田島波留宮殿の正面玄関へ、えげれす王国第三王女シャーロット・ベルローズが到着したのは、午後の鐘が鳴る少し前だった。
陽光を受けて輝く金髪、大きく出した額。
左右へきれいに垂れた縦ロール。
淡い桃色のドレスにはしわ一つなく、よく磨かれた靴にも曇りはない。
八歳とは思えないほど堂々とした姿だった。
シャーロットは玄関広間へ足を踏み入れると、最初にドレスの裾を確認した。
髪は乱れもなくも完璧。
両手で抱えた菓子箱にも、傷一つついていなかった。
準備は万全である。
明日から、シャーロットは一時的にえげれす王国へ帰国する。
留学が終わるわけではない。
王家の行事や、えげれす国内での外交予定へ出席するため、しばらく国へ戻るだけだった。
用事が済めば、再びアララ王国へ戻ってくる。
それでも、数週間はヤマトと会えなくなる。
だから帰国前に、きちんと挨拶をしておこうと思った。
この日のために、シャーロットは三日前から話す内容を考えている。
留学中に学んだこと。
えげれす王国で予定されている式典。
最近読んだ科学論文。
今度会うまでに、ヤマトへ取り組んでほしい政務の改善点。
外交の話ばかりでは堅すぎるので、好きな菓子の話も入れる。
持ってきた菓子箱の中身は、ヤマトが好みそうなものを自分で選んだ。
あとは本人と会うだけだった。
しかし玄関広間に現れたのは、赤みがかった茶髪の少女だった。
「シャーロット王女殿下、いらっしゃいませ」
クラシックなメイド服の裾を整え、少女がきれいに頭を下げる。
「お待ちしておりました」
「ごきげんよう、つばき」
シャーロットも完璧な角度で礼を返した。
ヤマト専属侍女、つばき。
赤みがかった茶髪をボブに整え、一部だけを後ろで結んでいる。
親しみやすい笑顔に柔らかい話し方。
誰とでもすぐに打ち解けてしまう、不思議な才能を持つ少女。
そして何より。
この宮殿へ来れば、ほとんどいつもヤマトのそばにいる。
お茶を運ぶのもつばき。
政務から逃げるヤマトを捕まえるのもつばき。
研究室へ呼びに行くのもつばき。
発明品の実験に付き合い、一緒に壁を突き破ってくるのも、だいたいつばきだった。
ヤマトと過ごしている時間だけで考えれば、シャーロットよりずっと長い。
つまり恋のライバルである。
もちろん、つばき本人がその気であるかは関係ない。
恋というものは、本人が気づく前に始まっている場合もある。
えげれす王国から持ってきた恋愛小説にも、そう書かれていた。
自覚していない相手ほど恐ろしい。
無防備なまま距離を縮め、気づいたころには手遅れになっている。
つばきは、もっとも警戒するべき種類の恋のライバルだった。
「それで、ヤマト殿下はどちらに?」
シャーロットは内心を悟られないよう、平静を装って尋ねた。
つばきは少し困ったように笑った。
「若王子殿下は、今ちょっと政務中なんです」
「政務?」
「はい。朝からずっと書類仕事をしてます」
「まあ」
シャーロットは目を瞬いた。
王子なのだから、政務をするのは当然である。
けれどシャーロットの知るヤマトは、書類より設計図を好み、会議より実験を好む少年だった。
仕事を頼まれれば逃げ道を探し、書類の山を見れば王政を終わらせようとする。
「真面目に取り組んでいらっしゃるのですね」
「ええ、まあ。真面目にはやってるんですけど」
つばきの笑顔が少し曇った。
「半泣きです」
「半泣き?」
「さっき見に行ったら、机に突っ伏して『なんで同じ内容の書類が三枚もあるんじゃ』って言ってました」
「各部署へ保管するための複写ではありませんの?」
「私もそう言ったんですけど『一枚をみんなで見ればよいじゃろ』って」
「国家運営を回覧板で済ませるおつもりですの?」
「たぶん」
つばきが申し訳なさそうに笑う。
