五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
数日おいて、店じまいの刻限に呼ばれた。今夜は売れ残りを食べる日だから手伝え、というのがポーレットの言い分で、売れ残りなど一つも出ない店なのは、この数日の通いで知っている。つまりは、そういう口実である。亭主どのは寄り合いとやらで留守にされていた。「いない日を選んだんだよ。積もる話ってのは、そういうもんだ」とは女将の弁である。
夕暮れのパン屋は、一日ぶんの熱を壁ごと蓄えて、ぬくい。店の奥の粉部屋に卓を出し、堅くなりかけたパンを薄く切って、チーズと油を並べる。蝋燭が二本と、窯の残り熱。堅パンは油に浸すと、別のご馳走に化けるのだと教わった。護衛殿は今夜も入り口の柱を守ろうとして、女将に襟首を掴まれ、卓に着けられた。それでも壁を背にした席をさりげなく選ぶのは、もう習い性だから仕方がない。
「思い出したんだよ、あんた」
ポーレットが杯を置いて、護衛殿を指さした。行儀は悪いが、勢いは良い。
「夏至祭だ。あたしゃ王都で二十年、祭りのたんびに屋台を出してた。……広場の南の角。毎年おんなじ場所に、おんなじ顔で突っ立ってた衛兵さんだ」
「…………職務、でしたので」
「二十年だよ? あたしが見ただけで、二十年。祭りの警備なんて若い衆の役だろうに、あんた、偉そうな年格好になってもおんなじ角に立ってた。よっぽど夏至祭がお好きなのかね」
「……配置は、志願制です」
護衛殿はそれだけ言って、パンの端を齧る。齧ってから、噛むのを少し忘れていた。二十年、と胸の中で数える。いいえ、この方は四十年お勤めなのだ。それに、南街道の巡回も長かったと仰っていた。夏至祭の警備と、南へ下る道と――。
――詮索は、旅の荷にならないうちにやめておくのである。二度目の自戒である。
「そういえばさ」
ポーレットが、奥から古い菓子箱を抱えてきた。蓋に紐が十字に掛かって、結び目が固い。
「あんたの手紙。全部ある」
蓋を開けると、黄ばんだ束が幾山も、几帳面に年の順で寝ていた。三十七年と少し前のところで、山は止まっている。さかのぼるほど、わたくしの字が、あの箱の紙片と同じ速度で若返っていく。指が勝手に、一番古いあたりを探った。
「読んでごらんよ。傑作だから」
「傑作……」
「十六のあんたはね、宮廷の靴擦れの話ばっかり書いてよこしたんだ」
言われて一通開けば、なるほど靴擦れが三行。次の一通には、口うるさい女官長の似顔絵まで付いている。わたくしにも、覚えのない才能があったらしい。笑い声が、粉部屋の低い天井に籠もった。
「で、十七の春にいっぺんだけ、靴擦れじゃない手紙が来た」
ポーレットは束の間から、迷いなく一通を抜いた。三十七年、どこにあるか知っていた者の手つきである。
開くと、若い撥ねの字が並んでいた。
――今日、生まれて初めて、殿方と踊りました。練習ですけれど。半分で終わってしまったの。もったいないこと。
「……字が、若いわね」
「その先も読みなよ」
――お相手の名は、教えてあげません。あの人の名前は、いまは、わたしだけが呼ぶの。
粉部屋が、静かになった。
十七のわたくしは、こんな字で、こんなことを書く娘だったのである。大胆で、無防備で、まだ何も諦めていない。この手紙の数週間あとに、あの子は箱の一枚目を書くことになる。知らないのは、手紙の中の本人だけだ。……胸のどこかが、古い楽譜を踏んだように、小さく鳴った。
卓の向こうで、パンの端がひとつ、皿へそっと戻される。護衛殿は立ち上がり、窓の掛け金を検分しに行った。検分の要る掛け金では、ないはずである。蝋燭の火が、大きな背中で半分陰った。
「相手の名前、あたしはいまだに知らないんだよ」
「……あら。わたくしも、忘れましたわ」
「ふうん。忘れた、ねえ」
ポーレットは杯を干して、にんまりと笑い、それ以上は追わなかった。幼馴染というものは、追い詰めどころと引きどころを、粉の加減みたいに心得ている。
忘れた、と言った口の中に、名前の形がまだ残っている。三十七年、呼ばずにいた名前は、忘れた振りのいちばん奥で、いちばん鮮明なのである。呼べば、何かが動き出してしまう。……何かを動かすのは、札の仕事だ。今夜のわたくしの仕事では、ない。
帰り道は、月と、湖の匂いである。月は湖の上に道を敷き、夜の水鳥がその道をよぎって崩す。歩きながら、わたくしは月より、隣の沈黙の目方を測っている。心地よい沈黙と、重い沈黙の区別くらいはつく歳である。今夜のは――張りつめて、それでいて、やわらかい。三十七年前の広間の、曲の途切れたあとの沈黙と、同じ手触りである。ポーレットが持たせてくれた棒パンを一本、外套の下に抱えて歩く。夜風がパンの温みを奪ってしまう前に、と、わたくしは端を千切って齧った。
「あなたも。……ほら、端」
「歩きながら、ですか」
「祭りで覚えましたの。歩き齧りは、夜道の醍醐味ですのよ」
「行軍中の食事は、五分で完了が規則でした」
「ここは行軍ではありませんわ」
護衛殿は差し出された端をしばらく検分し、意を決したように齧った。四十年の規則が、ぱり、と小さな音を立てて欠ける。
「……いかが?」
「…………夜道が、遅くなります」
「あら、名答」
宿に戻り、寝る前に文箱を開けた。夏の袋が軽くなったので、秋の袋の口を確かめるためである。ふと視線を感じて手を止めると、護衛殿の目が、箱の底――裏返しの一枚の上に、落ちていた。
一瞬である。彼はすぐ、燭台の火加減の検分を始めた。今夜は、検分の多い夜である。
「ご覧になりました?」
「……見ておりません」
「嘘が下手ねえ」
「…………昔から、です」
昔から。その昔が、どのあたりから数えての昔なのか。わたくしは訊かない。彼も言わない。訊けば、答えが出てしまう。出た答えは、仕舞い直しがきかない。箱の底の一枚がまだ伏せてあるうちは、こちらの問いも、伏せておくのが釣り合いというものである。裏返しの一枚は、裏返しのまま、箱の底で静かにしている。まだ、めくらない――。
翌朝、宿に先触れの使いが立った。侯爵家嫡男セドリック様、三日ののちに当地へお運びの由。母君に、火急の御用とか。
「あら」
湖の夏が、そろそろ終わる。秋の袋の口紐を、ゆるめておくといたしましょう――。