本丸縁絵巻   作:さつき@審神者

4 / 6
肥前忠広が顕現してからの日々です。穏やか。02ではさらなる心境の変化が?


肥前忠広、お姉さんに拾われる
【星】01


血生臭い風と、おにぎりの洗礼

「……肥前忠広。人斬りの刀だよ。あんまり近寄るな、汚れるぞ」

 

それが、彼の産声だった。顕現の瞬間に舞い散る桜吹雪など、己が纏う血生臭い空気にはこれっぽっちも似合わない。鍛刀部屋の重苦しい熱気の中、肥前は目の前に立つ審神者という存在を、突き放すような視線で射抜いた。

 

どうせ、便利に人でも斬らせるつもりなのだろう。綺麗な着物を着て、安全な場所から自分を指図する。……それでいい。それが道具の正しい使い方だ。

肥前は己のボロをきつく握りしめ、相手の出方を待った。だが、視界に飛び込んできたのは、蔑みでも恐怖でもなかった。

 

「……私は星栞白雪と申します。肥前さん、とおっしゃるのですね」

 

拍子抜けするほど穏やかで、少しだけ掠れた声。顔を上げると、そこには今にも泣き出しそうな、困り果てたような顔で自分を見つめる女がいた。

 

肥前からすれば、その反応は異様だった。彼女は拒絶の言葉など聞こえていないかのように、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その瞳には人斬りへの恐怖など欠片もなく、ただ、彼が纏う汚れへの切実な悲しみだけが溢れていた。

 

「そんなにボロボロになって……。……お腹、空いていませんか?」

「……あ?」

何を言っているんだ、この女は。肥前が困惑するのも構わず、審神者は温かいものを用意すると言い、おずおずと、けれど迷いのない手つきで彼の腕に触れようとした。

 

「……触るなっつってんだろ。汚れるぞ、ボロが出るぞって……」

精一杯の威嚇を込めて、その手を振り払う。……けれど、彼の腹は、その甘っちょろい「お世話」の匂いに、情けなくも小さく鳴り響いた。

 

「ふふ、元気な音。……恥ずかしがらなくていいんですよ、肥前さん。ここでは、お腹が空くのは良いことなんです」

審神者が柔らかく目を細めて笑う。その笑顔は、肥前が今まで見てきたどんな刃の煌めきよりも眩しく、彼の胸の奥をざわつかせた。

 

そんな二人のやり取りを、少し後ろで腕を組んで見守っていた加州清光が、呆れたように肩をすくめて口を開く。

 

「あーあ、諦めなよ肥前くん。うちの主、一度こうなると誰の話も聞かないから」

加州は、審神者が新参に夢中なのが少し面白くないのか、不満げに唇を尖らせていた。けれど、何よりもまず刀の手入れを優先させる彼女の姿勢そのものには、深い信頼を寄せているようだった。

「……あ、俺は初期刀の加州清光。よろしくね」

 

 

引きずり出されるようにして廊下へ出た肥前を待ち構えていたのは、さらなる喧騒だった。

「わあ、新しい刀? ちょっと、ボロボロじゃない! これじゃあ、主さんの可愛い本丸に似合わないよ」

 

派手な装いの乱藤四郎を筆頭に、短刀たちが鈴なりになって彼を覗き込んでいる。どいつもこいつも、戦う刀とは思えないほど顔色が良く、手入れが行き届いている。肥前が「ここは保育園か」と毒づくと、加州が鼻で笑った。

 

「君、この本丸のパワーバランスをまだ分かってないね。ここはね、主が『お姉さん』で、俺たちが『家族』なの」

 

加州が審神者の肩に手を置き、自分の方へ気を引こうとするが、白雪の意識は肥前の汚れに釘付けだった。彼女は決然とした顔で、薬研には肌着を、加州には肥前を風呂へ連れて行くよう指示を出す。

 

「……おい、勝手に決めるな! 俺は風呂なんて……」

抵抗しようとした肥前の肩を、金色の甲冑を纏った蜂須賀虎徹が、優雅な力で押さえた。

 

「主がこれほど心を痛めているのだ。大人しく従いたまえ」

多勢に無勢。肥前はなかば連行される形で脱衣所へと放り込まれた。

 

「肥前さん、そのお洋服は一度お預かりしますね。お洗濯して、できる限り綺麗にしますから」

扉の向こう側から聞こえる審神者————白雪の声には、揺るぎない全肯定の響きと、切実なまでの世話焼き本能が混じっていた。

湯船に浸かると、芯まで冷え切っていた身体に熱が沁み渡る。壁一枚隔てた向こう側では、白雪が彼の脱ぎ捨てた服を、ゴシゴシと力強く洗う音が聞こえていた。

 

(……なんなんだ、この女。俺は『人斬り』だぞ。……なんで、洗濯板の音なんてさせてやがるんだ……)

 

泥も血も、お湯に溶けて流れていく。代わりに鼻腔をつくのは石鹸の匂いだ。

肥前という刃が、この平和すぎる大家族の「お姉さん」に、根こそぎ解体されていくような――そんな、得体の知れない恐怖と、ほんの少しの安らぎが、彼の胸の奥で混ざり合っていた。

 

風呂から上がった肥前は、用意されていた紺色の着物に袖を通した。

薬研が持ってきたそれは驚くほど清潔で、陽の光の匂いがした。鏡を見るまでもなく、肌から、死の気配が薄れ、代わりに石鹸の香りが纏わりついているのが分かる。

大広間へ足を踏み入れれば、湯気を立てる膳が並んでいた。

 

「……ゆっくりできたようですね。さあ、こちらへ。肥前さんの席ですよ」

白雪が、自分の隣の席をトントンと叩いて促す。彼女は風呂上がりの肥前をまじまじと見つめると、パッと顔を輝かせて、本当に嬉しそうに目を細めた。

 

「まあ……。やっぱり、とても素敵な方だったのですね。見違えてしまいました」

「……っ、うるせぇ。……服がまともになっただけだろ」

肥前はそっぽを向いて座ったが、白雪の視線は彼を捉えて離さない。まくった袖から覗く腕や、首筋に残る無数の古い傷跡。消えることのない過去の残滓を、彼女は慈しむように見つめていた。

 

「……その傷。……かつての戦の、立派な勲章ですね」

白雪の指先が、触れるか触れないかの距離で、傷痕をなぞるように動いた。普通の奴なら目を逸らすか、憐れむような痕。けれど彼女は、それを「醜いもの」ではなく、彼が今日まで生き抜いてきた証として、丸ごと肯定するように微笑んだ。

 

「でも……これからは、私がいますから。……もう、一人でそんなに傷つかなくていいんですよ」

「……。……何言ってんだ、あんた。俺は刀だぞ。傷つくのが仕事だ」

「いいえ。……私の本丸では、傷つくのは私の許可を得てからにしてくださいね。……さあ、冷めないうちに召し上がれ。肥前さんのために、お出汁をしっかり引いたんですから」

 

差し出されたのは、たっぷりの具が入った汁物と、ツヤツヤと輝く白米だった。

一口、汁を啜った瞬間。鼻を抜ける香りと喉を通る温かさに、肥前の胃の奥がキュッと締め付けられた。

 

(……あぁ。……なんだこれ。……うめぇじゃねぇか……)

 

人斬りとしての意地も、張り詰めていた警戒心も、その温かい一杯に溶かされて崩れていく。夢中で箸を動かす彼を、白雪は隣でずっと、満足そうに見守っていた。

「……美味い? 肥前くん」

いつの間にか入り口に立っていた加州清光が、少しだけ意地悪そうに、けれど優しく笑って彼を見た。

 

「……あ? ……っ、別に。……食えねぇほどじゃねぇよ。……飯が、……うぜぇくらいに、温けぇだけだ」

「ふふ、最高の褒め言葉ですね。ありがとうございます」

白雪がくすくすと笑う。肥前は必死に碗を抱えて顔を隠したが、耳の奥まで熱くなっているのは隠しようがなかった。

 

この本丸には、彼の業を否定する者はいない。けれどそれ以上に、お腹を空かせた一人の家族として、当たり前のように隣に座ってくれるお姉さんがいた。

肥前の本当の意味での顕現は、戦場ではなく、この賑やかな食卓の、審神者の隣で始まったのかもしれない。

 

 

食卓を囲むのは、彼一人ではなかった。

「主さん、おかわり! 今日のきんぴら、凄く味が染みてて美味しい!」

乱が元気よく茶碗を差し出せば、「乱兄さん、主殿の手を止めさせてはいけませんよ」と平野がたしなめる。五虎退と前田は足元で虎たちと戯れ、厚は「よっしゃ、明日は俺が洗濯物干すの、手伝うぜ!」と快活に笑っている。