「しかも途中で逃げようとして、大臣さまに扉の鍵を閉められたみたいです」
「当然ですわね」
「ですよねえ」
つばきの返事があまりにも自然で、シャーロットもつられてうなずきかけた。
いけない。
相手は恋のライバルなのだ。
親しげに話している場合ではない。
シャーロットは改めて背筋を伸ばした。
「では、わたくしが来たとお伝えくださいませ」
「はい」
「明日から一時帰国いたしますので、その前にご挨拶へ来たと伝えてください」
「そうでしたね」
つばきは少し寂しそうに眉を下げた。
「しばらくお会いできなくなるんですよね」
「数週間ほどですわ。国での用事が済めば、また戻ってまいります」
「それでも寂しくなりますねえ」
つばきは素直にそう言った。
シャーロットは少しだけ目を丸くした。
社交辞令には聞こえない。
本当に別れを惜しんでいるらしい。
「すぐに戻りますわ」
「はい。お待ちしてますね」
「それより、ヤマト殿下へお伝えくださいませ」
「たぶん、すごく喜びますよ」
「でしたら、すぐにいらっしゃるでしょうし」
「それがですね……」
つばきは困り顔のまま頬へ指を当てる。
「若王子殿下へ今伝えると、王女殿下を理由に仕事を途中で放り出すと思うんですよねえ」
「帰国前の挨拶ですのよ?」
「はい」
「国際的にも大切なことですわね」
「そう言うと思いました」
「当然でしょう」
「若王子殿下も『えげれす王国の王女を待たせるのは国際問題じゃ』とか言って、窓から逃げようとすると思います」
「窓から?」
「扉は大臣さまが見張ってるので」
「なぜ普通に仕事を終えてから来ようと思いませんの?」
「若王子殿下ですから」
その一言で、シャーロットは少しだけ納得してしまった。
「まだ、かなりかかりますの?」
「今の進み方だと、夕方くらいでしょうか」
「夕方」
シャーロットの完璧な微笑が固まった。
帰国準備があるため、日が暮れる前には滞在先へ戻らなければならない。
つまり、ほとんど話せない可能性がある。
三日かけて考えた挨拶も。
帰国中に取り組んでほしい政務の注意点も。
菓子箱の中身も。
出番がなくなるかもしれない。
「ですが、わたくしが来たと知れば」
「きっと仕事は一気に進むと思います」
「でしたら」
「同時に、何かしらの方法で脱出しようとすると思います」
「では仕事を終えるまで監視を増やしなさいませ」
「大臣さま一人で十分だと思います」
「それほどですの?」
「若王子殿下、今ごろ半泣きなので」
つばきは少し考えたあと、柔らかく笑った。
「せっかくですから、先にお茶でもいかがですか?」
「あなたと?」
「はい、若王子殿下が終わるまで、私がお相手します」
「結構ですわ」
シャーロットは即答した。
恋のライバルと二人きりでお茶。
敵陣へ、自分から踏み込むようなものである。
つばきは嫌な顔をするでもなく、小さく首をかしげた。
「お茶、お嫌いでした?」
「そうではありませんの。ですが、わたくしはヤマト殿下へご挨拶に来たのですわ」
「はい。わかってますよ」
「でしたら、ここでお待ちしますわ」
「玄関でですか?」
「問題ありませんの」
「でも、夕方まで立ったままは大変ですよ?」
「王女たるもの、この程度で弱音は吐きませんわ」
「おなかも空きません?」
「空きません」
きゅう、と小さな音がした。
広い玄関広間では、思った以上によく響いた。
シャーロットは動かなかった。
つばきも何も言わなかった。
短い沈黙が落ちる。
シャーロットは顔へ熱が集まるのを感じながら、ゆっくり口を開いた。
「今の音は、わたくしではありませんわ」
「はい」
「宮殿の設備か何かです」
「はい」
「配管ではないかしら」
「この時間、よく鳴るんですよねえ」
つばきは真面目な顔でうなずいた。
「おなかみたいな音が」
シャーロットはつばきの顔を見上げた。
