【星】【九】【茉莉】01
演練場の喧騒と、人斬りの防波堤
演練場の喧騒の中にあって、白雪の周りだけは清涼な空気が流れているようだった。
腰まで届く艶やかな黒髪は、手入れの行き届いた絹糸のように真っ直ぐで、彼女が歩くたびに背中でさらさらと光を跳ね返す。
「……ねぇ、あそこの審神者、見たか?」
「ああ。清楚っていうか……育ちの良さが隠せてないよな。あの顔立ちで、あのスタイルだろ?」
通路の端で、数人の男審神者が品定めをするような視線を白雪に送っていた。
白雪は身長160cmと、女性としては決して小さくないが、隣に立つ刀剣男士たちに比べれば、どこか守ってあげたくなるような絶妙な愛らしさがある。だが、ひとたび彼女が歩き出せば、緩やかな曲線を描く抜群のスタイルが、慎み深い衣装の上からでもはっきりと女としての魅力を主張していた。
「……声、かけてみようぜ。あんなに美人なら、話だけでも……」
一人の男審神者が、鼻の下を伸ばして白雪へと歩み寄ろうとした。
白雪はそれに気づかず、手元の書類を見つめながら「次は第三部隊の出番ですね」と、お淑やかに微笑んでいる。
だが、男の足が彼女のパーソナルスペースに踏み込むより早く。
――ドォン! という重低音が響くような殺気が、通路を支配した。
「……あ?」
短く、地を這うような唸り声。
白雪の背後からぬるりと現れた肥前忠広が、獲物の喉元を食い破る直前の獣のような目で男を睨みつけていた。
ボサボサの髪の間から覗く、血走ったような鋭い眼光。その手は、既に愛刀の柄をミリ、と音を立てて握りしめている。
「……ひ、っ……!?」
男審神者は、喉を鳴らして数歩後退った。
「なんだよあの刀、マジで斬る気かよ……」
「やめとけ、ありゃ『人斬り』の目だ。あんなのに睨まれたら命がいくつあっても足りねぇ……」
男たちは蜘蛛の子を散らすように、顔を真っ青にして逃げ出していく。
「あら……?」
白雪が顔を上げると、そこには既に誰もいなかった。
あるのは、いつものように不機嫌そうに鼻を鳴らし、そっぽを向いている肥前の横顔だけだ。
「……肥前くん、またですか?」
「あ? 何がだよ」
「今の方々も、何か用事があったのかもしれませんよ。私、そんなに近寄りがたいかしら……。これでは他の本丸の方と、友好的な情報交換もままなりませんね」
白雪は内心で(また怖がらせてしまったかしら)と冷や汗を流しながら、少し困ったように溜息をつく。
自分の黒髪がどれほど男たちの目を惹き、その抜群のプロポーションがどれほど不埒な想像を掻き立てているか、彼女自身は全くの無自覚なのだ。
「……情報交換だぁ? あんなニヤついた奴らから得られるもんざぁねぇよ」
「でも……」
「……行かせねぇ。あんたは、黙って俺の後ろにいろ」
肥前は、白雪の視線に合わせるように少しだけ首を傾け、苛立ちを隠そうともせずに言い放つ。
「もう、肥前は相変わらずだねぇ。でも、主が可愛すぎるのが悪いんだよ」
加州清光が、自分の紅い爪を眺めるふりをしながら、周囲の男たちに「これ以上近づいたら承知しないよ」と言わんばかりの冷ややかな視線を走らせて笑う。
「そうだね。主の魅力は、僕たちがしっかりガードしておかないと。不用意に近づく羽虫は、僕が綺麗に料理してあげようか?」
燭台切光忠が、いつもの爽やかな笑みの奥に、一切の容赦をしない鋭い光を宿して白雪をエスコートする。
「主さん、次はボクたちの出番だよ! びしっとカッコいいところ、見せてあげるからね!」
乱藤四郎が白雪の腕に甘えるように抱きつき、その実、死角を完全に塞いでいる。
「……主をこれ以上困らせるな。俺が……俺たちが、守る」
山姥切国広は、白雪の慈愛によって手入れされた清潔な布を握りしめ、かつての卑屈さを脱ぎ捨てたような凛とした佇まいで、白雪の背後にぴたりと寄り添った。
「主殿、あまり一人で歩かれないよう。……皆、貴女を大切に思っているのですから」
一期一振が、穏やかな慈愛に満ちた笑みを湛え、白雪の歩調に合わせて静かにその隣を守る。その瞳には、主に対する深い忠誠と、不埒な輩を寄せ付けない気高さが宿っていた。
