五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
前夜は、眠れなかった。
都の夜は、田舎の夜より賑やかで、それでいて寝つきのいい音がする。荷車の遠い車輪、夜回りの拍子木、どこかの赤子の声。その全部を聞き終えても、目が冴えていた。眠れない夜、というものを、旅の初めのわたくしは持て余していた。いまは、持て余さない。眠れない夜には、眠れないだけの理由があって、理由のあるものは、もう怖くないのである。仕方がないので燭台をひとつ点けて、箱を開ける。
底に、一枚。三十七枚のうちで、いちばん古い紙である。端が飴色に焼けて、裏の
婚礼の前夜、十七のわたくしは、荷物の間でこれを書いたのである。婚礼衣装は部屋の隅に掛かり、明日からの作法は頭に詰め、エヴレットの家の借財の額まで、わたくしは知っていた。廊下の向こうでは母がまだ何かを畳んでおり、蝋燭は半分に減り、窓の外の春だけが、誰のためでもなく匂っている。
全部を呑み込んだ上で、最後にひとつだけ自分に許した我儘が、これである。名前をやっと呼べるようになったばかりの、あの半分の曲の人。想いは、言葉にする前に行き先を失った。だから願いのほうを、紙に残したのである。インクは、婚家へ持って行かない古い瓶の、最後のひとすくいだった。書いて、裏に伏せる。明日から妻になる娘にできる、精一杯の始末だった。
ペン先が紙を引っかく音を、廊下の母に聞かれまいとして、わたくしは息を詰めて書いたのである。願いを書くことが、あの夜のわたくしに残された、最初で最後の内緒だった。
書き終えて、火を消して、暗がりの中で目を開けている。十七の目に、天井は見えない。見えていたのは、たぶん、今夜のような夜である。
――伏せたまま、三十八年。
箱の蓋を、そっと戻す。今夜だけは、燃やす札のない夜である。五十五年で、いちばん長い夜かもしれない。……いいえ、二番目ですわね。一番は、これを書いた夜と、決まっている。
長い夜の底で、十七のわたくしと並んで横になる。眠れないのは、お互い様である。あちらは明日から妻になる娘で、こちらは明日、三十八年ものの願いを表に返す女だ。……どちらの胸の音が大きいかは、いい勝負である。
当夜は、夕刻から太鼓の音がしていた。祭りの匂いが、窓の隙間から一筋、部屋へ入り込んでくる。仕立て下ろしの上着に袖を通した堅物は、様になっているのが本人にだけ分かっていない。わたくしは旅着でも礼装でもない、娘の見立ての、よく歩ける一着である。裾は、回れば少しだけ開く仕立てだそうで、娘の用意は母より周到だ。出がけに、卓の燭台の前で、わたくしは箱を開けた。
「ご覧になって」
最後の一枚を、初めて表にして、差し出す。箱から出すとき、紙は一枚の目方しかないのに、持ち上げるのに三十八年かかった。四十年、書類を片手で受けてきたはずの人が、両手で受け取った。その手の中で、紙がかすかに震えている。……差し出した側の手は、もう震えていないのに。
『もう一度、恋をする』
十七歳の字である。若い撥ねの、迷いを知らない字。ポーレットの菓子箱の手紙と、同じ年頃の字である。
「妻としての三十七年、先延ばしにしましたの。旅の一年は――使い所を、探しておりました」
「……存じております」声が、砂利を踏むようだった。「いえ。存じませんでした。文面までは。ですが、自分は――自分も――」
しどろもどろ、という現象を、この人で初めて観測する。四十年の報告の型が、音を立てて崩れていく。崩れた中から出てきたのは、型ではない言葉だった。
崩れていく型を、わたくしは黙って見ている。胸の奥で、何かがひどく静かで、ひどく熱い。三十八年、この人はこの言葉を、行李のいちばん底で運んできたのである。わたくしが箱の底で運んできたのと、同じ深さで。
「あの春の曲を、覚えています。半分で終わった、夏至の輪舞を。お相手の御名も。……去り際の、お言葉も」
「あら。どんな?」
「『続きは、いつか』と」
「ええ。……ええ、申しましたわ」
言ったわたくしが、いちばん信じていなかった「いつか」である。あれは約束ではなく、去り際の精一杯の負け惜しみだった。三十八年かけて、負け惜しみのほうが、まことになったのである。
燭台の火が、二人ぶんの影を壁でひとつに重ねている。種明かしというものは、済んでみれば、こんなにあっけない。二人とも覚えていて、二人とも、三十七年と一年、言わずにいたのである。答え合わせが当たってしまったら、旅の終わりが本物の終わりになる――そう怖れて、わたくしは箱の底を伏せてきた。当たってみれば、なんのことはない。終わりではなく、続きが始まるだけだった。
三十七年と一年、胸の底で凍らせてきた問いが、答えを貰って、ただの温かい水になる。怖れというものは、溶けてしまえば、こんなに軽い。もっと早く、と思いかけて、やめた。もっと早くは、なかったのである。三十六枚を燃やし終えた今夜より早い今夜は、どこにもなかったのだ。
「なぜ、仰らなかったの?」
「資格を、量りかねておりました。三十八年遅れの名乗りに、資格はあるのかと」
「あら。三十八年遅れの願いを、今夜使う女がここにおりますのよ。……お揃いですわ」
わたくしは一枚を胸元に納め、立ち上がった。
「あの日の『いつか』を、頂きに参りましたの」
彼も立ち、仕立て下ろしの裾を正した。それから、広間の隅の新兵と同じ角度で、手を差し出したのである。
「……続きから、にしますか。それとも、最初から?」
「最初から。――朝まで、時間はありますわ」
窓の外で、太鼓がひとつ、大きく鳴った。気の早い笛が、路地を駆けていく。三十七枚の始まりの一枚を胸に、五十五歳は、十七歳の続きへ出かけるのである。広場の火が、もう呼んでいる――。