本丸縁絵巻   作:さつき@審神者

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初期刀・加州清光との出会いから始まる、本丸のはじまりの物語です。家族になっていく日々を描くため、ゆっくりと物語が進行します。


はじまりの本丸
【星】01


はじめの一振り

冷たい。

 

足元から這い上がってくる泥水の感覚に、白雪は意識の底で身悶えた。

 

十四歳の、あの日。 神社の境内に降り注ぐ雨は、すべての音をかき消すほどに激しかった。 目の前に立つ「キンちゃん」と呼ばれた少年の瞳は、白雪を映しているようで、その実、彼女の背後にある「星栞」という家の価値だけを測っていた。

 

『お前は星栞の娘として、これからも国を守れ。俺は俺の道を行く』

 

縋り付こうとした手は、無機質な拒絶によって振り払われる。 「置いていかないで」と叫んだ声は雨音に呑まれ、彼は二度と振り返らなかった。

 

「……っ」

 

白雪は静かに目を覚ました。 視界に飛び込んできたのは、見慣れた寄宿舎の天井ではなく、今日から彼女の本丸となる奥座敷の天井だった。

 

神官養成学校を卒業し、ようやく手にした審神者としての初日。 夢は、過去からのささやかな警鐘だ。選ばれなかったという痛みは、今も雨の匂いと共に、彼女の心の隅に静かに沈殿している。

 

枕元に置いた端末が、短く無機質な通知音を鳴らした。 白雪は布団の中で小さく息を吐き、それを手に取る。

 

『時の政府・最終事務連絡:第五百十一号本丸 審神者 星栞白雪殿。初期刀顕現、及び本丸運営開始の手続きを完了してください。本日十時より——』

 

整然と並ぶ文字が、彼女を過去の感傷から現実へと引き戻す。 白雪は端末を閉じると、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた。それは、養成学校で将来への不安や孤独を抱える仲間たちを励まし、支え続ける中で、自然と身についた彼女らしい微笑みだった。

「……大丈夫。やるべきことを、一つずつ」

 

白雪は立ち上がり、清廉な出陣服を丁寧に整えた。 鏡の中の自分は、薄青色の瞳で自分を励ますように、ふわりと微笑んでいる。

 

「さあ……行きましょう。お待たせしてはいけないわね」

彼女は、この本丸で最初の刀を顕現させるため、政府からの指示書を胸に、朝の光が差し込む廊下を歩き出した。

 

 

 

鍛錬所の扉を開くと、そこには澄んだ霊力が満ちていた。

 

置かれた一振りの打刀。白雪は居住まいを正し、政府の支給した触媒を傍らに、指先に温かな霊力を込めて、その刀に触れる。

 

「——いざ、推参」

 

桜吹雪が舞い、光の中から現れたのは、真っ赤なマフラーを鮮やかに靡かせた美青年だった。

 

「俺は加州清光。扱いづらいけど、性能はピカイチだよ」

 

彼は軽やかに名乗ると、興味深そうに白雪を見つめる。

白雪は薄群青の瞳を穏やかに細め、小さく微笑んだ。

 

「初めまして、加州清光さん」

一呼吸置いて、慈しむように続ける。

「私は星栞白雪。この本丸の主です。……加州さん、これからよろしくお願いします」

その所作には、育ちの良さだけではない。目の前の相手を一人の存在として敬う、白雪らしい誠実さが滲んでいる。

 

加州は一瞬だけ目を見開いた。

 

薄群青の瞳は真っ直ぐに自分を見つめ、そこには品定めも打算もなく、出会えたことを喜ぶような、静かな温もりだけが宿っていた。

 

「……へぇ」

加州の口元に、思わず小さく笑みがこぼれる。

 

「主、なんだかおっとりしてるね。戦う準備、できてる?」

「ええ。至らないところも多いけれど、政府の期待に応えられるよう、精一杯頑張りますね。」

そう答えたあと、白雪はふと思い出したように首を傾げた。

 

「あ……加州さん、お腹は空いていませんか?」

「え?」

「顕現してすぐですもの。まずは温かいものを召し上がっていただきたくて」

 

その一言に、加州は思わず目を瞬かせる。

顕現して最初に掛けられた言葉が、戦のことでも任務のことでもなく、食事の心配だったからだ。

 

「あはは、飯かぁ。主、お母さんみたい」

加州は照れ隠しのように笑いながら、彼女の差し出した手を、優しく包むように握り返した。

 

その指先から伝わる霊力は、驚くほど澄んでいた。

どこまでも静かで、清らかで、春先の雪解け水に触れたような心地よさがある。

思わず見上げると、白雪は柔らかな微笑みを浮かべていた。

 

(……優しい人なんだな)

 

加州の胸に、かつての主の面影が一瞬だけ過る。 『彼』がくれた愛は、熱く、そして何よりも自分を求めてくれるものだった。 目の前のこの主は、それとは違う。静かで、平穏で、すべてを包み込むような優しさだ。

 

(本当に、俺でいいの?)

