本丸縁絵巻   作:さつき@審神者

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【星】02

主の輝き、野良犬の赤面

本丸の広々とした縁側。

天気の良い午後の陽光を浴びながら、加州清光と乱藤四郎は、庭で洗濯物を干している白雪の後ろ姿を眺めていた。

 

白雪は、着物の袖を襷で上げ、しなやかな腕を伸ばしてシーツを広げている。そのたびに、艶やかな黒髪がさらりと肩から滑り落ち、陽の光を反射して銀色に光った。

 

「ねぇ、改めて思うけどさ。ボクらの主さんって、本当に綺麗だよね」

乱が頬杖をつき、うっとりと溜息をつく。

「だよねー。あのスタイル、俺から見ても完成されてるっていうか。何着せても似合うし、正直、そこら辺の芸能人よりずっと光って見えるよ」

清光が自分の爪を弄りながら、同意するように頷いた。

 

そこへ、廊下の角から薬研藤四郎と、その後に続く肥前忠広が通りかかった。二人の会話が耳に入ったのか、肥前が足を止め、ぶっきらぼうに言葉を差し挟んだ。

 

「……あぁ。そうだな」

「「…………えっ!?」」

 

加州と乱が、弾かれたように肥前を振り返った。

あの、何に対しても「うぜぇ」「興味ねぇ」で通してきた肥前忠広が、主の外見を褒める会話に自分から同意して割り込んできたのだ。これは本丸開闢以来の大事件であった。

 

「ひ、肥前くん!? 今、同意したよね? 主さんが綺麗だって認めたよね!?」

乱が身を乗り出して詰め寄る。肥前は、二人の尋常じゃない食いつきに一瞬怯んだが、眉間に皺を寄せたまま続けた。

 

「……なんだよ。主の……その、魂が、真っ直ぐで綺麗だってのは、見てりゃ分かんだろ。人斬りの刀の俺に対しても、偏見なく飯を食わせるような……そういう、根っこの部分が、よ……」

肥前は、自分なりに主の素晴らしさを熱弁したつもりだった。しかし、加州はニヤリと笑い、隣にいた薬研は眼鏡を指で押し上げて不敵に笑った。

 

「あー……うん。肥前、言いたいことは分かるよ。でもね?」

加州が庭で作業を続ける白雪を指差す。

「俺たちが今言ってたのは、もっとストレートな『外見』の話。見てよ、あの髪。指を通したら絶対気持ちいいくらいサラッサラじゃん。それに、抱きしめたら折れちゃいそうなくらい細いのに肉つきもほどよくあって…とにかく、主は『女の子』としてめちゃくちゃレベル高いんだよ!」

 

「お、……おんな……っ!?」

肥前の思考が、そこで真っ白にフリーズした。

「全くだ。うちの大将は鼻筋も通ってるし、肌のきめも細かい。身体のラインも、女として一番見栄えがするバランスだ。俺から見ても、文句なしの別嬪さんだよ」

薬研が追い打ちをかけるように、淡々と身体的特徴を肯定した。

 

「な、ななな……何を、馬鹿なことを……っ!」

肥前の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。

「俺は、ただ……飯を、作ってくれるから……っ。あんな、格好、……っ、あんなに……光って見えるのは、その……っ!」

しどろもどろになりながら、肥前は思わず庭の白雪を直視してしまった。

 

ちょうどその時、白雪が作業を終えてこちらを振り返り、パッと花が咲いたような笑顔で手を振った。

「肥前くん、薬研くん! おやつにお団子を作ったんですよ、一緒にいかがですか?」

 

「……っ!!」

肥前は、心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受け、返事もできずにその場に立ち尽くした。白雪の白い肌、風に舞う長い黒髪、そして自分に向けられた無防備な微笑み。

今まで魂というオブラートに包んで直視を避けてきた、一人の女性としての美しさが、濁流のように彼に押し寄せた。

「……あーあ、肥前。完全に茹でダコだな」

加州と乱がニヤニヤしながら見守る中、肥前は顔を真っ赤にしたまま、逃げるように反対側の廊下へと走り去っていった。

 

 

「逃げたな、肥前」

「逃げたねー」

加州と乱のからかい混じりの声を背中で聞きながら、肥前は自分の部屋に飛び込んで、乱暴に襖を閉めた。

ドクドクと、心臓の音が耳の奥でうるさい。

 

(……なんだ、あいつら。……『おんな』だの、……『身体のライン』だの……!)

 

加州たちの言葉が、呪文のように頭の中で反復される。

今まで、白雪のことは「主」であり「お世話焼きなお姉さん」であり、何より自分に温かい飯を食わせてくれる「綺麗な魂の持ち主」だと定義してきた。それで納得していたはずだった。

けれど、先ほど遠くから見た彼女の姿。襷掛けにして露わになった細い腕や、風に舞う髪。そして、自分を呼ぶときのあの、吸い込まれそうなほど純粋な笑顔。

 

(……うぜぇ。……なんで、急にあんなに……光って見えやがる……っ)

 

肥前は、熱を持った顔を両手で覆った。

今まで、ボロが出ると避けてきたのは、自分の人斬りとしての業だと思っていたが、今は別の意味で、自分の中の何かが決壊しそうな感覚に陥っていた。

 

「……肥前くん? 中にいらっしゃいますか?」

不意に、襖の向こうから白雪の声がした。

「ひっ、……っ!? 」

情けない悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえる。

「……なんだよ! 今、取り込み中だ!」

「まあ、そうだったんですか。……すみません。でも、せっかくお団子を作ったので……ここに置いておきますね」

白雪の足音が遠ざかっていく。しばらくして肥前が恐る恐る襖を開けると、そこには丁寧に懐紙が敷かれた、一皿の団子が置かれていた。

 

(……うぜぇ。……甘すぎて、……味が分かんねぇだろ……)

 

毒づきながらも、肥前はそれを一気に飲み込んだ。

 

 

その頃、庭では薬研が悠然と団子を頬張りながら、執務室へ向かう白雪に声をかけていた。

「大将。肥前には会えたか?」

「はい。でも、お忙しいみたいで……。薬研くん、肥前くん、たまに少し様子が変じゃありませんか? お顔が赤かったり、急に走り出したり……」

白雪が本気で心配そうに眉を下げると、薬研は口元の団子を飲み込み、不敵に笑った。

「ああ、あれか。……心配いらないぜ、大将。あいつは今、特定の刺激に対して『情報の整理』が追いついてねぇだけだ。清光が言った通り、あいつも『育ち盛り』だからな」

「育ち盛りですか……? そういえば、皆さんによくそう言われていますね。……栄養の

あるものを、もっとたくさん食べてもらわないといけませんね」

「ははは! そいつはいい。あいつにとって、大将の飯以上に効く薬はねぇだろうな。どんどん食わせてやってくれ」

 

白雪は「よし、明日はもっと滋養のつく献立にしましょう」と、決意を新たに厨へと向かっていった。

部屋の中で団子を完食した肥前は、空になった皿を見つめながら、一つだけ心に決めた。

 

(……明日から、……あいつが無理して笑ってねぇか、もっと近くで見張ってやる。……変な奴に、変な目で見られねぇようにな……)

 

それが、自分こそが今、変な目で彼女を意識しているのだという自覚がないままの、野良犬なりの歪な決意だった。

 

 

完璧な包丁捌きと、隅っこの野良犬

それまで星ノ本丸の厨は、主である白雪を囲む、賑やかな共同作業場だった。

加州清光が米を研ぎ、山姥切国広が黙々と皿を拭き、蜂須賀虎徹が食材を整える。不器用な肥前忠広もおひつを運び、白雪の「ありがとう」という言葉を糧に、全員で食卓を守ってきた。白雪は、その不完全で温かい調和の中心にいた。

 

しかし、その勢力図は、一振りの太刀の顕現によって一変した。

 

「僕は、燭台切光忠。……おや、君が僕の主かい? ――ふむ、やっぱり格好よく決めたいよね」

 

現れたのは、右目に眼帯を湛え、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした男だった。彼は顕現するなり、白雪の手を取って優雅に一礼すると、そのまま流れるような動作で厨の状況を把握した。かつては白雪が差配していたその場所に、彼は当然のように馴染み、エプロンを締めた。

それからというもの、厨の空気は、賑やかさから完成された美しさへと塗り替えられた。

 

「主、そんなに力を入れなくてもいい。包丁の重さで切るんだ。……そう、上手だね」

「光忠さん……。貴方がいると、本当に助かります」

これまで男士たちに教える立場だった白雪が、今は燭台切の隣で、一人の生徒のように導かれている。燭台切は、白雪の手にそっと自分の手を重ね、包丁の使い方を教える。

 

「君は十分頑張っているよ。だから、僕の前ではただの『女の子』でいていいんだ。……ね?」

耳元で囁かれる言葉と、背後から包み込まれるような距離の近さに、白雪は顔を真っ赤にして俯いた。これまで「お姉さん」として皆を支えてきた彼女が、あまりの「スマートな圧」に圧倒され、初めて「守られる側」としての顔を見せている。

 

「……あーあ。オカン属性を逆手に取って主を囲い込んでるよ、あの人」

廊下で加州清光が、自分の出番(主の隣で米を研ぐ特等席)が減ったことに唇を尖らせる。

「でもさ、肥前くんが厨の隅で、猛烈な殺気を飛ばしながら人参をガリガリ齧ってるのが面白すぎて、それどころじゃないよね」

安定が指差した先には、影のように厨の隅に蹲り、無言で生の根菜を齧っている肥前忠広の姿があった。

かつて白雪からおにぎりを受け取り、不器用ながらも片付けを手伝うことで得ていた「自分の居場所」が、燭台切の完璧な所作によって奪われ、追い詰められている。

 

「……っ、……飯……まだかよ……!!」

 

肥前は、完璧なエスコートで白雪をエプロン姿に変えた燭台切に、かける言葉すら見つからなかった。白雪が自分に向けていた「世話を焼くお姉さん」の顔ではなく、年相応に戸惑う「女の子」の顔を燭台切に見せていることへの焦燥が、彼を生の人参へと向かわせていた。

「やぁ肥前くん。今日は随分と野性味溢れるスタイルだね。……おや燭台切くん、彼は少しばかり糖分が足りていないようだよ」

南海太郎朝尊がのんびりと通りかかるが、肥前はそれに応じる余裕すらかった。

 

「……うっせぇ! 先生、どっから見てやがった……っ!」

「ふふ、肥前くん。もうすぐできますからね。今日は燭台切さんが、肥前くんの好きな肉料理も作ってくれたんですよ」

 

白雪が燭台切の隣から、ひょいと顔を出して微笑んだ。

白雪にとって、燭台切は教えを請い、自分を休ませてくれる完璧な料理番であり、肥前は自分が世話を焼き、たくさん食べさせたい大切な相手であることに変わりはない。

 

 

燭台切が来てからというもの、厨の景色は確かに一変した。しかし、白雪もただ守られているだけではなかった。彼女は代々続く家系に育ち、家事全般を完璧にこなしてきた大和撫子である。

「光忠さん、そのお魚なら、こちらの出汁でさっと煮含めるのが宜しいかと存じます。身がふっくらと仕上がりますから」

「おや……。なるほど、君の言う通りだ。この繊細な味付けは、僕だけでは辿り着けなかったかもしれないな」

 

白雪が差し出したのは、雑味を排した澄み切った一番出汁だった。彼女の無駄のない包丁捌きや、調味料を合わせる際の迷いのなさは、燭台切をして「格好いい」と言わしめるに十分なものだった。

二人が並んで作業をすると、そこには洗練された調和が生まれる。

 

「……ねえ、あれ。もう俺たちの入る隙、一ミリもなくない?」

「清光、今はそっとしておきなよ。主のあの楽しそうな顔、見たことないし」

廊下から覗き見る加州と安定は、白雪の生き生きとした表情に、少しの寂しさとそれ以上の安心感を覚えていた。これまでは彼女が一人で、あるいは彼らを引き連れて「頑張って」作っていた料理が、今は燭台切という対等な理解者を得て、さらなる高みへ昇華されている。

 

だが、そんな完璧な世界を、厨の隅から射抜くような視線で見つめる影があった。

「……っ、……ケッ」

肥前である。

彼は、白雪が燭台切と楽しげに「隠し味の相談」をしている光景が、どうにも癪に障って仕方がなかった。自分には理解できない「高尚な会話」が、自分と白雪の間に勝手に壁を作っているようで、猛烈に居心地が悪い。

 

「肥前くん、お待たせしました。まずは、光忠さんと一緒に作った出汁巻き卵です。温かいうちにどうぞ」

白雪が、焼き立ての卵焼きを小皿に乗せて運んでくる。

それは、白雪の丁寧な味付けと、燭台切の完璧な火加減が融合した、黄金色の逸品だった。

「…………。……ふん」

肥前は奪い取るように箸を動かし、それを口に放り込んだ。

 

(……っ、……美味すぎるだろ、……クソッ……!)