笑っていないし馬鹿にする様子もない。
シャーロットの言葉が嘘だとは、たぶんわかっている。
それでも追及せず、こちらの言い分に合わせてくれている。
「……そうですの」
「はい」
「ずいぶん変わった配管ですのね」
「困りますよねえ」
「本当に」
「では、その配管の音を止めるためにも、お茶にしませんか?」
「なぜお茶で配管が止まりますの?」
「お菓子もありますよ」
「答えになっていませんわ」
「今日のケーキ、いちごがいっぱい乗ってます」
シャーロットのおなかが、もう一度鳴った。
今度は先ほどより大きい。
つばきは何も言わず、廊下の奥を手で示した。
「こちらへどうぞ」
シャーロットは数秒ほど黙ったあと、顔をそむけた。
「配管の様子を確認するだけですわ」
「はい、ついでにお茶も飲みましょう」
「ついでですわよ」
「もちろんです」
案内されたのは、庭園に面した小さな応接室だった。
大きな窓から午後の日差しが入り、丸いテーブルを明るく照らしている。
豪華すぎない室内には、柔らかな長椅子と二脚の椅子が置かれていた。
庭には淡い色の花が咲き、小さな鳥が噴水の縁で羽を休めている。
つばきはシャーロットを椅子へ案内すると、手際よく食器を並べ始めた。
「今日は、えげれす王国の紅茶を用意してあるんです」
「えげれすの?」
「はい、以前王女殿下が好きだとおっしゃっていたものです」
シャーロットは瞬きをした。
「覚えていましたの?」
「もちろんです」
「一度しか言っていませんわ」
「お好きなものは覚えておいたほうが、また来てくださったときに喜んでもらえるでしょう?」
つばきは何でもないことのように答えた。
白いティーポットから、琥珀色の紅茶が注がれる。
ふわりと広がった香りは、たしかにシャーロットが好んで飲むものだった。
それだけではない。
ミルクの量や砂糖の数。
すべて好みに合っている。
シャーロットはカップを見つめた。
警戒するべきである。
これは恋のライバルによる作戦かもしれない。
好物を記憶し、紅茶で油断させる。
外交でも使われる方法だった。
つばきは、やはり恐ろしい相手である。
「どうぞ」
「いただきますわ」
シャーロットは慎重に一口飲んだ。
おいしい。
非常においしい。
悔しいほど好みに合っている。
「いかがですか?」
「……悪くありませんわ」
「よかったです」
つばきはほっとしたように笑い、自分のカップにも紅茶を注いだ。
続いて運ばれてきたのは、小さなショートケーキだった。
柔らかな生地に白いクリーム。
その上には、赤いいちごが三つ並んでいる。
シャーロットはケーキを見つめた。
「いちごがお好きでしたよね?」
「ええ」
「若王子殿下も好きなんですよ」
ぴくりと、シャーロットの眉が動いた。
「存じていますわ」
「前に研究室へ持っていったら、三分で食べてましたね」
「三分もかけたのです?」
「一口でした」
「それは三秒ではなくて?」
「残りの二分五十七秒は、口の周りについたクリームを取る時間です」
シャーロットは想像した。
ヤマトならやりそうだった。
「お行儀が悪いですわ」
「本当にそうですよね。急いで食べなくても、誰も取らないのに……」
「わたくしがご一緒していれば、きちんと注意しましたのに」
「お願いします。私が言っても『口へ入れば同じじゃ』って聞かないので」
「まあ、王族としての自覚が足りませんわね」
「王女殿下からも言ってあげてください」
「ええ。わたくしが指導いたします」
「助かります」
つばきがうれしそうに笑う。
シャーロットもつられて笑いかけ、はっと口元を引き締めた。
何を普通に会話しているのだ。
相手は恋のライバルである。
「つばき」
「はい?」
「あなたは、いつもヤマト殿下のおそばにいますわね」