 

「今日から、あなたが私の大切な最初の一振りね」

 

大切な、という言葉が、今の自分にはあまりに眩しくて、胸の奥がちくりと痛んだ。

戦場で折れ、主のもとを離れることになった刀の自分が、また主の大切な刀を担えるのか。 期待して、また壊れるのが怖い。そんな自嘲と、それでも選ばれたいという矛盾した想いが、喉元まで出かかる。

 

けれど、白雪は何も聞かず、ただ春のような温もりで自分を見つめていた。

 

その眼差しに、小さな希望が灯る。

いつかは、消えてしまうかもしれない。それでも今は、その温もりを手放したくないと思った。

 

加州は、その静かな瞳に映る自分を信じてみることにした。

 

「わかった。じゃあ、可愛くしてくれるなら、俺も頑張っちゃおうかな」

 

こうして、第五百十一号本丸、通称『星ノ本丸』の第一歩が刻まれた。

まだ静かな本丸に響くのは、二人の穏やかな声だけ。けれど、その小さな出会いは、やがてたくさんの笑顔が集う、温かな居場所の始まりだった。

 

本丸の厨は、まだ真新しい木の匂いがしていた。

 

白雪は袖をたすきで留めると、慣れた手つきで昆布を水から引き上げ、静かに火へかける。

やがて、湯気とともに鰹節と昆布の豊かな香りが、ゆっくりと厨いっぱいに広がっていった。

 

「主、本当に自分で作っちゃうんだ。こんのすけも、自動のやつがあるって言ってたのに」

台所の入り口から、加州清光が物珍しそうに顔を覗かせる。

 

「ええ」

白雪は優しく頷いた。

 

「誰かに『美味しい』と言っていただけることが、私にとって一番の喜びなんです」

少しだけ照れたように笑う。

「それに、自分の手で作った方が、なんだか落ち着くんですよ」

炊きたてのご飯を手に取り、湯気を逃がすようにふんわりと握る。その手つきは慣れていて、どこまでも優しい。

 

それは、かつて大切な人のために必死に覚えた所作。養成学校の寄宿舎で、厳しい訓練に疲れ果てた戦友たちのために、夜食を振る舞った時間。

白雪にとって料理を作ることは、言葉にするのが難しい真心を、一番確実に届けられる方法だった。

 

「はい、加州さん。まずはこれを食べてみてください」

差し出されたのは、真っ白な三角形の塩むすび。

 

「いただきます」

加州は少しだけ照れくさそうに受け取ると、一口かじった。

噛むほどに、お米の甘みがゆっくりと広がる。

派手ではないが、不思議なくらい心が落ち着く味だった。

 

「ん……美味しい」

思わず本音が零れる。

「お米の甘みがちゃんとする。なんか、落ち着く味だね」

「よかった。……ふふ、加州さんが美味しそうに食べてくれると、この本丸を預かって本当によかったって思えます」

「大げさだなぁ、おにぎり一個でさ」

 

加州は照れくさそうに笑いながら、二つ目のおにぎりに手を伸ばした。

その様子を見て、白雪もまた、小さく笑みをこぼす。

 

湯気の向こうで穏やかに笑う主の姿を眺めながら、加州は静かに思った。

この人は、大きな言葉で誰かを励ます人ではない。温かいご飯を作り、お茶を淹れ、「おかえり」と迎えてくれる。そんな何気ない日々を、誰よりも大切にできる人なのだ。

 

その穏やかな日常が、これから少しずつ、自分たちの帰る場所になっていく。加州はそんな予感を抱きながら、一口一口をゆっくりと味わった。

 

 

加州が最後の一口を飲み込み、満足げに箸を置く。

「ごちそうさま。美味しかった」

 

その言葉に、白雪はふわりと微笑んだ。

「お腹は満たされましたか?」

「うん、満点。主の料理、結構イケるね」

 

悪戯っぽく笑う加州は、食器を運ぼうとする白雪の手から、自然な仕草でお盆を受け取った。

「このくらい俺がやるよ。それよりさ、本丸を見て回らない? 広すぎて、どこに何があるのか全然わかんないし」

「ええ、そうですね。私も、これから毎日を過ごす場所ですもの」

 

食器を片付け終えると、二人は並んで廊下へ出た。

 

静まり返った本丸に、足音だけが静かに響く。

高い天井。どこまでも続く回廊。手入れの行き届いた庭園。

審神者一人と、刀剣男士一振り。

今の本丸には、それだけしかいなかった。

 

「……広いなぁ」

加州が思わず息をつく。

「静かすぎるくらい」

白雪も廊下の先を見渡し、小さく頷いた。

 

「そうですね。でも、この静けさも今だけです」

そう言って、庭へ視線を向ける。

 

「これから少しずつ仲間が増えて、笑い声が響いて……いつか、この本丸らしい景色になっていくのでしょうね」

加州は隣を歩く白雪を横目で見た。

「そうなったら賑やかそうだね。ま、主が可愛く飾ってくれるなら、俺は文句ないけど」

「ふふっ。それは頑張らないといけませんね」

 

二人分の足音だけが、静かな本丸へゆっくりと溶けていく。

今はまだ広すぎるこの場所も、いつか誰かの笑顔で満たされる日が来る。

そんな未来を思わせるように、夏の風が庭木をやさしく揺らした。

穏やかな二人の会話が、新しい本丸の空気の中に溶け込んでいく。 図面を囲む二人の影が、ほんの少しずつ、重なり合うように近づいていた。

 

本丸の図面を広げ、二人は奥座敷から続く一角へと向かった。

静寂に包まれた回廊の先には、質実剛健な造りの中にも、どこか凛とした空気を纏う部屋が並んでいる。

 

「ここが私の執務室ですね。政府からの報告書も、こちらへ届くはずです」

白雪が扉を開くと、真新しい机と椅子が置かれた、整然とした空間が広がっていた。

 

「へえ、意外と殺風景だね」

加州は室内をぐるりと見回し、窓辺や棚へ視線を走らせる。

その眼差しはただ物を見ているのではない。これから過ごす場所を、自分らしく、心地よく整えるための品定めだ。

「ここ、季節の花なんか飾ったら良さそう。あと座布団の柄も変えたいなぁ」

 

「加州さんは、とてもお洒落ですね」

白雪が素直に感心すると、加州は一瞬きょとんとして、それから照れくさそうに肩をすくめた。

 

