五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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2. 夏至祭は、朝までやっているそうです

 夏至祭の夜は、街ごと火の匂いがする。

 

 松明の油、砂糖菓子の焦げ、人いきれ。楽隊の太鼓が石畳の下を通って、膝にまで響いてくる。軒から軒へ渡した紐には色硝子の飾りが連なり、風が抜けるたび、赤や緑の光の粒が路地の上でいっせいに揺れた。飴細工の屋台の前で子供が泣き、射的の的が景気よく倒れ、どこかで笛が調子を外し、外したまま得意げに続く。

 

 わたくしは飾りのない旅着で、財布の紐を手首に巻き、群衆のただ中に立っていた。観覧席のある露台の上からではなく、地面に、自分の靴で。石畳は昼の熱をまだ手放しておらず、靴底からじんわりと祭りの温度が上がってくる。

 

 手には揚げ菓子がひとつ。歩きながら食べるという行儀の悪さは、五十四年目にして初めての芸である。油が指に移るのも、砂糖が唇に残るのも、露台では決して知りようのなかった味だ。

 

 その財布の紐に、細い指がするりと掛かった。

 

 掛かった手首を、横合いから大きな手が掴む。

 

「――坊主。祭りの夜に、無粋だぞ」

 

 低い声である。スリの少年は魚のように身をよじり、財布を落として人波へ消えた。大男は財布を拾い、埃を払ってから差し出してくる。白髪まじりの短髪に、岩のような肩。堅苦しいほどまっすぐな立ち姿で、警備の腕章を着けている。

 

「ありがとう存じます。……あの」

 

 男はわたくしの顔を見て、動きを止めた。祭りの明かりが、その目の中で一度揺れる。それから、敬礼でもしそうな勢いで背筋が伸びた。

 

「……エヴレットの、お嬢様……?」

 

 旧姓で呼ばれ、わたくしは三十七年ぶんの埃を払うように、その顔を眺めた。眉の古い傷。生真面目に結ばれた口。どこかで――そう、膝だ。

 

「あら。……あの、膝の震えていた新兵さん?」

 

「震えておりません。あれは武者震いです」

 

「三十七年経っても、言い張るのねえ」

 

「事実ですので」

 

 コンラート。宮廷の廊下で、誰もが「おい、新兵」と呼んだ男である。聞けばこの春に近衛を退き、今夜は退役者の名誉役とやらで祭りの警備に立っているらしい。四十年勤め上げて、隊長にまでなったという。

 

「四十年。どちらの持ち場でしたの?」

 

「王都の方面隊に。……南の街道の巡回も、長く」

 

「あら。では、モンフォールへ下る道も?」

 

「……存じています。よい道です」

 

 よい道、の言い方に何かがひとつ乗った気がしたけれど、詮索は旅の荷にならないうちにやめておく。

 

 そのとき、楽隊が新しい曲を始めた。

 

 ――夏至の輪舞。

 

 最初のひと節で、雑踏の音が一枚、遠くなる。わたくしは楽隊のほうを見る。彼は火のほうを見た。どちらも、何も言わない。言わないまま、前奏がひとつ終わる。なぜ黙ったのか、お互い、説明もしなかった。

 

「……いい曲ね」

 

「……はい」

 

 それだけである。五十四歳が二人、それだけだ。胸の奥で、めくってもいない一枚が、かすかに音を立てた気がする。……気のせいということに、しておく。気のせいにする作法だけは、三十七年で年季が入っているのである。

 

 輪のほうから、パン屋の女房らしき人が手を振った。「そこの奥さん、踊らないのぉ? きゃはは!」 ――踊るとも。そのために来たのだ。手を取られ、輪に引き込まれ、最初の一歩で膝がきしむ。二歩目で、きしみごと拍子に呑まれた。

 

 十八のわたくしは、この火を露台から見下ろしていた。手袋の中の指先だけで、こっそり拍子を取りながら。楽しそうね、と言ったら、隣の誰かが答えたのだ。奥様が交ざるものではありませんよ、と。あの夜の露台は高くて、火は遠くて、音楽は薄かった。欄干の大理石が、夏だというのに冷たかったことまで覚えている。あの冷たさは、手袋でも防げなかった。いま思えばあれは石の温度ではなく、距離の温度である。

 

 ――今は、火の粉がこんなに近い。

 

 靴の裏に石畳のでこぼこを感じる。知らない人と手を繋ぎ、順番を間違えて、笑われて、また繋ぐ。繋ぐ手はどれも熱い。粉屋の手は粉っぽく、鍛冶屋の手は岩のようで、隣に割り込んだ子供の手は小さくて、汗で濡れている。向かいでは腰の曲がった老夫婦が、若い者の倍ゆっくり、倍たしかに踊っている。ああいうのがいい。

 

 曲が変わるたび誰かが葡萄酒の瓶を回し、わたくしは一口だけもらって、あとは踊った。安い葡萄酒は樽の木の匂いがする。それでいて、どんな年代物より効くのである。楽隊の親方が笛の合間に「姐さん、足がいいね」と言う。当然である。段取りと足拍子は、女主人の二大芸なのだ。汗が背を流れるのも、髪がほどけるのも、放っておく。膝には明日、まとめて謝ることにする。

 

 とうに若くない体力の限界など突破していたが、葡萄酒の勢いだけで回っていた――――。

 

       ◇

 

 空が牛乳色になる――。

 

 広場に残っているのは楽隊の居眠りと、屋台を畳む音と、燃え残りの焚き火だけになった。朝の鐘が、どこか遠くで一つ。夜通し火に照らされていた石畳から、煙と砂糖の匂いが薄く立ちのぼっている。祭りの朝というものは、こんな匂いがするのか。

 

 乱れた髪もそのままによろよろと焚き火に近づくと、わたくしは懐から三日前に引いた一枚を出し、火にくべる。『夜祭で、朝まで踊る』――十八歳の字が炎の中でくるりと丸まり、ほどけて、灰になった。ふしぎと、寂しくはない。お待たせしました、と当時のわたくしに知らせただけである。灰はひとひら舞い上がり、朝の白い空に紛れて見えなくなった。

 

 燃やして軽くなるのは、箱だけではないらしい。胸の、あばらの内側のあたりが、ひと部屋ぶん風通しを取り戻している。

 

「残り、三十六枚」

 

 振り向くと、例の大男が焚き火の三歩後ろに立っていた。そういえば、輪の外の同じ場所に、一晩中あの影があった気がする。

 

「一晩中、そこにいらしたの?」

 

「……習い性です」

 

 彼は咳払いをひとつして、間の言葉を全部飛ばして、こう言った。

 

「護衛を、志願します」

 

「……理由を伺っても?」

 

「道中は、物騒です」

 

 言ってから、彼は目を逸らした。理由になっていないことは、本人がいちばん分かっている顔である。朝焼けが、その耳の縁をほんのり赤く見せていた。焚き火のせいかもしれない。断る理由も、探せば特にない。それに――膝の震えていた新兵さんが四十年でどんな人になったのか、少しばかり、見てみたい気もするのだった。

 

「では、明日の朝、茶屋で。お手当てのお話をいたしましょう」

 

 言ってから、朝焼けの広場を見渡す。屋台の骨組みが外され、火が落ち、祭りがゆっくり畳まれていく。夜通し踊った足の裏が、じんじんと火照って、それが妙に誇らしい。祭りは終わる。でも、わたくしの旅は、始まったばかりである――。

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