 

文句の一つでも言ってやりたかったが、あまりの旨さに喉が詰まる。白雪の優しい味の中に、燭台切が加えた余計なほど「整った」エッセンスが完璧に調和している。認めざるを得ないことが、余計に彼の心を波立たせた。

「どうですか、肥前さん? お口に合いますか?」

「…………。……普通だ」

顔を背けて答える肥前の耳が、真っ赤に染まっているのを白雪は見逃さなかった。

彼女は、そんな彼の不器用な反応が愛おしくて、ついクスリと笑ってしまう。

 

「良かった。光忠さん、肥前くんも『美味しい』って言ってくれていますよ」

「はは、そうだね。じゃあ、次は彼のために、もっと力が出る肉料理を仕上げようか。主、手伝ってくれるかい?」

「はい、喜んで!」

 

燭台切の「主、手伝ってくれるかい?」という、流れるようなエスコート。

白雪がそれに「はい!」と弾んだ声で応え、再び調理台へ戻っていく。

肥前はそれを見送りながら、また一つ、生の人参をガリりと噛み砕いた。

 

(……なんだよ、あの眼帯。……何から何まで鼻につきやがる……)

 

彼の一挙一動が馴れ馴れしくみえて、自分の知らない白雪の顔を次々と引き出していくあの男の「スマートさ」が、どうしようもなくムカついた。

これまで自分達に向けられていた主の目が、あの完璧すぎる太刀に奪われていく。その正体のわからない焦燥感が、肥前の胸の中でどす黒い塊となって渦巻いていた。

 

 

夕食の片付けが一段落し、主が執務室へ戻った後の厨。

燭台切光忠は、磨き上げた包丁を片付けながら、ふう、と小さく溜息をついた。その視線は、つい先ほどまで白雪の隣で、獲物を守る獣のように鋭い視線をこちらに飛ばしていた肥前忠広の、去りゆく背中を追っていた。

「……ねぇ、加州くん。安定くん。少し聞いてもいいかな」

厨の隅で自分の爪の手入れをしていた加州清光と、その隣で手伝っていた大和守安定が顔を上げた。

 

「んー? 何、燭台切。そんな神妙な顔して」

「いや……僕、もしかして少しお邪魔虫だったかな? あはは……。肥前くんのあの視線、流石に『格好よく』スルーし続けるのも限界があるっていうか」

燭台切が苦笑いしながら肩をすくめると、加州はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。

「あー……気づいちゃった? 大丈夫だよ。あいつ、自分がなんであんなにイラついてるのか、これっぽっちも分かってないから」

「自覚がないのかい? あんなに分かりやすく牙を剥いているのに」

燭台切の問いに、安定がクスクスと笑いながら加勢する。

 

「そうだよ。自分じゃ『主のお世話係』を全うしてるつもりなんじゃないかな。あんなに必死に周囲を威嚇してさ。ま、この本丸、秋田や平野みたいな純粋な子たち以外は、みんな面白がって見てるんだけどね」

「家族の輪に知らない奴が入ってくるのが気に入らないんでしょ」

「だろうね。主に懐いてる分、余計に」

「…なるほどね。教えてくれてありがとう、二人とも」

 

翌日。厨に現れた肥前は、相変わらず不機嫌そうに柱に寄りかかっていた。

しかし、そこへ燭台切が爽やかな笑顔で歩み寄る。

「やあ、肥前くん。ちょうど良かった。この魚、下ろすのを手伝ってくれないかな? 君のあの正確な包丁捌き、主も『流石は肥前くんだね』って褒めていたし、僕もぜひ近くで見たいと思ってたんだ」

「……あ? ……主が、そう言ったのか」

 

肥前の耳がピクリと動いた。燭台切は、白雪が以前こぼしていた称賛の言葉を、絶妙なタイミングで差し出したのである。

「そうだよ。それに、主の盛り付けを僕が手伝っている間、火の番を任せられるのは君しかいないと思ってね。頼めるかい?」

燭台切は、白雪の隣という特等席を一方的に奪うのではなく、彼女を支えるための「重要な役割」として肥前を輪の中に引き入れた。

「……ふん。……そこまで言うなら、やってやるよ。あんたの効率悪い動きじゃ、ボロが出るからな」

口では毒づきながらも、肥前は素直に包丁を握った。

 

白雪が厨に顔を出したとき、そこには昨日までの刺々しい空気ではなく、不思議な役割分担ができあがっていた。

「まあ! 肥前くんと燭台切さん、息がぴったりですね。とっても心強いです」

白雪が嬉そうに目を細めると、肥前は顔を背けながらも、いつもより少しだけ丁寧に人参を刻んだ。

 

燭台切の大人の余裕に満ちた立ち回りに、肥前は内心(……あいつ、癪に触るが……腕は確かだし、主のこともよく見てやがる)と、ほんの少しだけ、彼に対する評価を上げざるを得なかった。

そんな様子を遠くから眺めていた加州は、安定と肩を並べて笑い合っている。

 

「流石だね、燭台切さん。うまく誘導しちゃったね」

「ほんとほんと。肥前ってさ、主のことになると途端に余裕なくなるんだよね」

「家族の縄張り意識ってやつ?」

「そんな感じ。主の周りに知らない人が増えるたびに警戒してるし。あいつ、自分じゃ『守ってる』つもりなんだろうけどさ」

「ま、その無自覚な反応こそが、いい観察対象だけどな」

薬研がどこからか現れ、面白そうに眼鏡の奥を光らせた。

「主も相変わらずだし、この本丸、見ていて飽きねぇぜ」

 

本丸の厨に、新しい、そして少しだけ穏やかな絆が芽生え始めていた。

野良犬の牙はまだ隠され切っていないが、完璧な料理番という良き相棒を得て、物語はまた一歩、賑やかな家族の形を深めていくのであった。

 

 

背丈の壁と、お姉さんの「可愛い」

本丸の「大家族化」は、ついに天下五剣や古備前を巻き込む事態となっていた。

「……弟たちが、いつもお世話になっております。主殿のような慈悲深い方に巡り会えて、皆、幸せものですな」

粟田口の長兄、一期一振が、白雪の手を優雅に取り、心からの感謝を捧げる。彼が白雪を見下ろして微笑む姿は、一枚の絵画のような説得力があった。

 

「はっはっは、よきかなよきかな。主は働き者よな。少し茶でも飲んで休むがよい」

三日月宗近は、縁側にどっかと座り、のんびりと茶を啜っている。その横で、大包平が巨躯を揺らしながら白雪に詰め寄っていた。

 

「おい、主! 今日の雑巾がけ競争、俺の勝ちだ! 俺の方が効率よく、かつ力強く床を磨き上げたぞ! どうだ、俺を褒めろ!」

「はいはい、大包平さん。本当にお上手でした。助かります」

白雪が小柄な体で彼らを見上げ、「まあ、皆さん立派で頼もしいです」と目を細める。その光景は、まさに「お姉さんと、頼りになる大人な弟(?)たち」そのものであった。

そんな中、肥前忠広は、一歩引いたところで面白くなさそうに腕を組んでいた。

 

(……チッ。なんなんだ、新参刀衆。どいつもこいつも無駄にデカい。……うぜぇ)

 

肥前は、この本丸の平均身長が跳ね上がったことで、相対的に小柄な刀ポジションに追いやられつつあった。

 

「おや、そう拗ねるな。茶でも飲んで落ち着くといい」

新参の鶯丸が、大包平を眺めながら悠然と肥前の隣に立つ。その落ち着き払った態度は、肥前の焦燥を余計に際立たせた。そこへ、白雪が「あ、肥前くん」と駆け寄ってくる。

 

「肥前くん、はい、これ。……一期さんたちが持ってきてくれたお菓子です。……肥前くん、育ち盛りですものね? いっぱい食べてくださいね」

白雪が、自分の顔の高さに近い肥前の頭を、まるで五虎退や秋田を撫でるような手つきで、ぽんぽんと撫でた。

「……っ!! 触んなっつったろ!!」

「あら。……ごめんなさい、ついつい。……だって肥前くん、一生懸命で、とっても可愛いんですもの」

 

(……可愛い、だと……!?)

 

自分は彼女を対等に守りたいと思っているのに、彼女から見れば、自分は相変わらず「手のかかる可愛い弟」の一振りに過ぎない。

「……おやおや、肥前くん。顔が真っ赤だ。主くんの手に、何か特殊な加熱装置でも付いていたかな?」

南海先生が、今日も今日とて眼鏡を光らせて現れる。

 

「……先生、マジで黙れ。……俺は、ガキじゃねぇ……」

「……そうだね。だが、主くんからすれば、君のその『うぜぇ』という反抗期も含めて、愛らしい家族の一員なのだろう。……格好つけたい盛りなのは分かるが、あの三日月や大包平、それに鶯丸くんたちの横に並ぶと、君は実に……コンパクトだ」

「……殺すぞ!!」

肥前が吠えるが、白雪は「あらあら、元気ですねぇ」と、大包平をなだめるのと同じトーンでクスクス笑っていた。

「ねぇ、肥前くん。今日の夕飯、肥前くんの好きな生姜焼きにしますからね。……元気出してください」

「…………。……二倍。……二倍作れ、ボロが出る前に」

 

 

最近の白雪にとって、肥前という存在は、第一印象のボロボロの危うい刃という印象から、手のかかる、けれどひどく愛らしい弟のような存在へと移り変わっていた。

「肥前くん、またそんなところで人参を……。ちゃんとお皿に出しますから、座っていなさい」

 

 

近頃、本丸に背の高い刀剣が増えたせいか、厨はいつも満員御礼だ。居場所をなくしたのか、肥前はよく厨の隅で、生の根菜をガリガリと齧っている。その旺盛な食欲を見ていると、白雪は「ああ、この子は今が伸び盛りなのね」と、微笑ましい気持ちになるのであった。

加州や肥前のような、自分と身長の近い馴染みの刀がそばにいると、白雪はどこかホッとする。けれど、その中でも肥前の存在は少し特殊だった。

口は悪いが、驚くほど面倒見が良い。先日も、木の上に逃げてしまった五虎退の虎を、文句を言いながらもひょいと登って助けてあげていた。

 

(……なんだか、薬研さんや厚さんのお兄さんのよう。……いつか、一期さんのような、立派なお兄さまになるのかしら)

 

「肥前くん、ちょっとこちらへ。……また着こなしが乱れていますよ。人斬りだなんだと言っても、身だしなみは大切です」

「……あ? んなもん、意味ねぇっつったろ。……っ、触んな!」

白雪が彼の襟元や帯を整えようと手を伸ばすと、肥前はあからさまに嫌そうな顔をして身を強張らせた。

その瞬間、肥前の胸の中で「ドクン!」と、耳元まで響くような大きな音が鳴った。

 

(……あ? なんだ、今の……。……っ、また鳴ってやがる。……壊れたか、俺)

 