 

「あ、君が新しい子? ……人斬りの刀なんだってね」

大和守安定が、爽やかな笑顔で肥前を覗き込む。

「……あ? ああ、そうだよ。あんまり近寄るな、返り血で汚れるぞ」

肥前がいつものように突き放すと、安定はふふっと楽しそうに笑い、さらに距離を詰めた。

 

「いいよ、そんなの。僕もすぐ血まみれになっちゃうから。ねえ、首の跳ね方のコツ、今度教え合おうよ。沖田くんのやり方と、君のやり方、どっちが効率的かな?」

「…………は? ……何だこいつ、うぜぇ」

殺伐とした言葉を、まるで明日の天気の相談でもするように口にする安定に、さしもの肥前も毒気を抜かれた。

 

「あはは、肥前くん、安定に捕まっちゃったね」

加州清光がそれを見て、おかしそうに肩をすくめる。

「安定、新参刀くんを困らせないでよ。でもね肥前くん、うちの主は俺たちのそういう『物騒なところ』も、全部ひっくるめて愛してお世話してくれるんだから」

 

 

この大家族の家事すべてを、星栞白雪が一人で背負い込むわけではない。けれど、その中心にいるのは間違いなく彼女だった。

 

食事が終われば、誰に言われるともなく片付けが始まる。

「主さん、お皿は僕たちが運ぶから、座ってていいよ」

安定が手際よく空いた器を重ね、清光がそれを預かって厨房の流しへと運んでいく。

「あ、待て。……俺も、その、……手伝う」

居心地の悪さに耐えかねた肥前がおひつを抱えて立ち上がると、厨房の入り口で白雪と鉢合わせた。

 

「まあ、肥前さん。ありがとうございます。助かります」

白雪が柔らかく微笑み、彼の手から重たいおひつをスッと受け取る。

「……別に。……食わせてもらった分だ」

肥前はぶっきらぼうに視線を逸らしたが、白雪は彼の小さな気遣いを汲み取るように、もう一度嬉しそうに目を細めた。

彼女が厨房で洗い物を始めると、その隣では山姥切国広が黙々と皿を拭き、棚へと戻していく。

「……俺に構うな。……主の助けになるなら、写しの俺でも、この程度の役割は果たせる」

 

かつては卑屈に布を被っていた彼も、白雪の言葉に救われ、今ではこの賑やかな家族の一員として、静かに、けれど誇らしげに居場所を見出しているようだった。

厨房から少し離れた廊下では、蜂須賀虎徹が優雅な動作で雑巾を絞っていた。

 

「主が心を込めて整えたこの本丸だ。真作である俺が、さらに床を輝かせるのは当然の義務と言えるね」

 

(……本当、狂ってる。なんなんだ、この本丸)

 

肥前は厨房の様子を遠巻きに眺めながら、気づけば自分の手が空いた湯呑みを集めていることに気づき、また舌打ちをした。

やがて家の中が整うと、白雪は洗濯物のカゴを抱えて縁側へと向かった。

パンッ、パンッと、湿った布を叩いて伸ばす心地よい音が、午後の柔らかな空気の中に響き渡る。

 

人斬りとしての殺伐とした時間は、ここには存在しない。あるのは、誰かが誰かのために飯を作り、服を洗い、傷を癒やす。そんな当たり前の、けれど彼が一度も触れることのなかった日常の積み重ねだった。

 

「肥前さん。……お茶、淹れましたよ。少し休みましょう?」

片付けが一段落した審神者が、縁側から肥前を手招きする。

肥前は「……あ?」と不服そうに眉を寄せたが、結局は逃げる口実も見つからず、彼女から少し離れた場所に腰を下ろした。

 

並んで見上げる夜空には、静かな月が浮かんでいる。隣からは、彼女の穏やかな呼吸と、先ほどまで家事に励んでいた名残である、少しだけ甘い石鹸の香りがした。

 

「……あんた、疲れないのか。こんなに大勢のボロ……いや、ガキどもの世話してよ」

「疲れませんよ。皆さんの美味しそうな顔や、元気な声を聞いていると、私の方が元気をいただいているんですから」

 

白雪は、膝の上で自分の掌を見つめた。

「私には、これくらいしかできませんから。でも……皆さんが明日も笑って戦えるように、ここで待っていたいんです」

 

その言葉は、どこか切実で、そしてひどく優しかった。

肥前は、人斬りとして生きてきた自分にはあまりに眩しすぎるその横顔から、わざとらしく視線を逸らした。けれど、反射的に出る拒絶の言葉が、なぜか喉の奥でつかえて出てこない。

 

「……ふん。……勝手にしろ。……せいぜい、俺が戦いから帰るまで、飯を切らすんじゃねぇぞ」

「はい。約束します」

白雪が柔らかく微笑む。その指先が、ほんの少しだけ彼の方へ動いた。

 

触れ合うほどではない。けれど、その微かな体温の気配に、肥前は逃げ出したいような、

けれどこのままでいたいような、得体の知れない居心地の悪さを感じていた。

 

賑やかな本丸の夜。反抗期の野良犬は、お姉さんの底知れないお節介に毒気を抜かれながら、この「狂った場所」が少しずつ自分の感覚を麻痺させていくのを、静かに認め始めていた。

 

 

夜の静寂を切り裂くように、白雪の懐にある端末が、鋭く冷淡な電子音を鳴らした。

画面に映し出されたのは、時の政府からの緊急出陣要請。

 

その瞬間、隣にいたお姉さんの空気が、まるで冬の朝のようにピリリと張り詰めた。

白雪が立ち上がる。その瞳からは先ほどの穏やかさが消え、歴史を護る審神者としての、冷徹なまでの光が宿っていた。

 

「皆さん、お腹が落ち着いたら支度を始めましょう。出陣命令です」

その凛とした声は大広間にまで響き渡り、くつろいでいた男士たちが一斉に表情を引き締める。白雪は迷いのない口調で、部隊の編成を告げていった。

 

「第一部隊。隊長、加州清光。続いて大和守安定、乱藤四郎、前田藤四郎、山姥切国広」

最後に、彼女は真っ直ぐに肥前を見つめた。

「そして肥前忠広。……初出陣となりますが、よろしいですか?」

その視線には、彼を、道具として投げ出す非情さではなく、対等な戦士として信じ、背中を預ける強さがあった。

 

肥前は、その温度差に一瞬圧倒されながらも、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。

「……ああ。人斬りの仕事なら、期待以上の結果を出してやるよ」

「心強いです。では一時間後、本丸の庭に集合をお願いします」

 

 

一時間後。庭には、戦装束に身を包んだ男士たちが顔を揃えていた。

そこへ現れた白雪を見て、肥前が思わず声を荒らげる。

「……はあ!? なんであんたまでそんな格好してんだ。なんでここにいる!」

白雪もまた、内番着ではない、動きやすさと防御性を兼ね備えた軍装を纏っていた。その腰には、神官養成学校時代から使い慣れた護身用の得物がある。

 

「私も、無論戦うからです。皆さんにだけ、危ない思いはさせられません」

「馬鹿か! あんたが死んだら元も子もねぇだろ。俺たちの後ろで震えてりゃいいんだよ!」

野良犬のように牙を剥く肥前に、白雪はひるむことなく歩み寄った。そして、彼の頬にそっと手を添える。

 

「震えたりはしません。私は皆さんの主ですから」

その指先から、淡い光を放つ霊糸が揺らめき出した。

養成学校で培った、仲間を守り抜くための力。彼女の瞳には、愛する家族を戦場へ送り出し、そして必ず連れて帰るという、鉄のような決意が宿っていた。

 

「大丈夫だよ、肥前くん。主は僕たちが守るから」

安定が、いつになく真剣な表情で鯉口を切る。 「それに、主が一緒に来てくれると、僕たちの力がもっと引き出されるんだ。……ね、清光」

「そうそう。主が一緒に来るなら、なおさら格好悪いとこ見せられないしね」

清光が抜刀し、赤い瞳を戦場へと向ける。

 

肥前は舌打ちをしながらも、自分より背の低いお姉さんから溢れ出す圧倒的な霊力の奔流に、抗いようのない高揚感を感じていた。

「……勝手にしろ。その代わり、俺の視界から消えるんじゃねぇぞ」

「はい。皆さん、行きましょう。——出陣です!」

 