白雪は、彼らのぶっきらぼうな、あるいは過保護な優しさに「助かってはいるのだけれど」と苦笑しながらも、守られている安心感に、少しだけ胸を熱くするのだった。
演練場の休憩スペース。
そこには、先ほどまで不埒な男審神者たちを「人斬り」の殺気で追い散らしていたはずの肥前が、人生最大の屈辱に震えながら固まっている姿があった。
「ちょっと! 見てちょうだいこの子! 噂の肥前くんじゃない! 実物はもっと『野良』っぽくて最高にイイわね!」
「本当! 脇差っていうからもっと小柄かと思ってたけど、意外とガッシリしてるじゃない。この育ちきってない感じ、アタシが磨いたらもっと化けそうだわ!」
白雪を囲んでいるのは、派手な羽織を翻すオカマ審神者の一団だった。白雪は、女子会特有の距離感で熱烈な抱擁を受けながら、困ったように笑っている。
「ええ、うちの肥前くんです。いつも守ってくださって、本当に助かっているんですよ」
「あらぁ、この子、白雪ちゃんから離れないじゃない。かわいい番犬ちゃんねぇ」
「そんな睨まないの。アタシたち、白雪ちゃんを口説きに来たんじゃなくて、お友達になりに来たのよ」
「安心しなさい。アタシにはうちの小豆ちゃんがいるんだから、人様の子を取ったりしないわよ」
「……ッ、離せ! 触んなって言ってんだろ……ッ!」
いつもなら「あ?」の一言で男を黙らせる肥前だが、今ばかりは勝手が違った。逃げようとしても、熟練のオカマ審神者たちの鋼のような腕力と強烈な香水の香りに包囲されている。特に、自分とそれほど変わらない……あるいは自分より少し高い位置から降ってくるオネエ様たちの熱圧に、肥前は完全に毒気を抜かれていた。
白雪は、くすりと笑う。
「ふふ。ジャスミンさん、小豆さん、とても優しくて素敵な方ですものね」
「あらぁ、そうなのよ! あの子ったら優しくて甘やかし上手でねぇ。アタシ、自慢の恋人なんだから」
「素敵ですね」
穏やかに微笑む白雪を見て、ジャスミンは今度はじっと肥前へ視線を向けた。
「でもねぇ……」
扇子で口元を隠しながら、意味ありげに笑う。
「この番犬ちゃんは、まだ安心できないみたいだけど?」
「……誰が番犬だ」
「ほら、否定するところそこなのねぇ」
周囲から笑いが起こる。
白雪は不思議そうに首を傾げた。
「番犬……ですか?」
「ええ。でも、とても頼もしい番犬ちゃん」
白雪は少しだけ考え、それから柔らかく微笑んだ。
「そうですね。肥前くんは、いつも私を守ってくださる、とても頼もしい方なんです」
「……っ!」
肥前の耳まで一気に赤く染まる。
「お、おい主! 変な紹介すんな!」
「え?」
白雪は本気で意味が分からず目を丸くした。
「私は本当のことを申し上げただけですけれど……」
「あらぁ」
ジャスミンは肩を震わせながら笑う。
「紹介なんてしてないのよ、白雪ちゃん。今のはただの惚気」
「……のろけ?」
「……だから違ぇっつってんだろ!」
肥前が顔を真っ赤にして叫ぶと、その様子を見てオネエ審神者たちは一斉に笑い声を上げた。
「うわ、すごい迫力……。ねぇ、山姥切。お前も助けてあげたら?」
加州清光が少し引き気味に、隣に立つ山姥切国広を促す。
山姥切は、白雪に贈られた手入れの行き届いた布を握りしめつつ、凛とした佇まいで一歩踏み出した。
「……主をこれ以上困らせるな。彼女は……俺たちが守る」
だが、その決然とした言葉もオネエ様たちの前では火に油だった。
「イヤだぁ! 国広くんも美形じゃない!」
「綺麗な布ねぇ、センスがいいわ!」
「……っ! これを、汚すな……!」
山姥切は必死に白雪の隣を死守しようとするが、乱藤四郎は「あはは、山姥切まで捕まってる! 頑張れー」と他人事のように笑っている。
燭台切光忠も「さすがにこの包囲網は……僕でもどう振る舞うべきか迷うね」と苦笑し、一期一振だけは「肥前殿、山姥切殿、主を守るお役目、ご苦労様です」と崩れぬ笑みで静かに見守っていた。
午後の侵略者
午後の演練開始を告げる鐘が鳴る。
掲示板に張り出された対戦表を確認していた白雪の背後に、一際スマートな影が落ちた。
「……次の対戦相手は、君か。光栄だね」