つばきはフォークを置き、少し考えた。
「専属侍女ですから」
「朝も?」
「はい」
「昼も?」
「だいたい」
「夜も?」
「夜はお部屋までお送りしますけど、寝たあとは戻りますよ」
「研究室へも?」
「呼ばれれば」
「お出かけにも?」
「お仕事なら一緒です」
シャーロットはカップを持ったまま、じっとつばきを見つめた。
やはり強敵だった。
自分がえげれす王国へ帰っている間も、つばきはヤマトのそばにいる。
朝食で顔を合わせる。
仕事を手伝い発明品の実験に付き合う。
シャーロットが国で式典へ出席している間にも、二人は毎日会話をするのだ。
「ずるいですわね……」
ぽつりとシャーロットは呟く。
「えっ?」
「何でもありませんの」
「何か気になることがありました?」
「ありませんわ」
「でも、少し怒ってません?」
「怒っていませんわ」
「ケーキ、もう一個ありますよ」
「いただきますわ」
「はい」
つばきは何も聞かず、二つ目のケーキを皿へ置いた。
シャーロットはフォークを入れながら、内心で唇をかんだ。
まただ。
なぜこの少女は、こちらが言いたくないことを無理に聞こうとしないのだろう。
外交官の中には、相手の小さな動揺を見逃さず、そこから本音を引き出そうとする者もいる。
つばきには、それがない。
だからといって、興味がないわけでもない。
話すかどうかを、シャーロット自身に任せている。
その距離が妙に心地よかった。
「……あなたは」
「はい」
「ヤマト殿下のことを、どう思っていますの?」
つばきはフォークを持ったまま固まった。
「どう、というと?」
「そのままの意味ですわ」
「若王子殿下は、若王子殿下ですよ」
「答えになっていません」
「うーん……」
つばきは天井へ目を向けた。
「すごい人だと思います」
「当然ですわ」
「優しいですし、ご家族をすごく大切にします」
「存じています」
「でも、思いついたらすぐ行動するし、人の話を聞かないし、実験中は周りが見えなくなるし、寝ないし、ごはんも忘れるし」
「急に悪いところが増えましたわね」
「この前なんて、自分の代わりに政務をさせるロボットを作って、王子の座を取られかけました」
「何をしていますの!?」
「楽をしようとしたみたいです」
「自業自得ではありませんか!」
「ですよねえ」
「それで反省なさったの?」
「服従回路をつけ忘れたのが反省点だって言ってました」
「まったく反省していませんわ!」
「私も言いました」
つばきは楽しそうに笑った。
普通なら主人の失敗を他国の王女へ話すのは問題だろう。
しかしつばきの言葉には悪意がない。
困っているし呆れている。
それでも……嫌ってはいない。
むしろ一つ一つの失敗を、大切な思い出として話しているように聞こえた。
シャーロットは、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「それでも、そばにいるのですわね」
「はい」
「偽物の王子を作られても?」
「私が牢へ入れられたわけじゃありませんから」
「月へ飛ばされても?」
「それは事故ですし」
「壁を突き破っても?」
「慣れました」
「慣れてはいけませんわよ!?」
「そうなんですけどねえ」
つばきは困ったように笑った。
「若王子殿下って、放っておけないんですよ」
シャーロットの胸の中で、警報が鳴った。
恋愛小説なら、ここである。
無自覚な少女が、相手を放っておけないと言う。
それはつまり、恋の始まり。
やはり危険だった。
しかも自分が一時帰国している間、つばきは毎日ヤマトのそばにいる。
このまま放置するわけにはいかない。
シャーロットは椅子から勢いよく立ち上がった。
「負けませんわ!」
つばきが目を丸くした。
「えっ、何にですか?」
「あなたには負けません!」