「……そんなこと言われたの、久しぶり」

頬をかきながら、はにかんだような笑みを浮かべる。

「それとさ、加州さんって堅苦しいよ。……別に、下の名前でいいから」

「ふふ、分かりました。…では、清光さん」

名前を呼ぶと、白雪は嬉しそうに微笑み、本丸の図面へ目を落とした。

「清光さんのお部屋は、こちらはいかがでしょう」

指先が示したのは、南向きの一室だった。

「窓が大きくて陽当たりもいいんです。鏡を置いて身支度をするにも、きっと気持ちのいいお部屋になりますよ」

 

加州は部屋へ足を踏み入れる。

庭から差し込む陽射しが畳の上へ柔らかく広がり、風が障子をかすかに揺らした。

「……いいじゃん、ここ」

加州は窓辺へ歩み寄り、光の入り方を確かめる。

鏡を置くなら、どの角度が一番自分を美しく映せるか。自然とそんなことを考えている自分に、少しだけ驚く。

 

「主、もしかして俺のこと調べてくれたの?」

「いいえ」

 

白雪は静かに首を横に振った。

「ただ、清光さんが一番心地よく過ごせる場所がいいな、と思っただけですよ」

その答えに、加州は動きを止めた。

報告書のことを話す時と同じくらい真剣な眼差しで、自分の部屋のことも考えてくれている。

ただ空いている部屋を与えるのではなく、自分がどう過ごせば心地よいかを思い描き、そのための場所を選んでくれた。

その事実が、胸の奥へ静かに染み渡っていく。温かな光が、小さく灯るようだった。

 

(……期待なんて、しないつもりだったのに)

 

加州は、そんな自分に、思わず苦笑した。

「……へぇ、そうなんだ」

照れ隠しに視線を逸らす。それでも、口元だけは隠しきれず、ふっと笑みがこぼれた。

「じゃあさ。この部屋、主の手で俺好みに可愛くしてよ」

少しだけ照れたように笑って、続ける。

「……俺も手伝うからさ」

「ええ、喜んで」

白雪も柔らかな笑みを返した。

「みんなが帰ってきたくなるような本丸を、一緒につくっていきましょうね」

 

加州は窓の外へ目を向ける。風が庭木を揺らし、まだ誰もいない本丸を静かに吹き抜けていく。

広すぎる屋敷。けれど、不思議と寂しさは感じなかった。

この場所がどんな本丸になっていくのか。その続きを、見てみたい。

そう思いながら、加州は窓辺から差し込む陽だまりの中で、静かに目を細めた。

 

 

 

初出陣

「主さん、お待たせ! ボクが来たからには、この本丸をもっともっと可愛くしちゃうよ!」

数日後、次に本丸へやってきたのは、短刀の乱藤四郎だった。

鮮やかな橙色の髪を揺らし、少女のような愛らしさを振りまく彼を、白雪は自然と温かな気持ちで迎え入れた。

 

「はじめまして、乱さん。ふふ、本当に可愛らしい子。……これから、よろしくお願いしますね」

「わあ、主さん、すっごく優しい! ねえねえ、今度一緒に髪のお手入れしよ?」

「ええ、喜んで。あなたの綺麗な髪に合うリボン、今度一緒に探しましょう」

 

人懐っこく距離を縮めてくる様子に、養成学校で肩を並べて学んだ仲間たちの面影が重なって、白雪は少しだけ胸が熱くなる。

「主、乱にばっかり構ってると、俺、拗ねちゃうよ?」

少し離れたところで爪の手入れをしていた加州が、冗談めかして口を挟む。

「あら、ごめんなさい清光さん。……でも、清光さんの爪も、後で私が塗り直してあげましょうか? 私、こう見えて手先は器用な方なんですよ」

「……え、本当に? ……じゃあ、お願いしようかな。変な色にしないでよね」

「ふふ、清光さんに一番似合う赤を選ばせてもらいますね」

 

加州と乱。

二振りと過ごす穏やかな時間は、白雪の心の奥に沈んでいた痛みを、静かに、けれど確実に解きほぐしていくようだった。

本丸の庭には、少しずつ季節の花が咲き始めている。

白雪は厨に立ち、二人の笑い声を聞きながら、次はどんな美味しいものを作ろうかと考えていた。

「今日は、甘いお菓子でも作ってみようかしら」

誰かのために何かを用意できる。その当たり前のようでいて、彼女にとってはかけがえのない日常が、静かに色づき始めていた。

 

 

時の政府からの出陣命令は、静かに、けれど抗いようのない重さを持って届いた。

時間遡行軍の出現が確認されたのは、維新の嵐が吹き荒れる幕末の京都。

 

「主、本当に来るの? 俺たちが守ってあげるから、本丸で待っててもいいんだよ」

 

加州清光が、出陣の支度を整えながら心配そうに声をかける。隣では乱藤四郎も、いつもの天真爛漫な笑顔を引っ込め、少し緊張した面持ちで白雪を見つめていた。

「ええ。あなたたちが戦う場所の空気、この目で見ておきたいんです。それに……」

白雪は戦装束の袂から、淡く白光する細い霊糸を取り出し、指先に絡めた。養成学校時代、講師たちから「その繊細な霊力制御は、支援にこそ活きる」と評された、彼女の武器だ。

 

「……あなたたちを、ただ送り出すなんて、私にはできませんから」

その瞬間、白雪の薄群青の瞳からは、いつもの柔和さが消えていた。

そこにあるのは、国家の防衛を担う審神者としての、峻烈で、凛とした意志。

加州と乱は、その表情に一瞬圧倒され、そして小さく頷いた。

 

 

転送された先は、雨上がりの湿った空気が満ちる、夜の京都の路地裏だった。

遠くから聞こえる喧騒と、不意に鼻を突く、鉄と血の匂い。

「——来るよ」

加州の言葉と共に、暗闇から時間遡行軍が姿を現す。

異形の群れが、咆哮を上げて襲いかかってきた。

 

