五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
コンラートは、夜明け前に目が覚める。
四十年、そういうふうに出来上がった体である。今朝は生まれて初めて、二度寝というものを試みた。持ち場はなく、点呼はなく、休暇願も要らない。目を閉じ、呼吸を整え、四半刻――完敗である。天井の木目を三十六本まで数えたところで、体が勝手に起き上がった。二度寝でも成立、とあの方は仰ったが、寝直せなかった二度寝は何と呼べばいいのか。朝寝坊という敵は、思っていたより手強い。敵、と呼んでから、彼は少し考える。四十年、敵は外にいた。退役してからの敵は、どうやら自分の内側に駐屯している。あの方が一年かけて習い性とやり合ってきたのは、つまりこういう相手か。
一年前の春にも、同じ時刻に目が覚めた。退役の朝である。四十年ぶんの荷物は、
その朝、思い出していたのは、さらに三十七年前の春のことである。
十七の新兵だった。宮廷の廊下で、名前で呼ばれたことは一度もない。おい新兵、そこの大きいの、突っ立つな――呼ばれ方は、その三種で足りる。ある日、舞踏練習の相手役を命じられた。行儀見習いの令嬢の相手が、急に欠けたという。背丈が釣り合うから、という理由だけの代役である。
広間には、磨いた床と蝋の匂いがしている。楽師は退屈そうで、女官長は不機嫌そうで、新兵はただ、目のやり場も知らなかった。その視界の下から、令嬢は膝の震える代役を見上げて、まず、こう訊いたのである。
「お名前は?」
「……コンラート、と申します」
「コンラート殿。では、お願いします」
名前というものがあんな音で鳴るとは、十七年生きて、知らなかった。音は、それきり体のどこかに住みついた。四十年、点呼で千の名を呼び、隊長と呼ばれもしたが、あの音の鳴った場所だけは、ずっと空き部屋のままである。曲は、夏至の輪舞である。足を三度踏まれた。いや、三度目は自分が踏んだ。数えていられたのは、そこまでである。半分まで進んだところで、侍従が令嬢を呼びに来た。御婚約が整った由、これより広間にて御披露の由。人垣に呑まれる間際、令嬢は一度だけ振り向いて、代役の新兵に小さく言った。
「続きは、いつか」
それきりである。何の支度もなく広間に立っていた自分を、彼は長いこと許していない。雨具も、地図も、気の利いた言葉も、何ひとつ持っていなかったのである。以来、支度をする人間になった。準備は、裏切らない。裏切らないものを一つずつ増やす生き方なら、失う朝にも手ぶらで立たずに済む。
あの去り際の言葉を、命令として受け取ることに決めたのは、そのほうが呼吸ができたからである。約束と思えば、待つ資格を疑わなければならない。任務と思えば、ただ持ち場に立てばよい。十七の新兵に選べる持ち場は、それしかなかった。
配属の志願先は、迷わなかった。王都方面隊――夏至祭の警備と、南街道の巡回を受け持つ隊である。祭りの夜は、広場の南の角が持ち場だった。火の粉と、輪舞と、年ごとに背の伸びる祭りの子ら。巡回では、モンフォールへ下る道を三十七年歩いた。春は花の埃が立ち、秋は落ち葉が轍に詰まる。よい道である。どこへも続かない、よい道だった。
やがて隊長と呼ばれ、名前は用済みになった。それで困った覚えはない。ただ、何者でもなかった時分の自分を名前で呼んだ人は、後にも先にも、ひとりだけである。隊の誰にも、この話はしていない。守秘義務、という言葉を、彼は長いことそのために取ってある。
退役して初めての夏至祭には、退役者の名誉役の警備で、いつもの角に立つ。細い指が、旅装の婦人の財布の紐に掛かるのが見えた。手が先に動く。それから顔を見て、四十年の背筋が伸びた。三十七年目の「いつか」は、そういう形で始まったのである。
それからの一年を、彼は時々、装備の点呼のように思い返す。浮き袋、良し。継ぎ竿、良し。毛布の三枚目、良し。砂浜の椅子二脚、良し。医者の住所、三軒――使わずに済んだのが、何よりの戦果である。四十年かけて増やした「裏切らないもの」が、順繰りに出番をもらった一年だった。あの方が笑うたび、行李がひとつ軽くなる気がした。理屈は、教練のどこにも載っていない。行李の底には近頃、小さな包みがひとつ増えている。中身は、誰にも言わない。守秘義務である。
あの文箱の底の一枚を、彼は知らない。見たのは裏だけである。見当を立てるのは職業柄、得意なはずだが、あの一枚にだけは立てないと決めている。外れたときが怖いのではない。当たっていた場合の支度なら、もう行李の底に済ませてある。それ以上の準備は、傲慢というものだ。外れていた場合の支度は、しない。四十年で初めて、無防備のまま立つと決めた持ち場である。三十七年前、支度がなくて失った。今度は、支度ではなく、覚悟だけを持っていく。
部屋の卓には、昨日のうちに求めた乗合馬車の切符が二枚。王都まで、二週の道のりである。
朝餉の席に下りると、あの方はもう旅装だった。箱の紐も、掛け終わっている。
「あら。お寝坊のご予定では?」
「敗北しました。……参りましょう。積み残しの任務が、あります」
「あら。どんな任務ですの?」
「……守秘義務です」
「まあ。それも、そろそろ棚卸しの頃合いですわねえ」
馬車は北へ走り、窓の外を、春が同じ速さでついてくる。向かいの席で、あの方が箱を膝に抱えたまま、居眠りを始めた。揺れて傾くときのために肩を貸す支度だけ整えて、彼は起こさない。窓の光の中で、銀糸の混じる栗色が、少し揺れる。五十五歳の寝顔は、十七の春より、ずっとよく笑う顔になった。それを隣で確かめられた一年のことを、彼は誰にも言わない。言わないが、行李の中のどの備えより、重宝している。三十七年待って、この一年は隣で待った。行軍で言うなら、残りは最後の二週――目的地は、いちばん初めの広場である――。