白雪の指先が首筋に微かに触れるたび、心臓が不規則なリズムを刻み始める。肥前本人は、これが「女性と意識している」せいだとは夢にも思わず、ただ自分の体がおかしくなったのではないかと、内心でパニックを起こしていた。

「あら。……肥前くん、顔が真っ赤ですよ? それに、なんだか凄く苦しそう……」

白雪が心配そうに顔を覗き込み、その額にそっと手を当てようとする。

 

「ひっ……!! くるなっ、近寄んなっ……!!」

「まあ! そんなに拒絶しなくても。……ふふ、もしかして、少し恥ずかしいのかしら。照れてしまうなんて、やっぱり可愛いところがあるのね」

白雪にとって、その赤ら顔と動揺は「思春期の少年の照れ」にしか見えていない。

 

「はい、綺麗になりました。……ふふ、やっぱり整えると男前ですね、肥前くん」

「…………。……うぜぇ。……飯、二倍にしろ。……さっさと作れ」

顔を真っ赤にして、バクバクと鳴り止まない胸を抱えたまま、肥前は逃げるようにその場を去った。

 

肥前の胸の中で渦巻く、未知の不整脈。

それを、弟の(ような刀の)甘えや成長期だと信じて疑わない白雪。

二人の間に流れる空気は、春の陽だまりのように温かく、そして当事者の一人だけが原因不明の動悸に悶え苦しむという、焦れったい日常を刻んでいくのであった。

 

戦場に散る火花と、守り刀の背中

 

戦地、江戸の市街地。

雨上がりの湿った空気が漂う中、星ノ本丸の第一部隊は、淡々と時間遡行軍の掃討にあたっていた。

白雪は部隊の最後尾から、冷静に戦況を見守る。

「左翼に敵の増援。薬研くん、清光くん、お願いします。……肥前くん、正面を」

「了解だ、大将」

「合点承知。可愛く、かつ苛烈にいくよ!」

 

白雪の指揮に応じ、刀剣男士たちが散る。その中で、白雪の視線は自然と先頭を駆ける肥前忠広へと向いた。

本丸でのあの、顔を真っ赤にして逃げ出すような、可愛い弟の面影は、そこには微塵もなかった。

「……邪魔だ。そこをどけ」

 

低い、地を這うような声。

肥前は愛刀を抜き放つと、迷いのない踏み込みで敵の懐へと飛び込む。無駄のない所作、敵の急所を的確に貫く一撃。その瞳は冷たく澄み渡り、日常に起きる不整脈など嘘のように、彼の鼓動は静かに、そして深く一定のリズムを刻んでいた。

少し離れた場所では、南海太郎朝尊が悠然と刀を振るっていた。

 

「やぁ、あまり無闇に動かないでくれたまえ。罠の配置が狂ってしまうからね。……はは、今の斬撃は少しばかり物理法則に反していたかな?」

理知的な言葉通り、その剣筋は合理的で容赦がない。彼は自身の知識と罠を駆使して敵を翻弄し、肥前が仕留めきれなかった残党を確実に処理していく。

 

「肥前くん、少し左に寄りすぎだよ。君の癖は修正したはずだがね」

「うっせぇ! 先生は黙って罠でも張ってやがれ!」

戦いの中でも交わされる言葉は、本丸でのそれと変わらない。だが、その背中合わせの信頼感は本物であった。

白雪は、肥前の戦いぶりを静かに見つめる。

 

(……すごい。あんなに、迷いがない)

 

日常では、身なりを整える手さえ拒絶する彼が、戦いの中では誰よりも「完璧な一振り」として機能している。主である白雪に指一本触れさせないという、守り刀としての矜持。そこには危うさなど微塵もなく、鉄壁の安心感があった。

 

戦闘が終わり、静寂が戻った市街地で、肥前はふう、と長く息を吐き出した。戦いの昂ぶりが冷めていくにつれ、彼の意識は再び主へ向かっていく。

「……おい、怪我はねぇか。……ボロが出た奴もいねぇな」

肥前が振り返り、白雪の顔を確認する。白雪は、戦場を支配していた人斬り刀の鋭さが消え、いつもの不機嫌そうな肥前くんに戻った姿を見て、微笑んだ。

 

「はい。完璧な勝利でしたね。……肥前くん、本当に頼もしいです。貴方が前にいてくれると、安心できます」

「…………」

白雪の曇りのない称賛。

戦場ではあんなに静かだった肥前の心臓が、主の言葉一つで再び猛烈な不整脈を叩き出し始めた。

 

「……う、……うぜぇっ!! んなの、当たり前だろ! ……おい、先生! さっさと帰るぞ、腹が減った!」

顔を真っ赤に染め直し、彼は再び逃げるように撤退の列へと加わった。

「やれやれ。戦場での集中力は実に素晴らしいのに、日常の刺激に対する耐性がこれではね。主くん、彼には帰ったらまた特大の団子でも与えてやってくれたまえ」

 

南海先生が肩をすくめ、赤くなった愛弟子の背中を面白そうに眺める。

白雪は「はい、腕によりをかけますね」と頷き、夕暮れの本丸への道を歩き出す。

自分を守る背中の逞しさを再確認し、彼女はただ、彼を始め、本丸の仲間達への信頼を、より一層深めるのであった。

 

 

初期刀の特権と、解けない魔法

「……はぁ。疲れたー……。ね、主、ちょっとだけ貸して」

白雪が書き物をしていた文机の横。加州清光が、当然のような顔をして彼女の膝に頭を乗せた。いわゆる膝枕の状態だが、白雪は驚くこともなく、「お疲れ様、清光くん」と、彼の柔らかな髪を優しく撫でた。

 

「今日も皆の面倒、ありがとう。清光くんがいてくれるから、私は頑張れるのよ」

「……口先だけなら、なんとでも言えるよね。だったら、もうちょっと俺のことも見ててよ。最近、新参が増えて主の視線があちこち行っちゃうからさ」

加州は白雪の掌に自分の手を重ね、指先を絡めた。彼は知っている。白雪が主として振る舞う時、背負っているものの重さを。だからこそ、二人きりの時はあえて甘えることで、彼女の緊張を解いているのである。

 

「……清光くん。ありがとう。あなたが最初に、私を『女の子』として扱ってくれたから。私、自分が誰なのか、忘れずにいられる気がするの」

白雪の瞳に、深い信頼が宿る。

「あー! 清光ばっかりずるい! ボクも混ぜてよ!」

「乱、いま俺と主の…まぁ、いっか。主、爪塗ってあげるね」

そこへ、ふすまを勢いよく開けて乱藤四郎が飛び込んできた。二振りの刀たちに囲まれ、白雪の表情から完璧な主の硬さが消え、年相応の柔らかな少女の顔が戻っていく。清光が丁寧に白雪の爪に紅を差していく時間は、彼女にとって何よりの救いであった。

 

 

翌朝。

 

(……大包平のデカさ、思い出すだけでうぜぇ……。俺も、飯もっと食えばあんな風に……)

 

「おや、肥前くん。おはよう。朝から随分と気合が入っているね」

「……あ? 先生。……別に、普通だ」

そこへ、廊下の向こうから白雪と、その隣を鼻歌混じりに歩く加州が現れた。白雪は、どこか昨夜の余韻があるのか、いつもより少しだけ表情が柔らかく見える。

「あ、肥前さん、南海先生。おはようございます」

「……おはよ。……主、なんか、今日……」

肥前は、白雪の指先を見て言葉を失った。爪に、昨日とは違う、淡くて綺麗な紅が差されていたからだ。

 

「あ、これ? 昨日の夜、清光くんが塗ってくれたの。似合うかしら?」

「……似合ってるよ。主は、何してても可愛いんだから」

加州が、肥前に見せつけるように白雪の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。初期刀としての余裕。夜の時間を共有した者だけが持つ、親密な空気。加州は、肥前がその指先を凝視しているのを見て全てを察したが、あえて教えずに放置することに決めた。

 

「……っ、…………ふん。……派手すぎて、ボロが出るんじゃねぇのか」

肥前は、心臓が焼けるようなムカつきに襲われつつ、自分にはまだ届かない「大人の距離感」に、精一杯の悪態をつくのがやっとであった。

「おやおや。肥前くん、また顔が赤いよ。心拍数も上がっているようだ。主くん、彼には少し、冷たい水でもかけてやったほうがいいかもしれないね」

南海先生が、純粋な観察眼でそう指摘した。

「先生!! 黙れっつってんだろ!!」

 

背後で、三日月が「はっはっは、若いのは元気でいい」と笑い、一期一振が「肥前殿、朝食におかわりはいかがかな?」と爽やかに声をかける。

背丈の差。立場の差。そして、初期刀という壁。

肥前は、そのまま立ち去ろうとした白雪の背中を、無意識に追ってしまった。彼女の指先に残る「加州の痕跡」が、どうしようもなく癪に障る。だが、それをどう言葉にすればいいのか、彼には分からない。

 

「……おい、主!」

「はい、肥前くん?」

振り返った白雪は、いつものように慈愛に満ちた笑顔だった。

「……っ、…………飯だ。飯食わせろ! 二倍だ、二倍!!」

結局、胸の奥で暴れる熱の正体がわからず、それをすべて馴染みのある「飢え」に変換して吐き出すことしか、今の肥前にはできなかった。

加州のように、自分の可愛さを武器にして「甘える」術など、今の彼には知る由もない。

 

「……っ、……二倍だぞ! ボロが出る前に、さっさと作らせろ!!」

自分の動悸をごまかすように、より一層大きな声で、食い意地を張ってみせる。 そんな肥前の叫びが、今日も星ノ本丸に響き渡るのであった。

 

 

紅の結界と、静かなる「予兆」

廊下で加州の勝ち誇ったような笑みと、主の爪の「紅」を見せつけられた肥前は、心臓が焼けるような嫉妬を抱えたまま、一人その場に取り残されていた。

 

(……チッ、どいつもこいつも、いちいち鼻につきやがる……!)

 

苛立ちに任せて踵を返したものの、どうしても頭を離れないのは、先ほどの白雪の様子だった。

加州に肩を抱き寄せられて笑ってはいたが、その眉の端が、ほんの一瞬だけ痛みに耐えるように歪んだのを、肥前は見逃していなかった。大人組が見下ろす視点よりもずっと近く、彼女の変化を捉えられる肥前の視点だからこそ、気づけた違和感である。

 

(……おい、なんだ。あいつ……笑ってたけど、顔色悪かったんじゃねぇのか)

 

肥前は自分のイライラを棚に上げ、吸い寄せられるように白雪の向かった厨へと足を進めていた。厨の入り口で足を止めると、中では白雪が一人、重い大鍋を火にかけようとしていた。けれど、その手元がおぼつかず、指先が微かに震えている。

「……あんた、何してんだ」

不意に背後から声をかけられ、白雪はびくりと肩を揺らした。鼻のいい肥前に、血の匂いで気づかれるのを恐れ、彼女は慌てて距離を取ろうとした。

 

「あ、肥前くん……。……ごめんなさい、ちょっとぼーっとしてしまって。今日は、あまり近くに寄らない方がいいかも……」

「……っ、なんでだよ!」

避けられたことに、一度はイライラが爆発しそうになる。けれどその瞬間、肥前の鋭い嗅覚が、彼女から漂う微かな鉄の香りと、沈んだ熱のような匂いを捉えた。

 

(……なんだ。……俺が、一番に気づいたのか)

 

加州たちが優しく寄り添っていた本当の理由。大人組が「主は今日も美しい」と遠くから眺めている間に、自分だけが、彼女の生身の苦痛と、隠したい人間の綻びに触れている。その事実は、肥前の胸を不思議な優越感で満たした。

「……寄るなっつって、寄らない奴がいるかよ。……ボロが出るどころじゃねぇだろ、あんた」

肥前は白雪の制止も聞かずにぐいと距離を詰め、その手から無理やり鍋を奪い取った。

 

