五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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32. 李の枝の払い方

 初冬の朝、侯爵家の紋の先触れが届いた。文面は型どおりで、末尾だけが型の外である。――五日ののちに伺いたく。庭木の御作法、御教示願い上げ候。

 

 侯爵家の紋を見ても、胸がもう、あの屋敷の廊下の温度にならない。時候の挨拶が三行、用件が二行、末尾の一行だけが、息子の字で少し窮屈そうにしている。型の外へ出る練習を、あの子はあの子で、一行ずつしているのである。

 

 わたくしはその場で、新しい箱から白い紙を一枚出した。

 

『息子と、庭の枝を払う』

 

 書いたら、七日以内に使う。それがこの家の決まりである。五日後なら、期限の内だ。書いた札は伏せない。卓の上に、表を向けて置いておく。

 

「……お書きになりましたね」

 

「ええ。予約席というものよ」

 

 白い札に約束をひとつ書くだけで、五日先の午後が、うっすらと色を持つ。書き溜めていた頃には知らなかった効き目である。願いというものは、寝かせると重くなり、予約にすると軽くなる。

 

 当日のセドリックは、庭仕事の格好で来た。というより、庭仕事の格好を仕立てさせて来た。真新しい前掛けに、真新しい手袋である。生真面目は、こういうところに出る。馬車を坂の下に待たせ、供も連れずに来たあたりも、あの子なりの作法だ。侯爵家の当主格が、下町の庭で母に庭仕事を習う。世間に聞かせる話ではない。聞かせない、と決めて来た背中が、少し晴れやかに見えるのは、母の身贔屓だけではないと思う。

 

 李の木は、家の庭の隅にある。越してきた年に、わたくしが苗木を頼んだのだ。まだ若く、枝も細い。それでも払う枝は、ちゃんとある。

 

 初冬の庭は、霜の名残で土が湿り、息が白い。若が縁の下から検分に出てきて、寒さに負けて戻っていった。バルテルは茶の支度をしながら、窓の内からこちらを――正しくは息子の手つきを――目を細めて見ている。あの屋敷で若様と呼んでいた子の、三十四歳である。

 

「よろしいこと、セドリック。枝は、切り口が乾く冬に払うの。夏に切ると、木が泣くのよ」

 

「泣く、とは」

 

「樹液よ。……あなた、木が泣くところを見たことがなくて?」

 

 息子は少し考えて、首を振った。木の泣き方を見ないで済む場所で育てたのは、わたくしどもである。言ってから、胸の奥がすこし軋む。守るというのは、遠ざけることと隣り合わせで、わたくしどもはよく間違えた。間違えたぶんは、いまから教えればよい。教わる気で来る息子が、ありがたいのである。

 

 枝ばさみの音は、存外よい音がする。ぱち、ぱち、と乾いた音が冬の庭に転がって、切り口から青い匂いが立つ。息子は筋がよかった。教えたとおりに刃を入れ、教えないところで手を止めて、枝の行く先を確かめてから切る。

 

 四十年前のわたくしに庭仕事を教えてくれたのは、エヴレットの庭の年寄りだった。娘に鋏を持たせる家だったのである。嫁いだ先では、鋏は庭師の道具で、奥方の手は花を活けるところまでと決まっていた。手というものは、取り上げられた仕事を、四十年経っても覚えている。

 

 しばらく、どちらも黙って働いた。黙って手を動かす親子、というものを、わたくしは初めてやっている。屋敷の親子は、いつも言葉と用件でできていた。枝ばさみの音と、束ねる縄の音と、時々の白い息。用件のない沈黙は、庭仕事によく合う。

 

「……この木は」と、息子が先に口を開いた。「屋敷の李と、同じ種類ですか」

 

「ええ。あの木の子よ。庭師に頼んで、種から起こしてもらったの」

 

 息子の手が、止まった。止まった手の先で、枝が一本、揺れている。三十四歳の横顔に、五つの日の泣き顔が、一瞬だけ透けた。

 

「あなたが五つの年、あの木に登って降りられなくなったでしょう。梯子を呼んで、庭師を呼んで、それから叱ったわね」

 

「……覚えています。二度となさいますな、と」

 

 あの日の声の硬さまで、覚えているらしい。子供は、叱られた言葉を、叱った側の何倍も長く持ち歩く。持ち歩かせたのは、わたくしである。

 

「あれね、嘘よ」

 

 剪定鋏(せんていばさみ)を置いて、わたくしは白状した。二十九年、言いそびれた白状である。

 

「叱った日ね、ほんとうは、隣に登りたかったのよ。あなたが見ていた高さを、一緒に見たかったの」

 

 言ってしまえば、それだけのことである。それだけのことを、わたくしは二十九年、言えなかった。母親の顔というものは、面よりも外しにくい。外してみれば、初冬の空気が、顔の素肌にじかに冷たい。

 

 息子は、長いこと黙っていた。それから、切った枝を几帳面に束ねながら、言ったのである。

 

「……存じませんでした。ですが――いまの屋敷の李は、わたしが登れます」

 

「あら」

 

「執務の合間に、登っております。誰にも言っておりませんが」

 

 三十四歳の侯爵家当主格が、である。わたくしは声を立てて笑い、息子は耳を赤くして、それでも枝を束ねる手を止めなかった。笑いながら、目の奥が熱くなるのは、枝の束で隠す。あの子は、降り方を探し続けていたのではなかった。登り方を、覚え直していたのである。

 

  ◇

 

 同じ頃、屋敷の廊下で、侯爵のユベールは薪を運ぶ若い下男とすれ違い――呼び止めると、初めて、名前を訊いた。下男はたいそう驚いたが――それだけである――。

 

  ◇

 

 夕、払った枝で焚き火をして、白い札をくべた。焚き火の煙は、李の枝の青い匂いがする。白い札は、黄ばむ暇もなく灰になった。灰になる早さが、この箱の自慢である。書いて、使って、燃やす。新しい箱の一枚目は、こうして終いだ。

 

「初雪の便りが、そろそろですわね」

 

 言っているそばから、離宮の紋の文が届いた。一行である。酒の支度、整い候。初雪の日にそなたの新居にて――――。

 

 雪より先に、約束が降ってくる家である。

 

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