落ち着いた、知性を感じさせる声。
白雪が振り返ると、そこにはシルバーフレームの眼鏡をかけた、隙のない軍服姿の男が立っていた。
身長175cm。白雪の視線からは、彼が少しだけ顎を引いて見下ろす形になる。整った顔立ちに浮かぶのは、営業用の笑みではない、獲物を見つけた狩人のような愉悦の表情だ。
「……ッ!」
即座に、肥前が白雪の前に割り込む。いつものように、相手を射殺さんばかりの鋭い眼光を向けるが――男は、眉一つ動かさない。
「おや、威勢がいいね。……肥前忠広、だったかな。人斬りの刀らしい、いい殺気だ」
男は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、肥前の威嚇を「批評」するように眺めた。
その時。白雪のすぐ隣に立つ一期一振と、男の視線が真正面からぶつかった。
「……」
一期一振が、ふと訝しげに目を細める。
男は冷徹なエリートとしての仮面を完璧に被っていたが、一期一振と視線が合ったその刹那。瞳の奥で、鉄の理性を一瞬だけ食い破るような、奇妙なまでに激しい「動揺」が走ったのを、一期一振だけは逃さなかった。
だが、男はそれを瞬時に抑え込み、白雪へ向けて静かに口を開く。
「私は九条瑛士。……星栞白雪、君の噂は聞いているよ。これほど高い練度の刀たちを、家族のようにまとめ上げる手腕……。そして、その黒髪。素晴らしい。私の隣に並ぶ相手として、これほど相応しい女性は他にいない」
あまりに堂々とした「支配の宣言」。白雪は戸惑いながらも、彼へとお淑やかに微笑みかけた。
「あ……あの、九条様。過分なお言葉、恐れ入ります。ですが、私は……。九条様も、とっても素敵な眼鏡をお召しですね。シルバーのフレームが、知的な雰囲気に本当によくお似合いです」
それは白雪なりの、緊張を和らげようとした不器用で真っ直ぐなアプローチだった。
九条はその言葉に、一瞬だけ沈黙した。仮面を崩すことはなかったが、わずかに喉仏が動く。
「……眼鏡、か。……ふっ、面白いな、君は」
九条は依然として冷徹な空気を纏ったまま、白雪を見据えて告げた。
「午後の演練、手加減はしない。勝った方が負けた方の願いを一つ聞く、というのはどうかな? 例えば――私の本丸へ招待する、とか」
「……っざけんな!!」
肥前が吠えた。だが、彼が動こうとする絶妙なタイミングで、背後に控えていた髭切がひょいと立ち塞がる。
「まあまあ。そんなに怖い顔をしなくても。……ねえ、主?」
髭切は、肥前の凄まじい殺気の中にいながら、まるでお花見にでも来たような、ふわふわとした笑顔を浮かべて九条に同意した。
「ちょっと、今さらっと不穏なこと言わなかった? 主を招待だなんて、百年早いんだけど」
加州清光が不快感を隠そうともせず、鋭い視線を投げかける。
「それは聞き捨てならないね。僕たちの主を連れ去るつもりなら、相応の覚悟をしてもらうよ」
燭台切光忠も、低く凄みのある声で応じた。
その時、演練場全体に無機質なアナウンスが響き渡り、足元の移動装置が鈍い光を放ち始めた。
『――通達。午後の部、第一試合。該当部隊を模擬戦場へ転送します。カウントダウン開始――五、四……』
掲示板には、対戦相手である【九条本丸:演練部隊】の六振りの名が冷淡に表示されていた。
【九条本丸:演練部隊編成】
髭切(隊長)、膝丸、大倶利伽羅、和泉守兼定、堀川国広、薬研藤四郎
九条は最後に、有無を言わせぬ視線で白雪の黒髪を一瞥し、軍服の裾を翻して一歩下がった。
「……っ、主!!」
転送の光が強まる中、肥前は白雪の肩を、奪い返すような勢いで抱き寄せた。
「あいつ……、絶対ぇ、近づけさせねぇ」
肥前の腕には力が入り、その瞳には、大切なものを決して手放さないという執着が宿っていた。
「主、参りましょう。あのような無礼な御仁に、我々の主がどのような方か、身をもって教えて差し上げねばなりませんね」
一期一振が静かに、けれど凍てつくような殺気を孕んだ笑みを浮かべる。
『……三、二、一。――転送』
視界が白い閃光に包まれた。
次の瞬間。
白雪たちが目を開けると、そこは既に広大な模擬戦場の中央だった。