「座ってろ。……飯は、俺が作る。二倍……いや、三倍作ってやるから」

「肥前くん……。……ありがとう。本当に、助かります」

白雪がほっとしたように笑い、ふと、自分の指先に目を落とした。加州が昨夜、心を込めて塗ってくれたあの紅を、愛おしそうに眺めている。

 

「……っ」

その仕草一つで、肥前の優越感はまたしても悔しさに塗り替えられた。加州のように彼女を飾り、あんな風に満足げな顔をさせることは、今の自分にはできない。

「……俺は、……どうしちまったんだよ……!!」

キャベツを叩き切るような勢いで刻みながら、肥前は自覚なき感情の熱に浮かされ、一人もがき続けるのであった。

 

肥前が凄まじい勢いでキャベツを刻み始めたその時、厨の入り口からひょっこりと乱藤四郎が顔を出した。

「あはは、肥前くん、すごい気合だね。じゃあ、そこは任せちゃっていい?」

乱は軽やかな足取りで白雪に近づくと、彼女の耳元で小さく囁いた。

 

「よかったね、主さん! 肥前くんに代わってもらったし、今日はゆっくりしてるといいよ」

「……ええ。確かに、今月は少し重いみたい。お言葉に甘えて、そうさせてもらおうかしら」

白雪が力なく微笑むと、乱は「うんうん、それがいい!」と大きく頷いた。

「じゃあ、主さんはお部屋に引きこもってて。清光も、秋田たちもみんな主さんの部屋に集合してるから」

「ふふ、心強いわ。……肥前くん、あとはお願いしますね」

 

白雪は最後に一度だけ肥前の背中に声をかけ、乱に付き添われるようにして厨を後にした。

「……おう。……さっさと寝てろ」

肥前は振り返ることなく、ぶっきらぼうに言葉を投げかけた。

ふすまが閉まり、静かになった厨。肥前は包丁を置くと大きく息を吐き出した。

加州や短刀たちが彼女を囲み、賑やかに休ませている光景が容易に想像できた。そこには、自分には立ち入ることのできない、柔らかで温かな結界がある。

「……俺は、外で飯作ってるだけかよ。……番犬じゃねぇんだぞ」

 

不整脈じみた鼓動は、まだ収まらない。それどころか、彼女が去った後の厨に残る残り香が、余計に彼の脳をかき乱した。

「……何が『ガキでいい』だ。……俺の方が、よっぽどガキじゃねぇか……」

肥前は空になったボウルを見つめながら、自虐的に呟いた。

加州のように彼女を飾り立てることもできず、短刀たちのように無邪気に甘えることもできない。

 

「……二倍……いや、やっぱり三倍だ。……あんたが起きたとき、全部食わせてやる」

肥前は再び包丁を握り直した。今の自分にできるのは、彼女の空腹を満たし、その身体を内側から温めることだけだ。

 

 

肥前は、自分が何に対してこれほど憤っているのか、その正体をまだ掴みきれずにいた。

 

(……俺は、ただの飯炊き係かよ)

 

そう毒づきながらも、肥前の手は止まらない。鉄分を意識し、レバーやほうれん草を引っ張り出し、白雪が食べやすいように細かく、丁寧に、手際よく調理を進めていく。

 

一方、主の部屋では、布団の中で少し顔色の戻った白雪が、愛おしそうに目を細めていた。

「ふふ、そうね……。肥前くん、口は悪いけれど、本当に優しいから」

彼女にとって、部屋で甘えさせてくれる加州たちも、外で必死に自分のために腕を振るってくれている肥前も、等しく大切な家族であった。

 

数刻後。

肥前は、お盆に乗り切らないほどの料理を抱えて、主の部屋の前に立った。

「…………主。生姜焼き、持ってきたぞ。あと、……その、なんだ。身体にいいもん、詰め込んだ」

「あ、肥前くん! 入って入って!」

乱の明るい声に、肥前は意を決して足を踏み入れた。そこには布団に横たわる白雪を囲んで、加州や秋田たちがくつろぐ、穏やかな空間が広がっていた。

 

白雪の指先に、また昨夜と同じ淡い紅が差されているのが目に入る。加州と目が合うと、加州はわざとらしく片目を瞑って見せた。

「……ふん。あんたが食べなきゃ、誰が食うんだ。……ほら、さっさと食え」

肥前はお盆を置いた。白雪が料理を一口運ぶと、ぱぁっと顔を輝かせた。

「美味しい……! 肥前くん、お味も優しくて、なんだか力が湧いてくるようですわ」

「……。……二倍……、食えっつっただろ」

 

白雪に褒められた瞬間、肥前の胸を支配していたイライラは、霧が晴れるように消えていった。

自分の指先が紅に染まることはなくても、自分の作った飯が彼女の血となり、肉となり、その頬に赤みを戻していく。それが人斬り刀である自分に許された最高の愛し方なのだと、彼は無意識のうちに理解し始めていた。

 

「……あー、もう。……やっぱり、あんたの隣は……。……っ、なんでもねぇ!!」

再び顔を赤くして、肥前は逃げるように部屋を飛び出した。

 

廊下の角で、南海先生が眼鏡を光らせて待っていた。

「やぁ、肥前くん。主くんの顔色は、君の料理で何パーセント回復したかな? 人間のバイタルサインというものは、食事一つで劇的に変わるから面白いね」

「…うっぜぇ。先生、どっから見てやがった」

自分の感情の正体に気づく日は、まだ、もう少しだけ先のようであった。

 

 

月下の体温と、満たされない渇き

深夜、不意に目が覚めた白雪は、少し落ち着いた身体を動かそうと部屋を出た。月の光が青白く照らす廊下。ひんやりとした夜の空気が肌を刺した、その瞬間である。

「……何してんだ、あんたは」

闇の中から不機嫌そうな声がして、白雪は小さく肩を揺らした。そこには、壁に背を預けて腕を組んだ肥前が立っていた。まるで、彼女がいつ出てきてもいいように見張っていたかのようなタイミングだった。

「肥前くん……。少し、お手洗いに」

「……廊下は冷えるだろ。これでも被ってろ」

 

肥前は言い捨てるなり、自分が羽織っていた上着を脱ぎ、白雪の肩に乱暴に掛けた。まだ彼の体温が残る厚手の生地が、白雪の身体を包み込む。

「……ありがとうございます。ふふ、肥前くんは本当に、口は悪いけれど優しいですね」

白雪が上着の襟元をぎゅっと握り、ふわりと笑った。昼間の料理、そして今の気遣い。鼻のいい彼が自分の「綻び」をいち早く察し、支えてくれていたことを、白雪はしっかりと受け止めていた。

 

「……肥前くん、もしかして、私のこと……分かっていてくれたのでしょう?」

「…………っ、……ボロが出るっつったろ。あんたが倒れたら、飯が食えなくなるのは俺たちだ」

顔を背けて毒づく肥前。けれど、その耳たぶが熱を持っているのを、月光は隠してくれなかった。

白雪は愛おしさが堪えきれなくなり、自由になった手を伸ばして、彼の頭をそっと撫でた。

 

「頼りにしていますよ。……大好きです、肥前くん」

それは、あの日雨の中で交わした約束を深めるような、純粋な信頼の証だった。けれど、白雪の掌が髪に触れた瞬間、肥前の胸の中では、昼間よりもずっと激しく、痛いくらいの「不整脈」が暴れだした。

 

(……あぁ、クソ。……まただ)

 

白雪の手は温かく、その言葉は甘い。……それなのに、どうしてこれほどまでに心がひりつくのか。「お姉さん」として自分を慈しみ、子供のように頭を撫でる彼女の手。この掌が、加州に向けるような「女の子」としての甘えに変わってほしいと、心のどこかで叫んでいる自分がいることに、肥前はまだ気づいていなかった。

「……もういい、さっさと寝ろ。……明日の朝飯、二倍……いや、……食えるだけ作ってやるから」

「ふふ、はい。楽しみにしていますね。おやすみなさい」

 

白雪が満足そうに部屋へ戻っていく後ろ姿を、肥前はいつまでも動けないまま見つめていた。撫でられた髪に残る彼女の体温。確かな信頼という絆を手に入れたはずなのに、肥前の空腹は、どんなに飯を食っても満たされないまま、静かな夜に沈んでいくのであった。

 

 

雅な師弟と、白雪の驚き

本丸の活気が増すにつれ、白雪の審神者としての仕事も多岐にわたるようになっていった。そんな中、新たに顕現した二振りの存在が、彼女の日常に鮮やかな変化をもたらす。

「主、その大根の切り方は少し、雅さに欠けるね」

歌仙兼定が白雪の隣で包丁を握る。彼は、白雪が忙しなさに追われて自分自身を疎かにしがちなことを敏感に察し、家事を通じて彼女に「丁寧な時間」を教えようとしていた。

「ふふ、歌仙さんと一緒にいると、ただの炊事も高尚な趣味のように思えてきます」

「そうだろう? これからは僕が、君の『雅』の師となってあげよう」

 

そんな二人の穏やかな空気を、廊下の影から忌々しそうに睨む視線があった。

 

(……チッ、またデカいの。……なんだあの『雅』ってのは……うぜぇ)

 

肥前は、自分の居場所だったはずの厨に、自分とは正反対の「優雅な男」が居座っているのが面白くない。人参を齧りながら、不機嫌を募らせていた。

そこへ、廊下を歩く白雪の前に天井から真っ白な影が降ってきた。

「わっ!!」

「はっはっは! どうだ主、驚いたか?」

鶴丸国永である。彼は驚きで目を丸くする白雪の顔を覗き込み、楽しそうに笑う。

 

「鶴丸さん……! もう、心臓が止まるかと思いました」

「主はいつも背負い込みすぎだ。たまにはこうして、心臓を跳ねさせておかないとな」

鶴丸は、白雪の審神者の仮面を、悪戯というナイフで鮮やかに剥がしにかかる。年相応の動揺や戸惑った笑顔を引き出すのが、彼なりの親愛の情であった。

「……あの白いのも、……いちいち、主を連れ回しやがって……!」

 

家事の師匠として隣に立つ歌仙。驚きで彼女を連れ出す鶴丸。肥前は、さらに現れた刀たちの存在に、胸の不整脈がさらに悪化するのを感じていた。

言葉にならない苛立ちを抱え、肥前は今日もまた、白雪から漂う「雅な香」と「鶴丸がつけた砂埃の匂い」に、誰よりも早く、そして誰よりも悔しそうに気づいてしまうのであった。

 

 

ある日の夕刻。厨では、歌仙の指導のもと、白雪が季節の和菓子作りに励んでいた。

「主、生地を丸める時は、愛でるように……そう、花を慈しむようにね」

歌仙は白雪の背後に立ち、その手元を見守る。その空気はどこか高潔で、泥にまみれて生きてきた肥前には立ち入ることのできない聖域に見えた。

そこへ、鶴丸国永が迷い込んできた。

「おや、甘い匂いがするな。主、一つ味見をさせてくれないか?」

「鶴丸さん、まだですよ。……おっと!」

 

鶴丸は、白雪の頬についていた粉を指先でそっと拭った。驚いて肩を跳ねさせた白雪を見て、鶴丸は満足げに目を細める。

「はっはっは、いい反応だ。主、君は本当に、驚かせがいがある」

白雪を、雅の師匠として導く歌仙、そして白雪の心を揺さぶる鶴丸。その光景を視界の端で捉えながら、肥前は無意識に奥歯を噛み締めた。

 

(……なんで。……なんで、俺だけが……。……クソ、……胸が、苦しすぎる……)

 

自分は彼女の体調に気づき、腹を膨らませ、泥臭い場所で彼女を守ることしかできない。白雪が「よしよし」と頭を撫でてくれる時の手は、あくまで弟のような存在に向ける慈愛だ。けれど今、彼女が歌仙や鶴丸に向ける目は、尊敬や戸惑いといった、自分には向けられない別の重みを持った視線だった。