桜吹雪が激しく舞い上がり、彼らの姿を包み込む。

白雪と刀剣男士たち。家族の絆を戦う力に変えて、彼女たちの本当の戦いが幕を開けた。

 

 

転移した先は、血と火薬の匂いが立ち込める戦場だった。

肥前は抜刀すると同時に、獣のような速さで敵の懐へと飛び込んだ。初陣とは思えぬその身のこなしは、彼が「人斬り」の逸話による濃密な時間を物語っている。

 

肥前の瞳には、敵の動きが冷徹なほど鮮明に映っていた。どこを突けば崩れるか、どこを斬れば終わるか。相手の急所が、まるで吸い寄せられるように手に取るように分かる。それは彼が人斬りの刀として、地獄のような戦場をくぐり抜けてきた中で研ぎ澄まされた、天性の感覚だった。

 

「……死ね」

低く呟き、敵の喉元を正確に狙う。だが、時間遡行軍の物量は凄まじい。一体を仕留める刹那、死角から別の刃が肥前の背後に迫った。

 

「――させません」

凛とした白雪の声。その瞬間、肥前の背中を柔らかな熱が包み込んだ。

白雪が放った霊糸が、肥前の影を縫い止めるように展開し、死角からの攻撃を僅かに弾き飛ばしたのだ。直接的な防御ではない。敵の刃が届く直前、ほんの一瞬だけ間を作るような、さりげなくも温かい介入だった。

 

「肥前さん、そのまま。後ろは私たちが守ります」

彼女の声は、戦場にあっても厨で話している時のように穏やかで、けれど迷いがなかっ

た。

 

肥前は一瞬驚きに目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを深くした。

 

(……ああ、そうかよ。守る必要もねぇってのに……)

 

白雪の霊力が、肥前の神経を優しく、それでいて力強く補強していく。彼女のサポートは、彼の天性の感覚を邪魔することなく、むしろその刃がもっとも鋭く振るわれるための余白を作ってくれていた。

 

「……オラァッ! 首を差し出せ!」

安定が猛然と敵の群れに突っ込み、その首を鮮やかに跳ね飛ばしていく。その戦いぶりは、本丸で見せる穏やかな姿からは想像もつかないほど苛烈だった。

「肥前くん、もっと深く踏み込んで! 主の糸を信じてさ!」

「ちょっと安定!俺の活躍する場を奪わないでよ!」

加州が横から飛び込み、安定から零れた敵を鮮やかに斬り伏せる。

白雪の指先から伸びる糸は、部隊全員の動きを緩やかに繋ぎ、一人が踏み込めば別の誰かが必ずカバーに回るという、完璧な調和を生み出していた。

 

「……はは、最高の気分だ。あんたがいると、余計なことを考えなくて済む」

肥前は咆哮し、自身の感覚に従って、光り輝く急所を次々と貫いていく。

白雪は後方に下がるどころか、戦場全体を見渡し、一人一人の息遣いに合わせて癒やしの霊力を糸伝いに送り込み続けていた。

 

「肥前さん、その先。……信じています」

白雪の言葉が、風に乗って耳元を掠める。

かつての主は、ただ「斬れ」と命じた。だが、この主は「守るから、思う存分行きなさい」と、その背を温かく押してくる。

 

「……チッ。飯だけじゃなく、戦場まで温けぇのかよ」

毒づきながらも、肥前の剣筋はかつてないほど冴え渡っていた。

白雪の霊糸が夜の戦場に静かな導標を描き、人斬りの刃はその温もりに守られながら、地獄の業火ではなく、家族を繋ぐための鋭い閃きとなって敵を断ち切った。

激しい戦場から帰還した本丸には、再び穏やかな時間が流れ始めていた。

玄関先で泥を払い、装備を解いた男士たちを、白雪はいつもの柔らかな微笑みで迎える。

 

 

「皆さん、お疲れ様でした。怪我はありませんか? ……さあ、すぐにご飯にしますね」

白雪は軍装のまま、迷いなく厨へと向かった。その後ろを、加州清光と大和守安定と山姥切国広、そして薬研と厚が自然な足取りで追う。

 

厨には、すでに出陣に同行しなかった蜂須賀虎徹の手によって、見事な下ごしらえが施されていた。

 

「主、食材を用意しておいたよ。泥にまみれた君たちの帰りを待つ間、最高の状態に整えた」

誇らしげに語る蜂須賀の横には、美しく切り揃えられた野菜や、丁寧に取られた出汁が用意されている。白雪はそれを見て、薄群青の瞳を細めた。

 

「まあ、蜂須賀さん。なんて助かるのでしょう……ありがとうございます。これならすぐに仕上がりますね」

白雪を中心に、賑やかな夕餉の支度が始まった。

加州が手際よく米を研ぎ、山姥切は布を揺らしながらも黙々と野菜を運ぶ。安定は盛り付けを始めた。薬研と厚は、白雪の指示を待つまでもなく、慣れた手つきで火の番と食器の用意をする。

 

一方で、白雪は出陣で神経を尖らせていた年少の短刀たちに、優しく声をかける。

「乱くん、前田くん。二人は今のうちに、少しお昼寝をしてきなさい。疲れた心と体を、まずは休めてほしいの」

「えー、ボクもお手伝いしたいのに……」

名残惜しそうにする乱たちを、白雪は「ご飯ができたら、一番に起こしてあげますから」と、長女らしい包容力で宥め、奥の部屋へと送り出した。

 

その視線の先に、所在なげに柱に寄りかかっている肥前の姿があった。

「肥前さんも、お部屋で休んできてくださいね。初出陣で、一番お疲れでしょう?」

白雪がふわりと微笑みながら声をかける。だが、肥前は「……俺はガキじゃねぇ。寝る必要なんて……」と、可愛げのない言葉を吐き出した。

 

その刹那。

静かな厨に、ぐうぅ、と、先ほどよりも一際大きく、正直な音が響き渡った。

「…………っ」

肥前は耳まで真っ赤にして、マフラーに顔を深く沈めた。

 

それを見た加州と安定が「あはは! 肥前くん、体は正直だね」と声を上げ、山姥切も布の下で微かに口元を緩める。

 

白雪は、あえてその音には触れず、ただ慈愛に満ちた眼差しを彼に向けた。

「ふふ。……そうですよね、こんなに良い匂いがしていたら、お腹も起きてしまいますよね」

彼女は、炊き立てのご飯を小さな結びにすると、それを真っ先に肥前へと差し出した。

「お昼寝の前に、一つだけ。……今日はお疲れ様、肥前さん。あなたの戦い、とても立派でしたよ」

差し出されたおにぎりの温かさと、白雪の柔らかな微笑み。

肥前は毒づく言葉も見つからないまま、ひったくるようにそれを受け取った。

 

「……ふん。……早く、全部作れよな」

口いっぱいに頬張った温もりは、戦場を駆けた昂ぶりを静かに鎮めていく。

お姉さんの作る優しい味と、賑やかな家族の音。

 

反抗期の野良犬は、もぐもぐと口を動かしながら、抗いようのない幸福感の中で、知らず知らずのうちに重たくなった瞼を閉じるのだった。

 

 

「……肥前さん。肥前さん、起きてください。ご飯ができましたよ」

柔らかな声と、鼻をくすぐる香ばしい醤油の匂いで、肥前は意識を浮上させた。

重い瞼をこじ開けると、そこには覗き込むようにして微笑む白雪の顔があった。夕暮れの光が部屋に差し込み、彼女の薄群青の瞳を穏やかに照らしている。

 

「……あ? ……っ、寝てねぇよ」

悪態をつきながら跳ね起きる。口の中に残っていたおにぎりの微かな甘みが、自分がいつの間にか深い眠りに落ちていたことを証明していた。

白雪は彼の強がりを優しく受け流し、「さあ、広間へ行きましょう。新しい仲間も、あなたのことを待っていますよ」と促した。

 

「新しい、仲間……?」

肥前が怪訝そうな顔で広間に足を踏み入れると、そこには見覚えのある男が一人、既に食卓の一角に収まっていた。

独特の眼鏡をかけ、どこか飄々とした空気を纏ったその男は、肥前の姿を認めると、ゆったりとした動作で手を挙げた。

 

「おや、肥前くんじゃないか。随分と健康的な寝顔だったね」

「……っ、南海先生!?」

 

肥前は思わず声を荒らげた。顕現していたのは、南海太郎朝尊だった。

 

彼がなぜここにいるのかと驚く肥前を余所に、南海は手元の茶碗を見つめ、感心したように頷いている。

 