「乱くん、右の路地へ! 清光さんは正面をお願いします!」

白雪の声は、驚くほど冷静だった。

 

彼女は戦場の中心には立たない。けれど、二振りの動きを阻害しない、かつ全体を見渡せる絶妙な位置を保ちながら、指先の霊糸を操る。

乱が空中に跳躍した瞬間、白雪が放った霊糸が空中で網目状に広がり、彼の一時的な足場となった。

 

「ありがと、主さん!」

乱はその足場を蹴り、さらに高く舞うと、敵の脳門を正確に貫く。

 

一方、加州が複数の敵に囲まれそうになった瞬間、白雪の霊糸が敵の武器に絡みつき、その動きをほんの一瞬だけ鈍らせた。

「……助かる!」

その隙を逃さず、加州の紅い一閃が敵を薙ぎ払う。

 

白雪は、養成学校で叩き込まれた戦術知識をフル回転させ、戦況を冷静に分析していた。

どこに敵が潜んでいるか。どのタイミングで支援を送れば、彼らが最も動きやすいか。

彼女の凛とした表情は、一瞬たりとも崩れることはなかった。彼女にとって戦場は、誰かを守るための、極限の集中力が要求される場所だった。

 

 

激しい戦闘の余韻が冷めやらぬまま、三人は第五百十一号本丸へと帰還を果たした。転送の光が収束すると、真新しい木の香りと、庭の白梅が放つ奥ゆかしい香りが彼らを迎え入れる。

 

「……ふぅ、やっと終わったね。主さんの霊糸のおかげで、随分と助かったよ」

 

乱が縁側に腰を下ろすと、長い溜息が庭に溶けていった。加州もまた、刀身を丁寧に拭いながら、張り詰めていた肩の力をゆっくりと抜く。

 

「……主。あんた、戦場に立つと随分と雰囲気が変わるんだな。少し驚かされたよ」 「そうですか? 自分では、あまり自覚がないのですが」

白雪は穏やかに微笑むが、先ほどまで戦場を睥睨していたその瞳の奥には、まだ冷徹なまでの静寂が残っている。彼女はその戦いの傷跡を確認するように、二人を細やかに点検した。

 

「乱くん、右肩に小さな裂傷がありますね。……清光さんも、羽織が酷く汚れました。まずは湯に浸かり、身体を休めてください。汚れを落とせば、疲れも少しは引くはずです」

二人が脱衣所へ消えた後、白雪は静かに厨へと向かった。

 

戦場の鉄錆びた空気と土の匂いを纏った羽織を脱ぎ捨てると、ようやく肩の荷が下りたような心地がした。誰かを守るという戦場での責任は、あまりに重い。だからこそ、この日常に戻ってきたという事実が、何にも代えがたい安堵として胸を満たしていく。

 

「……温かい食事を、用意しましょう」

誰に告げるでもなく呟き、鍋の火を強める。立ち上がる湯気が、霊力の行使で冷え切った指先をゆっくりと温めていった。彼らがこうして無事に戻り、同じ空気を吸っていること。そのささやかな光景こそが、今の彼女にとっての救いだった。

戦場から戻り、風呂場に漂う檜の香りを吸い込むと、ようやく肺の奥まで清廉な空気が届くような心地がする。

 

「あー、さっぱりした。やっぱり戦の後のお風呂は最高だね!」

脱衣所で乱藤四郎が伸びをすれば、隣で加州清光が桶から湯を肩へ流し、長く息を吐き出した。鏡に映る自分からは、泥も血の匂いも消え去っている。本丸という拠り所へ帰ってきたのだと、ようやく肌の感覚で実感できた。

 

「……ねえ、乱」

「ん?」

「養成学校を出た審神者って、みんなあんな感じなのかな」

乱はきょとんとした表情で首を傾げる。

「どんな感じ?」

「戦場でさ。あんなに落ち着いてる主、初めて見た」

 

霊糸を操る細い指先。戦況を見渡す澄んだ眼差し。決して前へ出過ぎることなく、それでも誰一人取り残さないよう支えてくれた姿が、加州の脳裏に焼き付いている。乱は少し思案してから、静かに微笑んだ。

 

「主さんは、ボクたちをちゃんと見てくれてるんだよ」 「……だからかな。あそこにいるだけで、『大丈夫』って思えたんだ」

加州は黙って頷く。あの安心感は、単なる霊力の強さだけではない。主自身が、自分たちを信じていたからだ。

「……格好悪いところ、見せられないよね」 ぽつりと漏らした言葉に、乱が「うん」と力強く笑った。

 

 

湯上がりの二人が広間へ向かうと、出汁の優しい香りが廊下まで満ちている。

「おかえりなさい」

厨から顔を覗かせた白雪が、安堵したように微笑んだ。髪は後ろで一つにまとめられ、割烹着姿のまま湯気の立つ鍋を見守っている。

食卓へ並んだのは、炊きたてのご飯、出汁の香る味噌汁、肉じゃが、そしてだし巻き卵。決して豪華とは言えないが、一日の疲れを包み込むような温かさがあった。

 

「いただきます!」

乱の元気な声で夕餉が始まる。戦場での張り詰めた空気は、今は穏やかな笑い声へと塗り替えられていた。

 

「乱くん、お味噌汁のおかわりはありますよ」

「ほんと!? やった!」

「清光さん、ご飯は足りますか?」

「うん。でも主、自分の分もちゃんと食べなよ。さっきから俺たちの世話ばっかりしてるじゃん」

 

加州が箸を止めて促すと、白雪は照れたように頬を染める。

「あら……皆さんが美味しそうに食べてくださるのが、何よりも嬉しくて」 「それは分かるけどさ。主のあんたが倒れたら意味ないでしょ」

その一言に、白雪は一瞬目を丸くしてから、小さく頷いた。ようやく自分の茶碗を手に取り、三人で改めて食事を始める。その姿を眺めながら、乱がふと呟いた。

 

