五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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3. 誰もわたしの名を知らない宿

 あくる日の茶屋で、わたくしたちは旅の条件を決めた。渋い茶が二つ。卓は脚が緩んでいて、茶碗を置くたび、かたりと傾く。往来では荷車が鳴り、祭りの後の街はどこか気だるい。軒先には片づけ忘れた色硝子の飾りがひとつ、昼の顔でぶら下がっている。決めることは、ひとつしかない。

 

「お手当ては、きちんと受け取っていただきます。無償の好意は、重くて旅に持てませんの」

 

「……では、危険の際は自分の指示に従っていただく」

 

「善処しますわ」

 

「善処……とは?」

 

「前向きに検討する、という意味の宮廷語ですわ」

 

 彼は天井を仰ぎ、それきり黙った。話し合いというものは、お互い言いたいことを一つずつ言えたら終いである。三十七年やった夫婦より、よほど風通しがいい。

 

 ところで彼の足元には、遠征にでも出るのかという大きさの旅嚢(りょのう)が鎮座している。

 

「中身を伺っても?」

 

「およそ、旅で起こりうることへの備えです」

 

「熊に鉢合わせしても?」

 

「熊くらいは、想定内です」

 

 思わず肩をすくめてしまった。想定外というものが、この人の辞書にはたぶん載っていない。

 

 茶屋を出るとき、彼は当然の顔でわたくしの荷を全部担ごうとした。旅着の包みは渡して差し上げる。けれど。

 

「箱だけは、わたくしが持ちますの」

 

「……はい」

 

 三十七年ぶんである。この重さだけは、人の背に載せるものではないのだ。

 

 さて。今朝、箱から引いた二枚目は『誰もわたしの名を知らない宿で眠る』――二十七歳の字だ。

 

      ◇

 

 選んだのは、川沿いの間口の狭い宿である。軒は傾き、階段は一段ごとに違う音で鳴き、廊下には昨夜の煮豆の匂いが残っている。漆喰の壁には川の湿気が、地図のような染みを描いていた。川風が窓布を膨らませ、どこかで(はしけ)の綱がきしむ。帳場で女将が、前掛けで手を拭きながら宿帳を回してきた。

 

 ペン先が、モ、の形に動きかけて、止まる。

 

 ……モンフォールは、置いてきたのだった。

 

「エレオノール・エヴレット」

 

 と、書く。旧姓は、インクが乾くまで眺めていても、誰にも何も言われない字だった。十六までのわたくしの名前である。書いた端から、その十六までが、インクの中でゆっくり手足を伸ばしはじめる。名前というものは、呼ばれなくても、書くだけで少し、人を返してくれるらしい。

 

「はいよ、エヴレットさん。二階の奥ね。夕飯は下で、豆の煮込みしかないよ」

 

「豆の煮込みを頂きますわ」

 

 女将は肩書きを聞き返しもしない。献立に選択肢もない。それだけのことに、胸のどこかで小さな錠前が外れる音がした。

 

 部屋の寝台は固く、枕は薄い。毛布は日なたの匂いがする。窓の下では誰かが桶をごしごし洗い、酔った歌が調子っぱずれのまま川下へ流れていく。天蓋もなければ、湯たんぽの係もいない。名前と一緒に、聞き耳も値踏みも置いてきた部屋である。横になって三つ数える前に、朝だった。羽根布団で眠った千の夜より、深い。人間、名前が軽いとよく眠れるらしい。

 

 その朝、娘の家の使いが手紙を二通届けてきた。行き先だけは、フェリシアに知らせてある。

 

 一通は、家令のバルテルから。この春で七十になる人の、あの几帳面な字である。癖のある「ん」の字まで、変わっていない。辞職の挨拶が型どおりに並び、末尾に一行、こう結ばれている。――屋敷は、奥様の声で動いておりました。わたくしの勤めも、昨日で終いにございます。

 

 朝の川面の光が、低い天井でちらちらと揺れている。手紙を持ったまま、しばらくその光を見ていた。

 

 嫁いだ日を思い出す。屋敷の主立った者の名を一晩で覚えたわたくしに、若きバルテルは目を丸くして、それから小さく言ったのだ。奥様は、お強うございます、と。そして続けたのだ。ならばわたくしは、生涯、奥様のお声の側におります――と。強いのではない。名前を覚えるのが、ただ好きだっただけである。名前を呼べば、人は顔を上げる。顔を上げた人で、あの屋敷は回っていたのである。あれから三十七年、あの人は一度も約束を違えなかった。

 

 手紙の折り目を、指が何度も撫で直している。畳み方まで、あの人の背筋をしているのである。喉の奥が細くなって、わたくしは川面の光へ目を戻した。湿るのは、この几帳面な便箋に失礼というものだ。

 

 もう一通は、侯爵家の紋章入り。封蝋が、朝日の中で威張っている。離縁は成立したが世間の目もある、ついては秋の大猟祭までは女主人の務めを果たされたし。文面はご丁寧に「家門の名誉のため、賢明なるご判断を」と結ばれている。

 

「……あら、まあ」

 

 賢明な判断なら、もう済ませましたのに。離縁しておいて、行事だけは回してほしいらしい。妻は要らないが、空気は要るのだ。

 

 読んで最初に来たのは、怒りではなく感心である。ここまで綺麗に、人ひとりを頭数でしか数えられないものかしら。……昔のわたくしなら、それでも文面を三度練って、角の立たないお断りを書いた。練らない、と決めるだけのことに、三十七年かかったのである。

 

「あの……お返事は?」

 

 と、廊下で控えていた護衛殿が聞く。わたくしは手紙を畳み、文箱の一番遠い隅に落とした。

 

「書きませんわ。お断りのお返事は、インクが勿体ないもの」

 

 バルテルにだけ、短い返事を書いた。長い間、ありがとう。あなたの声で動いていた場所も、たくさんありましたよ――と。それ以上書くと湿るので、やめておく。

 

 よく眠れたので、連泊にした。五十四歳、生まれて初めての、理由が「よく眠れたので」だけの連泊である。昼は川辺の石段に座って、何もしなかった。石は昼の陽で温まっていて、座布団より上等である。何もしないというのは存外むずかしく、気づけば行き交う艀の積み荷を数えている。酒樽が九つ、干し草がひと山、川下へゆっくり運ばれていく。水面のきらめきを裸眼で追うのは、老眼にはいささか眩しい。それも含めて、上等である。隣では護衛殿が革の何かをせっせと磨いていた。

 

「何の手入れですの?」

 

「明日への、備えです」

 

 この人の明日は、ずいぶん手厚い。

 

 二晩目の夜、女将に(かまど)の火を借りて、二枚目の紙片をくべた。竈の火は祭りの焚き火より小さく、行儀がいい。二十七歳のわたくしが、これでようやく眠れる。

 

「残り、三十五枚」

 

 火の前で、護衛殿がぽつりと言った。

 

「……お屋敷が、軋み始めておりますね」

 

「あら。わたくしの知ったことではないわ」

 

 言ってから、ほんの少しだけ、あの几帳面な「ん」の字を思い出した。ほんの少しだけ、である――。

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