「私ですか?」
「そうですわ!」
「ええと、何か勝負してました?」
「恋です!」
「……恋?」
つばきがぱちぱちと瞬きをする。
シャーロットは言ってしまってから頬を赤くした。
しかし引き返すわけにはいかない。
王女たるもの、一度口にした言葉には責任を持たなければならない。
「わたくしは、ヤマト殿下のことをお慕いしております!」
「はい」
「ですから、いつもヤマト殿下のそばにいるあなたは、恋のライバルですわ!」
「私が?」
「無自覚なのが一番危険なのです!」
「えぇ……」
つばきは困ったように自分の頬をかいた。
「私、若王子殿下より六つも年上ですよ?」
「年齢は関係ありません!」
「王女殿下は二つ年下ですよね?」
「そちらも関係ありませんわ!」
「そういうものですか」
「そういうものです!」
シャーロットは胸を張った。
つばきはしばらく考えたあと、ふっと笑った。
「じゃあ、応援しますね」
「……はい?」
「王女殿下と若王子殿下、お似合いだと思いますよ」
「な、何をおっしゃいますの!?」
シャーロットの顔が一気に赤くなる。
「だって王女殿下、若王子殿下のことをよく見てるじゃないですか」
「当然ですわ!」
「ちゃんと注意もしてくれますし」
「王族として間違ったことをしていれば、言うべきですもの」
「若王子殿下、王女殿下のお話なら結構聞くと思いますよ」
「本当ですの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「聞いてる途中で、発明を思いつかなければ」
「そこは最後まで聞かせますわ」
「お願いします」
つばきは本当にうれしそうだった。
シャーロットは立ったまま、つばきの顔を見つめる。
「あなたは、わたくしがヤマト殿下を好きでも構いませんの?」
「どうして困るんですか?」
「恋のライバルなのでしょう?」
「王女殿下がそう思ってるだけですよね?」
「それは……そうですけれど」
「私は王女殿下のこと、かわいくて頑張り屋さんだと思ってますよ」
「か、かわいい」
「四か国語も話せて、外交も上手で、すごいですよね」
「当然ですわ」
「でも、帰国する前に挨拶しようって……たぶん三日も話す内容を考えたり、好きなお菓子を持ってきたりするところ、そこがすごくかわいいです」
「なぜ知っていますの!?」
つばきがテーブルの横に置かれた菓子箱を指した。
「箱に『帰国前のご挨拶として、ヤマト殿下へ』って書いてあります」
「見ないでくださいませ!」
「見えるところにありますよ」
シャーロットは慌てて箱を抱きかかえた。
つばきは声を立てて笑う。
馬鹿にする笑いではない。
ただ、かわいいものを見たときのような、あたたかな笑い方だった。
「大丈夫ですよ。若王子殿下、きっと喜びます」
「そうでしょうか」
「はい、甘いものが好きですから」
「わたくしが持ってきたからではなく?」
「そこも喜ぶと思います」
「本当に?」
「王女殿下から手紙が来ると、若王子殿下はすぐに開けてますよ」
「すぐ?」
「はい、仕事中でも」
「まあ」
「それで大臣さまに怒られてます」
「先に仕事を終えるべきですわ!」
「戻ってきたら、また言ってあげてください」
「もちろんですわ」
「帰国中も手紙を送ってあげてくださいね」
シャーロットは胸の前で菓子箱を抱きしめた。
「わたくしから?」
「若王子殿下、きっと楽しみに待ちますよ」
「でしたら、毎日書きますわ」
「毎日は大変じゃないですか?」
「王女たるもの、手紙の一通や二通で弱音は吐きません」
「一日に二通送るんです?」
「例えですわ!」
つばきが小さく笑う。
シャーロットの心の中にあった刺のようなものが、少しずつ溶けていった。
「つばき」
「はい?」
「あなたは少し、ずるいですわ」