「この本丸の主くんは、実に興味深い。顕現して早々、僕の構造的な興味を引くよりも先に『まずは温かいお汁をどうぞ』と言って、この素晴らしい出汁を振る舞ってくれたんだよ。人体の維持、あるいは付喪神の顕現維持において、栄養と休息はもっとも合理的な手段だからね」

 

「南海先生、難しいお話は後にして、冷めないうちに召し上がってくださいね」

白雪が、南海の前に焼き立ての魚を運びながら、困ったように微笑む。南海は「おっと、

失礼。主くんの言う通りだ」と、嬉しそうに箸を取った。

 

「肥前くんも座りなよ。主が君の分だけ、特別に大きな卵焼きを作ってたよ」

加州がニヤニヤしながら隣から茶化してくる。見れば、確かに肥前の膳には、他の誰よりも分厚い卵焼きが鎮座していた。

「……勝手に作るなっつっただろ。……チッ、うぜぇ……」

毒づきながらも、肥前は南海の隣に腰を下ろした。

南海は、自身の知識や研究欲を、白雪の生活という名の包容力に、ごく自然に調和させているようだった。

 

白雪が弟たちの世話を焼き、南海がその様子を「興味深いね」と観察し、加州や乱が賑やかに笑う。

 

(……本当に、なんなんだこの場所は)

 

肥前は、南海先生という知った顔が増えたことで、この奇妙に温かい本丸が、夢ではない現実なのだと改めて突きつけられた気がした。

箸を動かし、温かい汁物を胃に流し込む。

お姉さんの作る飯と、賑やかな家族の声。

南海太郎朝尊という新たな「知」を迎え、白雪の本丸はまた一段と、賑やかで、そして確かな家としての形を強めていくのだった。

 

 

 

戦いなき日の過ごし方

数日後。

「……おい、主。……なんだ、この『非番』って札は」

執務室の予定表を覗き込んだ肥前忠広が、まるで未知の敵に遭遇したかのような、訝しげな声を上げた。

 

「言葉通りですよ。今日は肥前さん、お仕事はお休みです。出陣も遠征も、当番もありません。一日、自由に過ごしていいんですよ」

白雪が穏やかに告げると、肥前は呆然と立ち尽くした。

 

「……自由……? 意味が分かんねぇ。俺を呼び出したのは、敵を斬るためだろ。……休んでる間に鈍ったら、あんた、俺を捨てるのか?」

「そんなわけないじゃない。……ねぇ、清光くん」

白雪が助けを求めると、隣で爪の手入れをしていた加州清光が、やれやれと肩をすくめて口を開いた。

「あーあ、また始まった。いい、肥前くん。主は、あんたをすり潰すまで働かせようなんて思ってないの。……それに、あんたのその食べっぷりを見てなよ。今日も朝から茶碗三杯、おかわりしたでしょ」

 

清光が指差した先には、空になった大きな飯櫃がある。

「あんた、本当によく食べるよね。育ち盛りかよってツッコミたくなる。……まあ、その分、出陣先では誰よりも動いて敵を蹴散らしてくれるから、誰も文句は言わないけどさ。……でも、身体は機械じゃないんだから。今日は、主の隣で大人しくしてなよ」

 

「……っ。……誰が育ち盛りだ、ボケ……!!」

肥前は耳を赤くして毒づいたが、清光の言うことは図星だった。白雪の作る飯が美味すぎて、つい、腹に詰め込んでしまう。戦いの中でしか己の価値を証明できないと思っていた彼にとって、この「食う」という行為の充足感は、何よりも戸惑うものだった。

 

「肥前さん、今日は一緒に、庭でゆっくりお茶でも飲みませんか? 肥前さんが好きな、甘いお団子も用意したんです」

「……。……団子、……あんたが作ったのか」

「はい。心を込めて」

白雪が優しく微笑むと、肥前は「……ふん」と鼻を鳴らし、乱暴に頭を掻いた。

「……うぜぇ。……そこまで言うなら、付き合ってやるよ。あんたが一人でいて、変な奴に絡まれたら困るしな」

そう言って、肥前は白雪より一歩先に縁側へと向かった。背中を向けているが、その足取りはどこか落ち着かないようで、けれど、決して拒絶の色はない。

 

「……あはは、結局ああなんだから」

清光が笑いながら、白雪に目配せをする。白雪はお茶とお団子の乗ったお盆を抱えて、その後ろ姿を追った。

 

縁側に並んで座ると、春の柔らかな日差しが二人を包み込んだ。白雪が差し出した湯呑みからは、香ばしいお茶の香りが立ち上っている。

 

「……なぁ、あんた。本当にいいのかよ、こんなの」

肥前は、慣れない手つきで串団子を手に取りながら、ポツリと溢した。

「俺は……人斬りの刀だ。人目を忍んで、暗がりに潜む、殺しの専門だった。そんな俺が、こんな陽の当たるところで団子なんか食ってて……バチが当たらねぇか」

 

白雪は、お茶を一口啜り、ゆっくりと首を振った。

「バチなんて当たりませんよ。……肥前さん、昨日の出陣でも、皆さんのことを守ってくださったでしょう? 清光くんが言った通り、貴方は本当に一生懸命、私たちのために動いてくれています」

白雪の視線が、肥前の横顔を優しく捉える。

「よく働き、よく食べ、そしてよく休む。それは武器としてではなく、この本丸の仲間として、当たり前の権利なんです。……ね、美味しいでしょう?」

「…………。……あぁ、……うぜぇくらいに、甘ぇよ」

肥前は吐き捨てるように言ったが、その手は止まらない。高校生のような旺盛な食欲で、三本あった団子の串はあっという間に空になっていった。

 

そんな二人の様子を、庭の向こうから見守る影があった。

「……ねぇ、まんばちゃん。肥前くん、案外馴染むの早かったよね」

乱藤四郎が、隣で洗濯物を畳んでいる山姥切国広の袖を引く。

「……。俺に構うな。……だが、そうだな。あいつも、主のあの言葉に、……居場所を見つけたんだろう」

山姥切は、自分の白い布の端を少しだけ握りしめ、静かに目を細めた。彼もまた、白雪に「そのままで素敵だ」と言われ、この平和な喧騒の中に自分の役割を見出した一人だ。すると、回廊の角から蜂須賀虎徹が、眩いばかりの美貌を湛えて現れた。

 

「おや、肥前もようやく主の慈悲を理解し始めたようだね。真作である俺としても、彼がこの本丸の美しさを損なわない程度に整ったのは、喜ばしいことだ」

五虎退が虎を抱き抱えながら、向こうから歩いてくる南海太郎朝尊に駆け寄る。

 

「……あ、せ、先生…!こちらに団子がありますよ…!」

「やあ、五虎退くん。いい匂いに誘われてね。……おや、肥前くん。主くんの隣で、ずいぶんとしおらしいじゃないか」

「……っ、先生!! どっから見てやがった……!!」

肥前がガバッと立ち上がり、顔を真っ赤にして怒鳴るが、南海先生はペースを崩さず、飄々と笑っている。

 

「いいじゃないか。僕は嬉しいよ。主くん、彼には少し甘いものを多めに与えてやってくれ。脳の活性化にも、心の安定にも、糖分は必要だからね」

「はい、先生。……ふふ、肥前さん。先生の分もありますから、座ってくださいな」

白雪が袖を引くと、肥前は「……っ、クソッ……」と悪態をつきながらも、結局は先生に場所を空けて、またドカリと座り直した。

人斬りとして生まれ、血の味しか知らなかった肥前忠広の日常は、今、色鮮やかな家族の風景へと塗り替えられていた。

 

「……主」

「はい、何ですか?」

「……おかわり。……まだ、あんだろ」

「はい、もちろん。たくさんありますよ」

白雪の弾んだ声と、肥前の不器用な要求。それは、星ノ本丸に新しく加わった、幸せな日常の音色だった。

 

 

 

野良犬の誇りと、主の強行手段

出陣から帰還した肥前忠広は、いつになく殺気立っていた。

広間を通り過ぎようとする彼の足取りは、僅かに右側へ傾いでいる。それを、廊下で薬箱を整理していた薬研藤四郎が鋭く見咎めた。

「……おい、肥前。その脇腹、隠せてねぇぞ。深ぇな」

「……あ? 掠っただけだ。放っとけ」

 

肥前は吐き捨てるように言うと、手入れ部屋へも向かわず自室へ戻ろうとする。

人斬りとしての矜持か、あるいは不器用な意地か。彼は己の身を削ることでしか、主の隣に立つ資格を保てないと思い込んでいる節があった。

 

だが、その背後から音もなく現れた白雪が、静かにその歩みを止めた。

「……肥前さん」

低く、けれど芯の通った声。いつもの穏やかな「お姉さん」の空気は霧散し、彼女の瞳には逃げ場のない、静かな「圧」が宿っていた。

「主……。なんだよ、その顔。俺は別に……」

「肥前さん。自分を粗末にする方は、私、許さないと言いましたよね?」

白雪が一歩踏み出す。その気迫に、歴戦の刀である肥前が思わず一歩後退りした。 「……っ、後で行くっつってんだろ! 離せ!」

逃げようとした肥前の肩を、白雪の細い指ががっしりと掴んだ。

「刀様に対して、このような振る舞いは大変無礼かと存じますが……! ですが、今の貴方は放っておけません!」

 

(……なんなんだよ、……!)

