五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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11. 空気は、失くしてから騒がれるの

 先触れから三日ののち、湖畔の安宿の前に、四頭立ての馬車が停まった。漆塗りの扉に侯爵家の紋章。宿の女将は腰を抜かしかけ、往来の子供は車輪を数えに集まり、当の嫡男は、磨いた靴の降ろし場所を三度探した。安宿の前というものは、上等な靴には広すぎる場所なのである。窓からそれを見下ろして、わたくしは茶を先に頼んでおいた。長い話になるか、短い話になるか。どちらにしても、渋い茶が合う。

 

「母上。……お変わりなく」

 

「あら、変わりましてよ。ほら、そばかす」

 

 セドリック、三十三歳。生真面目と体面とでできた子である。誰に似たのだか、と言いたいところだけれど、生真面目の出どころには、わたくしにも心当たりがある。

 

 宿の縁台に、渋い茶を二つ。息子は腰を下ろす前に手巾で縁台を払い――諦めて、手巾を敷いて座った。育ちと意地の間で、折り合いをつけたらしい。考えてみれば、息子と差し向かいで茶を飲むのは、生まれて初めてである。屋敷の茶はいつも、誰かの給仕と、誰かの目と、次の予定との間に挟まっていた。縁台の茶は、湖の風と、息子の困り顔との間にある。湯気が二筋、同じ風に同じ方へ流れていく。悪くない席である。

 

 息子は茶碗を一瞥し、口を付けるまでに三拍かけた。それから、用意してきた口上を始める。段取りの型が、娘とそっくり同じで、笑いを噛むのに少し苦労した。

 

「単刀直入に申し上げます。お戻りください。家の体面に関わります」

 

「体面」

 

「フェリシアは説得に失敗したようですが……いえ、あれの手紙は、正直、意味が分かりかねます。母上」

 

 息子は一度、言葉を選び直した。

 

「……母上の席は、空けてあります」

 

 湖の風が、縁台の上を渡っていく。わたくしは茶を一口含んで、ゆっくり戻した。

 

「あなた方が空けたままにしたのは、席ではなくてよ、セドリック。わたくしの三十七年よ」

 

「…………」

 

「席なら、新しい奥方様がお座りになればいいの。座るだけなら、誰にでもできるわ」

 

「――できていないから、参ったのです」

 

 言ってしまってから、息子は口を結んだ。体面の鎧に、ひび割れがひとつ。……この子は昔から、嘘のつけない子である。厨房の菓子を盗み食いしては、頬の膨らみと、口の端のジャムとで、すぐに知れた。体面はいったい、どこで覚えたのだったか。――ああ。わたくしたちの背中で、である。

 

 胸の奥が、鈍く軋む。子供は、教えたことではなく、見たことを覚える。わたくしが夫の前で言葉を飲むたび、幼いこの子は、飲み方のほうを写し取っていたのである。三十三年前に返しそこねた宿題を、いま、縁台の向かいに突きつけられている心地がする。

 

「厨房から三人辞めました。侍女頭も、今月限りと申しています。バルテルの後任は決まらず、誰も、どこに何があるのか、誰に何を頼めばよいのか、分からないのです。母上は……」

 

 息子は湖のほうを見た。水鳥が一羽、音もなく水脈を引いていく。

 

「母上は、あの家の、何だったのですか」

 

「空気よ」

 

 茶碗を置く。かたり、と縁台が小さく鳴った。

 

「あって当たり前で、失くしてから騒がれるの。……あなたのせいではないわ、セドリック。空気に礼を言う人は、いないものよ」

 

 息子は何か言いかけ、言葉が見つからず、茶を飲んだ。渋い、という顔をして、それでも全部飲む。育ちの良さというものである。飲み干した茶碗の底を、しばらく見つめていた。

 

 言ってしまってから、わたくしは胸の内で、いまの言葉の目方を検分する。恨みは、混ざらなかったはずである。三十七年は、この子のせいではない。けれど、この子に引き取らせる気も、もうないのである。母親を辞める気はない。空気を辞めただけ――その区別を、あの子がいつか、正しく仕分けてくれますように。

 

「……この茶は」

 

「渋いでしょう」

 

「……はい。ですが、悪くない、です」

 

 三十三年育てて、初めて聞く種類の負け惜しみである。

 

 それから、ふと目を上げた先――三歩離れて立つ大男に、眉を寄せた。

 

「先ほどから気になっておりましたが。そちらは、何者です」

 

「「護衛です」」

 

 声が、二つ重なった。わたくしと、当人と。セドリックはわたくしたちを見比べ、それ以上は追及しないことに決めたらしい。体面家というものは、藪の気配に聡いのである。

 

「……大猟祭が、近いのです」

 

 帰り際、息子は馬車の扉に手を掛けたまま、振り向かずに言った。

 

「あれは、母上なしで回るものなのですか」

 

「回らないでしょうね」

 

「……率直ですね」

 

「率直は、旅の荷になりませんの」

 

 馬車が走り出し、土埃が薄く立って、湖の風に流された。あの子の背中が、少し丸かった。体面の下の困り顔を、久しぶりに見た気がする。

 

 追いかけて、襟を直してやりたい衝動が、指の先まで来て、止まる。あの丸い背中を伸ばすのは、もうわたくしの勤めではない。あの子が自分で伸ばすのである。……手を出さない、というのは、手を出すより力の要る愛し方だ。三十三年目にして、初めての稽古である。

 

  ◇

 

 同じ頃。モンフォール邸では、三十年勤めの侍女頭が、私物の(ひつ)をひとつ提げて通用口を出た。見送りは、竈の火を落としに残った料理番がひとり。廊下の花は、枯れてから誰も替えない。呼び鈴は鳴るのに、それがどの部屋の鈴で、誰の持ち場なのか、答えられる者がもういない。新しい奥方様が覚えたのは「背の高いほう」と「そうでないほう」だけで――その背の高いほうが、今朝、門を出たのである――。

 

  ◇

 

 夕暮れの湖は、秋の色を一枚、水底に混ぜ始めている。箱は今日も開けない。夏の袋は、もう空である。次に開くのは、秋の袋だ。

 

 湖の夏を思う。祭りで踊り、湖で浮き、幼馴染と窯の前で笑った。夏のわたくしは、ずいぶん取り戻したものである。それなのに、息子の丸い背中ひとつで、胸の一隅がまだ、あの屋敷の廊下の温度になる。捨てた家の軋む音は、勝ち鬨には聞こえない。ただ、遠い。遠いことに、しておく。

 

「……秋が、扉を叩いていますわね」

 

 大猟祭の秋が。あの家のいちばん長い秋が、来る――。

 

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