「……あ、肥前くん。そのジャガイモ、次は私が……」

「……触んな!! 自分でやるっつってんだろ!」

白雪が差し出した手を、肥前は弾くように拒絶した。驚いた白雪が悲しげに瞳を揺らす。その瞬間、肥前は自分の不甲斐なさと感情の乱れに、叫び出したくなった。

「……っ。……飯だ。飯作ってやるから、……あんたは、あっちでその『雅』なやつと遊んでろ!」

 

肥前は逃げるように、大量の野菜を抱えて勝手口へと飛び出した。

彼の視線は誰よりも早く彼女の影を捉えることができる。けれど、その影に潜む女としての心に触れる術を、今の彼はまだ持ち合わせていなかった。

「俺は……。……俺は、何がしたいんだよ……」

夕暮れの本丸に、肥前の荒い呼吸と、収まりきらない不整脈の鼓動だけが響いていた。その背中に、白雪が「……肥前くん?」と、戸惑いながらも心配そうに声をかけた。

 

 

最近、新参の刀たちの応対や指導に追われ、白雪はふとした瞬間に胸がちくりと痛むのを感じていた。

 

(……肥前くんのこと、最近あまり構ってあげられていないわ)

 

いつも厨の隅で人参を齧りながら、不機嫌そうに、けれど確実に自分のことを見守ってくれていた背中。白雪は意を決して、彼らの自室へと足を運んだ。

「失礼します、肥前くん、南海先生」

「おや、主くん。珍しいね、こんなところまで足を運んでくれるなんて」

南海先生が眼鏡を光らせて出迎えた。肥前はといえば、部屋の隅で刀の手入れをしていたが、白雪の姿を見るなり肩をびくりと揺らし、顔を背けた。

 

「……あ? なんだよ、あんた。……暇なのか」

「ふふ、ごめんなさいね。少し、お顔が見たくなって」

白雪が畳に座ろうとすると、南海先生が慌てて「おっと、そこは駄目だよ」と制した。

「今、ちょうど新型の捕縛罠の実験中でね。そこを踏むと天井からタライが落ちてくるか、あるいは私の特製のお茶が噴射される手はずになっているんだ」

「……えっ」

「こっちもだ。……そこは、踏むと床板が跳ねて脛を打つ。……あんた、危ねぇから動き回んな」

 

肥前がぶっきらぼうに白雪の腕を掴み、自分のすぐ隣へと引き寄せた。南海先生の部屋は、もはや日常生活を送る場所ではなく実験場と化していたのである。

「……これじゃ、ゆっくりお話もできませんね。肥前くん、私の部屋に来てくれませんか?」

「……っ!! 部屋……、あんたの部屋に、か……?」

肥前はあまりの急展開に喉を鳴らした。加州や短刀たちがいつも我が物顔で居座っている、あの聖域。

 

「ええ。そこで、何か美味しいものでも食べながらお話ししましょう。……肥前くん、何を食べたら喜んでくれるかしら」

白雪は彼をどうもてなそうかと楽しそうに考え始めた。肥前は、何が喜ぶかと真剣に考えてくれる彼女の横顔を、至近距離で見つめる。

 

(……飯なんて、なんだっていい。……あんたが俺のために作ってんなら、全部食う……)

 

「……。……二倍だ。二倍作れ、ボロが出る前に。……あと、……人参も、入れろ」

「ふふ、分かりました。特製の人参料理も用意しますね。南海先生も、後でお呼びしてもよろしいですか?」

「私はこの罠の調整があるからね。肥前くん、主くんをしっかりエスコートしてあげなさい」

南海先生の送り出しに、肥前は「うっぜぇ……!」と毒づきながらも、白雪の袖をしっかりと掴んで部屋を出た。今、白雪は「肥前くん」のためだけに何を作るか考えている。その事実に、肥前の胸の不整脈は、今までで一番心地よく、そして激しく脈打つのであった。

 

主の部屋と、甘い沈黙

白雪の自室は、いつも彼女が纏っている白百合のような香りが漂っていた。加州や短刀たちがいないその部屋は驚くほど静かで、二人の間に流れる空気の密度が際立ってしまう。

「……っ。……なんだってんだ、この部屋……落ち着かねぇ」

肥前は落ち着きなく辺りを見回し、結局、壁際の小さな文机のそばにどっかと座り込んだ。

 

白雪は持ってきた小さな火鉢を使い、その場で簡単な夜食の用意を始めた。厚揚げと、彼がリクエストした人参の甘辛煮。そして、生姜を効かせたお肉の時雨煮。

「本当は厨で腕を振るいたかったのですけれど、今日はこうして、あなたの目の前で作らせてください」

火鉢の上で、甘辛い醤油の香りがふわりと立ち上がる。白雪は、加州に塗ってもらったあの紅の爪を動かしながら、家庭的な手つきで具材を炒めていった。

 

(……俺のために、目の前で……)

 

雅な歌仙が教えた所作。加州が飾ったその指先。けれど、今その手が作っているのは、「肥前くん専用」の味だった。

「はい、お待たせしました。熱いですから、気をつけてくださいね」

差し出された小皿には、照りよく煮込まれた人参とお肉が山盛りに乗っていた。

「……おう。……いただきます、だ」

 

肥前は箸を動かした。それを一口飲み込むたびに、胸の奥で暴れていた不整脈が、充足感に塗り替えられていくのが分かった。

「……。……だったら、一個、……やる」

肥前は箸でつまんだ大きな人参を、白雪の口元へと差し出した。自分を満たしてくれるこの温かさを、彼女にも分けてやりたかった。

 

「まあ……。ふふ、ありがとうございます」

白雪が小さな口を開けてそれを受け止める。ハム、と人参を食むその瞬間、白雪の唇が、肥前の持つ箸に微かに触れた。

 

(……っ!!!)

 

耳元で、心臓が爆発したような音がした。

不整脈。いや、もうそんな誤魔化しは効かないほどの、圧倒的な自覚が肥前の脳内を駆け抜ける。

 

(……なんだ、これ。……俺、……壊れたんじゃねぇ。……こいつを、……っ!)

 

顔が焼けるように熱くなり、肥前は慌てて残りの飯を口に詰め込んだ。そんな彼の動揺を知ってか知らずか、白雪は「やっぱり、美味しいですね」と、年相応の柔らかな、混じりけのない笑顔を見せるのであった。

「……、食ったからな。……明日も……作れよ。ボロが出る前に」

「ええ。もちろんです、肥前くん」

満たされない渇きと、溢れるほどの充足感。矛盾した感情を抱えたまま、肥前の夜は、彼女の部屋の静かな灯りの中に溶けていくのであった。

 

 

その夜、白雪の部屋を後にした肥前の胸は、ひりつくような熱と正体不明の『空腹』に支配されていた。飯を食ったはずなのに、喉の奥が焼けるように乾いている。

脳裏に焼き付いて離れないのは、人参を食んだあの瞬間の白雪の姿だった。少しだけ潤んだ瞳。咀嚼するたびに柔らかく動く、あの桜色の唇。その輪郭を思い出した瞬間、肥前の背筋にぞくりとした熱が走り、無意識に自分の唇を指でなぞった。

 

(……あの唇を……。……喰いたい)

 

その思考に、肥前は戦慄した。自分が人斬りの刀だからか。あの柔らかな存在を獲物として認識してしまったのか。異常なまでの『食欲』だと思い込もうとした彼は、深夜の医務室へと足を向けた。

 

「……薬研、起きてるか」

「おや、肥前。こんな時間にどうした。怪我でもしたのか?」

薬研藤四郎が顕微鏡から顔を上げ、肥前を診察台に座らせた。

「……怪我じゃねぇ。主が俺に夜食を作ってくれてから……腹が、減って減ってどうしようもねぇんだ。……それに、心臓がずっとバカみたいに鳴り止まねぇんだよ。……俺は、壊れちまったのか?」

薬研は真剣な面持ちで脈を取り、胸の音を聴く。

「……ほう、確かに尋常じゃない鼓動だな。だが、体のどこにも異常は見当たらない。刀身にヒビがあるわけでも、霊力供給が滞っているわけでもないな」

「じゃあ、なんなんだよ、この渇きは……!」

 

薬研は少し考え込み、棚から一冊の書物を取り出したが、それをすぐに閉じて肥前を見据えた。

「肥前、これは医学や薬で治せるものじゃないな。……お前の言う『食欲』の正体は、おそらく生物学的な飢えじゃない。もっと別の……そうだな、お前自身が認めようとしない『執着』の類だろう」

「……あ? 執着だぁ?」

「ああ。少なくとも、俺が処方できるのは安眠用の茶くらいだ。あとは自分自身で、その『渇き』と向き合うしかないな」

 

薬研はそれ以上深くは踏み込まず、少し呆れたような、けれど優しい苦笑いを浮かべた。

「……っ。……うっぜぇ。どいつもこいつも……っ!」

肥前は吐き捨てるように医務室を飛び出した。薬研にも分からない。ならば、自分を支配しているこの猛烈な渇きの正体は何なのか。

 

(……主。……あんたを、……どうすれば、この腹は静まるんだ……)

 

闇の中、肥前は自分の荒い呼吸を聞きながら、答えのない問いに身を焦がし続けるのであった。それは「恋」という、人斬りの刀にとっては毒よりも難解で、何よりも甘美な「不治の病」の始まりであった。

 

 

あの夜、白雪の部屋で過ごした特別な時間を境に、肥前の態度は劇的に変化した。

これまでは不機嫌そうにしながらも、常に白雪の視界に入る場所にいた彼が、目に見えて彼女を避けるようになったのである。

廊下ですれ違っても、肥前は顔を背けて足早に立ち去る。厨で隣り合っても一言も発さず、ただ一心不乱に包丁を動かし、出来上がった料理を置くと、白雪が口を開く前に背を向けて出ていってしまう。

 

(……肥前くん、この前の夜食で満足してくれたのかしら)

 

白雪は、少しだけ寂しそうに彼の背中を見送った。

自分なりに精一杯おもてなしをしたつもりだった。彼が「美味しい」と言ってくれたから、きっと心もお腹も満たされて、自分に甘える必要がなくなったのだ――。白雪はそう好意的に解釈し、彼が少し大人になったのかもしれない、と自分を納得させていた。

 

「……ねえ、清光。最近、肥前くん、主に対して変じゃない?」

縁側で爪を整えていた乱藤四郎が、隣の加州清光に小声で囁いた。

本丸の刀たちは、肥前が白雪に寄り付かなくなったことに、とうの昔に気づいている。あれほど執着していた番犬が、今は主から数メートル以内の接近すら拒んでいるのだから、目立たないはずがなかった。

「あはは。まあ、あいつなりに必死なんじゃない? 自分の腹の虫が『食欲』じゃないことに、薄々気づき始めたのかもね」

加州は、新しく塗り替えたばかりの紅の爪を光に透かし、意地悪く笑った。

 

「主が特に気にしてないみたいだし、俺たちが口を挟むことじゃないよ。今は静かな分、俺たちの独壇場だしね」

一期一振や三日月宗近も、その不自然な距離感には気づいていたが、主である白雪が「肥前くんは満足したみたいです」と穏やかに笑っているのを見て、あえて波風を立てることはしなかった。彼女が困っていないのであれば、それは一時の反抗期のようなものとして見守るのが、大人組の余裕でもあった。

 

一方、当の肥前は、死に物狂いだった。

 

(……見るな。見たら、またあの『空腹』が来る……)

 

白雪の姿を視界に入れるだけで、喉の奥がヒリつき、心臓がうるさく跳ね上がる。彼女の声を聞くだけで、あの夜に触れた箸の感触や、桜色の唇の動きが鮮明に蘇ってしまう。

今の彼にとって、白雪は守るべき「主」である以上に、自分を根底から壊しかねない「毒」に近い存在になっていた。

「……クソ。……なんで、……収まらねぇんだ……」

蔵の裏で一人、冷えた人参を齧りながら、肥前は自分の不甲斐なさに毒づいた。

 