 

肥前は驚愕した。

白雪は「ああ、どうしましょう、バチが当たってしまう……!」と顔を真っ赤にして泣きそうな声を上げながらも、その指先は万力のように食い込んで離れない。それどころか、怪我人を羽交い締めにするという前代未聞の強行手段に出たのだ。

 

「……清光くん! 蜂須賀さん! お手伝いいただけますか!?」

「はいはい、お呼びだね。肥前くん、諦めなよ。怒った主には、俺たちでも勝てないんだから」 苦笑しながら現れた加州清光が、肥前の左腕を固める。

「真作である主の命を軽んじるとは。君には、高潔な手入れが必要なようだね」 蜂須賀虎徹が右側を封じた。

「あはは、逃げるなんて子供みたいだね。……ねえ肥前くん、おとなしくしてくれないなら、僕がその足を斬って動けなくしてあげようか?」

安定が、抜刀こそしないものの、爽やかすぎる笑顔でとんでもない提案をしながら背後に回る。

「嘘だよ、冗談。……でも、主をこれ以上心配させるなら、冗談じゃなくなるかもね」 氷のような瞳で肥前を見つめる安定に、加州が「安定、やりすぎ!」と突っ込みを入れる。

 

さらに山姥切国広が「主のこの顔には逆らえない……」と進路を塞ぎ、南海先生が「医学的にも、早急な処置が必要だよ。ああ、その傷の断面も興味深いね」と眼鏡を光らせる。

「離せ! 離せよ! あんたら、……っ、おい!!」

 

結局、白雪に背後から抱え込まれ、加州と蜂須賀に両脇を固められた状態で、肥前は宙に浮いたまま手入れ部屋へと強制連行されていった。

 

 

手入れ部屋の空気は、白雪の放つ清浄な霊力で満たされていた。

傷口がじわじわと塞がっていく感覚。人斬りとして戦場を這いずり、泥を啜ってきた肥前にとって、それはあまりに居心地の悪い癒やしの空間だった。

 

白雪は、黙々と作業を続けている。

「……ごめんなさい。痛かったですか? 乱暴にしてしまって……」

(……なんだよ。その、今にも壊れそうな顔は)

傷を塞ぐ彼女の指先が、微かに震えている。そこにいたのは、泰然自若とした審神者ではない。年相応の脆さを抱えた、一人の不器用な女の子の素顔だった。

 

「……謝んなよ。うぜぇ。俺のほうこそ、心配させて……悪かったよ」

毒気を抜かれたように肥前が呟くと、白雪は慈しむような瞳で彼を見つめた。

「肥前さん。貴方は人斬りの刀かもしれません。でも、私の前では、一生懸命に私を守ろうとしてくれる、誇り高い『家族』です。もっと、自分を愛してあげてください」

肥前は顔を真っ赤にして黙り込んだ。

 

その様子を扉の外で聞いていた加州は、満足げに頷く。

「……ま、主の『お姉さん力』には、どんな野良犬も敵わないってことだね」

 

手入れが終わり、衣類を整えた肥前は、何となく寝付けずに本丸の奥へと歩を進めた。

通りかかった主の部屋の近く。行灯の光が漏れる障子の向こうから、低い話し声が聞こえてくる。

 

「……あーあ。主、今日のはちょっと取り乱しすぎだよ。肥前くん、びっくりしてたじゃない」

加州清光の声だ。初期刀である彼は、白雪にとって「お姉さん」の仮面を外せる数少ない相手。白雪の声も、今にも消え入りそうに細かった。

 

「……ごめんなさい。わかっているわ。……でも、あの時の肥前さんの瞳が、どうしても……『キンちゃん』に似ていて」

 

(キンちゃん……? 誰だ、そいつは)

 

肥前は、胸の奥に冷たい石を放り込まれたような感覚に陥った。

「……もちろん分かっているの。肥前さんは、肥前さん。でも、肥前さんが痛々しそうな表情をした瞬間、私にはもう、彼にしか見えなくて……」

 

加州が「あんまり過去に引きずられないでよ」と宥める声が続くが、肥前の耳にはそれ以上入ってこなかった。

 

(……俺を通して、別の誰かを見てたってことかよ)

拳をぎゅっと握りしめる。「うぜぇ」と毒づくことさえ忘れるほど、得体の知れない嫉妬と落胆が渦巻いた。

 

だが、肥前はすぐに頭を振って、闇夜を睨みつけた。彼女が誰の影を追っていようが、今、彼女の隣に立ち、その手を汚して戦うのは俺だ。

(……勝手に見てろよ。そのキンちゃんってのがどんな奴かは知らねぇが……)

 

そいつが入り込む隙もないくらい、圧倒的な強さで彼女の視線を奪ってやる。あんな風

に、今にも壊れそうな女の子の顔をさせないくらいに。

 

「……もっと、強くなってやる。文句ねぇだろ、主」

暗い廊下の先で、肥前の決意だけが鋭く光っていた。

 

昨夜、障子の向こうから聞こえてきた「キンちゃん」という名前。

それが誰なのか、自分にどう関係があるのか、肥前にはさっぱり分からなかった。ただ、胸の奥が焼けるように熱く、それでいてひどく冷めたような、得体の知れない不快感が渦巻いている。

 

(……あ。主のやつ、あんな声も出すんだな)

 

いつも凛として、自分たちを包み込んでくれるあの声が、あんなにも細く、震えていた。

朝、厨に立つ白雪の背中を見ても、昨夜の消え入りそうな声が耳に張り付いて離れない。いつも通りのお姉さんのような微笑みを向けられるたびに、その裏側にある、声の主だけが知る別の誰かの影を探してしまう自分に、肥前は激しい苛立ちを覚えた。

「……おい。……朝飯、まだかよ。腹減った」

朝餉の席、つい口を突いて出た言葉は、自分でも驚くほどぶっきらぼうだった。

 

「あら、ごめんなさい。今盛り付けますね、肥前さん」

いつもと変わらず慈しむように接してくる白雪。昨夜、あんな声を漏らしていた本人だとは到底思えないその態度が、余計に肥前の胸をざわつかせた。

 

「……なんでもねぇよ。……いいから、さっさと食わせろ」

この苛立ちの正体が「自分だけを見てほしい」という独占欲であり、見知らぬ影への「嫉妬」であることに、今の肥前はまだ気づく由もなかった。

 

その日の出陣は、白雪が同行しない、刀剣男士たちだけの編成だった。

「皆さん、どうかご無事で。……肥前さん、無理はしないでくださいね」

門で見送る彼女の姿が小さくなっていく。いつもなら、戦場には彼女の放つの温かなサポートが背中を守ってくれていた。

だが、今日の戦場には、血と泥の匂いしかない。

 

「……おい、肥前! 前に出すぎだ、戻れ!」

隊長の加州清光が叫ぶが、肥前の耳には届かない。

彼は獣のような執念で敵を追い詰め、その急所を叩き潰していた。白雪がいないからこそ、自分の実力を誇示しなければならないという、強迫観念のような焦燥が彼を突き動かしている。

 

(……見てろよ。……あんな、今にも消えそうな声、二度と出させねぇ。……あんたが守

らなきゃいけない『弱ぇ奴』じゃねぇってことを、分からせてやる……)

 

泥にまみれ、敵の返り血を浴びながら、肥前は笑った。

かつての人斬りの顔。だが、その根底にあるのは破壊衝動ではなく、主の隣に「自分」として存在し続けるための、必死の証明だった。

 

「……ふぅ。……終わりだ」

最後の一体を切り捨て、肥前は荒い息を吐く。

周囲には、彼の凄まじい戦いぶりに気圧された仲間たちがいた。

「……肥前くん、今日は一段と怖かったね。主さんが見てたら、また怒られちゃうよ」

乱藤四郎が呆れたように言うが、肥前は答えなかった。

 

