五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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16. 銅貨一枚の賭け

 グランポンへ戻った夜、今朝の二枚を検分する。秋の袋は峠の一枚で空になったから、主役はいつでもの袋から『賭場で、銅貨一枚だけ賭ける』――三十九歳の字。添え札に、わたくしの裁量で『芝居を平土間で観て、声を上げて笑う』二十九歳。遊びの札を二枚並べる夜があってもよいのである。

 

 三十九の年のわたくしに、結果の分からないことは、ひとつもなかった。晩餐は成功する。園遊会は滞りなく終わる。わたくしが段取るからである。段取りの女の一年は、めくる前から絵柄の分かった暦だった。……銅貨一枚ぶんだけ、めくる前の心臓の音というものを、買いに行く。安全というものは、静かに人を蝕むのである。失敗のない一年は、手柄のようでいて、どこか息が浅い。結果の分からないことをする権利――あの夜わたくしが欲しがったのは、つまり、心臓の出番だった。

 

 賭場(とば)は石橋の(たもと)の、看板のない地下にあった。扉の前の若い衆が、わたくしを止めかけ、後ろの大男を見て、蝋のような顔色になった。

 

「た、隊長さん……いや、お客様。ど、どうぞ奥の特等席へ」

 

「いいえ、入り口の卓で結構よ」

 

 聞けば、ここの元締めは二十年前、王都でお縄になりかけた側だそうである。摘発した側が客で来る夜は、賭場の心臓に悪いらしい。以後、店の者が全員、背筋を伸ばして歩いていた。賭場の空気ではない。教練場の空気である。

 

「うちの見習いより姿勢がいい」と、護衛殿が小声で言った。摘発した側の四十年と、された側の二十年が、同じ卓の骰子(サイコロ)を眺めている。時というものの采配は、賭場より奇抜である。

 

 卓は骰子(サイコロ)である。丁か半か――ではなく、南部式に、赤か黒か。わたくしは財布から銅貨を一枚だけ出し、赤に置いた。

 

 壺が伏せられる。振られる。骰子が壺の中で鳴る。……ああ、これだ。この音である。めくる前の絵柄の分からない、心臓のこの速さである。三十九のわたくしが欲しかったのは、勝ちでも負けでもなく、この数拍だったのだ。

 

 開いた。黒である。

 

「負けましたわ」

 

 声が弾んでいたのだろう。卓の親がぎょっとした顔をした。負けて嬉しい客は、賭場でいちばん扱いに困るらしい。もう一枚どうぞと勧められ、丁重にお断りする。

 

「勝っても負けても、一枚だけ。……それが、この遊びの上等な部分ですのよ」

 

 賭けたのは銅貨一枚で、買えたのは、めくる前の数拍である。負けたのは銅貨で、わたくしではない。勝ち負けごと自分の懐に入る買い物というものを、わたくしは五十四年目に初めてしたのである。

 

 帰り際、元締めらしき人物が奥から飛んできて、塩でも撒きそうな目をしながら恭しく見送られた。護衛殿は最後まで一言も発さない。立っているだけで周りを動かしてしまう人である。

 

 翌日の夕、芝居小屋へ。中は油燈と埃と、蜜柑の皮の匂いがした。桟敷ではなく、平土間(ひらどま)の立ち見に混ざる。二十九の年、わたくしは桟敷で喜劇を観た。舞台よりも、桟敷のわたくしたちが観られる側で、笑い声はドレスの下に仕舞う決まりだった。役者の科白(せりふ)より、扇の角度を覚えて帰った夜である。笑いをドレスの下に仕舞う、というのは、身体の芸である。喉の奥で蓋をして、腹の底で殺して、扇の内で逃がす。あの芸ばかり上達した二十九のわたくしは、帰りの馬車で、頬の内側を噛んだ痕を舌で数えていた。

 

 平土間は、床が笑いで揺れる。隣の炭屋のおかみは役者より声が大きく、前の子供は同じ場面で三度笑い、後ろの誰かは筋を全部先に言ってしまって周りに叩かれている。喜劇の山場、大臣の(かつら)が鶏ごと飛んだところで、わたくしは声を上げて笑った。淑女の笑いではない。腹の底の、地の笑いである。涙が出て、脇腹が痛くなって、それでも止まらない。喉の奥の古い蓋が、湯気で緩んだ壜のように、ぽんと抜けている。笑い声というものは、出してみれば、こんなに大きな音だったのである。隣の炭屋のおかみが「あんた、いい声で笑うねえ」と背中を叩いてくれた。いい声。……三十七年、仕舞いっぱなしでしたのに。

 

 ――隣で、低く、短く、「ふ」と聞こえた。

 

 振り向いたときには、もう真顔である。けれど確かに聞いた。四十年ものの堅物の、笑いの音である。

 

「いま、お笑いになったでしょう」

 

「……観劇中です」

 

「ええ、聞こえましてよ」

 

「…………鬘が、飛びましたので」

 

 鬘は飛ぶと面白い。四十年生きても、五十四年生きても、そこは変わらないのである。四十年ものの堅物の笑い声を聞いた人間は、王国に数えるほどしかいないはずだ。当分、自慢の種にする。誰に自慢する当てもないのが、玉に瑕だけれど。

 

 夜、宿の裏で二枚を燃やした。三十九歳と二十九歳。めくる前の心臓の音と、腹の底の笑い声。どちらも、ちゃんと取り戻した。

 

「残り、十八枚」

 

  ◇

 

 同じ頃、モンフォール邸では、秋の大猟祭が開かれて――いなかった。開けなかったのである。招待の文は出る家と出ない家が入れ違い、供応の酒は樽の数が合わず、猟の勢子(せこ)は集まらず、当日の朝、厨房に立つ者が四人しかいなかった。訪れた数少ない客は、席次のない広間で立ち尽くし、早々に馬車を呼んだ。社交界は、こういう不首尾を忘れない。忘れないくせに、語り草にだけはするのである。

 

 そして王都の客間では、妙なものが流行り始めていた。貴婦人たちが、小さな箱に紙片を溜めるのだ。曰く、いつか夫人の箱、である――。

 

  ◇

 

 その噂は、数日遅れでグランポンの宿にも届いた。王都の奥様がたが、こぞって箱をお作りだそうで――と宿の女将が言う。わたくしは文箱を撫でて、申し上げた。

 

「あら。わたくしの箱は、先達ですのよ。――中身は、あと十八枚ですけれど」

 

 言ってから、あと十八枚、と胸の内でもう一度なぞる。王都の奥様がたの箱は、これから満ちていく箱である。わたくしのは、減っていく箱だ。……減らすために作った箱が、減るたびに惜しくなるとは、作った十七のわたくしも、さすがに書いていない。

 

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