室に?」
「ここ三日、立派に政務へ励んでおられる!」
「三日間ずっと?」
「一度も逃げずにだ!」
「……伊藤くん」
ヤマトの顔が引きつった。
「あやつ、何をしておるんじゃ!」
そのままヤマトは地下牢へ入れられた。
「いくらなんでもひどくないか!?」
鉄格子をつかみ、廊下へ向かって叫ぶ。
「俺様は旅行から帰ってきただけじゃぞ! 政務を少し代わってもらっただけではないか!」
衛兵は反応しない。
「おい! 聞いておるのか!」
「偽物の言葉に耳を貸すなと言われている」
「俺様が本物じゃ!」
「本物の若王子殿下は、今も執務中だ」
「だから、それは伊藤くんじゃ!」
「誰だ、それは」
「俺様が一晩で作った変身ロボットじゃ!」
「本物の若王子殿下でも、そんな馬鹿なものは作らない」
「作るわ!」
ヤマトは鉄格子へ額を押しつけた。
「俺様の発明を信じろ!」
「偽物のくせに、発明まで自分のものにする気か」
「全部俺様のものじゃ!」
誰も信じない。
三日間、伊藤くんは完璧に王子の役目を果たしていた。
政務を片づけ、会議へ出席し、予定どおりに食事を取り、時間になれば眠る。
王宮の者たちは皆、若王子が成長したと喜んでいた。
本物のヤマトより、よほど王子らしい。
「俺様を出せー!」
叫んでも、返事はなかった。
しばらくして、牢の前に大臣が現れた。
「ようやく話を聞く気になったか!」
「偽物が若王子殿下のお姿を使っていると聞いた」
「だから俺様が本物じゃ!」
「本物である証拠は?」
「顔を見ればわかるじゃろ!」
「同じ顔の者がすでにいる」
「ならば伊藤くんの鼻を押せ! 変身が解ける!」
「そのような命令を若王子殿下へできると思うか?」
「俺様が許可する!」
「偽物の許可に意味はない」
「ぐぬぬ……」
ヤマトは頭を抱えた。
「では本人と話をさせろ!」
「何をするつもりだ」
「直接、俺様が本物だと証明する!」
大臣はしばらく考えたあと、衛兵へ目配せした。
数分後、ヤマトは手首に縄をつけられたまま、謁見の間へ連れていかれた。
玉座には、ヤマトと同じ姿をした伊藤くんが座っている。
頭には王冠。服装も表情も、いつものヤマトそのものだった。
『偽物ヨ。何ノ用ナノジャ』
「おぬしが偽物じゃ!」
ヤマトが叫ぶ。
『俺様ハ本物ナノジャ』
「語尾がおかしいではないか!」
『個性ナノジャ』
「そんな個性があるか!」
周囲には大臣や衛兵、役人たちが並んでいる。
しかし誰も口を挟まない。
ヤマトは伊藤くんを指さした。
「見ればわかるじゃろ! あやつのほうが偽物じゃ!」
「どこが違うのです」
大臣が尋ねる。
「王冠じゃ!」
ヤマトは自信満々に言った。
「よく見ろ! あやつの王冠には『にせ』と書いてある!」
全員の視線が、伊藤くんの王冠へ集まる。
正面に、小さく二文字。
たしかに『にせ』と書かれていた。
「本物の俺様の王冠には『王』と書いてあるんじゃぞ!」
謁見の間が静まり返る。
誰もそこへ突っ込まない。
大臣は口を開きかけ、閉じた。
衛兵たちも目をそらした。
「なんで誰も何も言わんのじゃ!」
『王冠ノ文字デ本物ハ決マラナイナノジャ』
「おぬしが言うな!」
『本物デアル証拠ヲ示スナノジャ』
「俺様しか知らないことを答えてやる!」
『質問スルナノジャ』
「俺様の一番好きなものは姉上じゃ!」
『姉上ナノジャ』
「二番目は発明じゃ!」
『発明ナノジャ』
「一番嫌いなものは政務じゃ!」
『政務ハ大切ナノジャ』
「ほら! 今ので偽物だとわかったじゃろ!」
ヤマトは大臣へ詰め寄った。
「本物の俺様が、政務を大切だと言うわけがない!」
「自慢することではありません」
「今は重要な証拠じゃ!」
『三日間ノ政務デ考エヲ改メタナノジャ』
「俺様が三日で改心するわけがない!」
「それも自慢することではありません」
「どちらの味方なんじゃ!」
謁見の間が騒がしくなる。
伊藤くんは玉座から立ち上がった。
『偽物ヲ牢ヘ戻スナノジャ』
「待て!」
『王子ノ地位ヲ奪オウトシタ罪ハ重イナノジャ』
「地位を奪ったのはおぬしじゃ!」
衛兵がヤマトの腕をつかむ。
そのとき、謁見の間の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
赤みがかった茶髪を揺らし、つばきが入ってくる。
休暇を終え、宮殿へ戻ってきたところだった。
「何かすごく騒がしいですけど、どうしたんですか?」
「つばき!」
ヤマトが声を上げる。
「俺様じゃ! 助けろ!」
「若王子殿下?」
つばきは縄をかけられたヤマトを見る。
次に、玉座の伊藤くんを見る。