(……怒られりゃいい。……あんな風に、……泣きそうな声で俺の傷を塞がせるくらいなら……)

 

白雪が自分を通して誰かを見ているのなら、その幻影を切り裂くほどの圧倒的な「肥前忠広」を刻みつけてやる。

自分のこの感情を、彼はまだ、忠義や誇りだと思い込んでいる。

本丸への帰路。肥前の胸に宿ったのは、主への募る不満と、それ以上に深い、言葉にならない執着だった。

 

「……帰るぞ。……腹減った。あのうぜぇ飯を、腹一杯食わせろ」

門をくぐれば、またあのお節介なお姉さんが待っている。

その声の裏に誰がいようと、今、彼女の前に帰るのは俺だ。

肥前はボロをきつく握りしめ、自分を待つ温かな灯りを目指して、一歩を踏み出した。

 

 

雨音と、剥がれ落ちたお姉さん

行軍を阻むような激しい雨が、戦場を容赦なく叩いていた。

今回の出陣は、予想を遥かに超える時間遡行軍の奇襲。

 

それも、雨の視界不良を突いた執拗な波状攻撃だった。審神者である白雪は、戦場全体が一望できる少し離れた高台に陣取り、戦う刀剣男士たちのために本陣の結界を張りながら、その霊力で彼らの背中を支えていた。

だが、この悪天候の中、最悪の形で目立ってしまっている存在がいた。

 

「真作の誉れにかけて……! この程度の泥、我が黄金の輝きを曇らせる理由にはならない!」

部隊の主力を担う蜂須賀虎徹だった。

雨の暗がりのなかで彼が身に纏う黄金の甲冑は、皮肉にも敵にとって格好の「標的」となってしまう。

ギラリと光る装飾に引き寄せられるように、敵の短刀や打刀が蜂須賀に集中した。

 

「蜂須賀、前に出すぎだ! 敵を引きつけすぎてる!」

隊長の加州が叫び、敵を切り伏せながら加勢に入ろうとするが、周囲を取り囲む敵の数が多すぎる。

 

(チッ、あのバカ……ッ!)

肥前は苛立ちに任せて地を蹴った。

蜂須賀の背後に回り込もうとする敵の隙を突き、強引に刃を突き立てる。 だが、焦りは戦眼を曇らせた。激しい雨の音と、泥にまみれた敵の不規則な動きに、肥前の踏み込みが僅かに遅れる。

 

その瞬間、戦場全体を覆っていた白雪の結界が、突如として霧散した。

高台にいたはずの彼女が、すべての霊力を強制的に引き剥がし、肥前のいる一点へと爆発的に注ぎ込んだのだ。 目も眩むような濃密な霊力の光が、肥前に迫っていた敵の群れを一瞬にして消滅させる。凄まじい光が雨夜を裂いた直後、遠くの高台から結界の輝きが完全に消え去った。

 

「主……っ!?」

肥前は弾かれたように高台へと駆け上がった。 そこにいたのは、糸が切れた人形のように崩れ落ちた白雪の姿だった。

 

「おい、主! しっかりしろ!」 肥前が慌ててその身体を抱き止める。触れた瞬間、衣服越しでも分かる異常な熱さが伝わってきた。

「主……!? 嘘、結界の霊力をあんな風に……! 蜂須賀、敵の残党はもういないね!? 帰るよ、すぐに本丸へ帰還だ!」

 

加州の悲痛な叫び声が響く。肥前は何が起きたのか頭が追いつかないまま、ただ腕の中の白雪を誰の手にも渡さないように強く抱きしめ、がむしゃらに走り出した。

 

 

本丸に帰り着くなり、肥前は周囲の制止を振り切って、白雪を抱えたまま彼女の部屋へと踏み込んだ。

 

「……っ、主さん! 肥前くん、あとはボクがやるから、君は一度外に出てて!」

乱藤四郎が、いつになく真剣な表情で肥前の前に立ちふさがる。濡れ鼠のまま熱に浮かされている主を、このままにしておくわけにはいかない。乱は肥前から白雪を受け取ると、手際よく着替えの準備を始めた。

 

部屋を追い出された肥前は、廊下で雨の音を聞きながら立ち尽くしていた。

掌に残る、彼女の異常な熱さ。

 

(……なんなんだよ。あの、危なっかしい戦い方は)

 

本丸ではあんなに「お姉さん」ぶって、余裕のある顔をして笑っているくせに。戦場に立てば、自分の身が削れるのも構わずに霊力を振り回し、挙句の果てには人斬りの刀であるはずの俺を庇って倒れる。

 

(……あ。……俺のせいか)

 

自分がもっと上手く立ち回っていれば。あいつに無理をさせなければ。

ドロドロとした自責の念が、雨水のように胸の底に溜まっていく。数日前に聞こえてきた「キンちゃん」という名前の主も、あいつをこんな風に守ろうとしたのだろうか。それとも、守れなかったから、あいつは一人で無理をして「お姉さん」を演じるようになったのか。

 

しばらくして、乱が部屋から出てきた。

「……着替え終わったよ。今は落ち着いて眠ってるけど、まだ熱が高いみたい。肥前くん、少しの間、そばにいてあげてくれる? ボクは薬研を呼んでくるから」

乱と入れ替わり、肥前は再び部屋へ入った。

 

行灯の微かな光の中、白雪は清潔な寝衣に包まれ、苦しげな息を吐いていた。

いつも自分たちを包み込んでくれる「星栞白雪」は、もはやどこにもない。

 

「……ねぇ、キンちゃん」

ふいに、熱に浮かされた唇からその名前が零れた。

肥前をなぞるその視線は、もう彼を捉えてはいなかった。

「……また、私を置いて、行っちゃうの? 私、皆に美味しいもの作って……頑張ってるよ。だから……」

白雪の瞳から、一筋の涙が溢れた。

本丸の誰にも見せたことのない、拠り所のない子供のような、孤独な少女の顔。

 

(……ああ、クソッ。うぜぇ……)

 

その涙を見ているだけで、胸が締め付けられる。

「……星栞……なんて。私、ただの、白雪で、いたかった……」

その弱々しい吐露を聞いた瞬間、肥前の胸を衝くものがあった。

 

彼女が背負っているその苗字が、彼女にとってどれほど忌まわしく、自分を縛り付ける鎖のようなものだったのか。その拒絶の言葉を耳にして、肥前は初めて、彼女が「お姉さん」として振る舞い続けてきた裏側にある、底知れない孤独を察した。

 

虚空を彷徨う、細く震える手。

肥前は、その手を大きな掌で包み込み、指を絡めて力強く握りしめた。

 

(……キンちゃんじゃねぇ。そいつが誰かは知らねぇが、今ここにいるのは俺だ)

 

「……キンちゃんじゃねぇよ。俺は、肥前だ。肥前忠広だ」

「……ひぜん……さん……?」

白雪の瞳が、僅かに光を宿す。肥前はもう、迷わなかった。今の彼女に、主と刀なんて余所余所しい距離はいらない。

 

「……白雪。もう、誰かのフリなんてしなくていい」

 

肥前は彼女の顔を覗き込み、言い聞かせるように声を落とした。

「俺の前では、ただのガキでいろ。あんたを守るために、俺はここにいるんだ。……他の誰でもねぇ、あんたを守るためにだ」

 

(……俺だけ見てろ。……別の誰かの影なんて、俺が全部斬り捨ててやる)

「……ひぜん……くん……」

「さん」ではなく、初めて零れた、彼女の素に近い呼び方。

 

白雪は肥前の手にしがみつくようにして、子供のように泣きじゃくりながら、やがて深い眠りについた。

握りしめた手の温もりだけが、今の肥前にとっての唯一の正解だった。

 

 

 

朝の光と、解かれた結び目

昨夜の激しい雨が嘘のように、窓の外では小鳥が囀っていた。

 

白雪は、重たい瞼をゆっくりと押し上げた。視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井。そして、部屋の隅で座ったまま、腕を組んで目を閉じている肥前忠広の姿だった。

その横には、手入れを終えて元の輝きを取り戻した彼の刀が置かれている。昨夜、泥と血にまみれ、自分を抱きとめてくれた彼の服が、今は汚れ一つなく整っている。その様子から、自分が眠っている間に彼が手入れ部屋を訪れ、万全な状態に戻ったことが見て取れた。

 

肥前は彼女の微かな動きを察知したのか、すぐに目を開けると、お盆を手に取って近づいてきた。そこには、薬研が「大将が目覚めたら食わせてやってくれ」と託していった、丁寧に炊かれた白粥が温かな湯気を立てている。

