五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
湖畔の町を発つ朝、ポーレットは焼きたてを一抱えと、大声をひとつ持たせてくれた。手紙だよ、書くんだよ、月に二通だよ、という大声である。乗合馬車の客が全員こちらを見たけれど、幼馴染というものは、そういうものである。窓から手を振り返すと、粉まみれの腕が、見えなくなるまで振り続けていた。
さて、今朝は初めて、秋の袋といつでもの袋とを混ぜて引いた。季節が変われば、袋も変わるのである。出てきたのは『地図を持たずに一日、迷子になる』――三十四歳の字。
三十四の年のわたくしの一日は、四半刻きざみで埋まっていた。
――だから今日は、束にする。同じ芯を分け合う札を、袋から三枚、わたくしの裁量で添えるのだ。『乗合馬車で、知らない町へ行く』二十二歳。『裸足で草原を歩く』二十三歳。『川に素足を浸して、昼を食べる』二十八歳。予定と体裁の外へ出る札ばかり、都合四枚である。
「本日の行程を
「その知識は、今日はお預けよ。行き先は、いちばん知らない名前の町。降りる場所は、降りたくなった場所」
護衛殿は目を閉じ、何かを深く飲み込み、旅嚢の紐を締め直した。
「……水は、多めに持ちます」
「ええ、それは札に触りませんわ」
乗合馬車は、聞いたこともない名前の町へ行くやつを選んだ。掲示の行き先を読み上げて、一番舌に馴染まないのに決めたのである。荷台に近い席で、農婦の籠から
名前も覚えないうちに、降りたくなったので降りた。鐘楼のある小さな町で、鐘楼に時計はなく、正午は鐘撞き番の腹時計であるらしい。よろしい。今日はこちらも、腹時計である。
街道を外れると、
「……あら」
草は温かく、その下の地面はひんやりして、踏むたび足の裏で夏の名残が鳴る。ひばりが一羽、まっすぐに空へ昇っていく。靴というものは、体裁の入れ物だったらしい。脱いでみれば、足は存外、地面と旧知の仲である。護衛殿はわたくしの靴を、
昼は小川で、二十八歳の札。石に腰掛け、素足を流れに浸す。冷たさが
「午後は、いよいよ主役ですわよ」
「……迷子の、護衛ですか」
「ええ。存分に迷いますわ」
午後じゅう、標のない野道を歩いた。分かれ道はすべて、感じのいいほうへ。丘をひとつ間違え、同じ風車を二度拝み、農家の犬に二度吠えられ、荷車の親父には笑いながら手を振られる始末である。日が傾き始めた頃には、ここがどこか、誰にも――たぶん元近衛隊長にも――分からなくなっていた。
「せめて、地図を」
「地図は禁止よ。紙のご指示なの」
「……はい」
諦めた護衛が、何も言わずに後ろを歩く。夕暮れの野道で、不安がないと言えば嘘になる。ただ、後ろから続く力強い足音が、どんな道標より頼りになる形をしているのである。予定表の外は、思ったより広くて、思ったより歩ける。四半刻きざみの三十四歳に、教えて差し上げたい。行く宛のない不安は、最初の一刻、皮膚の内側が落ち着かない。予定という服を三十七年着てきた素肌が、まだ時間の風に慣れていない。慣れてしまえば――ああ、これは、素足の草原と同じだ。時間もまた、裸足で踏んでよいものだったらしい。
日が落ちる寸前、丘の向こうに宿場の灯が見えた。護衛殿の肩から、音のしそうな安堵が下りていく。迷子の終わりに灯りが待っているなら、迷子は上等な遊びである。
夜、宿場の裏で四枚まとめて火にくべた。二十二歳、二十三歳、二十八歳、三十四歳。四人のわたくしが順に灰になって、一晩でずいぶん身軽になる。贅沢な夜である。
「残り、二十五枚」
翌朝の乗合馬車は、南街道を下るやつである。
護衛殿の眉が、ぴくりと動く。わたくしは窓の外の街道を眺めて、他人事の顔を丁寧に作った。夜逃げ同然。……荷造りは半日、署名は即答でしたけれど。噂というものは、運ばれるうちに面白いほうへ転がるものである。
胸の内を検分してみる。怒りは、ない。可笑しさが半分、あとの半分は、奇妙な浮遊である。自分の三十七年が、知らない誰かの口で軽々と運ばれていく。荷造りは半日で済んだのに、噂の中のわたくしは、まだあの屋敷から夜逃げの最中らしい。……事実はこちらの膝の上にある。運ばれていくほうは、くれてやる。
「……大変なお家もあったものですね。ふふっ」
「…………はい」
膝の上の文箱だけが、事情を全部知っている――。