五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
グランポンへ戻った夜、今朝の二枚を検分する。秋の袋は峠の一枚で空になったから、主役はいつでもの袋から『賭場で、銅貨一枚だけ賭ける』――三十九歳の字。添え札に、わたくしの裁量で『芝居を平土間で観て、声を上げて笑う』二十九歳。遊びの札を二枚並べる夜があってもよいのである。
三十九の年のわたくしに、結果の分からないことは、ひとつもなかった。晩餐は成功する。園遊会は滞りなく終わる。わたくしが段取るからである。段取りの女の一年は、めくる前から絵柄の分かった暦だった。……銅貨一枚ぶんだけ、めくる前の心臓の音というものを、買いに行く。安全というものは、静かに人を蝕むのである。失敗のない一年は、手柄のようでいて、どこか息が浅い。結果の分からないことをする権利――あの夜わたくしが欲しがったのは、つまり、心臓の出番だった。
「た、隊長さん……いや、お客様。ど、どうぞ奥の特等席へ」
「いいえ、入り口の卓で結構よ」
聞けば、ここの元締めは二十年前、王都でお縄になりかけた側だそうである。摘発した側が客で来る夜は、賭場の心臓に悪いらしい。以後、店の者が全員、背筋を伸ばして歩いていた。賭場の空気ではない。教練場の空気である。
「うちの見習いより姿勢がいい」と、護衛殿が小声で言った。摘発した側の四十年と、された側の二十年が、同じ卓の
卓は
壺が伏せられる。振られる。骰子が壺の中で鳴る。……ああ、これだ。この音である。めくる前の絵柄の分からない、心臓のこの速さである。三十九のわたくしが欲しかったのは、勝ちでも負けでもなく、この数拍だったのだ。
開いた。黒である。
「負けましたわ」
声が弾んでいたのだろう。卓の親がぎょっとした顔をした。負けて嬉しい客は、賭場でいちばん扱いに困るらしい。もう一枚どうぞと勧められ、丁重にお断りする。
「勝っても負けても、一枚だけ。……それが、この遊びの上等な部分ですのよ」
賭けたのは銅貨一枚で、買えたのは、めくる前の数拍である。負けたのは銅貨で、わたくしではない。勝ち負けごと自分の懐に入る買い物というものを、わたくしは五十四年目に初めてしたのである。
帰り際、元締めらしき人物が奥から飛んできて、塩でも撒きそうな目をしながら恭しく見送られた。護衛殿は最後まで一言も発さない。立っているだけで周りを動かしてしまう人である。
翌日の夕、芝居小屋へ。中は油燈と埃と、蜜柑の皮の匂いがした。桟敷ではなく、
平土間は、床が笑いで揺れる。隣の炭屋のおかみは役者より声が大きく、前の子供は同じ場面で三度笑い、後ろの誰かは筋を全部先に言ってしまって周りに叩かれている。喜劇の山場、大臣の
――隣で、低く、短く、「ふ」と聞こえた。
振り向いたときには、もう真顔である。けれど確かに聞いた。四十年ものの堅物の、笑いの音である。
「いま、お笑いになったでしょう」
「……観劇中です」
「ええ、聞こえましてよ」
「…………鬘が、飛びましたので」
鬘は飛ぶと面白い。四十年生きても、五十四年生きても、そこは変わらないのである。四十年ものの堅物の笑い声を聞いた人間は、王国に数えるほどしかいないはずだ。当分、自慢の種にする。誰に自慢する当てもないのが、玉に瑕だけれど。
夜、宿の裏で二枚を燃やした。三十九歳と二十九歳。めくる前の心臓の音と、腹の底の笑い声。どちらも、ちゃんと取り戻した。
「残り、十八枚」
◇
同じ頃、モンフォール邸では、秋の大猟祭が開かれて――いなかった。開けなかったのである。招待の文は出る家と出ない家が入れ違い、供応の酒は樽の数が合わず、猟の
そして王都の客間では、妙なものが流行り始めていた。貴婦人たちが、小さな箱に紙片を溜めるのだ。曰く、いつか夫人の箱、である――。
◇
その噂は、数日遅れでグランポンの宿にも届いた。王都の奥様がたが、こぞって箱をお作りだそうで――と宿の女将が言う。わたくしは文箱を撫でて、申し上げた。
「あら。わたくしの箱は、先達ですのよ。――中身は、あと十八枚ですけれど」
言ってから、あと十八枚、と胸の内でもう一度なぞる。王都の奥様がたの箱は、これから満ちていく箱である。わたくしのは、減っていく箱だ。……減らすために作った箱が、減るたびに惜しくなるとは、作った十七のわたくしも、さすがに書いていない。