 

「……おい、起きたか。薬研が作った粥だ。さっさと食え」

「……あ、ありがとうございます。……肥前さん」

つい、いつもの癖で丁寧に礼を言い、昨夜以前の「肥前さん」という呼び方に戻ってしまう。白雪が少し照れくさそうに視線を泳がせると、肥前は鼻を鳴らしてお盆を置いた。

 

「肥前さん……昨夜は、その……本当にお見苦しいところを。……ごめんなさい、私、あんなに取り乱してしまって……」

いつものように「主」としての自分を取り戻し、申し訳なさそうに微笑んで取り繕おうとする白雪。だが、肥前はそれを許さなかった。彼は枕元にドカリと座り込むと、彼女の顔を正面から強く見据えた。

 

「……『さん』は、いらねぇ。昨日、そう呼んだろうが。忘れたのか、ボケ」

「あ……」

 

肥前の鋭い、けれどどこか温かい視線に、白雪は言葉を失う。彼はそのまま、逃げ場を塞ぐように、言い聞かせる言葉を継いだ。

「あんたが俺の中に誰を見てようが構わねぇ。そいつがあんたにとって、どれだけ大事な奴だったのかも知らねぇしな」

その声は低く、まっすぐに白雪の心へ届いた。

 

「でもな。あんたが泣きたい時に隣にいるのは、そいつじゃねぇ。俺だ。……今、ここであんたの目の前にいるのは、俺なんだよ。わかったか」

「…………」

 

白雪は驚いたように目を見開き、それから、心の底から溢れたような、年相応の柔らかな笑顔を見せた。 昨夜、彼が「ただのガキでいろ」と言ってくれたから。 そして今、改めて「隣にいるのは俺だ」と宣言してくれたから。 彼女は「星栞」という重圧を少しだけ置いて、一人の女の子として笑うことができたのだ。

 

「……ええ。わかったわ、肥前くん」

「……っ、ふん。さっさと食え、ボロが出る前に」

肥前は真っ赤な顔でそっぽを向いた。 白雪はお粥を一口運び、その温かさに瞳を潤ませながら、新しく刻まれた「肥前くん」という存在の感触を、静かに噛み締めていた。

白雪がゆっくりとお粥を口に運んでいると、部屋の外から慎重な足音が近づいてきた。

 

主、入ってもいいかな? ……おや、肥前。いたのか」

現れたのは、隊長を務めた蜂須賀虎徹と、加州清光だった。蜂須賀はいつもなら眩いばかりの自信に満ちているが、今はその端正な顔立ちに深い陰を落としている。

 

「蜂須賀さん、清光くん……」

白雪が身を起こそうとすると、加州が慌てて手を振った。 「あー、いいよいいよ、寝たままで。顔色、だいぶ良くなったみたいだね」

 

「……。俺は厨に行ってくる。薬研がその粥の器、下げに来いってよ」

肥前は二人が来たのを見計らったように立ち上がり、逃げるように部屋を出ていった。すれ違いざま、加州が「お疲れ様」と声をかけたが、肥前は「……別に」とだけ短く捨て台詞を残して、廊下の先へ消えていった。

 

蜂須賀は白雪の枕元に跪くと、沈痛な面持ちで頭を下げた。

「主……昨日は俺の不徳の致すところだ。俺が雨の中で敵の標的になったばかりに、君にこれほどの無理をさせてしまった。虎徹の真作として、あまりに情けない……」

 

「……蜂須賀さん、顔を上げてください。私の方こそ、ごめんなさい。……昨日は自分の霊力展開を完全に見誤ってしまいました。私が失敗したら、皆さんの命が危ういのに……。主として、もっとしっかりしないといけないのに、未熟でした」

 

白雪が沈んだ声で反省を口にすると、それを見守っていた加州が、やれやれと肩をすくめて口を開いた。「ほら、二人とも。反省会はもうおしまい。昨日は雨も敵の数も異常だったんだから、生きて帰れただけで百点満点でしょ。主、無理して『完璧』になろうとしなくていいんだよ。そんなの、俺たちが望んでないし」

 

「清光くん……」

「蜂須賀も、主の元気な顔が見れたんだから、もういいだろ? ほら、行くよ」

加州に促され、蜂須賀は「……そうだね。主、今は養生に専念してくれ」と一礼して部屋を後にした。

再び一人になった部屋で、白雪はお粥の最後の一口を飲み込んだ。 静かになった廊下の向こう、厨の方からは、時折まな板を叩く音や、肥前と薬研が低く言い合う声が微かに聞こえてくる。

 

白雪は空になったお椀を見つめ、昨夜から今朝にかけての、あの少し乱暴で真っ直ぐな言葉を思い出していた。

 

「……さて。……いつまでも寝ていられないわね」

彼女は小さく息を吐き、布団から這い出した。まだ少し足元がふらつくが、不思議と心は軽かった。 彼女は自分の頬を軽く叩き、厨から漂ってくる「日常」の匂いを目指して、ゆっくりと歩き出した。

 

 

 

日常の匂いと、不器用な出迎え

ふらつく足取りで廊下を進むと、厨に近づくにつれて出汁の香りと、聞き慣れた賑やかな音が聞こえてきた。

 

「おい、肥前。火が強すぎだ。焦がしちまうぞ」

「……うぜぇ。これくらいが丁度いいんだよ、薬研」

 

暖簾の隙間から覗くと、薬研に指示されながら、肥前が不器用な手つきで大きな鍋をかき混ぜていた。

「……皆さん、おはようございます」

白雪が声をかけると、厨の中の空気が一瞬止まった。

 

「……っ、あんた! 寝てろって言っただろ!」

肥前が真っ先に振り返り、お玉を握ったまま声を上げた。驚きで少し声が大きくなってしまったことに気づいたのか、すぐにきまずそうに視線を逸らす。

「大将、もう動いて大丈夫なのか? 無理は禁物だぜ」

薬研が苦笑しながら、手際よく火を弱める。

 

「ええ、お粥をいただいたら、少し元気が出てしまって……。お手伝いさせてください」

白雪が調理場へ足を踏み入れようとすると、肥前がその進路を塞ぐようにドカリと立ちはだかった。

「……間に合ってる。あんたが今ここで倒れたら、また蜂須賀が落ち込んで、加州が騒いで、……面倒なんだよ。座ってろ。……ほら、そこ」

 

肥前が顎で指し示したのは、火元から離れた隅にある丸椅子だった。

「……これ、筋取りすればいいのかしら」

「……それくらいなら、座ったままでもできんだろ」

肥前が手渡してきたのは、使い込まれた小さな籠と、山盛りの鞘付きの豆だった。白雪は大人しく椅子に腰を下ろし、豆の筋を取り始めた。パキッ、という軽快な音が厨に響く。

 

しばらくして、肥前が小皿に少しだけ汁を取り、白雪の前に差し出した。

「……ほら。……味見、しろ」

「えっ、いいの?」

「薬研が、あんたの舌で確認させろってうるせぇんだよ。……熱いから気をつけろ」

白雪は差し出された小皿を両手で受け取り、ふうふうと息を吹きかけてから、ゆっくりと口に含んだ。

 

「……美味しい。……少し、お醤油を足したのかしら。深みがあって、とっても落ち着く味」

白雪が顔を綻ばせると、肥前は「……ふん」と鼻を鳴らし、そっぽを向いて鍋に戻った。だが、その耳の端が僅かに赤い。

「……あんたが作る飯の味、思い出しながら入れただけだ。……変な味じゃねぇなら、それでいい」

 

隣でその様子を見ていた薬研が、ニヤリと笑って肥前の肩を叩く。

「合格点だな、肥前。さあ、仕上げちまおうぜ」

「……っ、叩くな。さっさとやるぞ」

 

照れ隠しに肩をすくめて薬研の手を振り払う肥前と、それを見てクスクスと笑う薬研。

白雪は再び豆の筋取りに手を動かしながら、この騒がしくて温かい光景の中に自分が戻ってこれたことを、静かに実感していた。

 

 

昼餉を済ませた後、薬研に「まだ病み上がりだ」と念を押され、白雪は再び自室で一眠りすることになった。

 

夕刻、西日が障子を赤く染める頃に目が覚めると、熱はすっかり引き、頭も驚くほど冴えていた。

(……あ。私、本当に……)

 

起き上がり、昨夜の記憶を反芻しては、白雪は顔が火照るのを感じた。

あんなに子供のように泣きじゃくって、あろうことか肥前くんを「キンちゃん」と呼んでしがみついてしまった。

 