数歩先。対峙する位置には九条瑛士が、微塵の乱れもない姿勢で立っている。その左右を、膝丸、大倶利伽羅、和泉守兼定、堀川国広、薬研藤四郎が固め、中央では髭切が「源氏の重宝」らしい底知れぬ笑みを湛えて白雪を見据えていた。
静寂が支配する戦場に、戦いの幕開けを告げる電子音が鋭く鳴り響いた。
戦場を告げる電子音が消えぬ間に、九条瑛士が静かに手を挙げた。
「……始めようか。演練のルールは承知の通り。現れる時間遡行軍の撃破数、その速度、そして相手部隊の戦力をどれだけ削り、無力化できるか。それらすべての総合評価で勝敗が決まる」
九条の声は、戦場にあっても驚くほど冷静で、まるで実験の開始を告げる学者のようだった。
「……、御託はいい。さっさと始めろッ!」
肥前が地を蹴った瞬間、戦場のあちこちから黒い霧が噴き出し、時間遡行軍(模擬)の群れが姿を現す。今回の演練は、対人戦と対遡行軍戦が同時並行で行われる過酷なルールだ。
「主さん、危ないから下がってて! 糸、お願いね!」
乱の声に、白雪は深く頷いた。彼女は自身の体を安定させ、指先を鮮やかに動かす。
白雪の指先から放たれたのは、細く、けれど強靭な光の筋――「霊糸」だ。
この糸は刀剣男士たちの身体に繋がり、彼らの動きを加速させ、あるいは敵の死角を教える伝声管となる。
「……皆さんに、加護を!」
白雪が霊力を込めると、肥前や一期一振の刃が淡く発光した。
霊糸のサポートを受けた肥前は、和泉守兼定の猛攻を紙一重でかわしながら、背後に現れた遡行軍の首を一瞬で跳ね飛ばす。
「……ちっ、動きが軽くなってやがる。審神者の糸か……!」
「いい連携だね。でも、僕たちも負けてられないな!」
九条側の隊長・髭切が、膝丸と共に鮮やかな連撃で遡行軍を塵に変えていく。九条自身は、白雪のように霊力を使う素振りも見せず、ただ白い手袋を嵌めた手を後ろに組み、戦況を静かに見つめていた。
だが、一期は気づいていた。九条が直接術を使わずとも、彼の部隊――髭切たちの動きには、一切の無駄がない。まるですべての敵の出現位置を予見しているかのような、計算され尽くした精密な立ち回りに。
「……加州殿、燭台切殿! 遡行軍の処理を優先してください! 九条殿の部隊、撃破速度が異常です!」
一期の叫び通り、九条本丸の撃破ペースは白雪たちのそれを遥かに上回っていた。
「わかってるって! でも、こっちの大倶利伽羅が全然道を開けてくれないんだよ!」
加州清光が紅い刃を振るい、大倶利伽羅の重い一撃を弾く。
戦況は、白雪の霊糸による献身的なサポートで辛うじて拮抗しているように見えた。だが、それはあくまで白雪が全力で糸を操っているから」成立している均衡だった。
九条は、眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、必死に指先を動かす白雪を見つめる。
「……霊糸による並列制御か。美しい技術だが……。星栞白雪、君のその『優しさ』が、戦いにおいては致命的な隙になる」
九条の言葉と共に、戦場にさらなる強大な遡行軍の気配が満ち始めた。
演練の時間が経過するにつれ、戦場の空気は白雪にとって重苦しいものへと変わっていった。
「くっ……次から次へと……!」
加州が、波のように押し寄せる時間遡行軍を斬り伏せながら毒づく。白雪の「霊糸」は、確かに彼らの感覚を研ぎ澄ませ、疲労を和らげていた。しかし、それ以上に九条部隊の効率が、生物の域を超えていた。
九条は依然として、霊力を使う素振りすら見せない。ただ、彼が指先で微かに指揮を執るたび、髭切や薬研たちが、まるで見えない歯車が噛み合うように完璧な布陣を組み直す。
「……膝丸、左だ。堀川、和泉守の影を埋めろ。薬研、三秒後に中央を抜ける遡行軍を仕留めろ」
九条の低く、静かな声が戦場に響く。
それは命令というよりも、確定した未来を読み上げているかのようだった。彼の部隊は、白雪の部隊のように、主を護るために必死に動くのではなく、九条という巨大な計算機の一部として、一寸の狂いもなく戦果を積み上げていく。
(九条様の部隊、撃破数が……私たちの倍以上…!)