「あるじさま! このお花、とっても綺麗ですよ!」

秋田藤四郎が、庭の隅で見つけた小さな青い花を両手に抱え、白雪のもとへ駆け寄る。

「本当ですね、秋田くん。露草でしょうか。透き通っていて素敵です」

白雪は、襷を外した柔らかな藤色の小袖姿で、芝生の上に座り込んでいた。その膝の上には、五虎退の虎たちが五匹、我先にと丸まって喉を鳴らしている。

 

「あ、あの……あるじさま。重くないですか?」

五虎退が、おずおずと隣に座った。

「いいえ、ちっとも。温かくて、私の方が癒やされています。……五虎退さんも、こっちへいらっしゃいませんか?」

白雪が手を広げると、五虎退は顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに彼女の隣に身を寄せた。

「主君、日差しが強くなってきました。こちらで少し休憩なさってください」

 

前田藤四郎と平野藤四郎が、丁寧に淹れたお茶と茶菓子を運んでくる。

「ありがとうございます、お二人とも。本当に、あなたたちはしっかりしていますね」

白雪が二人の頭を撫でると、双子のような二人は揃って嬉しそうに胸を張った。

 

「……あはは。本当に、あそこだけ空気がお砂糖みたいに甘いよね」

縁側でそれを見ていた加州清光が、隣に座った薬研に声をかける。

「ああ。大将も、ああやってチビどもと遊んでる時は、肩の力が抜けていい顔してるぜ。……あんまり肥前や大包平が騒ぎすぎると、大将の『お姉さんスイッチ』が入りっぱなしになっちまうからな」

薬研がそう言うと、加州はニヤリと笑った。

 

「肥前もさ、ああやって主が子供たちと笑ってる姿を、遠くから指をくわえて見てればいいんだよ。……『あの中に入るには、まだ修行が足りない』って自覚させるのも、初期刀の役目だしね」

「……あんたは、本当に性格悪いな」

自分の世話は後回しにして七人の妹を育ててきた白雪にとって、こうして「誰かに甘えられ、一緒に遊ぶ」時間は、失われていた子供時代を取り戻すような、何よりの良薬であった。

「……ふふ。やっぱり主は、笑ってるのが一番可愛いね」

加州は塗りたての自分の爪を満足げに眺め、それから、薪割りの音が響く鍛錬場の方をチラリと見た。

 

(肥前、今頃必死に汗流してんだろうなぁ。……頑張りなよ、主の隣は、強さだけじゃ座れないんだから)

 

 

同日、数時間後。

その日は、肥前にとって待ちに待った非番であった。今回こそは己の鍛錬に打ち込み、何より大包平より飯を食って、物理的にデカくなる計画を遂行するはずであった。

だが。

 

「……チッ。……なんで、伸びねぇんだよ」

鍛錬場の柱の陰。肥前は、柱に刻まれた無数の傷を見つめて毒づいた。一番下にあるのが、顕現した当日に南海先生が面白がって刻んだ「167cm」の印。そのすぐ上にあるのが、今朝、必死に背筋を伸ばして刻んだ新しい傷。……寸分違わず、同じ位置であった。

 

(……大包平は189cm。一期一振は177cm。………なんで俺は、160cm台なんだよ)

 

白雪は160cm。彼女を見下ろすには十分な高さだが、彼女から見れば、自分は手のかかる、よく食べる弟でしかない。本丸に大きな刀が増えてきて、肥前は焦っていた。

「……飯だ。……もっと飯を食わなきゃ、ボロが出る……」

肥前は自分の不甲斐なさを噛み締めながら、厨へと向かった。その途中、本丸の奥にある陽当たりの良い離れの和室の前を通りかかる。そこは、普段はあまり使われていない、白雪が短刀たちと遊ぶために開放されている場所であった。

 

「…………?」

和室の障子が、少しだけ開いている。そこから微かに、規則正しい寝息と、動物が喉を鳴らすような音が聞こえてきた。肥前がおずおずと覗き込むと――。

 

「…………っ!!」

そこには、この本丸で最も尊く、そして無防備な光景が広がっていた。

白雪が畳の上に横になり、すやすやと眠っている。襷を外し、髪をほどいた彼女の姿は、いつもの完璧な主ではなく、ただの疲れ果てた少女であった。

その周囲では、五虎退の虎たちが五匹、うろちょろと動き回っている。主のことが大好きでたまらない虎たちは、彼女が眠っていてもお構いなしだ。一匹が「主、遊んで」といわんばかりに白雪の顔の周りを歩き回り、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、その小さな身体を彼女の首筋に擦り付けた。

 

白雪は、くすぐったいような、けれど心地よい温かさに、夢現のまま小さく身じろぎを打つ。その拍子であった。別の虎が彼女の胸元に飛び乗ろうとして目測を誤り、小さな前足を白雪の衣の襟元に引っ掛けてしまったのである。

「……あ。……おい, 待て……!」

肥前が声を上げる暇もなかった。虎が慌てて体勢を立て直そうと爪を立て、布を引っ張る。シュルリ、と音を立てて、合わせが静かに、けれど確実にはだけていった。月の光のように白い肌。夕日に照らされて影を落ろす、華奢な鎖骨の輪郭。

「……んぅ……」

白雪の桜色の唇が、微かな吐息とともに震えた。

 

(……っ!!!)

 

美味しそうだ、と思った。

途端、喉の奥が焼けるような乾きが肥前を襲う。文献にも載っていない、薬研にも解けない、あの『異常な食欲』と、彼女を守りたいという理性が、脳内で激しく火花を散らした。

目の前の白い鎖骨。そして、露わになりかけた柔らかな曲線。そこを『喰らえば』、この喉の渇きは癒えるのか。いや、そんなことをすれば、二度と彼女の隣で飯を食うことはできなくなる。

「っ……クソ、あっち行け、このガキども……!」

肥前は彼女の衣を乱す虎たちを追い払おうと、慌てて部屋に踏み込んだ。けれど、焦れば焦るほど足元はおぼつかず、畳を蹴る音や虎を退けるバタバタという騒音が、静かな和室に響き渡った。

「……ん……。……肥前、くん……?」

 

最悪のタイミングで、白雪がゆっくりと瞼を持ち上げた。

重い瞼を開けた瞬間、冷たい空気が肌に触れる。自分の襟元が大きくはだけ、本来ならば人目に触れるはずのない白い肌が、西日にさらされている。そして、その目の前で、壊れた機械のように固まっている肥前の姿があった。

「あ……」

白雪の喉から、小さな、けれど確かな羞恥を含んだ吐息が漏れた。いつもは毅然とした「お姉さん」である彼女も、こればかりは想定外の事態である。頬が瞬時に熱を帯び、反射的に腕を交差させて胸元を隠そうとした。

「……っ!!」

その瞬間、肥前が弾かれたように背を向けた。彼は自分の羽織をひったくると、後ろ向きのまま、白雪の頭から乱暴に被せた。

「……っ、これ着てろ! ボロが出るっつってんだろ、この……っ、無防備な主が!!」

 

(……ああ。虎さんたちが遊んで、はだけてしまったのですね。肥前くん、あんなに肩を震わせて……)

 

白雪は、足元で申し訳なさそうに丸まっている虎たちを見て、すぐに状況を察した。もし彼が自分を貶めるつもりなら、今のようになりふり構わず上着を投げかけたりはしない。目の前の「番犬」は、彼女の尊厳を守るために、必死で自分を律しているのだ。

後ろを向いた肥前の耳に聞こえてきたのは、厚手の生地越しに自らの衣類を整える「衣ずれの音」であった。

シュル……、サァッ……。

布が重なり、肌を滑るその微かな音だけが、静まり返った和室にひどく生々しく響く。白雪はその音を聞きながら、羽織から伝わる彼の体温と、生姜や炭が混じったような「肥前の匂い」に包まれていた。

「……ありがとうございます、肥前くん。驚かせてしまいましたね。もう大丈夫ですから、こちらを向いてください」

白雪は羽織の中で襟元をしっかりと整え、最後に一度、布を整える音を立ててから、彼に優しく声をかけた。

「……。……整えたのか。……本当かよ」

「はい。本当に大丈夫です。……虎さんたちを追い払ってくださったのでしょう? 助かりました」

肥前がおずおずと振り返った。そこには、自分の大きな羽織に包まれ、少し乱れた髪のまま穏やかに微笑む白雪の姿があった。その瞳には、彼を疑う色など微塵もない。

「……ったく。……あんた、自分がどれだけ……危ねぇか、少しは自覚しろ」

肥前は、未だ収まらない鼓動を隠すように、自分の額をきつく押さえた。彼女が一点の曇りもなく信頼してくれているからこそ、自分の中に確かに芽生えた、あの「桜色の唇を喰らいたい」という衝動が、より一層、呪いのように重く彼にのしかかるのであった。

「……っ。……飯だ。飯を作らねぇと、ボロが出る……!」

肥前はそれだけ吐き捨てると、白雪の返事も待たずに、逃げるように部屋を飛び出した。

「……肥前くん? 急にどうしたのかしら……」

残された白雪は、彼の羽織の裾を引きずりながら立ち上がり、不思議そうに首をかしげた。廊下を走る肥前は、背中に受ける彼女の視線すら今の自分には毒だと感じ、心の中で「食欲だ、これはただの食欲なんだ」と、自分を騙し続けるように何度も何度も唱えていた。

 

 

厨に逃げ込んだ肥前の脳裏からは、先ほどの光景がどうしても消え去ってはくれなかった。羽織を被せる一瞬、視界の端に焼き付いたあの抜けるような白い肌。そして、覚醒した瞬間に見せた、羞恥に染まった彼女の頬の熱。

 

(……クソ。……消えろ、消えやがれ……!)

 

作業台に拳を叩きつけ、肥前は荒い呼吸を整えようと必死であった。喉の渇きは増すばかりで、胃の奥が雑巾を絞るように痛む。何かを胃に流し込めば、この異常な衝動も収まるのではないか。そう思い至った彼は、血走った目で棚を漁り、目についた冷えた握り飯を掴み取ると、行儀も構わず口に放り込んだ。

ボソボソとした米の味。けれど、今の彼には砂を噛んでいるのと変わりはない。

「……足りねぇ。……こんなもんじゃ、ねぇんだ」

咀嚼しながら、切実な独り言が漏れる。脳が求めているのは、米でも肉でもない。あの無防備に晒された、柔らかな「主」そのものであった。

「……あぁ、クソ……。喰らいたい。……全部、喰らっちまいたい……」

その、剥き出しの執着が混じった呟きが静かな厨に落ちた、その時であった。

「……肥前くん。ずいぶんと物騒な独り言だね」

背後から響いた落ち着いた声に、肥前は心臓が跳ね上がるのを感じた。振り返ると、そこには夕飯の仕込みにやってきた歌仙兼定と燭台切光忠が立っていた。

「……っ、歌仙。……燭台切」

肥前は口に握り飯を詰め込んだまま、一歩後退した。歌仙は雅な眉を微かに潜め、燭台切はその独眼の奥に鋭い光を宿している。自分よりも背が高い二振りに挟まれ、肥前は逃げ場を失ったような圧迫感を覚えた。

しかし、肥前が身構えた次の瞬間。燭台切がゆっくりと歩み寄り、肥前の泥に汚れた手をそっと包み込むように取った。

 

「……すごく、震えているじゃないか」

燭台切の声は、先ほどの鋭さが嘘のように柔らかく、深い心配に満ちていた。手から伝わる温もり。それは格下を諭すためではなく、自分でも制御できない感情に振り回され、ボロボロになっている仲間を案じる、真摯な体温であった。

「君をこのまま放っておくわけにはいかないよ。……その手も、その瞳も、あまりに危うすぎる」

「そうだね。君のその顔は、あまりに不作法で、……そして、痛々しい」

歌仙もまた、厳しい表情を崩し、溜息とともに眼差しを和らげた。二人は、肥前の抱える衝動の正体を察していた。それが単なる殺意や飢えではなく、初めて知る「恋」という毒に侵された少年の混迷であることを。

