西暦2003年。
東京、新宿。
その日、この世界の法則は音もなく破綻した。
昼なお薄暗い空の下、何の前触れもなく現れたのは、あまりにも巨大な「人」の姿をした何かだった。雲を突き抜けるほどの白い巨躯は身じろぎ一つせず、ただ新宿の街を見下ろしていた。その姿を目撃した人々は言葉を失い、逃げ惑い、ある者は膝をつき、ある者は理解を拒絶した。既存の科学では説明できない存在を前に、人類は初めて、自らの知る世界が決して絶対ではないことを知る。
ほぼ同時刻。
巨人を追うように、一頭の赤き竜が空を裂いた。
鋼鉄よりもなお紅く、炎のような鱗をまとったその竜は、現実には存在し得ない生命だった。その背には一人の男が跨っていたが、遠く離れた地上からその姿を正しく認識できた者はいない。ただ、戦闘機でも鳥でもない異形が巨人へ向かって飛翔していく光景だけが、人々の網膜へ焼き付いた。
やがて、新宿上空で両者は激突する。
巨人は咆哮すら上げず、竜は言葉を発さない。
それでも衝突の瞬間、大気は軋み、空間は震え、世界そのものが悲鳴を上げた。常識では測定不能なエネルギーが解放された時、そこに巨人の姿はなかった。
消滅。
ただ、その一語だけが事実として残る。
だが、人類は勝利を祝福することはなかった。
正体不明の飛行生物は依然として東京上空を飛行しており、その危険性は未知数だったからだ。
日本政府は混乱の中で防衛出動を決定する。
航空自衛隊へ迎撃命令が下る。
「目標、不明飛行物体。撃墜せよ。」
その命令が発令されてから、およそ■分。
スクランブル発進した戦闘機隊は、赤き竜を目視で捕捉する。
照準。
警告。
応答なし。
続いて発射された空対空ミサイルは、尾を引きながら一直線に目標へ吸い込まれていった。
爆炎。
衝撃。
竜は翼を大きく揺らしながら姿勢を崩す。
その背にいた男もまた、炎と黒煙の中へ呑まれていく。
高度を維持できなくなった竜は、なおも羽ばたこうと抗った。
まるで、何かを守ろうとするように。
しかし、失われた揚力は戻らない。
巨大な紅い身体は都市上空を滑空し、いくつもの高層建築を掠めながら高度を落としていく。
そして。
赤き竜は、その生涯最後の飛翔の果てに――東京タワーへ衝突した。
鉄骨が悲鳴を上げる。
炎が夜にも似た黒煙を噴き上げる。
崩れ落ちる塔を見上げながら、その場にいた誰もが理解できずにいた。
この日を境に、世界は静かに終わり始めていたことを。
――西暦2010年、世界規模で「白塩化症候群」が流行。
――西暦2014年、ゲシュタルト計画の始動。及びゲシュタルト化の成功。
――西暦2016年、「ハーメルン機関」の発足。
ハーメルン機関――白塩化症候群(White Chlorination Syndrome)とレギオンへの対策組織として設立された。
世界各地から子どもを集めて育成し、レギオンと戦う兵士を養成し軍属とする。
アベルが物心ついた頃には、既に世界は終わっていた。
都市は荒廃し、教育というものは平等に受ける権利ではなくなった。
目を覚ましたアベルがすることは、
顔も知らない両親が残した「ガイコクジン」と言われる「きれいな顔」で、見知らぬ他人の善意を絞り出すことか、
荒れた店内の「食えるもの」を探すこと、
白く塩のような色をした、ニンゲンのようなナニカから逃げることくらいか。
「…… たりない」
掠れた声が、小さく零れた。
きゅっと結ばれた唇は乾ききり、ひび割れた表面からは血の色さえ失われている。幼い子どもであれば本来あるはずの柔らかな頬は痩せ、輪郭には不自然な鋭さが宿っていた。それでも、その灰色がかった瞳だけは静かに周囲を見据え、飢えに屈することなく獲物を探している。
生きている。
それだけは確かだった。
骨ばった小さな指先が、崩れた棚を一つひとつ探っていく。錆びた缶詰。割れたガラス瓶。朽ちた紙箱。どれも何度も誰かに漁られた跡ばかりで、食べられるものなど残ってはいない。
「……たりない。」
もう一度呟く。
腹は膨れた。
昨日見つけた乾いたビスケットが、まだ胃の底に残っている。
それでも、足りない。
明日を迎えるための食べ物が。
明後日を迎えるための水が。
そして、この世界で生き延びるには、何もかもが足りなかった。
しかし捨てる神あれば拾う神あり。
アベルに救いの手が差し出されたのは、ある意味必然だったのかもしれない。