白雪は焦燥に駆られ、指先を激しく動かした。白雪の体から絞り出される霊力は、既に限界に近い。
「主、無理をしないでください!」
一期一振が髭切の鋭い一撃を弾き飛ばし、白雪を振り返る。その瞬間、一期一振の視界に、九条と目が合ったあの時の「瞳の揺らぎ」がフラッシュバックした。
(あの男……何故これほどまでに、冷徹に「勝つ」ことだけに徹することができる……!?)
その時、戦場の中央に大型の遡行軍――大太刀が三体同時に出現した。
「……、邪魔だッ!!」
肥前が咆哮し、白雪の霊糸の加護を受けて跳躍する。だが、その着地地点を、九条側の薬研藤四郎が正確に読み切っていた。
「悪いな、肥前。ここは通さない」
薬研の短刀が、肥前の脇腹をかすめる。致命傷ではない。しかし、その僅かな遅れが、白雪部隊の「撃覇速度」を決定的に引き離した。
「……、あ……」
白雪の指から、ふっと力が抜ける。
モニターに映し出されるスコア。九条本丸の撃破数は、既に白雪たちの追随を許さない領域に達していた。さらに、九条部隊による「牽制(デバフ)」によって、山姥切や燭台切の戦力評価もじりじりと削られていく。
九条は、眼鏡を指先で押し上げ、肩で息をする白雪を真っ直ぐに見据えた。
「無駄な動きが多い。……君は刀たちの『心』を繋ぎすぎだ、星栞白雪。それは戦場においては、余計な摩擦を生むだけだよ」
九条の言葉は、氷のように冷たく白雪の胸に突き刺さった。白雪は必死に霊糸を張り直そうとするが、震える指先は思うように動かない。
「……まだ、終わってません。私は、最後まで……っ」
だが、無情にも演練の終了を告げる電子音が、戦場に冷たく鳴り響いた。
演練終了を告げる無機質な電子音が、砂塵の舞う模擬戦場に重く響き渡った。
ホログラムモニターには、両部隊の戦績が冷淡な評価と共に映し出される。
【演練最終評価:判定レポート】
遡行軍撃破数: 九条本丸(極めて優秀)/ 星ノ本丸(優秀)
撃破完了速度: 九条本丸(最速)/ 星ノ本丸(基準以上)
戦術干渉度: 九条本丸(完全支配)/ 星ノ本丸(一部有効)
総合評価:九条本丸 A+ / 星ノ本丸 B
「……っ、あ……」
白雪の指先から、光の霊糸が砂に溶けるように消えていった。
限界まで霊力を絞り出した反動で、白雪の体から一気に力が抜ける。ガクガクと震える膝が折れ、地面に崩れそうになったその瞬間。
「……ッ、主!!」
肥前が、地を這うような速さで駆け寄り、白雪の体をその逞しい腕で力任せに支え上げた。返り血と煤にまみれ、肩で激しく息をしながらも、その瞳には主を支えきれたことへの安堵と、九条への剥き出しの敵意が混在している。
「……すまねぇ、主。……俺が、あいつの眼鏡を叩き割ってやりゃ良かったんだが……っ」
「いいえ、肥前くん……。皆さんは、最高に格好良かったです。私の……力が及ばなかっただけ……」
白雪は、肥前の腕の中で必死に呼吸を整えた。
そこへ、軍服の汚れ一つなく、九条瑛士が静かな足取りで歩み寄ってくる。
「……見事だったよ、星栞白雪」
九条は、視線を白雪に落とし、眼鏡を指で押し上げた。その表情には、先ほどの傲慢な支配者の面影はなく、どこか芯の食えない、けれど確かな感嘆を孕んだ笑みが浮かんでいる。
「正直に言おう。私の計算をここまで狂わせ、これほどまでに戦い抜いた相手は……そう数いない。君の『霊糸』による執念は、論理を超えた驚異だった」
「……九条様」
白雪は、敗北の悔しさを噛み締めながら、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
九条の言葉は、勝者の余裕かもしれない。しかし、その声には嘘をつけない「戦士」としての敬意が僅かに混じっていた。
「負けは、負けです。……約束通り、貴方の願いを……」
九条は一瞬、黙り込んだ。彼が白い手袋を嵌めた手を、白雪の頬へ、あるいは髪へと伸ばそうとしたその時。
「――そこまでにしていただけますか、九条殿」
一期が、スッと白雪の前に割って入り、九条の視線を遮った。
普段の穏やかな貴公子ではなく、一振りの名物としての矜持を剥き出しにした一期一振の眼差し。