同じ顔が二つ。
「えぇ……」
つばきの足が止まった。
「どういうことです?」
「この者は若王子殿下の偽物です」
大臣が説明した。
「本物の若王子殿下は、こちらにいらっしゃる」
『俺様ガ本物ナノジャ』
伊藤くんが胸を張る。
つばきは二人を見比べた。
「休暇の間、何か変わったことはありました?」
「何もない」
「爆発とか」
「一度もない」
「壁が壊れたり」
「ない」
「発明品が暴走したり」
「ない」
「若王子殿下が仕事から逃げたり」
「一度もない。むしろ自分から政務へ取り組んでおられた」
つばきの目が細くなった。
「それ、本物じゃないですよ」
大臣が固まる。
「なぜわかるのだ?」
「三日もいて爆発が一回もないなんて、若王子殿下じゃないです」
「つばき!」
「それから、若王子殿下が三日連続で真面目に政務するはずないです」
「そうじゃろ!」
「喜んでいいところじゃないですからね?」
「今はよい!」
つばきは玉座の伊藤くんへ近づいた。
「若王子殿下」
『何ナノジャ』
「私の休暇、何日でした?」
『三日ナノジャ』
「休暇をもらったとき、私、何て言いました?」
伊藤くんは一秒停止した。
『休暇ヲ喜ンダナノジャ』
「違います」
つばきは腰へ手を当てた。
「『それだけ宮殿を離れて大丈夫ですか? 帰ってきたら壁どころか宮殿がなくなってません?』って聞いたんです」
『記録ニナイナノジャ』
「若王子殿下は『壁は何枚かなくなるかもしれんが、屋根は残しておく』って言いました」
「言ったのう」
「そんな約束をするのは、こっちの若王子殿下だけです」
「俺様をどういう目で見ておるんじゃ!」
「正しく見てますよ」
つばきは伊藤くんの前へ立った。
手を伸ばす。
「何ヲスルナノジャ」
「失礼しますね」
鼻のスイッチを押した。
かちり。
伊藤くんの全身を光が包む。
ヤマトの姿が崩れ、白い人工皮膚を持つ人型機械へ戻った。
「おお……」
大臣が声を漏らす。
「本当に偽物だったのか」
「だから最初から言っておるじゃろ!」
縄を解かれたヤマトが、伊藤くんへ駆け寄る。
「おぬし、俺様に成り代わるとはどういうことじゃ!」
『効率化ヲ重視シタ結果』
「効率化?」
『私ガ本物ニナレバ、政務ハ滞ラナイ……』
「俺様の立場を奪うな!」
『本物ヨリ王子業務ノ処理能力ガ高イ……』
「ぐぬぬ……」
「そこは否定してくださいよ」
つばきが呆れた声を出す。
ヤマトは伊藤くんの胸元を開き、中の回路を確認した。
「なるほど。自己保存判断が強くなりすぎたのか」
「大変な目に遭ったんですよね?」
「そうじゃ! 俺様は偽物扱いされ、牢へ入れられたんじゃぞ!」
「楽をしようとするからですよ」
「俺様は効率化しただけじゃ!」
「自分だけ日本へ遊びに行くのは、効率化じゃなくてさぼりです」
「姉上に会うのは重要な仕事じゃ!」
「では旅行の報告書を書いてください」
「なぜそうなる!」
大臣が一歩前へ出た。
「つばきの言うとおりです」
「大臣まで!」
「三日間、伊藤くんが処理した書類を全て見直していただきます」
「なぜじゃ! あやつは完璧に処理したのじゃろ!」
「本人確認が必要です」
「また同じ書類を見るのか!?」
「はい」
「嫌じゃ!」
「さらに、偽物の王子を作った件についても報告書を」
「書類が増えておるではないか!」
「当然です」
ヤマトは頭を抱えた。
「こんなはずではなかった……」
「反省しました?」
つばきが尋ねる。
ヤマトは伊藤くんの内部を見つめ、しばらく考えた。
「服従回路をつけ忘れたのが反省点じゃな」
「そこじゃないです」
「次は俺様へ絶対服従するよう改良する」
「次を作る気なんですか?」
「今回の問題点は明確じゃ。人格形成機能を弱め、命令優先度を上げれば」
「若王子殿下」
つばきが笑顔で呼んだ。
ヤマトの声が止まる。
「まずは書類ですよ」
「……明日ではだめか?」
「だめです」
「さっき帰ってきたばかりじゃぞ」
「旅行で遊んできたんですよね?」
「姉上との交流じゃ!」
「お元気でした?」
「元気じゃった」
「楽しかったです?」
「楽しかった」
「では頑張れますね」
「その話の流れ、おかしくないか?」
「全然です」
大臣はすでに、執務室へ運ぶ書類を衛兵たちへ指示している。
積み上がった紙の山が、謁見の間の前を次々と通り過ぎていった。
「待て待て、あれ全部か?」
「三日分です」
「伊藤くんが終わらせたのではないのか!」
「見直しです」
「一枚ずつ?」
「一枚ずつ」
「署名も?」
「必要です」
ヤマトの目に涙がにじむ。
「俺様、また日本へ行ってくる」