顕現したばかりの彼を初めて見た時、その鋭い瞳の光が、かつて自分を見捨てた「彼」にあまりに似ていて、動揺したことを覚えている。けれど、昨夜の雨の中で、そして今朝の厨で、肥前くんが向けてくれた不器用な眼差しは、あの冷たい記憶とは決定的に違っていた。

 

(肥前くんは、あんなに優しいのに。……失礼なことをしてしまったわ)

もう二度と、彼の中に別の誰かの影を重ねたりはしない。そう自分に言い聞かせるように深く息を吐き、白雪は文机に向かった。

 

いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。今回の出陣で起きたイレギュラーな事態と、自身の霊力運用のミスについて、政府へ提出する正式な報告書を作成しなければならなかった。

 

「……蜂須賀さんの状況と、敵の編成……。それから、私の判断の遅れ……」

真面目な白雪らしく、自らの失敗を厳しく律する言葉が並んでいく。ペンを持つ手が、知らず知らずのうちに力んでしまう。

 

「……あ、あの……主さん」

 

控えめな声に顔を上げると、五虎退が障子の隙間から顔を覗かせていた。足元には、五匹の虎たちがわらわらとじゃれ合いながら付いてきている。

 

「五虎退くん。どうしたの?」

「あ、はい。薬研兄さんに、主さんが根を詰めすぎていないか見てくるように言われて……。あと、これ。虎くんたちが、主さんに『頑張って』って……」

五虎退が困ったように微笑むと、一匹の虎が白雪の膝の上に飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってきた。他の虎たちも、文机の上に乗ってペンを転がそうとしたり、白雪の袖を甘噛みしたりと大忙しだ。

 

「……ふふ、ありがとう。お仕事、邪魔されちゃってますね」

張り詰めていた白雪の肩の力が、ふっと抜けた。虎たちの温かさと、五虎退の優しい気遣いに、強張っていた表情が和らいでいく。

 

「五虎退くん。私、今回のことで怖くなったけれど……守らなきゃいけない皆が、こうしてそばにいてくれるんですものね。次は絶対に、同じ失敗はしないわ」

「はい! ぼ、僕たちも、あるじさまを全力でお守りしますから!」

五虎退の真っ直ぐな言葉と、足元で転げ回る虎たちの愛くるしい姿。

 

白雪は、先ほどまで書いていた自罰的な文章を少し修正し、前向きな対策を書き加えた。

報告書を書き終える頃には、すっかり心は落ち着いていた。

 

今度こそ、戦場では冷静に。そして、この本丸の日常を繋いでいくために。

 

白雪は、膝の上で眠り始めた虎を優しく撫でながら、窓の外に広がる穏やかな夕暮れを見つめていた。

 

五虎退と虎たちが去った後、白雪は最後の一枚を書き上げ、報告書の末尾に自らの名を記した。

「……よし」

 

ペンを置くと、指先に心地よい疲労感が残っていた。

自罰的な反省だけで終わらせず、次に繋げるための具体的な霊力配分の再考――それを書き記すことで、ようやく自分の「失敗」と正面から向き合えた気がした。

ふと視線を落とすと、膝の上に残っていた虎の毛が、夕闇の中で白く光っている。

 

(見捨てられた、なんて思っていたけれど……)

 

かつて、自分を置いて去っていったあの人の瞳は、ただ冷たく、自分を「星栞」という役割の一部としてしか見ていなかった。けれど肥前くんは、泥だらけになって、怒鳴るような声で、私の名前を呼んでくれた。

 

「……似て非なるもの、ね」

自分の見立て違いを恥じる気持ちはあるが、それ以上に、彼と別人であることを確信できたことが、白雪の心をひどく穏やかにしていた。

 

 

夜の帳が本丸を包み込む頃、白雪は書き上げた報告書を手に、書斎へと向かった。

静かな廊下を歩いていると、厨の方から火の始末を確認しに来たらしい人影が近づいてくる。

 

「……あ」

角を曲がったところで鉢合わせたのは、またしても肥前だった。

 

「……あんた、まだ起きてたのか。五虎退が、さっさと寝かせたって言ってたのに」

「報告書を、今書き終えたところなの。心配してくれてありがとう、肥前くん」

白雪が自然にその名を呼ぶと、肥前は一瞬視線を彷徨わせ、それから不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「……。政府の紙切れなんて、明日でいいだろ」

「ふふ、そうね。でも、早く終わらせておきたかったのです。……明日からは、また皆の主として、しっかり働かないといけないから」

冗談めかして言うと、肥前は立ち止まり、じろりと白雪を睨んだ。

「……無理に『お姉さん』にならなくてもいいっつったろ。あんたがあんたであれば、それでいいんだよ。……メシの味さえ変わらなきゃな」

ぶっきらぼうな、けれど彼なりの最大限の肯定。

 

白雪は少しだけ胸を張って、まっすぐに彼を見返した。

「ええ。もう戦場では迷いません。……自分の命も、皆さんの命も、ちゃんと守ってみせます。……肥前くんに、また怒られないように」

「……。ふん、せいぜい気をつけろ」

肥前は追い越すように歩き出し、背中越しに「……冷えるから、さっさと部屋に戻れ」と言い捨てた。

 

白雪はその背中を見送りながら、深く、清々しい息を吐いた。

心の奥にあった結び目は、もうほどけている。

 

明日からの日々は、きっと今までよりもずっと、血の通った温かいものになるはずだ。

白雪は軽やかな足取りで、報告書を抱えて夜の廊下を進んでいった。

 

 

 

彩りの時間と、賑やかな夜

夕食を終えた後の夜。薬研に「病み上がりなんだから即座に寝ろ」と言いつけられていたものの、今の白雪の心は、報告書を書き上げた達成感と五虎退たちからもらった癒やしで満たされていた。

 

そこへ、賑やかな足音と共に加州清光と乱藤四郎が、色とりどりの小道具を抱えて押しかけてきた。

「主さん、髪の毛貸して! とびきり可愛い編み込みにしてあげる!」

「主、俺が選んだこのネイルの色、絶対似合うから! ほら、手出して?」

白雪は、されるがままになりながら、くすぐったそうに笑みを浮かべた。乱の指先が髪を分け、加州が丁寧に筆を動かす。

 

「……ネイルなんて、したことありませんでした。本丸に来る前は、妹たちのお世話で精一杯で……」

「じゃあ、これからは俺たちの番だね。主を世界一可愛くしてあげる」

 

そんな微笑ましい光景を、障子の隙間から鯰尾と骨喰、そして秋田藤四郎がこっそりと覗いていた。

「ねえ、主さん、すっごく綺麗……!」

秋田が瞳を輝かせると、鯰尾がニヤリと悪戯っぽく笑う。

 

「へへっ、せっかくだし、もっと賑やかにしちゃおうぜ。ほら、骨喰も!」

「……あまり困らせるなよ」

そう言いながらも、骨喰は鯰尾に差し出された、驚くと音が鳴る仕掛けのおもちゃを手に取っていた。

鯰尾がタイミングを見計らって「主さん、お見舞いのおまけだよ!」と部屋に飛び込み、おもちゃを鳴らす。

 

「きゃっ! ……もう、鯰尾くんったら!」

白雪が驚いて笑い転げると、加州が「あー! 今ネイル塗ってる最中なんだから、動かさないでよ!」とぷりぷり怒ってみせる。そんな騒ぎに秋田も混ざり、部屋の中は一気に華やかな笑い声で満たされた。

 

厠に行くために廊下を通りかかった肥前は、その喧騒を聞いて、ふっと足を止めた。

いつも自分を後回しにして「お姉さん」として気を張っていた彼女が、今は年相応に、自分のために笑っている。

 

「…………。ふん」

肥前の口角が、ほんの僅かに上がった。その瞬間――。

 

「……おや? 肥前くん。今、君、笑ったのかい?」

背後からぬっと現れた南海太郎朝尊が、眼鏡の奥の瞳を光らせて覗き込んできた。

 

「……っ!! 先生! どっから見てやがった!!」

「いやあ、興味深いね。主くんの笑い声一つで、これほどまでに柔和な表情を見せるとは……」

「書くな! 斬るぞ!!」

 

肥前は顔を真っ赤にして逃げ出したが、その足取りはいつになく軽やかだった。

賑やかな笑い声が響く主の部屋と、それを追いかけるように廊下を駆ける足音。

星ノ本丸に、また一つ、穏やかで騒がしい「家族」の時間という、かけがえのない宝物が刻まれていく。彼女が守りたかった日常は、今、彼女自身を優しく包み込んでいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。