「なんだか、本当の家族みたいだね」

その言葉に、一瞬だけ静寂が落ちる。けれど、誰もそれを否定はしなかった。障子の外では、虫の声が静かに響いている。

 

戦場では命を預け合い、帰れば同じ食卓を囲む。そんな当たり前の日々を守るために、自分はこの本丸へ来たのだと、白雪は改めて噛み締める。

温かな食卓の端で、彼女は静かに微笑んだ。その夜、星ノ本丸には、いつまでも穏やかな灯りがともり続けていた。

 

翌朝。障子越しに差し込む陽光は慈雨のように淡く、本丸を包む小鳥のさえずりが、昨日までの戦禍を遠い夢のように思わせる。

朝餉を終え、白雪が静かに湯呑を片付けて執務室へ向かうと、部屋は既に清廉な空気に満ちていた。

 

執務机に置かれた通信端末が、無機質な電子音を短く響かせる。

「……政府からでしょうか」

画面を開くと、整然と並んだ文字列が目に飛び込んできた。

『第五百十一号本丸。初回出陣任務の完了を確認。本丸運営状況は良好と判断し、追加顕現を許可する』

 

白雪は小さく息を吐き、安堵に満ちた笑みを零した。 初陣という冷たい洗礼を無事に潜り抜けたこと。誰一人欠けることなく、この屋根の下へ帰還できたこと。そのすべてが、確かに次の一歩へと繋がっていた。

 

そこへ、廊下から軽やかな足音が重なるように近づいてくる。

「主さん、おはよー!」

勢いよく開かれた障子の向こうで、乱が屈託のない笑みを浮かべていた。その後ろでは、加州が呆れたように、しかし温かな眼差しで肩をすくめている。

「朝から随分と元気だね、乱は」

「だって今日は、こんなに気持ちいい天気なんだもん!」

 

白雪は二人を振り返り、感謝を込めるように微笑むと、通知画面をゆっくりと見せた。

「お二人とも。政府から、追加顕現の許可が下りました」

一瞬、部屋から音が消えた。 空気が震えるような静寂の後、加州が画面を覗き込み、驚きに目を見開く。

 

「……本当か? つまり、新しい仲間が増えるってこと?」

「ええ」

白雪は静かに頷く。言葉の一つひとつに、確かな重みを込めて。

「この本丸も、少しずつ賑やかになっていくはずです」

 

それを聞いた乱が、弾けるような笑顔でその場で飛び跳ねた。

「やったぁ! 新しい子が来るんだ!」

 

乱の弾む声に、加州もまた口元に柔らかな笑みを浮かべる。

白雪は端末を静かに閉じると、穏やかな瞳で二人を見渡した。

「それでは、鍛刀部屋へ参りましょうか」

「うん!」

「どんな子が来るかな、楽しみだね」

 

三人は連れ立って回廊へ出る。朝日が差し込む廊下を歩む足音は、昨日よりもわずかに軽やかだった。昨日までは二人には広すぎた本丸。けれど今日は、その静寂の先に新しい命の響きが待っている。

 

 

鍛刀部屋の扉を開くと、真新しい木の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。中央には、新たな魂を宿すための炉が静かに佇んでいた。白雪は炉の前に立ち、ゆっくりと息を整える。

「では、お迎えしましょう」

白雪が指先に霊力を込める。炉から立ち上る光は、昨日よりも力強く、鮮やかだった。

 

やがて桜吹雪が渦を巻き、光の奔流の中から、影が輪郭を持って現れる。

「……あぁ、そうか。ここは新しい本丸か」

短く、鋭い、それでいてどこか冷徹なまでの落ち着きを湛えた声。 光が収まると、そこに立っていたのは黒い装束を身に纏った少年だった。深みのある瞳が、まっすぐに白雪を

射抜く。

 

「俺は薬研藤四郎。兄弟共々、よろしく頼むぜ、主」

「薬研藤四郎さん……。来てくださったのですね」

 

白雪がそう呼びかけると、彼は短く頷き、懐から愛用の短刀を取り出した。

「おっと、立て続けだ。……どうやら俺だけの到着じゃねえみたいだな」

薬研の言葉通り、炉の光が再び激しく揺らめく。二つの影が重なるようにして、次々と顕

現の光が舞い踊った。 一人は控えめな所作で。もう一人は、春の陽だまりのような面影を宿して。

 

「前田藤四郎、参ります。主君、末永くお仕えいたします」

「平野藤四郎です。これからどうぞ、よろしくお願いいたします」

 

次々と並ぶ三振りの藤四郎たち。 清廉な空気が、鍛刀部屋に満ちていく。 白雪は、目の前の小さな戦士たちを一人ずつ丁寧に視線に収めた。 昨日まで二人だけだったこの場所が、瞬く間に華やいでいく。

 

「……ようこそ、第五百十一号本丸へ」

白雪が差し出した手に対し、薬研がその端整な顔に笑みを浮かべて応える。

 

「ああ。……ここなら、悪くない仕事ができそうだ」

窓から差し込む陽光が、三人の新たな来訪者を柔らかく照らしていた。昨日までの広すぎた静寂はもうどこにもない。ここから始まる新しい日常の輪郭が、確かな重みを持って、白雪の胸に刻まれていった。

 

 

 

陽だまりの厨

本丸は、にわかに活気に満ちあふれていた。

白雪が着任した当初の静けさはどこへやら、鍛錬所から次々と顕現した粟田口の短刀たちが、廊下を賑やかに駆けていく。

 