九条はその視線とぶつかった刹那、眼鏡の奥で、今日一番の「揺らぎ」を見せた。白雪と一期一振の間に流れる、自分には決して届かない「何か」を突きつけられた者のような、切実な疼き。
「……今日のところは、いいだろう」
九条は伸ばしかけた手を静かに引き、一期一振の肩越しに白雪を見据えた。
「星栞殿。……後でゆっくり、君の返事を聞かせてもらおう。楽しみにしているよ。君が自ら、私の隣へ来る日を」
九条は軍服の裾を鮮やかに翻し、背後の膝丸や薬研たちを伴って歩き出す。
転送の青白い光が彼らを包み込み、相変わらず食えない笑みを浮かべる髭切と共にその姿が消えた後、戦場には心地よい疲労感と、主を奪われかねないという焦燥を孕んだ熱い闘志が、白雪たちの間に重く沈殿していた。
模擬戦場に静寂が戻り、九条たちが消えた空間を、肥前の怒声が切り裂いた。
「……あ、あの眼鏡野郎……ッ! 言いたい放題言いやがって……! 次会ったら絶対ぇ、そのツラ拝めねぇようにしてやる!」
肥前は苛立ちをぶつけるように、鞘に収めた刀の柄を強く握りしめる。支えられている白雪の肩に、彼の体温と激しい鼓動が伝わってきた。
「本当だよ! 『後でゆっくり』なんて、どの口が言ってるの? 主を自分のお城に招待しようなんて、下心の塊じゃない! 絶対行かせないからね!」
加州も、紅い爪を噛みながら憤慨している。手入れの行き届いた髪も、今は激戦の名残で乱れていた。
「……はは。僕は、少し格好悪かったかな」
ふと、燭台切光忠が自嘲気味に呟いた。
「主を守る盾になると言っておきながら、土壇場で彼らの計算に嵌まってしまった。……次はもっと『格好いい』僕を見せられるように、キッチンだけじゃなく道場でも修業し直しだね」
そんな喧騒の少し後ろで、乱藤四郎が一期一振の隣に音もなく並んだ。他の刀たちには聞こえないほどの、密やかな囁き声。
「……ねぇ、いち兄。見てたでしょ、今の」
「……何のことかな、乱」
一期は、去りゆく九条がいた場所を、未だ射抜くような眼差しで見つめていた。
「とぼけないでよ。あの主さん、これまでの演練で見てきた審神者の中でもかなりのイケメンさんだったけど……、いち兄と目が合った時、すっごく動揺してた。……あれ、絶対いち兄にきゅんとしちゃってたなあ、って」
乱の茶目っ気たっぷりの指摘に、一期一振は一瞬、きょとんと目を丸くした。
「……きゅん、と……? 彼は私を敵対者として見ていたはずだが……」
「あはは、いち兄は天然だなぁ。あんなに熱烈に見つめ合っちゃって。……でも、主を守る時のいち兄、すっごく凛々しくて素敵だったよ。僕も惚れ直しちゃった」
乱がクスクスと笑うと、一期一振もようやく、硬く結んでいた口元を僅かに緩めた。
「……そう見えたのなら、兄として面目が立つというものだね」
模擬戦場の熱気から離れ、手入れを終えた白雪たちはそれぞれの役割のために分かれた。
白雪は加州を伴い、演練の戦果報告と手続きのために事務局へ。一期一振と乱は、礼儀として他本丸の審神者たちへ挨拶回りに出向く。山姥切と燭台切は、戦いの疲れを癒やすために休憩所へと向かっていった。
肥前は一人、手洗いへと向かう。
顔を洗い、冷たい水で昂った頭を冷やそうとしたが、あの眼鏡の男――九条の残した余韻が、どす黒い澱のように胸の底に居座っていた。
(……気に入らねぇ。どいつもこいつも)
水気を拭い、不機嫌を絵に描いたような顔で廊下を曲がった、その時だった。
角の向こうから、一振りの刀が音もなく現れる。
褐色に焼けた肌、無造作に乱れた髪。九条本丸の打刀、大倶利伽羅だった。
「……ッ」
肥前の身体が、瞬時に戦闘態勢へと移行する。
対する大倶利伽羅も、その黄金色の瞳に冷ややかな光を宿したが、抜刀する素振りは見せなかった。ただ、肥前とすれ違う刹那、足を止めることなく、低く、礫のような声を投げた。
「……馴れ合うつもりはない」
その一言で終わるかと思われたが、大倶利伽羅は僅かに足を緩め、視線だけを背後に投げた。
「だが……。……うちの主は、えらくあんたのとこの主を気に入ってたようだぞ」
「……、なんだと?」
肥前の声が、地を這うような低さで響いた。
九条が白雪に向けた、あの計算高く、それでいて執着に満ちた視線。それを間近で見ていた大倶利伽羅の言葉は、肥前の逆鱗を正確に踏み抜いた。
