とある、何もない、いや、何も無くなった大陸の中央。広い荒野の中心で。
その老人は、ぐるぐると同じ場所を回っている。半径10mの円を描くように。
老人の事を、知るものはほぼいない。何故そこにいるのか、誰なのか、何故、こんな場所で生きているのか。
老人自身も、知らない。何も覚えていないから。
背筋は曲がっている。曲がりすぎて、ほぼ地面に頭が着きそうだ。
顔の片側は、潰れている。なのに張っている。肉が内側から、みっちりと詰まっているという事だけが分かる。
なぜだか肌は枯れ木のようにボロボロで、遠くからは黒い岩にしか見えないだろう。
そんな生き物が、足を引きずりながらも、歩いている。
片手に、妙に黒艶のある剣を持って。
円の中心には、周りの景色に、特に、老人には似合わない荘厳な雰囲気を纏った白い大剣。そして、それを囲むようにして四つの石が並んでいる。
老人は時々、剣と石の方を見る。少しすると、また、歩き出す。
もう何年も。人の一生よりも長く、そうしている。
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一ヶ月に数度。彼に差し入れが届く。
ある時は、鱗が黒く染まった——つまるところ、極めて高齢の龍人が。
またある時は、耳が垂れ下がり、目元に小じわのある、高齢のエルフが。
別の日は、髭が地面に着地している、老人と同じくらい腰の曲がったドワーフが。
そして、極めて稀に、騎士鎧を着けた、人間の若い女が。
全員が全員、平皿に、食べやすいよう粉砕された食料を乗せて。老人の周回軌道上に置く。
すると、老人はまるで獣の用に四つん這いで。ガツガツと食い散らかし、皿を蹴り飛ばす。
そこに一欠片も理性は無く、本能だけがあった。
なのに、皿は、一度も円の内側に入ることは無かった。
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彼が食事をする間。
龍人は、跪いて、自分の角を地面に擦り当て、静止していた。他の同族が見れば憤怒するだろう。だが龍人の目に迷いは無かった。
エルフは、老人の背に霊薬を振り撒いた。商人が見れば発狂するだろう。あまりの価値の損失に。けれど、エルフの顔は穏やかだった。
ドワーフは鋼竜の心臓を老人と同じ形に、素手で砕いた。素手による彫刻の作製。そしてそれを、投げ込んだ。円の内側に入った途端、消えた。粉になって。
きっと鍛冶と芸術に関わるものが見れば狂うだろう、ひたすらな無駄。だが、ドワーフは笑って帰っていった。
鎧を着た若者は、片手を胸に。もう片手に神像の付いたネックレスを握り、深々と頭を下げた。きっと、同国の騎士に見られれば首をこのまま落とされるだろう。それは、王に向けてしか、してはいけない仕草故に。
つまるところ、彼等が持っているのは、例え所作が違えど。
最も深い敬意だった。
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老人の中に、名前が付くものは残っていなかった。
理性も記憶も常識も欲も、何も。
体が勝手に動き、空っぽの脳に苦痛を味合わせる。
近くで見れば、誰だって気付くだろう。
彼の体が黒いのは、汚れではなく、全てが傷であることに。
火傷もある。切り傷もある。毒であり、呪いであり、全てが守る時に付いた傷だった。
動くだけで、発狂しそうな、いや人ならば発狂すべき不快感が流れ込んでくる筈なのに。
老人は動いていた。ずっと、ずっと。
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ある日。老人が飯を食っていた。その隣には、鎧姿の彼女が居る。
唐突に。遠くで、轟音が鳴る。若者が姿勢を崩さず遠くを見ると、そこにはこの世界で数少ない筈の、『野良』の魔物が居た。それも、大量に。
口だけが発達した歪な竜。縦に人程も大きさのある狼の群れ。地面を溶かしながら突き進む、赤いスライム。引き連れる大量の、魑魅魍魎。
それらは、何かを憎悪するように、こちらへ一直線に向かってきていた。
冷や汗がポツポツと地面に落ちた。だが、それだけだった。普通ならば、何が何でも、走って逃げるべき状況。
けれど若者の足は止まっている。動かないのではなく、意図してこの場所に留まっていた。この場所のほうが安全だと知っていた。
近付いてくる轟音。邪悪な力が放つ圧。心臓は鳴り止まなかった。
耳障りな鳴き声と、魔物の足音がよく聞こえる。それでも留まる。
彼女も騎士たる者。音でも、距離くらいは測れる。
100mを切った。
50mをとうに越えた。
20mにもなると、あまりの瘴気に血涙が出る。
10mで、膝が崩れた。臓器の痛みに耐え切れない。
7
3
1
0。
先頭が、円に触れた。
「......ア゛、ウ」
若者が視線を上げると、そこには。
この世で最も偉大な、戦士の姿が有った。
背筋は立っていた。
片足を引いて、剣を前に構えていた。それだけの、一般的な型のはずだった。
それを見えているだけで、涙が出た。技術と誇りを、追い求める者としての。感動が。
老人の視線は真っ直ぐに、侵入者へと向いていた。
その時から、今も。若者の瞼には、黒い剣筋が焼き付いている。
夕方の蒸し暑さを消し飛ばした、あの流れ星を。
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老人の頭には、今日も。そして、明日も声がする。誰に伝わるわけでもないのに。
『....墓......ろしく.......さ』
『き.......前.......けが』
『ルー.....カス』
この声が聞こえる限りは、動くのだろう。
いつか、聞こえなくなれば、きっと石が五つに増えるのだ。
ルーカス
享年2??歳
死因:老衰