五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
一年ぶりの広場は、今年も火の匂いがした。
松明の油、砂糖菓子の焦げ、人いきれ。軒から軒へ渡した色硝子が、
匂いというものは、一年を一瞬で巻き戻す。去年のわたくしは、この匂いの中で、離縁状の署名を乾かしたばかりだった。財布を掏られかけ、三十七年ぶりの顔に出会って、朝まで踊って――あの夜のわたくしに教えたら、どんな顔をするだろう。あなた、その警備のおじさまと、今夜この広場で。……いいえ、教えない。あの夜の分からなさごと、良い夜だったのである。
「席は取っといたよ」
ポーレットが、焼きたての袋を突き出してくる。
「広場に、席なんてあって?」
「あるさ。輪の真ん中って特等席がね」
屋台の陰では、伯爵家の若奥様が、人目を忍んで揚げ菓子を齧っていた。桟敷は退屈ですの、と言い訳にならない言い訳をなさる。誰に似たのだか、もう言うまでもない。娘の頬に、篝火の色が映っている。母の再婚を、この子は最初から、誰より楽しみにしてくれていた。似たのが誰であれ、育ちすぎた察しの良さには、今夜ばかりは感謝しかない。
楽隊の親方が、こちらを見つけて、にやりとした。笛が上がり、太鼓が構え――前奏が、来る。
夏至の輪舞である。
去年のわたくしたちは、この前奏に、別々の方角を向いて黙った。今夜は、どちらも黙らない。目の前に、大きな手のひらがひとつ、差し出される。
「……お手を。段差は、ありませんが」
「ええ。段差がなくても、頂く手ですわ」
手を載せると、大きな掌が、覚えのある熱で閉じる。段差で借りて、稽古で添えられて、岩場で貸された手である。一年かけて、この手は、借りるものから、預けるものになった。
輪に入る。最初の一歩で膝が鳴き、二歩目で、きしみごと拍子に呑まれた。粉屋の手は今年も粉っぽく、鍛冶屋の手は岩のようで、隣に割り込んだ子供の手は汗で濡れている。その輪の中で、わたくしの右手だけが、十七の春に覚えた熱を、いまさら思い出しているのである。
「あら、お上手になって」
「はい。あれから、素振りを」
「剣のでしょう、それ」
半分まで、来た。侍従は、来ない。誰も、この曲を止めない。
「……ここからは、新兵です」
「ええ。二人ともね」
半分から先は、二人とも初めての小節である。初めてのものを、この一年、毎月のように増やしてきた。湖で浮き、櫂で蛇行し、雪の砦を落とした二人である。知らない小節のひとつやふたつ、いまさら怖くもない。
曲は、誰の許しも要らずに進む。回って、離れて、また手を取る。篝火が顔を照らし、汗が背を流れ、膝が文句を言い、文句ごと踊る。十七のわたくしが半分で置いてきた曲の残りを、五十五のわたくしが受け取っていく。遅れて届いたものは、それだけで少し甘いのである。
踊りながら、目の縁が熱くなる。今夜は、湖の水も、朝日のまぶしさも、手元にないのである。……仕方がないから、言い訳はやめにした。五十五年目にして初めて、濡れた頬のまま、人前で笑っている。誰も、何も言わない。祭りの夜の顔として、これはごく正しい顔らしい。
――曲が、終わった。
拍手と、指笛。その真ん中で、彼がゆっくりと膝をつく。ごき、と正直な音が鳴って、近くの客がどっと温かく笑った。
「膝が保つうちに、申し上げます」
「手短にね」
「はい。……エレオノール様」
「様が、余分よ」
「――エレオノール。残りの『いつか』を、ぜんぶ、隣で使わせていただきたい」
返事の代わりに、わたくしは胸元から最後の一枚を出した。差し出すと、彼は意味を違えずに受け取って、二人ぶんの手で、いちばん近い篝火にくべたのである。十七歳の字が、炎の中でくるりと丸まり、ほどけて、火の粉になった。いちばん古い願いが、今夜いちばん新しい火になる。燃えていく字を、十七歳のわたくしと、並んで見送る。長かったわね、とも、ようやくね、とも言わない。言葉はもう、要らないのである。あの子はただ、灰が夜空に昇り切るまで見届けて、それから、するりとわたくしの中へ帰ってきた。
顔を上げた彼の手には、もう小さな包みが載っていた。解けば、飾りのない銀の指輪である。
「準備は、裏切りません」
広場が、沸いた。屋台から祝いのパンが宙を飛び、楽隊が頼みもしない祝いの一節を吹き鳴らし、若奥様が人目もはばからず泣いて笑っている。指輪は、旅の水仕事で少し痩せた指に、あつらえたように収まった。いつ寸法を測ったのかは、訊かないでおく。どうせ、守秘義務である。
指輪の幅だけ白かった薬指は、一年の日射しで、もうほかの指と同じ色になっている。その同じ色の上に、新しい銀が涼しい。外した指輪の痕は日焼けで消えて、選んだ指輪は、これから馴染んでいく。指一本の上の、それが三十八年ぶんの道のりである。
「守秘義務は、本日かぎりで解除いたします。瓶の手紙も、流れ星も――中身は、全部これでした」
「あら。では、わたくしのと同じですわ」
◇
王家の桟敷で、ユベール・モンフォールは眼下の広場を見下ろしていた。歓声の真ん中に、元の妻がいる。知らない顔で笑う、知っていたはずの人である。三十七年――彼は、初めて数える。祭りは毎年あった。曲も、広場も、毎年あったのだ。三十七年、自分は一度も、あの人を踊りに誘っていない。杯が、妙に重い。隣の席は、今年も空いている――。
◇
「残り――」
「〇枚、です」
復唱は、今夜も律儀である。それから、わたくしたちは輪へ戻った。札は燃えても、文面はまだ終わっていない。もう一度、恋をする――恋というものは、始めてしまえば朝までかかるのである。いいえ。朝が来ても、終わる予定は、ございませんの。
空が牛乳色になる頃、楽隊は居眠りを始め、篝火は