五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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12. 地図は、宿に置いてまいりました

 湖畔の町を発つ朝、ポーレットは焼きたてを一抱えと、大声をひとつ持たせてくれた。手紙だよ、書くんだよ、月に二通だよ、という大声である。乗合馬車の客が全員こちらを見たけれど、幼馴染というものは、そういうものである。窓から手を振り返すと、粉まみれの腕が、見えなくなるまで振り続けていた。

 

 さて、今朝は初めて、秋の袋といつでもの袋とを混ぜて引いた。季節が変われば、袋も変わるのである。出てきたのは『地図を持たずに一日、迷子になる』――三十四歳の字。

 

 三十四の年のわたくしの一日は、四半刻きざみで埋まっていた。朝餉(あさげ)の指図、花の差配、便りの返事、客の席次。誰の予定にも穴を空けないのが誇りで、予定と予定の間に、わたくし自身はいなかった。予定表の外に、一日まるごと脱走する。それがこの札の芯である。四半刻きざみの日々を、わたくしは恨んではいない。あれはあれで、腕の見せ所だった。ただ、あの予定表のどの升目にも、わたくしの名前だけが書かれていなかったのである。書き込む係には、自分を書き込む欄がない。

 

 ――だから今日は、束にする。同じ芯を分け合う札を、袋から三枚、わたくしの裁量で添えるのだ。『乗合馬車で、知らない町へ行く』二十二歳。『裸足で草原を歩く』二十三歳。『川に素足を浸して、昼を食べる』二十八歳。予定と体裁の外へ出る札ばかり、都合四枚である。

 

「本日の行程を(そら)んじます。まず街道を二里、渡しを――」

 

「その知識は、今日はお預けよ。行き先は、いちばん知らない名前の町。降りる場所は、降りたくなった場所」

 

 護衛殿は目を閉じ、何かを深く飲み込み、旅嚢の紐を締め直した。

 

「……水は、多めに持ちます」

 

「ええ、それは札に触りませんわ」

 

 乗合馬車は、聞いたこともない名前の町へ行くやつを選んだ。掲示の行き先を読み上げて、一番舌に馴染まないのに決めたのである。荷台に近い席で、農婦の籠から薄荷(はっか)の匂いがして、車輪が石を踏むたび、乗客全員が同じ拍子で跳ねる。行き先を自分で選んだ馬車は、跳ね方まで愉快である。ついでに、旅の足の中でいちばん路銀に優しい。二年分を一年で使う設計には、ありがたい相棒だ。十七歳のわたくしは、行き先の決まった花嫁の馬車で、この愉快を諦めたのだった。

 

 名前も覚えないうちに、降りたくなったので降りた。鐘楼のある小さな町で、鐘楼に時計はなく、正午は鐘撞き番の腹時計であるらしい。よろしい。今日はこちらも、腹時計である。

 

 街道を外れると、草原(くさはら)が海のように開けていた。ここで二十三歳の札である。靴を脱ぎ、足袋も脱いで、草の上に立つ。

 

「……あら」

 

 草は温かく、その下の地面はひんやりして、踏むたび足の裏で夏の名残が鳴る。ひばりが一羽、まっすぐに空へ昇っていく。靴というものは、体裁の入れ物だったらしい。脱いでみれば、足は存外、地面と旧知の仲である。護衛殿はわたくしの靴を、儀仗(ぎじょう)の剣のように恭しく捧げ持って歩いた。真顔なのが、いっそう可笑しい。

 

 昼は小川で、二十八歳の札。石に腰掛け、素足を流れに浸す。冷たさが(くるぶし)で輪を作り、小魚が寄ってきて、つん、と指をつつく。ポーレットのパンを千切り、チーズを載せ、川の音を汁物代わりにする。行儀の外の昼食である。給仕も席次もない食卓は、空と水とでできていた。二十八歳のわたくしへ。食卓とは、こんなに広いものでしてよ。

 

「午後は、いよいよ主役ですわよ」

 

「……迷子の、護衛ですか」

 

「ええ。存分に迷いますわ」

 

 午後じゅう、標のない野道を歩いた。分かれ道はすべて、感じのいいほうへ。丘をひとつ間違え、同じ風車を二度拝み、農家の犬に二度吠えられ、荷車の親父には笑いながら手を振られる始末である。日が傾き始めた頃には、ここがどこか、誰にも――たぶん元近衛隊長にも――分からなくなっていた。

 

「せめて、地図を」

 

「地図は禁止よ。紙のご指示なの」

 

「……はい」

 

 諦めた護衛が、何も言わずに後ろを歩く。夕暮れの野道で、不安がないと言えば嘘になる。ただ、後ろから続く力強い足音が、どんな道標より頼りになる形をしているのである。予定表の外は、思ったより広くて、思ったより歩ける。四半刻きざみの三十四歳に、教えて差し上げたい。行く宛のない不安は、最初の一刻、皮膚の内側が落ち着かない。予定という服を三十七年着てきた素肌が、まだ時間の風に慣れていない。慣れてしまえば――ああ、これは、素足の草原と同じだ。時間もまた、裸足で踏んでよいものだったらしい。

 

 日が落ちる寸前、丘の向こうに宿場の灯が見えた。護衛殿の肩から、音のしそうな安堵が下りていく。迷子の終わりに灯りが待っているなら、迷子は上等な遊びである。

 

 夜、宿場の裏で四枚まとめて火にくべた。二十二歳、二十三歳、二十八歳、三十四歳。四人のわたくしが順に灰になって、一晩でずいぶん身軽になる。贅沢な夜である。

 

「残り、二十五枚」

 

 翌朝の乗合馬車は、南街道を下るやつである。醜聞(しゅうぶん)というものは、乗合馬車がいちばん早く運ぶらしい。向かいの席の商人ふたりが、聞こえよがしに言うのだ。モンフォールの大猟祭、今年は招待の文が出とらんげな。奥方様が替わって、家が回らんのだと。ばあさまの言うことにゃ、前の奥方様は夜逃げ同然に追われたんだと。

 

 護衛殿の眉が、ぴくりと動く。わたくしは窓の外の街道を眺めて、他人事の顔を丁寧に作った。夜逃げ同然。……荷造りは半日、署名は即答でしたけれど。噂というものは、運ばれるうちに面白いほうへ転がるものである。

 

 胸の内を検分してみる。怒りは、ない。可笑しさが半分、あとの半分は、奇妙な浮遊である。自分の三十七年が、知らない誰かの口で軽々と運ばれていく。荷造りは半日で済んだのに、噂の中のわたくしは、まだあの屋敷から夜逃げの最中らしい。……事実はこちらの膝の上にある。運ばれていくほうは、くれてやる。

 

「……大変なお家もあったものですね。ふふっ」

 

「…………はい」

 

 膝の上の文箱だけが、事情を全部知っている――。

 

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