「私がですか?」
「そのように笑われると、怒れなくなるではありませんか」
「怒ってたんですか?」
「恋のライバルですもの。もっと厳しく接するつもりでした」
「そうだったんですね」
「あなたの弱点を探すつもりでもありました」
「見つかりました?」
「見つかりませんわ」
「結構ありますよ。朝が少し苦手ですし、好きな食べ物があると食べすぎますし」
「そういう弱点ではありません!」
「じゃあ、実験を頼まれると三日休暇で引き受けちゃうところとか」
「なぜ引き受けますの!?」
「三日もですよ?」
「命を大切になさいませ!」
「次から気をつけます」
「絶対ですわよ!」
「はい」
つばきの返事を聞き、シャーロットは満足して椅子へ座った。
気づけば、つばきを警戒する気持ちは、ほとんどなくなっていた。
それどころか、自分が帰国している間、ヤマトに振り回されるつばきを守らなければならない気さえしてくる。
「若王子殿下には、わたくしからも言っておきますわ」
「何をですか?」
「あなたを危険な実験へ巻き込まないようにと」
「助かります」
「休暇を出せばよいと思っているところも、改めさせます」
「そこは残してもらっても」
「だめですわ!」
「えぇ……」
「あなたも簡単に受け入れてはいけません!」
「でも三日もくれるんですよ?」
「三日でもです!」
「王女殿下、しっかりしてますねえ」
「当然です。あなたは少し、人がよすぎますわ」
「よく言われます」
「わたくしが帰国している間も、気をつけなさいませ」
「はい」
「ヤマト殿下から危険な実験を頼まれたら、すぐに手紙で知らせるのですよ」
「そこまでしてくれるんですか?」
「仕方ありません。恋のライバルが、わたくしの留守中に実験でいなくなっては勝負になりませんもの」
「王女殿下って優しいですね」
「違います!」
「ありがとうございます」
「ですから、違いますわ!」
つばきがにこにこと笑う。
シャーロットは顔を赤くし、ケーキへフォークを刺した。
恋のライバルのはずだった。
なのに気づけば、帰国中の手紙の話をしている。
「王女殿下がいない間、少し寂しくなりますね」
「すぐ戻ってまいりますわ」
「はい」
「戻りましたら、またお茶をしましょう」
「ぜひ」
「次は、レモンのケーキがよいですわ」
「じゃあ、一緒に作りませんか?」
「わたくしも?」
「はい。若王子殿下へ作るんでしょう?」
シャーロットは少し考え、うなずいた。
「よいでしょう」
「きっと喜びますよ」
「ただし、わたくしが作ったことにしてくださいませ」
「全部ですか?」
「ほとんどです」
「どのくらい?」
「七割ほど」
「結構持っていきますね」
「王女ですもの」
「では六割で」
「七割です」
「間を取って六割五分」
「わかりましたわ」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
そのとき、廊下の向こうから、ばたばたと走る音が聞こえてきた。
「つばきー!」
扉が勢いよく開く。
書類を両腕に抱えたヤマトが飛び込んできた。
つんつん頭は乱れ、目元にはうっすら涙がにじんでいる。
「聞いてくれ! 同じような書類が、あと十二枚も出てきたんじゃ!」
「お仕事は終わったんですか?」
「終わらせてきた!」
元気いっぱいに答えるヤマトの髪を櫛で梳かしながら、つばきは聞く。
「本当に?」
「最後の三枚は字が大きくなったが、読めるから問題ない!」
「あとで確認しますね」
「今はするな!」
ヤマトはそこで、シャーロットの存在に気づいた。
「おお、シャーロット! 来ておったのか!」
「ええ。ずいぶんお待ちしましたわ」
「すまぬ!大臣が俺様を部屋から出してくれんかったんじゃ!」
「当然ですわ。お仕事は最後までなさらないと」
