五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
式の朝、下町の教会は、パンの匂いで始まった。
ポーレットが夜明け前から角のパン屋の窯を借り切って、式のパンを焼いているのである。焼き込みに行くからね、の宣言どおり、窯ごと来かねない勢いは本当だった。門前には近所の子供が匂いで列を作り、女将は「式のあとだよ!」と粉だらけの腕で追い払っている。
秋の朝の空気は、窯の熱と混ざると、少し甘くなる。三十八年前の式の朝、わたくしの周りにあったのは、香油と、糊の利いた絹と、張り詰めた家の匂いだった。花嫁の朝というものは、ああいう匂いだと思っていた。……パンの匂いのほうが、ずっと上等である。
わたくしはと言えば、娘の見立ての一着を着せられ、髪を娘の手で結われている最中である。
「お母様、動かない」
「あなたの手つき、産婆さんみたいよ」
「誰のせいですの」
鏡の中の五十五歳は、悪くない顔をしていた。目尻の皺は、この一年でよく笑ったぶん、深くなっている。隠さない。娘は結い上げの仕上げに、木苺色の髪紐をそっと結び込んだ。いつかの市場で、意味もなく買った一本である。意味もなく買ったものが、いちばん良い日に出番をもらう。買い物というものは、分からないものだ。
式次第は、バルテルが三通作った。晴れの場合、雨の場合、それから「若が指輪を持ち逃げした場合」である。三通目が要り用になる公算は、練習の成績からいって、五分五分だった。マロンは指輪の小箱を背に括られる稽古で、三度持ち逃げをして、三度パンの耳で買収されている。買収の利く指輪運びというのも、どうかと思うけれど、家族の式である。多少の疵は、笑い話の側に数える。
教会は、下町の坂の中途の小さな石造りである。
三十八年前、わたくしは大聖堂で式を挙げた。列席は三百、知らない顔ばかりで、署名したのは「エヴレットの娘」である。誓いの言葉は完璧に言えた。完璧に言えたことしか、覚えていない。
あの日のわたくしは、式の間じゅう、間違えないことだけを考えていた。緊張ではない。あれは点検である。花嫁は、式のいちばん大事な調度だった。誰もわたくしの顔を見ていなかったし、わたくしも、誰の顔も見ていなかった。……今日は、司祭の眉の癖まで見える。列席の洟をすする音まで聞こえる。式というものは、こんなに近くで行われるものだったのか。
今日の誓いは、途中で膝が鳴った。
「――誓いますか」
「誓います。……エレオノール様」
「様が余分よ」
「はい、エレオノール」
式の途中の私語である。行儀は悪い。悪いが、この式は、わたくしどもの式なのだ。名前を呼ばれて、誓いの続きがふっと軽くなる。三十八年前の誓いは、家と家の約束の読み上げだった。今日のは、返事である。呼ばれて、答える。それだけのことに、わたくしどもは三十八年、かけてしまった。
婚姻簿の署名の段になって、わたくしはペンを取り、迷いなく書いた。
エレオノール・エヴレット。
嫁いでも、名前は変えない。コンラートは平民で、家名を持たない人である。「家名は、なくて困ったことがありません。あなたの名前は、あって困ったことのない名前です」というのが、あの人の言い分だった。家と家の署名ではなく、名前と名前の婚姻である。一年かけて取り戻した名前で、わたくしは二度目の嫁入りをした。
ペン先の音は、乾いて、静かで、あの離縁状の朝と同じ音がした。同じ音で、まるで違うものが書けるのだから、ペンというものは道具に過ぎない。書く手の側に、三十八年ぶんの差があるのである。インクが乾くまで、わたくしは自分の名前を眺めた。眺めても、誰にも急かされない。それが、今日の式のいちばんの贅沢である。
指輪は、無事だった。若は式の間じゅう堂々と胸を張って歩き、小箱を捧げ、報酬のパンの耳を待って尻尾を振った。三通目の式次第は、お蔵入りである。バルテルが少し残念そうだった。
式のパンは、焼きたてが配られた。ポーレットの焼いた大きな輪のパンを、列席で千切って回すのである。切るんじゃないよ、千切るんだ、縁ってのはそういうもんだ――と、女将の講釈がつく。
フェリシアは泣いた。泣くまいとして顎に力の入る顔は、婚礼の日のわたくしに、少しだけ似ている。似なくてよいところは、もう似なくて済む。そのために母は、一年かけて手本を書き直したのである。セドリックは泣かなかったけれど、パンを千切る手つきが、妙に丁寧だった。帰り際、息子は一礼して、言ったのである。
「母上。……庭木の作法を、冬に伺っても」
「ええ。
夕、王太后陛下から文が届いた。祝いの品は、ない。一行だけである。
――祝いは品でなく、貸しで送る。冬、雪見の酒に付き合え。
「……怖い方だ」
「ええ。ありがたいこと」
祝いの品は、返礼の要る荷物である。貸しは、会いに行く口実である。七十七歳の友人は、贈り物の目利きが、たぶん王国でいちばん上手い。
夜、残ったパンの端を、二人で齧った。歩き齧りではない。卓について、茶と一緒に、ゆっくりである。
窓の外で、秋の虫が鳴き始めている。卓の上には、焼きたてだった名残の香ばしさと、湯気がふたつ。指輪は、薬指の上でもう馴染んで、外の銀だけが少し新しい。三十八年前の夜、わたくしは知らない屋敷の天蓋の下で、目を開けたまま朝を待った。今夜は――たぶん、三つ数える前に眠るのである。よく笑った日は、眠りが早い。
「さて。……次は、何をいたしましょうね」