「……離せ。俺は、……なんでもねぇっつってんだろ」

「いいや、顔色が最悪だよ。……少し、落ち着ける場所で話そうか」

燭台切に優しく促され、肥前は毒気を抜かれたように立ち尽くした。

「……。……勝手にしろ」

握りしめた拳を緩め、肥前は俯いたまま、二振りに導かれるように厨を後にした。主への枯渇するような想いと、仲間から向けられた不器用な情。混濁する感情のなかで、肥前は初めて、一人で抱えきれない渇きの重さを自覚し始めていた。

 

 

燭台切に連れられ、歌仙が用意した静かな奥座敷へと場所を移した。行灯の頼りない光が、三振りの影を畳に長く落としている。

「さて……。肥前くん、先ほどの言葉、聞き捨てならなかったね。『喰らいたい』だなんて。全くもって、雅じゃないよ。一体、何が君をそこまで追い詰めているんだい?」

歌仙は、あえて「雅」という彼なりの物差しを提示することで、肥前の歪な感情を解きほぐそうと試みる。けれど、今の肥前にとって、その高尚な言葉の真意を汲み取る余裕はなかった。

「……雅だか何だか知らねぇよ。……そんなもんじゃねぇんだ」

肥前が顔を背けると、今度は燭台切が、膝を突き合わせるようにして身を乗り出した。

「肥前くん。……何があったのか、僕達に教えてくれないかな。格好悪くてもいい、そのままの言葉でさ」

優しくされればされるほど、自分が抱いた衝動の醜さが浮き彫りになり、彼は絶望に近い覚悟を決めた。

「…………。……情けは、かけられねぇ」

肥前は震える手で、自分の膝をきつく掴んだ。俯いたまま、地を這うような声で言葉を絞り出す。

「俺は、化け物かもしれねぇ……」

 

 

「……あの夜だ。俺のために料理を振る舞ってくれた、あの時からずっと……俺は、壊れちまったんだ」

肥前の脳裏に、人参を食む彼女の桜色の唇が蘇る。あの瞬間、胸の奥で爆発した動悸は、もはや不整脈などという言葉で誤魔化せるものではなくなっていた。

「話しかけられるたびに、心臓が暴れて、喉の奥が焼ける。今日、あいつの白い肌を見た瞬間……ついには、主を……あいつを、まるごと喰らいてぇと思い始めた」

歌仙と燭台切が、息を呑む音が聞こえた。肥前の口から、初めてその『捕食対象』が明確に告げられた瞬間であった。

「自分でももう、制御ができなくなりそうだ。あいつの声を聞くだけで、指一本残さず喰らい尽くしたいと思う……。こんなの、主に対する『愛着』じゃねぇ。ただの化け物の食欲だ」

肥前は顔を上げた。その瞳は、逃れられない運命を悟った死罪人のように、暗く、澄んでいた。

「……実際に主を喰らっちまう前に、俺は自分で命を絶つ。もし俺の身体が勝手に動いてあいつに牙を剥くようなことがあったら、その時は、お前らが俺を斬れ」

「何を言っているんだ! 君は……!」

歌仙の叫びを遮り、肥前は二人を見据えた。

「頼む……。主には、俺がただ『乱心した』とだけ伝えてくれ。あいつに、自分が信じてた刀が、自分を食料として見てたなんて……そんな胸糞悪い思いはさせたくねぇんだ」

人斬り刀として、血に塗れてきた自分。そんな自分を「大好きです」と笑い、頭を撫でてくれた彼女にだけは、自分の醜悪な欲の正体を知られたくない。それが、化け物に成り果てようとしている少年の、最後で最大の忠義であった。

 

 

奥座敷の空気は、肥前の悲痛な告白を境に凍りついたように静まり返った。「命を絶つ」という決意。それが、白雪を汚したくないという純粋すぎる忠義から出たものだと理解した燭台切は、肥前の泥に汚れた手を、より強く、逃がさないように握りしめた。

「……本気なんだね、肥前くん」

燭台切の声は、彼を否定するためではなく、その覚悟の重さを受け止めるためのものであった。しかし、それまで黙って聞いていた歌仙が、ゆっくりと扇子を畳に置いた。

「肥前くん。君はね、見ている世界が狭すぎるよ」

歌仙の言葉は、突き放すようでいて、どこか年長者としての慈愛を含んでいた。

「君と同じような激情に身を焦がし、狂わんばかりの衝動を感じている人間など、この世には山ほどいる。僕の嗜む和歌や短歌の世界では、そういった感情を詠んだものが数えきれないほどあるんだよ。知っているかい? ……それを『恋(こい)』と言うんだ」

 

「……こい? 鯉のことか。それとも、わざとやる『故意』か?」

肥前は、聞いたこともない単語を投げかけられ、眉間に皺を寄せて聞き返した。彼にとってその響きは、空腹や殺意といった剥き出しの言葉よりも、ずっと得体の知れないものに聞こえたのだ。

「……やれやれ。雅からは程遠いな」

歌仙は溜息をつくと、肥前の方へ詰め寄り、その無骨な手をがしっと力強く掴んだ。そのまま、傍らにあった紙に筆を走らせ、肥前の手を持ったまま強制的に「恋」という一文字を認めさせた。

「いいかい。これが『恋』だ。今の君の状態は、化け物への変質などではない。……書庫へ行きなさい。そこにある辞書や文献で、この文字を調べてみるといい」

肥前が呆然とその文字を見つめていると、燭台切がその肩にそっと手を添えた。

「わからなくなったら、またおいで。忘れないで、僕たちは君の味方だ。……君より顕現してからの日数は短いけれど、これでも僕たちは、君よりずっと長く人との時間を生きてきた刀なんだ。君が知らない人の心の機微を、僕たちは嫌というほど見てきた」

歌仙は筆を置き、真っ直ぐに肥前を見据えた。

 

「『喰らいたい』と思うほどに誰かを想うのは、恐ろしいことではない。ただ、あまりに不器用なだけだよ。……死ぬだの斬れだのと言う前に、まずは自分の心が何に侵されているのか、その目で確かめてきなさい」

二振りの「大人」の強さと優しさに押し出されるように、肥前は「恋」と書かれた紙を握りしめたまま、フラフラと立ち上がった。

 

一方、その頃。

白雪は、先ほど彼からひったくるように被せられた肥前の羽織を肩にかけたまま、独り、厨の方を眺めていた。

「……肥前くん、遅いですね」

自分には少し大きい彼の羽織。袖から手も出ないようなその不格好な姿で、彼女はただ純粋に彼の身を案じていた。

その羽織に染み付いた残り香が、どれほど今の肥前を狂わせ、そして、彼女自身の何気ない心配が、どれほどの「救い」になるのか。その答えの欠片が、書庫の古びた辞書の中に眠っていることを、今の彼はまだ知らなかった。

 

 

書庫の暗闇と、未知の定義

夜の書庫は、墨と古紙の匂いが立ち込める静寂の檻であった。肥前は、歌仙に持たされた「恋」という紙を、まるで呪いの札でも扱うかのように握りしめ、巨大な書棚の前に立ち尽くしていた。

 

(……こい……。なんだってんだ、この字は……)

 

人斬りとして生まれ、戦場を渡り歩いてきた彼にとって、その一文字はあまりにも未知で、不気味なものに見えた。歌仙がわざわざ書かせるほどのものなら、さぞ恐ろしい意味があるに違いない。肥前は震える指先で、一番分厚い広辞林を引き抜いた。畳の上にどっかと座り込み、必死にページをめくる。

「……か、……き、……く、……け……。……こ……」

暗い行灯の光の下、その文字を見つけ出した瞬間、肥前の心臓が大きく跳ねた。

 

【恋(こい)】

特定の人に強く惹かれ、切ないまでに深く思いを寄せること。

類語:恋愛、愛(あい)、情愛。

「……あい? れんあい……?」

さらにその先を読み進めると、心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。

『そのために心が乱れ、手に付かなくなったり、身が細るほど苦しんだりする状態。 相手を独占したいという強烈な欲求を伴い、時には自らの中に一体化させたいという、根源的な飢えにも似た衝動を呼ぶことがある。』

「…………っ!!」

 

肥前は、弾かれたように本を閉じた。

化け物への変質だと思っていた、あの『喰らいたい』という異常な飢餓感。それが、人間が何千年も前から繰り返してきた、この「恋」という言葉のなかに、当たり前のように記されていたのである。

 

(……俺は、壊れたんじゃねぇのか。……これが、みんなが言う……人間と同じ、……なのか?)

 

自分の中の醜い衝動に、名前がついてしまった。それは救いのようでもあり、同時に、もう二度とただの刀には戻れないという宣告のようでもあった。

 

一方、廊下では、白雪が肥前の羽織を肩にかけたまま、盆に乗せた夜食を持って書庫へ向かおうとしていた。

 

「肥前くん、まだ戻らないのかしら。これ、温かいうちに食べてほしいのだけれど……」

「おっと、主。そこから先は行かないほうがいいよ」

角を曲がろうとした白雪を、燭台切がスマートに、けれど遮るように制した。その隣には、静かに見守る歌仙の姿もある。

「……燭台切さん? でも、さっき南海先生から肥前くんが書庫で熱心に調べ物をしていると伺いましたから」

白雪は不思議そうに首をかしげる。自分の体には大きい、袖の余った肥前の羽織。それを揺らしながら、彼女はただ純粋に、空腹であろう弟分を案じていた。

 

「今は、彼にとって大事な『修行』の最中なんだ。僕たちが手を出して、その集中を乱しちゃいけないよ」

「……修行、ですか?」

「ああ。彼がこれから主と共に歩むために、どうしても越えなければならない壁だよ。……ね、歌仙くん」

燭台切に振られた歌仙は、深く頷いた。

「そうとも。彼は今、不作法な己の心に、ようやく名前をつけようとしているところだ。……主、今夜の彼の分は、私たちが預かろう。君は先に休みなさい」

「……。わかりました。それなら、肥前くんによろしく伝えてくださいね」

白雪は、少し名残惜しそうにしながらも、二振りの大人な刀の言葉を信じて引き返していった。

 

その頃、暗い書庫の中で、肥前は「恋」と書かれた紙を見つめたまま、逃れられない真実の重さに、ただ一人、震え続けていた。

書庫の静寂を破ったのは、控えめながらも確かな二振りの足音であった。

 

 

肥前は「恋」という文字が書かれた紙を、慌てて懐へ捻じ込んだ。辞書を閉じる音さえ、今の彼には罪を隠すための騒音のように聞こえて、ひどく耳障りであった。

「……随分と熱心だね、肥前くん」

現れたのは、燭台切と歌仙であった。

燭台切の手には、先ほど白雪が持っていた盆が乗せられており、歌仙の腕には、彼女が先ほどまで肩にかけていた肥前の羽織が、丁寧に畳まれて抱えられていた。

 

「主がね、これを君に届けてほしいと言っていたんだよ。……本当は彼女自身が持ってくるつもりだったのだけれど、僕たちが少しばかり引き止めてしまった」

歌仙はそう言うと、抱えていた羽織を肥前の隣に静かに置いた。

「……あいつが、これを」

肥前は、燭台切が差し出した盆を見つめた。そこには、肥前の体調を案じて彼女が手早く、けれど丁寧にこしらえた夜食が並んでいた。

「主は、君が羽織を被せたまま逃げ出したことを怒るどころか、君の体調をずっと心配していたよ。……その羽織もね、名残惜しそうに僕に預けてくれた。君に返してあげてほしい、とね」

歌仙の言葉が、肥前の胸を抉る。

自分が書庫で「支配欲」だの「一体化」だのといった言葉に戦慄している間、彼女はただ純粋に彼を想い、腕を振るい、彼の持ち物を大切に抱えていたのだ。

 

「……わかったかい。君が今、何に『飢えて』いるのか」

歌仙の問いに、肥前は消え入りそうな声で、けれど逃げずに答えた。

 