「主、新しい怪我人はいないか? ああ、それと煮炊き用の薪なら俺が割っておいたぜ」

腕まくりをして厨に顔を出したのは、薬研藤四郎だった。八人姉妹の長女として実家の家事を切り盛りしてきた白雪にとって、弟たちの面倒をよく見る彼は、もはや家事と救護の心強い相棒だ。

 

「まあ、薬研くん。助かります、ちょうど火力が欲しかったところなの。ふふ、頼もしいですね」

薄群青の瞳を細めて微笑む白雪は、楽しそうに体を動かし、大きな鍋をかき混ぜる。その背中を、前田藤四郎がキラキラとした目で見つめていた。

 

「主君、お召し物が少し汚れておりますよ。僕がすぐにお拭きしましょう! 騎士として、主君の清潔は私が守ります」

「僕もお手伝いします! 主様の身の回りの警護は、私の役目ですから」

前田に負けじと、平野藤四郎もキリッとした表情で白雪の傍らに控える。白雪は「ありがとうございます。でも、二人ともあまり無理はしないでね」と、長女らしい包容力で彼らの頭を優しく撫でた。

 

その足元では、五虎退がおどおどしながら裾を引いている。

「あ、あの……あるじさま……虎たちが、お料理……美味しそうだって……」

「あらあら、可愛いわね。五虎退くん、後で虎さんたちの分も特別に用意してあげますからね」

震える五虎退をそっと抱き寄せると、彼は安心したように表情を緩ませた。誰かを慈しみ、世話を焼く。それは白雪にとって、自分自身の輪郭を確かめるような、もっとも自分らしくいられる時間だった。

 

「よっしゃ! 主、飯ができたら俺がみんなを呼んでくるぜ!」

快活な声を上げて厚藤四郎が飛び込んでくる。溢れんばかりの弟たちに囲まれ、包丁を振るい、皆の世話を焼く日々に、白雪はかつてない充足感を感じていた。

 

(あぁ、可愛い弟がいっぱい……。私、この子たちのために、もっともっと頑張らなくちゃ)

彼女の心に、もう雨の音は響いていない。

 

白雪はこの小さな家族たちのために、最高の主であり、そして彼らの「お姉さん」であり続けようと心に誓うのだった。

 

 

賑やかな夕食が終わり、弟たちが浴場に入った頃。

本丸には、昼間の喧騒が嘘のような静寂が訪れていた。

白雪は、加州と乱に挟まれるようにして、大きな鏡台の前に座っていた。

 

「……主さん。今日、ずっと肩に力が入ってたでしょ? 執務室での返事、いつもより少しだけ固かったよ」

乱が白雪の黒髪に指を通しながら、鏡越しに彼女の顔を覗き込む。隣では、加州が白雪の指先をそっと手に取り、愛おしそうに眺めていた。

「乱の言う通り。主、無理してない? ほら、ここ。……少し指先が冷えてる。慣れないことばっかりで、疲れちゃった?」

加州は、彼女の指先にある小さな荒れを優しく撫でた。戦場での緊張、厨での立ち仕事。その献身が、彼女の手に微かな疲れとして滲んでいた。

 

「えっ……? い、いいえ、大丈夫ですよ。皆さんが頑張ってくださっているから、私はこれくらい……」

白雪はいつものように、穏やかなお姉さんの微笑みを浮かべようとした。

けれど、加州はそれを見逃さない。彼は、彼女の微笑みが単なる余裕ではなく、自分を律するための「鎧」であることを、数日間の生活の中で感じ取っていた。

 

「本当ぉ? 主さんって何でも完璧にこなしちゃうけどさ。もっとボクたちのこと、頼っていいんだからね?」

乱が甘えるように肩に寄り添う。加州はいたずらっぽく自分の紅を指先に取り、彼女の唇にそっと近づけた。

「そうだよ。主、あんまり自分のこと着飾らないよね。こういうのは、俺たちに任せてよ」

「……あ、あまり、お洒落をしても……。私なんて、地味ですし。……その、乱ちゃんや清光さんのように華やかではありませんから……」

 

真っ直ぐな気遣いに、白雪の防壁が揺らぐ。彼女はふいに視線を落とした。

「……私、皆さんに嫌われるのが、怖くて。……何でもできる『お姉さん』でいないと、

ここにいてもいいって……思えなくて……」

初めて漏れた、小さな弱音。

 

加州と乱は顔を見合わせ、それから包み込むような温かい笑みを浮かべた。

「……やっぱりね。主、そんなこと思ってたんだ。主が何にもできなくたって、俺たちは

主のことが大好きだよ」

「そうだよぉ! 主さんがお洒落に興味ないなら、ボクたちが世界一可愛くプロデュースしてあげる」

加州が丁寧に紅を引くと、白雪の頬が淡く赤く染まる。

鏡の中に映る自分は、いつもの審神者でも長女でもない、ただの二十歳の女の子の顔をしていた。

 

白雪は、加州の肩にそっと頭を預けた。

「……加州さん。……乱ちゃん。……私、……もう少しだけ、こうしていてもいいかしら」

「……いいよ。夜はまだ長いんだから」

安堵感に包まれながら、白雪はぽつりぽつりと、自分のことを話し始めた。

 

実家には、七人の手のかかるけれど可愛い妹たちがいること。彼女たちの面倒を見ながら、ずっと良き手本であろうとしてきたこと。そして、中学を卒業してから養成学校で過ごした五年間。そこで出会った、同じ志を抱く戦友たちのこと。

「ふふ……。あの子たちのために何かを作るのは、私にとって当たり前のことだったのよ」

 

話が進むにつれ、話題はかつての幼馴染、「キンちゃん」との日々に及んだ。

近所に住んでいて、いつも一緒に遊んでいた、大切な幼馴染。おっとりとした時間が流れていた、穏やかで楽しい日々の記憶。

「へぇ……。『キンちゃん』とは、今でも会っているの?」

乱が何気なく尋ねたその瞬間、白雪の表情に微かな陰が差した。

 