「つばきと同じことを言うな!!」
「シャーロット王女殿下、若王子殿下が途中で逃げないよう、帰国中も手紙で注意してくださるそうですよ」
「任せてくださいませ」
「なんで二人で組んでおるんじゃ!?」
ヤマトは目を丸くした。
シャーロットとつばきは隣同士に座り、同じ皿から小さな焼き菓子を取っている。
テーブルには空になったケーキ皿が並び、二人の間には、帰国後に作るレモンケーキの簡単な絵まで置かれていた。
「おぬしたち、いつの間にそんなに仲良くなったんじゃ?」
「仲良くなどありませんわ」
「そうですよ。恋のライバルですから」
「つばき!」
シャーロットが慌てて立ち上がる。
ヤマトはさらに目を丸くした。
「鯉?」
「何でもありませんわ!」
「今、故意と言ったのじゃろ」
「聞き間違いです!」
「俺様は聞き間違えんぞ」
「政務でお疲れなのですわ!」
「そうじゃった。俺様は疲れておる」
「納得するんですね」
つばきが笑いながら、ヤマトの前へ新しいカップを置いた。
「若王子殿下も、お茶にします?」
「飲む!」
「シャーロット王女殿下から、お菓子もありますよ」
「本当か!?」
ヤマトの顔が一気に明るくなる。
シャーロットは菓子箱を差し出しながら、少し緊張した。
「明日から一時帰国いたしますので、その前のご挨拶として選んでまいりましたの」
「帰国?」
ヤマトの笑顔が止まった。
「はい。王家の行事と、国内での外交予定へ出席するためですわ」
「いつ戻るんじゃ」
「数週間後ですわ」
「数週間も?」
「用事が済みましたら、すぐに戻ってまいります」
ヤマトは菓子箱を抱えたまま、少しだけ黙った。
「……そうか」
その声は、先ほどまでより小さかった。
シャーロットの胸が少し締めつけられる。
けれど次の瞬間、ヤマトは胸を張った。
「えげれす王国へ戻っても、アララ王国の名を落とすでないぞ!」
「わたくしはえげれす王国の王女ですわ!」
「アララの留学生でもあるじゃろ!」
「そこは否定しませんけれど」
「毎日、報告書を書け!」
「手紙ではなく、報告書ですの?」
「俺様へ送るなら同じじゃ!」
「全然違いますわ!」
「発明の感想も書け!」
「帰国中は見られませんわ!」
「設計図を送る!」
「国際郵便で危険物を送らないでください!」
つばきが二人のやり取りを見ながら笑う。
「若王子殿下、寂しいんですね」
「違う!」
「すぐ戻ってきてほしいんでしょう?」
「違うと言っておる!」
「わたくしがいない間、政務をさぼらないでくださいませ」
「なぜじゃ!」
「戻ってきたときに、書類の山へ埋もれている姿を見たくありませんもの」
「俺様は埋もれん!」
「先ほど、半分埋もれていたでしょう?」
「見ておったのか!?」
「つばきから聞きました」
「つばき!」
「事実ですから」
「俺様の味方をせい!」
「若王子殿下が正しいときは味方しますよ」
「今は?」
「王女殿下の味方です」
「なんでじゃ!」
シャーロットは口元を押さえて笑った。
「帰国中、毎日とは申しませんが、手紙を送りますわ」
「毎日でよいぞ」
「遠慮がありませんわね」
「俺様の返事も送ってやる」
「書いてくださるの?」
「俺様の気が向けばな」
「では、わたくしも気が向いたときだけにしますわ」
「毎日送れ!」
「でしたら、毎日返事を書いてくださいませ!」
「ぐぬぬ……」
ヤマトは菓子箱を抱えたまま黙り込んだ。
つばきが小さく笑う。
「交渉成立ですね」
「成立しておらん!」
「では、お菓子を食べながら決めましょうか」
「食べる!」
ヤマトはその場で箱を開けようとする。
シャーロットとつばきが同時に声を上げた。
「手を洗ってからですわ!」
「先に手を洗ってください!」
ヤマトの手が止まる。
二人は顔を見合わせた。
「同じことを言いましたね」