「…………。……本には、……独占したいだの、一つになりてぇだの、……そんなことが、書いてあった。……それに、……」

肥前は言葉を詰まらせた。

ページを繰るうちに目に入った、愛し合う者同士の生々しい愛の形。魂が溶け合うような幸福感。『喰らいたい』という剥き出しの衝動の先にある、人間たちのあまりに深い営み。初めて知るその概念に、肥前は目眩を覚えるほどの衝撃を受けていた。

 

「……お前らも、……こんな、……気が狂いそうなもんを、知ってんのかよ」

「はは、そうだね。辞書というのは時に、残酷なほど正直だ」

 

燭台切が、肥前の隣に座り込んだ。

「でもね、肥前くん。その『喰らいたい』と思うほどの熱こそが、君をただの人斬りから、彼女を想う一振りの刀に変えていくんだ。……怖がることはない。僕たちも、かつてはそうやって人の心の機微に触れ、戸惑いながら生きてきたんだから」

「……。……勝手なこと、……言ってんじゃねぇ……」

 

肥前は、震える手で主の作ったおにぎりを一つ、掴んだ。

口に運んだそれは、冷めていても驚くほど滋味深く、彼女の慈愛がそのまま形になったような味がした。

 

(……恋。……これが、恋……)

 

化け物だと思っていた自分の衝動に、名前がついた。

だからといって、明日から主の顔を平然と見られるわけではない。むしろ、これからもっと苦しく、もっと激しい『空腹』に襲われるのかもしれない。

けれど、隣で静かに見守る二振りの大人の存在が、独りで死を覚悟していた時よりも、ずっと心を軽くしてくれていることに、肥前は気づき始めていた。

 

「……三倍。……いや、……残さず食う。……そうしねぇと、……ボロが出るからな」

肥前は次のおにぎりを手をとった。

「うん、それがいい。主も、きっと君が完食したのを知れば、安心して眠れるはずだよ」

「……どうだい、肥前くん。そこに書いてある文字は、君の『空腹』よりは恐ろしかったかな?」

黙々と飯を口にする肥前の隣に、燭台切が静かに腰を下ろした。歌仙は少し離れた場所で、行灯の芯を整えながら静かに口を開く。

「……わけが、わからねぇ……」

肥前は膝に置いた拳を震わせ、絞り出すように言った。

 

「あんな……あんな恥知らずな衝動に、名前がついてるなんて。独り占めしたいだの、混ざり合いたいだの……そんなの、やっぱりただの化け物じゃねぇか。あいつを……主を、俺の食い物にしてぇって言ってるのと同じだ」

「はは、確かにそうだね。恋というものは、ある種、最も残酷な『所有欲』だ」

燭台切が、いつもの穏やかな笑顔の中に、ふと寂しげな色を混ぜた。

「僕たち刀は、持ち主に愛され、使われることで存在を証明してきた。でも、人間は違う。彼らは、愛する相手を自分だけのものにしたいと願い、時にはその愛ゆえに相手を壊してしまうことさえある」

「……だったら、やっぱり俺は……」

「最後まで聞きなよ」

歌仙が冷たく、けれど凛とした声で制した。

 

「いいかい、肥前。その醜悪とも言える『渇き』を知ってなお、相手の幸せを願い、己を律しようと足掻く。……それを、人は『真実の愛』と呼んできたんだ」

歌仙は筆を置き、肥前を真っ直ぐに見据えた。

「君は先ほど、彼女を汚す前に死ぬと言った。それは、君の中の『喰らいたい』という欲求よりも、『あの子に笑っていてほしい』という願いが勝っている証拠だ。……それは、化け物の所業ではない。一振りの男の、高潔な志だよ」

「……高潔……? 俺が……?」

肥前は、自分の汚れた手を見つめた。人斬りの道具として、ただ血を吸うことしか知らなかった自分に、そんな言葉が似合うはずがないと思っていた。

「そうだよ、肥前くん」

燭台切が、彼の背中を大きな手でぽんと叩いた。

「喰らいたいほど愛おしい相手を、喰らわずに、ただ隣で飯を食う。その、耐え難いほどのもどかしさを抱えて生きていく覚悟を決めなよ。それが、君が彼女の隣に立つための、最低限の礼儀だ」

「……もどかしさ、か」

「ああ。格好悪くて、泥臭くて、雅とは程遠い。……だが、それを抱えて守り抜く背中こそ、彼女が求めている居場所になるんじゃないかな」

 

歌仙はそう言うと、畳まれていた肥前の羽織を彼の膝に置いた。

「さあ、冷めないうちに飯を食べなさい。君がその空腹を、ただの『食欲』として飲み込み続けられる限り……君は彼女の、世界で一番不器用な騎士でいられるはずだ」

肥前はその羽織をぎゅっと握りしめた。

「……。……食う。……食ってやるよ。……あいつが、俺に美味いかって聞いたときに、答えられる程度には……な」

その答えを聞いて、二振りの刀は満足げに顔を見合わせた。

それは、一振りの幼い人斬りが、初めて『飢え』を受け入れた瞬間だった。

 

 

朝の光と、上書きの誓い

 

結局、肥前は一睡もできないまま朝を迎えた。

歌仙から返された自分の羽織を深く羽織り、厨の入り口で立ち尽くす。懐に仕舞い込んだ、あの雅な男に無理やり書かされた「恋」の一文字が、衣服越しにじりじりと皮膚を焼くようだった。辞書で目にした「独占」や「一体化」という生々しい言葉が、澱のように頭の底に沈んで離れない。

 

「あ、肥前くん。おはようございます。随分と早いのですね」

振り返ると、眩い朝の光を背負って白雪が立っていた。昨夜の騒動など微塵も感じさせない、一点の曇りもない穏やかな微笑み。

「昨夜は……夜食、全部食べてくださったと歌仙さんから伺いました。お口に合いましたか?」

「…………おう。全部、食った。あんなもん、残せるわけねぇだろ」

肥前は視線を逸らし、ぶっきらぼうに吐き捨てるように答えた。それから、喉に詰まった泥を絞り出すような思いで、言葉を継ぎ足す。

 

「……悪かった。ここ最近、まともに口も聞かなくて」

「え……?」

「……。あんたが嫌いになったわけじゃねぇ。ただ、……自分でもよく分からねぇ、得体の知れねぇ苛立ちが抑えられなくてな。……もう、整理はついた」

不器用極まりない弁明であった。だが、白雪は驚いたように目を見開いた後、ふわりと表情を緩めた。

 

「……そうだったのですね。私は、肥前くんがもう私に甘える必要がなくなったのかと思って、少し寂しく感じていたんです。……謝らないでください、お話してくれて嬉しいです」

白雪はそう言って、弾むような足取りで朝食の準備を始めた。

間もなく、出汁の優しい香りが厨に広がり始める。彼女は小さく鼻歌をまじえながら菜箸を動かしていた。だが、その眩しい笑顔に、肥前の野生の勘がざらついた違和感を嗅ぎ取る。

 

(……なんで、そんなに綺麗に笑えるんだよ)

 

ふとした瞬間に、あの激しい雨の夜の記憶が脳裏をよぎる。

熱に浮かされ、「キンちゃん、置いていかないで」と泣きじゃくった彼女の、掠れた声。

以前の彼なら、それをただの「かつての兄貴分への慕情」として片付けていただろう。だが、己の内に暴れる衝動の名前を知った今の肥前には、その声が、自分を半分捥ぎ取られたような、血の匂いのする飢餓感に聞こえてならなかった。

自分が辞書で知った「恋」という醜い執着。それと同じ、あるいはもっと深い泥の中に、彼女はかつて沈んでいたのだろうか。その憶測が、肥前の喉をひどく渇かせる。今の彼女が完璧なお姉さんとして毅然と振る舞うのは、その凄惨な歴史から逃げないための、彼女なりの防衛機制に見えて仕方がなかった。

 

「肥前くん、今日のお味噌汁は少し濃いめにしましょうか? 昨夜あまり眠れなかったのでしょう?」

不意に、無垢な瞳が至近距離から覗き込んでくる。

自分だけを見てほしい。あの雨の夜、自分を「肥前くん」と呼び直してくれた、あの弱くて愛おしい彼女を独占したい――。身勝手な熱が、どろりと喉元までせり上がる。

「……。いらねぇ。ボロが出るほど、食わせるなっつったろ」

「あら。ごめんなさい、つい肥前くんに喜んでほしくて」

少し困ったように眉を下げて笑う彼女の横顔を、肥前はじっと見つめた。その穏やかな輪郭を見ていると、どうしても確かめずにはいられなかった。

 

「……なあ、あんた。あんたは楽しいのか。今、ここでこうして、俺の隣にいるのが」

唐突な問いに、白雪は菜箸を動かす手を止めることなく、柔らかい笑顔をさらに深めた。

「ええ。とても楽しいですよ。こうして美味しいものを作って、皆さんが喜んでくださって……。肥前くんが、隣にいてくれるんですもの」

その言葉に、一片の嘘もなかった。

肥前は懐の紙を、衣服の上からそっと指先でなぞった。もし自分が、彼女を深く「独占」したいと願うのなら――それは、彼女を過去の歴史から強引に引き剥がすことではないはずだ。その過去ごと、傷跡ごと、全部まるごと抱えることなんじゃないか。

 

(……俺が、あんたの隣にずっと居座ってりゃ。いつかは、その『歴史』ってやつも、俺の匂いで上書きできんのかよ)

 

「キンちゃん」という男が彼女の魂に刻んだ傷跡を、消し去ることはできない。ならばその上から、新しい記憶を、それこそボロが出るほどに積み上げていけばいい。

 

「肥前くん? 顔が赤いですよ。やっぱり、まだどこか具合が……」

心配そうに顔を覗き込み、白雪がそっと指先を伸ばそうとする。肥前はその白い手を、咄嗟に掴み取っていた。

「……っ、触んな。熱くねぇよ」

「でも……」

「……。あんたが、俺の名前を呼んで、笑ってんなら。それでいい」

掴んだ手のひらから伝わる、確かな体温。それはあの雨の夜の凍えるような冷たさではなく、今、この場所で自分と共に生きている人間の温かさだった。

 

「……肥前、くん……?」

「……。また、作れ。昨日のおにぎり。あんたの飯は、……その。力が、出る」

白雪は一瞬、目を丸くした。それから、先ほどよりもずっと晴れやかな、どこか年相応の少女のような笑顔を咲かせた。

「……! ええ、もちろん。毎日でも作りますよ。肥前くんが、飽きるまで」

この「恋」という病が、己をどこへ連れて行くのかは、人斬りの刀にはまだ分からない。

けれど、彼女が自分の隣で笑い、自分がその笑顔を守りたいと願うこの熱がある限り。いつかこの飢餓感は、二人を繋ぐ温かな絆へと変わっていくのかもしれない。

 

朝の光が、寄り添う二人の背中を、優しく、静かに包み込んでいた。

白雪や刀剣男士たちが囲む食卓には、相変わらず騒がしい本丸の日常があった。

「主! 俺の味噌汁が、加州のより少し具が多い気がするぞ! これは俺の勝利だな!」

「もー、大包平はうるさいなぁ。それは主が君の健康を心配してのことでしょ。ね、主?」

加州がいつものように、白雪へ甘い視線を送る。白雪は「ふふ、皆さんたくさん食べてくださいね」と、穏やかに微笑んでいた。

 

その喧騒から少し離れた席で、肥前は黙々と、しかし確かに昨日よりも力強い手つきで箸を動かしていた。

「……。……おい、あんた」

「はい、肥前くん?」

「……。……美味い」

短く、ぶっきらぼうな一言。

けれど、それを聞いた白雪の顔に、今日一番の、花が綻ぶような笑顔が咲いたのを、本丸の誰もが見逃さなかった。

懐の「恋」と書かれた紙は、いつしか肥前の体温で温まり、彼の一部となって溶けていく。

 

人斬り刀は、もう逃げない。

その牙は、自分を壊すためではなく、隣で笑う少女の明日を守るために、静かに研ぎ澄まされていくのであった。

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