大倶利伽羅は、肥前の反応に興味を示すこともなく、そのまま歩みを進めようとする。
「……殺すぞ」
肥前は、大倶利伽羅の背中に向けて、呪詛にも似た短い言葉を吐き捨てた。
それは大倶利伽羅に対してというよりは、彼を従える主、九条瑛士に対する明確な殺意の表明だった。
大倶利伽羅は足を止めず、鼻で笑ったようにも見えたが、何も答えずにそのまま雑踏の中へと消えていった。
「……絶対ぇだ。あいつにだけは、指一本触れさせねぇ」
肥前は拳を血が滲むほどに握りしめ、自分たちの本丸があるべき方向へと、重い足取りで歩き出した。その瞳には、敗北の悔しさを塗りつぶすほどの、狂おしい守護の意志が燃え盛っていた。
休息と、ジャスミンの激励
休憩所の長椅子に、激闘を終えた面々がようやく顔を揃えた。 一足先に戻っていた山姥切、燭台切に続き、挨拶回りを終えたばかりの一期一振と乱、そしてどこか殺気立った様子で戻ってきた肥前が、ほぼ同じタイミングで合流した。
「……はぁ。みんな、お疲れ様。まずはこれを食べて、一息つこうか」
燭台切が本丸から持参していた重箱を開けると、中には真っ白で柔らかな特製大福が並んでいた。
「……食う」
肥前は不機嫌そうに呟きながらも、大倶利伽羅との一幕で昂った頭を冷やすように大福を掴み、口に放り込む。餡の甘さが、荒んでいた心に染み渡っていく。
「ん~美味しい!疲れがふきとぶよ!」
「美味しゅうございますな。ところで……先ほど乱とともに挨拶周りをした際に彼の噂を少し聞きました。やはり一筋縄ではいかない男のようです」
一期が、「冷徹なエリート」「勝利への異常な執着」という九条の評判を共有し、全員神妙な面持ちでそれに聞き入っていた。
そんな少し重い空気の中に、派手な香水の香りと共に賑やかな声が割り込んできた。
「演練、見てたわよ! あの眼鏡の坊や、相当性格ひん曲がってるけど実力だけはあるからねぇ。ハイ、これ! アタシの本丸特製の最新スイーツ、お食べなさい!」
ジャスミンが差し出したのは、色とりどりのフルーツが飾られた華やかなスイーツだった。
「甘いものは心の栄養! 負けた時こそ、糖分摂って笑い飛ばすのよ!」
乱が「わあ、美味しそう! ジャスミンさん、ありがとう!」と目を輝かせる。肥前は差し出されたスイーツを黙って受け取り、少し戸惑ったように視線を泳がせた後、小さく鼻を鳴らして短く応えた。
「…うめぇ」
そこへ、事務局での手続きを終えた白雪と加州が、並んで戻ってくる。
「皆さん、お待たせしました。……あら、ジャスミンさん! またお会いできて嬉しいです」 白雪がパッと表情を明るくすると、加州が机の上に並んだ豪華なスイーツを見て、少し呆れたように笑った。
ジャスミンは「白雪ちゃんも頑張ったわね!」と彼女の背中を豪快に叩く。
「さあ白雪ちゃん、あんたも食べなさい! 食べなきゃやってられないわよ、あんな眼鏡相手じゃ!」
「ふふ、そうですね。皆さん、一緒にいただきましょう!」
白雪の笑顔につられるように、休憩所の刺々しかった空気は甘い香りと共に和らいでいく。九条という不穏な影は消えないものの、仲間たちと分け合うこの時間は、彼女たちの心を再び前へと向かせる確かな糧となっていた。
甘いもので英気を養った後は、他本丸の戦いを見学して回った。
夕暮れ時、演練場の空は燃えるような茜色に染まり、長い影が白雪たちの足元に伸びている。
「主、そろそろ帰還の門が開く時間だよ」 燭台切に促され、白雪は最後にもう一度、戦いの余韻が残る演練場を振り返った。
西の空は深く燃えるような茜色に染まり、長く伸びた自分たちの影が、足元で揺れている。
「……あっちの本丸の大和守安定、凄かったね。あの連続攻撃、俺も真似してみようかな」 加州清光が、見学したばかりの試合を反芻するように指先を動かす。
「……俺は、あの山伏国広の立ち回りが気になった。写しの俺とは違う、迷いのない踏み込みだった」 山姥切国広も、フードの端を握りしめながら、自身の向上心を燃やしていた。
白雪は、そんな彼らの横顔を見上げながら、歩調を合わせる。 「皆さん、本当に勉強熱心ですね。私も……他の方の霊力の通し方を見て、新しい使い道が閃きそうです」「それは楽しみですね、主」 一期一振が、穏やかな微笑みを浮かべて隣に並ぶ。