彼女は寂しそうな顔で、窓の外に広がる夜空を見上げる。

「……ううん。……もう、遠くにいっちゃったの」

その一言に込められた、重く、切ない余韻。

 

刀剣という、主との離別を宿命づけられた存在である彼らには、その言葉の裏にある別離の悲しみが、痛いほどに理解できた。

 

ただ物理的に距離が離れたのではない。心が、あるいは歩む道が、もう二度と交わらない場所へ行ってしまったのだと、二人は直感的に察した。

 

加州は何も言わず、ただ彼女の背中を静かにさすり続けた。

薄群青の瞳が、少しだけ潤んでいる。

 

白雪は、自分を一人の女の子として労ってくれる刀たちの温もりに、凍えていた心が少しずつ解けていくのを感じながら、静かに目を閉じた。

 

 

 

新たな刀と、折れない慈愛

粟田口の短刀たちが駆け回る賑やかな本丸に、新たな風が吹き込んだ。しかし、その風はこれまでのような無邪気な春風ではなかった。

 

「ーー山姥切国広。……俺は、写しだ。偽物だと蔑みたいなら、そうすればいい」

頭からすっぽりと汚れた布を被り、視線を逸らして現れたのは、山姥切国広だった。白雪は、彼の言葉に一瞬だけ薄群青の瞳を揺らした。かつての自分もまた、「完璧な長女」や「星栞の娘」という役割に縛られ、自分自身の価値を見失いそうになっていたからだ。

 

「山姥切さん。……その布、少し汚れていますね」

白雪は蔑むどころか、ごく自然に歩み寄り、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。山姥切が驚いて肩を震わせるのも構わず、彼女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

「明日、お洗濯しますね。それまでは、私が用意した清潔な布を使ってください。……写しだろうと何だろうと、私の前で一生懸命に生きてくださる貴方は、大切なわが家の家族です。私にたくさんお世話をさせてくださいね」

「……っ。……あんた、変な主だな」

毒気を抜かれたように俯く山姥切。その横で、眩いばかりの黄金の甲冑を響かせて現れたのは、蜂須賀虎徹だった。

 

「俺は、蜂須賀虎徹。主よ、俺を顕現させた君の審美眼は確かだ。贋作とは違う、真作の輝きを堪能するといい」

高潔で、どこか近寄り難いオーラを放つ蜂須賀。けれど、白雪は全く動じなかった。彼女は蜂須賀の金色の装甲をまじまじと見つめると、感心したように頷いた。

 

「まあ、なんて美しい……! 蜂須賀さん、その甲冑はお手入れが大変そうですね。後で専用の磨き布を用意します。……あ、お食事の時は汚れるといけませんから、このエプロンを着けていただけますか? 汚れが目立たないよう、私が刺繍をした自信作なんですよ」

「……エ、エプロンだと……!? 真作の俺に、家事の装いをするというのかい……?」

誇り高き真作が絶句する中、白雪は「あら、きっとお似合いになりますよ」と、天然の包容力で微笑み続けた。加州や乱に「素の自分」を肯定してもらった彼女の心は、今や少々の卑屈さやプライドの高さでは揺るがないほど、しなやかに強くなっていた。

 

「さあ、お二人とも。まずは温かいお茶を淹れますね。それからゆっくり、お洋服の採寸をさせてください」

 

こうして、短刀たちの「お姉さん」だった白雪は、少し癖のある打刀たちをも「生活」という名の慈しみで包み込んでいく。彼女にとって、彼らが真作か写しかは関係ない。ただ、今日を共に生きる大切な家族として、その喉を潤し、衣を整える。

本丸の頼れる主としての彼女の歩みは、確かな「日常」という名の力を持って、さらに深まっていった。

 

 

山姥切国広と蜂須賀虎徹が加わったことで、本丸の空気はより多層的なものへと変わっていった。

 

白雪は、山姥切が「写し」という言葉で自分を殻に閉じ込めようとするたび、困ったように、けれど慈しむように目を細めた。

「山姥切さん、そんなに悲しいお顔をしないで。私には、あなたがとても綺麗に見えていますよ。……ね、今日は温かいお出汁の煮物を作ったの。一緒に食べましょう?」

彼の卑屈さを否定するのではなく、ただ、今、ここにいる彼を愛おしむ。その静かな肯定に、山姥切は毒気を抜かれたように黙り込むしかなかった。

 

また、蜂須賀が「真作」としての誇りを語る際も、白雪はそれを彼の美徳として真っ直ぐに受け止めた。

「ええ、本当に。蜂須賀さんの輝きは、本丸を明るくしてくださるわ。……その誇り高いあなたが、いつまでも美しくいられるように。このお部屋を、いつも清潔に整えておきますね」

彼の自尊心を、生活を守る糧として包み込む。彼女の言葉には裏も表もない。ただ純粋に、彼らの個性を尊重し、それを守るための日常を用意したいという真心だけがあった。

 

「主、本当に誰に対しても変わらないんだね」

台所で白雪が手際よく大根を剥いていると、加州清光がひょいと顔を出した。その隣には、すっかり白雪に懐いた乱藤四郎もいる。

「ふふ、清光くんもですよ? さあ、皆さんを呼んできてください」

白雪は薄群青の瞳を細めて、楽しそうに笑う。

加州と乱にお洒落をしてもらい、弱音を受け止めてもらった夜以来、彼女の微笑みからはどこか無理が消えていた。完璧な長女を演じるのではなく、ただ、溢れる愛情を注ぐ場所を見つけた喜びが、今の彼女を支えている。

 

