五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
サリナの九週を畳む朝、宿の女将とじいさんに
「達者でね、同世代殿」
別れ際、じいさんの頭をひと撫でする。掌に残る温みが、四十八の年の続きの、そのまた続きである。体温というものは、借り物でも、ちゃんと貯まるらしい。
帰りの北上は、徒歩の四週である。路銀は設計のとおりに細っていて、細る場所で細っている財布というものは、少しも怖くない。むしろ軽い。財布が軽いと歩幅まで軽くなるのだから、お金というものは不思議である。
春を追い越して歩く、というのも妙な道中だ。サリナでは杏が散り、街道を上るほどに花は蕾へ戻り、峠にかかる頃には、枝がまだ冬の顔をしていた。一年かけて季節をめくってきた旅が、最後に逆さへめくり返していくのである。季節を逆さに歩きながら、可笑しなことに気づく。行きのわたくしは、季節に追いつくのに必死だった。帰りのわたくしは、季節に置いていかれるのが、少し惜しい。旅の初めと終いで、時間の惜しみ方が逆さになっている。
その峠の宿場で、朝、窓の外が白かった。
名残雪である。屋根にひと掃き、畑にうっすら、道の日陰には踏めるだけの厚み。宿の子供らが歓声を上げて飛び出していく。わたくしは箱から、持ち越しの一枚を出した。
『本気の雪合戦をする』――四十一歳の字。
四十一の年の冬、中庭で若い下働きたちが雪を投げ合っていた。頬を赤くして、持ち場も歳も放り出して。見下ろしていたら、逸れた一球がわたくしの窓の下で砕けたのである。中庭が、水を打ったように止まる。投げた娘は真っ青で、わたくしは女主人の顔のまま「お続けなさい」とだけ言って、窓辺を離れた。
……ほんとうは、階段を駆け下りて、雪を握り返したかったのである。面を外して遊ぶ側まで、あと一球の距離だったのに、あの日のわたくしは、面の内側から出られなかった。十四年、箱の中で冬を待たせた札だ。面は、着け続けると、外し方から忘れていく。笑い方より先に、外し方を失くす。あの日、階段を三段だけ下りて、戻った。三段ぶんの勇気はあったのに、残りの段の下り方を、わたくしはもう知らなかった。
宿の前の原っぱで、開戦である。敵は宿場の子供が七人。こちらは五十五歳と、五十四歳がひとりずつ。
「三人までなら、今でも」
「あちらは七人ですわよ?」
「……では、築城します」
準備の男の本気を、わたくしは初めて雪で見た。四半刻で胸の高さの砦が立ち、雪玉は大中小の三種が俵積みになる。こちらは段取りの女である。補給の列を作り、投げ手と丸め手に子供を割り振り――割り振った端から、子供たちが砦の見事さに寝返っていくのは誤算だった。
「裏切りですわよ、あなたたち!」
「壁のあるほうが強いもん」
正しい。正しいので、こちらは動くのである。砦は立派だけれど、立派なものは動けない。雪を抱えて大回りに回り込み、真後ろから一球。四十年鍛えた首筋に、五十五歳の一球が、ぽす、と当たった。
振り向いた顔の、あの呆気に取られようは、生涯の宝物にしていい。命中の瞬間、わたくしの中の四十一歳が、二十も若い声で笑った。雪の冷たさが手袋の中で指を刺す。痛いという感覚まで、遊びの中では味方なのである。
あとは、乱戦である。投げて、外れて、当てられて、雪の上に尻餅をつく。冷たさが背中から染みて、笑いが腹の底から昇ってくる。子供の球は容赦がなく、大人の面というものは、三球も食らえばどこかへ飛んでいくものらしい。しまいには七人がかりで堅物が埋められ、雪の山から「……降参の作法を、要求します」と籠もった声がした。原っぱ中が、湯気の立つ息で笑っている。
濡れた札は、宿の炉端でよく乾かしてから、火にくべた。四十一のわたくしへ。十四年遅れの一球は、ちゃんと真後ろから当てましたよ。
「残り……一枚」
復唱が、返らない。隣を見ると、彼は火を見たまま、頷きだけを寄越した。声にすると本当になる数字が、世の中にはあるのである。
炉の中で、濡れていた札の端が、じゅ、と短く鳴いた。数字がひとつ減るたび、この人の沈黙は一拍ずつ長くなっていた。育っていく沈黙を、わたくしはもう、見ない振りができない。見ない振りは、三十七年で使い切ったのである。
翌朝が、静かだった。
彼が、次の支度をしていない。地図も広げず、荷の紐も締め直さず、湯気の立つ茶を前に、ただ座っている。四十年、支度をして生きてきた人の手持ち無沙汰は、見ていて胸に障る。引く袋は、もうない。旅というものは、こういう朝に終わるのか――いいえ。
終わりを先延ばしにする手なら、いくらでも思いつく。道を遠回りに引く。滞在を延ばす。段取りの女の腕前は、引き延ばしにも使えるのである。……使えるからこそ、使わない。先延ばしと縁を切る旅の終いに、先延ばしを置いては、燃やした三十六枚に顔向けができない。
「決めましたの」
わたくしは、箱の蓋に手を置いた。
「最後の一枚だけは、札ではなく、わたくしが使い所を決めます。三十七枚、順番は運にお任せしましたけれど――しまいくらい、段取りの女に返していただきますわ」
「……伺います」
「夏至祭で」
湯呑みが、卓に戻された。背筋が、見慣れた角度に伸びる。手持ち無沙汰だった手が、もう荷の紐へ伸びている。現金な人である。その現金さに、胸の奥が静かにあたたかい。目的地を口にしただけで、この人の背筋は戻るのだ。……最後の一枚の使い所を、夏至祭と決めた理由は、まだ言わない。言わないけれど、あの曲の続きを踊る場所は、世界にひとつしかないのである。
昼、宿場に文が二通、追いついた。娘からは、今年も夏至祭の楽隊が広場に出るという王都の便り。もう一通は、見覚えのある離宮の紋――戻る足で茶を飲みに参れ、箱の話がある、と王太后陛下のお招きである。
峠を下れば、道はもう、王都へ一本である――。