「当然の注意ですわ」
「おぬしたち、やはり仲良しではないか」
「違いますわ!」
「違うそうです」
「つばきはなぜ笑っておるんじゃ?」
「楽しいからです」
つばきが答えると、シャーロットも少し遅れて笑った。
「戻りましたら、つばきとケーキを作りますの」
「俺様の分は?」
「あなたへ差し上げるものですわ」
「おお!」
「ただし、帰国中の手紙へ毎回きちんと返事を書いたらです」
「なぜ条件が増えておるんじゃ!」
「「当然です」」
つばきも頷く。
また二人の声が揃った。
ヤマトは不思議そうに首をかしげたあと、まあよいかと笑った。
「二人とも妙に気が合うのう」
「恋のライバルとして、行動を監視するだけですわ」
「私も王女殿下が無理しないように見ておきますね」
「帰国中は見られませんわよ?」
「お手紙で」
「あなたも送ってくださるの?」
「もちろんです」
シャーロットは少し驚いたあと、うれしそうに目を細めた。
「では、必ずですわよ」
「はい」
「若王子殿下より先に返事をくださいませ」
「なぜ俺様と競争するんじゃ!」
「若王子殿下、返事が遅そうなので」
「俺様は速い!」
「書類も速くしてくださいね」
「今は手紙の話じゃ!」
「同じ書くものです」
「全然違う!」
シャーロットとつばきが笑う。
恋のライバルとして始まったお茶の時間は、いつの間にか帰国中の約束を決める時間になっていた。
シャーロットは、まだ負けるつもりなどない。
ヤマトの隣に立つのは、自分でありたいと思っている。
けれどそのとき、反対側につばきがいても悪くない。
自分が国へ帰っている間、つばきがヤマトのそばにいるのも、少しくらいなら許してあげてもよい。
危険な実験へ巻き込まれないよう、見張ってくれるなら。
そんなことを考えながら、シャーロットは半分に分けられたケーキへフォークを入れた。
「つばき」
「はい?」
「わたくしが帰っている間、ヤマト殿下をよろしくお願いしますわ」
「お任せください」
「危険な実験を始めたら、止めてくださいませ」
「できるだけ頑張ります」
「できるだけ?」
「完全に止めるのは、ちょっと難しいので」
「では、被害を少なくしてください」
「そちらなら何とか」
「二人で俺様を危険人物のように扱うな!」
「危険人物ではありません」
「危険な発明をするだけですわ」
「同じじゃろ!」
つばきとシャーロットは、また顔を見合わせた。
「戻ったら、レモンのケーキですわよ」
「はい。一緒に作りましょうね」
「わたくしが七割作ったことにしますわ」
「六割五分ですよ」
「細かいですわね!」
「覚えてますから」
つばきの言葉にシャーロットは、満面の笑みで答えるのだった。
「負けませんわよ!」
応接室へ響いた声に、ヤマトだけが事情をよくわからないまま笑っていた。
翌日。
シャーロットはえげれす王国へ向けて出発した。
その日の夕方、田島波留宮殿には早くも一通の手紙が届いた。
宛名は、ヤマトレオン・フォンド・アララ・オットット十三世。
封筒の隅には、小さくこう書かれていた。
『政務をさぼっていないか、必ずつばきに確認いたします』
手紙を読んだヤマトは、窓から逃げようとしていた足を止めた。
「……帰国しても細かいのう」
「返事、書くんですよね?」
窓の前には、すでにつばきが立っている。
「明日でよい」
「今日届いたんですから、今日書きましょう」
「俺様は忙しい!」
「何でです?」
「返事の内容を考えるので忙しい!」
「じゃあ、もう書けますね」
「つばきまで細かくなりおって!」
ヤマトの叫びが、いつものように宮殿へ響く。
机の上には、シャーロットからの手紙。
その隣には、まだ白紙の便箋。
少し離れた場所には、つばきからシャーロットへ送るための封筒も、すでに用意されていた。
書き溜めは終了です。