五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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20. 湯治場で、三日

 護衛殿、と呼びかけて、わたくしは口を閉じた。役目は昨夜で終いである。三十七年の家名の次は、半年の呼び名が行き場を失った。

 

「……では、コンラート様」

 

「様が、余分です」

 

 いつぞやの噴水の意趣返しを、この人は一晩かけて温めていたらしい。言われる側に回ってみると、これは存外、くすぐったい。

 

「コンラート」

 

「はい」

 

 呼んでみれば、ただの名前である。ただの名前が、朝の空気を少しだけ改まらせる。四十年の階級を脱いだ人と、三十七年の家名を脱いだ女。今日からは、名前だけの二人連れである。名前は、呼ぶほうが覚悟が要る――星の夜の見立ては、正しかった。呼んでしまえば、覚悟は熱に変わって、耳の裏あたりに残る。五十四歳の熱は、若い頃より静かで、そのぶん、消えにくいのである。

 

 湯の町の朝は、音まで湯気の向こうから届く。石段を下る桶の音、瀬戸物の触れ合う音、どこかの湯口の、くつくつという煮え音。谷底からのぼる白い筋が、朝日を受けて金色の縁を持つ。息を吸えば、鶏卵と薬草の間の匂いが胸の奥までゆっくり沈んで、体に良い、と匂いだけで分かる町である。

 

 仕切り直しの一枚は、冬の袋から出た。『湯治場で三日、長湯をする』――四十五歳の字。

 

 四十五の年、屋敷は薬湯の匂いがした。お姑様の長患いに、当主の落馬、客間では季節ごとに誰かが寝込んだ。わたくしは薬湯の盆を提げて廊下を往復し、夜半の鈴で起き、明け方に自分の額へ手を当てて、熱があっても半日で床を上げた。看病されるための椅子は、あの屋敷に、わたくしの分だけ用意がなかったのである。誰の看病でもない休養を、三日。書いた夜の願いは、それだけだった。自分の熱を、わたくしは誰にも申告しなかった。申告する先が、なかったのである。熱のまま階段を下りるとき、手すりを強めに握る癖だけが、あの頃の名残でいまも残っている。

 

 湯の町の宿には、等級というものがある。わたくしどもの三等は、湯場まで石段を百段下る。札の注文どおり「三日、長湯」を張るなら、湯が部屋についた特等が要る。帳場で値を聞けば、見事に予算の外だった。わたくしは懐の小袋を開け、粒をひとつ、選び出す。結婚祝いの宝石である。

 

「よろしいのですか」コンラートの眉が、岩の割れ目ほど動いた。「思い出の品では」

 

「思い出したい思い出が、ついておりませんの」帳場に、ことりと置く。「それに、十七の石と五十四の膝と、いま要り用なのはどちらかと言えば――石より、膝ですわ」

 

 過去はもう買い戻せないけれど、膝の三日なら買える。残る備えは四粒、設計の内である。

 

 特等の湯は、白く濁った掛け流しだった。湯口がくつくつと笑うような音を立て、窓の外は谷ぜんたいの湯気である。肩まで沈むと体の重さを湯が引き受けて、膝が、あら、と言った。三十七年、階段と廊下と冷えた床で働かせ通した膝である。言い分は、湯の中でゆっくり聞く。

 

 朝湯、昼湯、夕湯。湯と湯の間に白湯を飲み、縁台で谷を眺めて、また湯へ戻る。何もしないことを、これほど本格的にするのは生まれて初めてである。二日目の晩には、爪の色が変わっていた。血色というものは、休むと指の先から帰ってくるらしい。

 

 湯には、土地のばあさまたちの常連がいる。わたくしの姿勢の良さは湯の中でも浮いていたらしく、二日目には「奥様、湯では首を貸すもんだよ」と、縁に頭を預ける作法を教わった。習ったとおりに首を預けると、天井をゆく湯気の渦がよく見える。五十四年ぶんの首の重さを、湯が黙って持ってくれた。

 

 ちなみに同行の堅物は、烏の行水である。誰の護衛でもなくなったくせに、湯上がりの裏庭で木剣の素振りをしている。三日の休みを申し渡したところ、「休んでいます。回数を、半分に」と真顔で返ってきた。半分で三百回だそうである。

 

 三日目の昼、湯の中でふと気づいた。この三日、誰の鈴も鳴らない。誰の熱も測らない。ただそれだけのことが、湯より深く沁みるのである。白状すれば、初日の湯の中で、耳はまだ鈴を探していた。習い性は、耳にまで住んでいる。二日目に探すのをやめ、三日目には、湯口の音だけを聞いていた。耳が休むと、身体はこんなに素直に重くなる。四十五歳のわたくしは、この深さを知らないまま、薬湯の盆を提げて廊下を歩いていた。

 

 夕餉の広間では、二人して品書きを腕いっぱいに伸ばす仕儀となる。

 

「品書きが、遠くありませんこと?」

 

「……最近の宿は、字が小さい」

 

「ええ。紙を、暗いところに貼りますしね」

 

 どちらも認めないまま、いちばん大きな字の定食を頼んだ。老眼という言葉は、この卓では禁句である。

 

 三日目の晩、縁台の火鉢を挟んで、古傷の話になった。彼の左肩は、雨の前に鳴るという。二十九の年、落石を受け止めた痕だそうである。ちなみに、わたくしの膝は階段の残り三段で鳴る。

 

「直りませんの?」

 

「直りません。付き合い方だけ、上手くなります」

 

「あら、うちの膝と同じ。……五十四年も使えば、どこかは鳴りますわよ。楽器と同じ」

 

「良い音では、ありませんが」

 

「合奏なら、聞けなくもなくてよ」

 

 冗談のつもりが、言ってから妙にしっくりきて、二人して黙った。谷の湯気が、夜目にも白い。彼は白湯の湯呑みを両手に包み、その白い谷を見たまま、ぽつりと言いかけたのである。

 

「……この旅が、終わったら」

 

 そこで、止まった。続きを、わたくしは待つ。待ったのに、彼は「いえ」と首を振って、白湯を飲み干してしまった。臆病者、と思う。……人のことを言えないのが、癪である。こちらの箱の底にも、めくらない紙が一枚、敷いたままなのだから。

 

 そして、もうひとつ白状する。続きが止まった瞬間、胸のどこかが、ほっと緩んだのである。聞いてしまえば、箱の底に返事を用意しなければならない。……その支度が、まだできていない。臆病者は、火鉢のこちら側にもいるのだ。

 

 寝しなに、火鉢の(おき)で札を燃やした。四十五歳のわたくしへ、三日ぶんの湯の温さを。

 

「残り、十枚」

 

「十枚、です」

 

 数える声は、昨夜から二人分である――。

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