「九条殿のような合理的で冷徹な強さも、確かに一つの形。ですが、今日私たちが他の方々の戦いを見て感じた『熱』もまた、勝利への道標になるはずです」
「いち兄の言う通り! 帰ったらまたみんなで相談して、次は絶対リベンジしなきゃね!」
乱がぴょんぴょんと跳ねるように歩き、場を明るく盛り上げる。
「そのためには、まず美味しい夕飯だね。今日は主の好きなものを作らせてもらうよ」
燭台切が優しく声をかけると、最後尾を歩いていた肥前が、ボソリと呟いた。
「……、飯食ったら、すぐ稽古だ……あの眼鏡の配下たちに、次は後れを取らねぇ。主、しっかり見とけよ」
ぶっきらぼうなその言葉に、白雪は「はい!」と力強く頷いた。
夕闇が少しずつ濃くなり、演練場に点在する灯籠に火が灯り始める。 背負った敗北の悔しさはまだ完全には消えていない。けれど、肩を並べて歩く刀たちの足音を聞いていると、不思議と心は軽かった。
「……帰りましょう、私たちの本丸へ」
白雪がそう告げると、六振りの刀たちがそれぞれの想いを乗せた返事をする。 茜色の空の下、白雪たちは明日への決意を胸に、懐かしい本丸へと繋がる帰還の光の中へ、一歩ずつ踏み出していった。
転送の光が収まると、そこには見慣れた本丸の玄関先が広がっていた。
演練場の張り詰めた空気とは違う、どこか土の匂いと草木の香りが混ざった、温かな我が家の空気。
「お帰りなさいませ、主様! 皆様!」
奥から、留守を預かっていた短刀たちが弾んだ声で駆け寄ってくる。
「主様、お疲れですか?」「よっ、演練、どうだった?」
口々に尋ねる短刀たちの無垢な瞳に、白雪はふっと表情を和らげた。
「ただいま、みんな。お留守番ありがとう。今日はね、少し悔しいこともあったけれど、次への大きな宿題をもらってきたの」
白雪が優しく微笑むと、短刀たちは「次は絶対勝てるよ!」「僕達が応援してます!」と、彼女を励ますように周りを取り囲んだ。
玄関先では、刀たちが思い思いに動き出す。
加州は「あー、やっと脱げた。主、後で爪塗り直していい?」と、自分の手入れを優先させ、山姥切国広は「……写しの俺にできることを、もう一度考え直す」と呟きながら、一人静かに自室へと向かった。
「さて、今日の演練の記録をまとめておきましょう。記憶が鮮明なうちに、反省点を洗い出しておかねば」
一期が、生真面目な顔で白雪に向き直る。
「主、お疲れのところ恐縮ですが、執務室へ参りましょうか。九条殿の布陣についても、早急に整理しておく必要があります」
「はい、そうですね。一期さん、お願いします」
白雪は頷き、一期一振と共に執務室へと歩き出した。
廊下の向こうからは、割烹着姿の歌仙兼定が顔を出した。
「おや、お帰り。ちょうど今、夕飯の仕上げにかかるところだよ。今日は君たちのために精のつくものを用意したからね。……燭台切、君も手伝ってくれるかい?」
「もちろんだよ、歌仙くん。主と皆が元気になるような、とびきりの一皿にしよう」
厨からは、トントンと小気味よい包丁の音が響き始める。
そんな喧騒の隅で、肥前は一人、壁に背を預けていた。
(……うちの主は、えらくあんたのとこの主を気に入ってたようだぞ)
手洗い場での大倶利伽羅の言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
(気に入った、だと? ふざけやがって……。あんな、腹の底が知れねぇ男に……)
「……、おい、主」
執務室へ向かおうとする白雪を、肥前が呼び止めた。
白雪が立ち止まると、肥前はぶっきらぼうに視線を逸らしながら、絞り出すように告げた。
「……次は、あんな奴に好き勝手させねぇ。あんたの糸は、あいつの言うような無駄なもんじゃねぇ。俺たちが、それを証明してやる」
確かな熱量を持った言葉。
「……はい。ありがとうございます、肥前くん。私も、もっと強くなります。皆さんと一緒に」
白雪の瞳に、再び強い光が宿った。
敗北から始まったこの一日は、ただの終わりではない。
九条瑛士という、正体不明の、けれど強大な執念を持つ「壁」を越えるための、長い夜の始まりだった。