「だめです」
つばきが白衣の襟をつかんだ。
「離せ! これは戦略的撤退じゃ!」
「はいはい。執務室へ行きましょうね」
「嫌じゃ! 俺様は王子じゃぞ!」
「王子だから書類するんですよ」
「王政を終わらせる!」
「終わらせるための書類も必要でしょうね」
「なんで何をしても書類が増えるんじゃあああ!」
ヤマトの叫びが、宮殿中へ響き渡った。
伊藤くんは衛兵に運ばれながら、機械の目を点滅させる。
『書類処理ハ効率化スベキ……』
「おぬしは黙っておれ!」
その日の午後。
ヤマトは再び大きな机へ向かっていた。
右に書類。左にも書類。
正面には、三日分の見直し待ち。
つばきは逃走防止のため、窓の前でお茶を飲んでいる。
大臣は扉の前に立っていた。
「逃げ道がないではないか」
「仕事を終えれば、普通に出られますよ」
「俺様は反省しておる」
「何をです?」
「次は服従回路を忘れん」
「全然反省してないですね」
「では、鼻のスイッチを額へ移す」
「そこでもありません」
ヤマトはペンを持ち、一枚目の書類を開いた。
内容を読む。
伊藤くんの処理は完璧だった。
修正するところが一つもない。
「これ、確認済みでよいじゃろ」
「署名してください」
「めんどくさいのう……」
「若王子殿下」
「わかっておる!」
署名を書く。
二枚目。
三枚目。
四枚目。
まだ山の高さはほとんど変わらない。
ヤマトは窓を見た。
つばきが先に気づく。
「逃げませんよね?」
「外の空気を見ただけじゃ」
「空気は見えません」
「見えるかもしれん」
「見えません」
「つばきは休暇で優しさを置いてきたのか?」
「若王子殿下が牢屋へ入ったと聞いて、ちょっと心配したんですよ?」
「ならば休ませろ!」
「でも原因を聞いたら、心配した分を返してほしくなりました」
「そんな制度はない!」
「三日分、頑張ってください」
「俺様も三日休暇がほしい!」
「その三日、日本に行ってましたよね?」
「ぐぬぬ……」
ヤマトはまた書類へ向き直った。
少し離れた研究室では、停止された伊藤くんが保管台へ寝かされている。
胸の中には、新しく追加された回路が一つ。
『服従回路・次回用』
それを見つけたつばきが、こっそり電源を抜いておいたことを、ヤマトはまだ知らなかった。
「次こそ完璧な代役を作るんじゃ」
「何か言いました?」
「何も言っておらん!」
「手を動かしてくださいね」
「俺様は今、考える仕事をしておる!」
「書類から逃げる方法を?」
「違う!」
机の下では、ヤマトの足が少しずつ窓のほうへ向いていた。
つばきはお茶を一口飲み、何も言わず窓の鍵を閉める。
かちり。
ヤマトの足が止まった。
「……つばき」
「はい?」
「俺様の考えが読めるのか?」
「ずっと一緒にいますからね」
「恐ろしいやつじゃ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ヤマトは深いため息をつき、次の書類へ署名した。
俺様の代わりがいればいい。
そう考えて作ったはずだった。
なのに今、仕事は以前より増えている。
机の向こうで大臣が、新しい紙束を置いた。
「こちらは伊藤くん製造に関する安全管理報告書です」
「まだ増えるのか!?」
「こちらは王子不在時の政務代行制度について」
「制度化するな!」
「こちらは牢の使用申請です」
「俺様が入っておった分か!?」
「はい」
「牢に入れられた本人が申請するのか!?」
「規則ですので」
ヤマトはとうとう机へ突っ伏した。
「俺様、今度こそ王政を終わらせる……」
「その申請書も用意しましょうか?」
「いらん!」
つばきが笑う。
大臣もわずかに口元をゆるめた。
宮殿には再び、いつもの声が響いていた。
爆発もなく、逃走もなく、真面目に政務をする王子より。
書類を嫌がり、隙あらば逃げようとする王子のほうが、どうやらこの宮殿には合っているらしい。
もっとも本人は、そんなことを知る由もない。
「つばき! 窓の鍵を開けろ!」
「だめです」
「大臣! つばきを休暇にせよ!」
「先ほど戻ったばかりです」
「では俺様を休暇に!」
「三日間無断で休まれました」
「無断ではない! 伊藤くんに言った!」
「本人以外への申告は無効です」
「もう嫌じゃあああ!」
その日の政務が終わったのは、日が沈んでからだった。
そして翌朝、ヤマトはまた研究室で新しい代役装置の設計図を広げていた。
設計図の一番上には、大きな文字でこう書かれている。
『絶対に裏切らない俺様二号』
その下へ、つばきが赤いペンで一言付け足した。
『先に書類を終わらせてください』