「主さん、今日のご飯は何? 薬研たちがさっきから、いい匂いがするってソワソワしてたよ!」

「ふふ、今日はね、山姥切さんが少しでもホッとできるように、優しいお味の煮物ですよ。それと、蜂須賀さんが気に入ってくれそうな、彩り豊かな和え物も。……あ、山姥切さん、ちょうどよかったです」

 

厨の隅で自分の布を抱えて座り込んでいた山姥切に、白雪はふわりと声をかけた。

 

「……何だ」

「お箸を並べるのを、手伝っていただけますか? 山姥切さんが手伝ってくださると、とっても助かるわ」

「……っ。……ああ、それくらいなら」

山姥切は布の下で少しだけ視線を泳がせながらも、素直に立ち上がり、棚から人数分の箸を取り出した。その様子を見て、加州と乱は顔を見合わせてくすくすと笑う。

「主にかかると、みんな素直になっちゃうね」

「もう、乱ちゃんまで。さあ、冷めないうちに並べましょう」

乱がはしゃぐ声が、夕暮れの本丸に響き渡る。

白雪は、大鍋から立ち上がる柔らかな湯気の中に、今の自分が手に入れた、幸せの形を見ていた。

 

かつて自分を置いていった誰かの記憶は、消えることはない。

けれど、今ここで自分を必要とし、自分の作った料理を待っている仲間たちがいる。

白雪は、丁寧に整えられた食卓を眺めながら、心からの充足感を得るのだった。

 

 

本丸に十振り目の光が舞い降りたのは、山姥切国広や蜂須賀虎徹が少しずつ生活に馴染み始めた、穏やかな午後のことだった。

 

「——僕は大和守安定。扱いは難しいけど、いい刀だよ」

清らかな光の中から現れたのは、浅葱色の羽織を思わせる、澄んだ空色の瞳を持つ少年だった。白雪が丁寧にお辞儀をしようとすると、その横から加州清光が「あはは、やっと来た!」と弾んだ声を上げて歩み寄る。

「安定! 遅いよ、俺もうすっかりこの本丸のエースなんだから」

「清光。……なんだ、君もいたんだ。じゃあ、退屈しなくて済みそうだね」

 

再会を喜ぶ二振りの姿は、まるでお互いが欠かせない半身であるかのようにしっくりと馴染んでいた。白雪は、その光景を温かな眼差しで見守りながら、新しく加わった「家族」へと微笑む。

 

「はじめまして、大和守さん。私は審神者の星栞白雪。清光くんから、あなたのことはよく伺っていましたよ。……これから、よろしくお願いしますね」

安定は、白雪の薄群青の瞳をじっと見つめた。その瞳の奥に、かつての主――沖田総司と同じ、自分を削って誰かを照らそうとする献身の光を感じ取り、彼はふっと優しく目を細める。

 

「……ねえ、主。この本丸、いい匂いがするね。……沖田くんがいた頃の、あの午後の匂いにちょっと似てる」

「沖田さん……清光くんの、前の主殿ですね。ふふ、光栄だわ。……ちょうど今、新しいお菓子を焼いていたところなんです。大和守さんも、いかがですか?」

「お菓子! ぜひもらうよ。……ねえ主、それ、沖田くんの分も供えていい? ああいうの、彼も大好きだったからさ」

 

安定は、深刻な未練を語るのではなく、まるですぐ隣にいる友人のことを話すような、明るい口調でそう言った。白雪は一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべて頷いた。

 

「ええ、もちろんです。沖田さんにも、喜んでいただけると嬉しいわ」

過去を「悲しい別れ」として閉じ込めるのではなく、今の生活の一部として大切に抱え続ける安定の在り方は、白雪の心に新しい風を吹き込んだ。

 

それから数日。本丸の縁側には、すっかり、セットとなった清光と安定、そして白雪の姿があった。

 

「ねえ主、俺の爪、また赤くして! 安定が来たから、もっと可愛くしとかないと」

「はいはい。清光くんは、本当に赤がよく似合いますね」

白雪が丁寧に筆を動かしていると、その横から安定がひょいと顔を覗かせ、白雪の黒髪を指先で弄んだ。

 

「じゃあ僕は、主の髪を沖田くんみたいに結んであげようか? 似合うと思うよ」

「ちょっと安定! それは主の趣味じゃないでしょ! 主にはもっと、今風の可愛いリボンとかの方がいいんだから」

「えー、いいじゃない。主も、たまには『新選組風』になってみる?」

 

安定の冗談めかしたボケに、清光がすかさず突っ込みを入れる。白雪は二人のやり取りに声を上げて笑った。

「ふふ、二人とも、本当に仲良しね。……ありがとう、大和守さん。でも、私はこのままで大丈夫よ。今の私が、一番私らしい気がするから」

白雪の言葉に、安定は満足そうに頷いた。彼は知っている。過去を大事にしているからこそ、今の出会いを心から楽しめるのだと。そして、目の前の主が抱える「過去の傷」も、いつか自分たちとの日常が、優しく上書きしていくであろうことを。

 

「そっか。……ま、今の主も十分可愛いから、いいけどね」

安定は、白雪が焼いたお菓子の香りに包まれながら、空色の瞳を幸せそうに細めた。

十振りの男士たちが揃った本丸。夕暮れに染まる庭を眺めながら、白雪は自らの中に満ちていく、静かで強固な霊力の高まりを感じていた。

「さあ、夕餉の支度をしましょうか。今日は、沖田さんの好物も一品、加えておきますね」

「やった! 主、大好き!」

 

弾むような声が、温かな本丸の空気に溶けていく。

白雪は、過去を慈しみながら今を生きる安定の姿に勇気をもらい、また一歩、自らの足で新しい未来へと歩み出していた。

 

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
少しずつ家族が増え、星ノ本丸の日常も賑やかになっていきます。今後も温かく見守っていただけたら嬉しいです。次回、肥前忠広(と南海先生達)が顕現します!
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