五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
王太后陛下がお忍びで下町の小さな家に来る、という事態は、家をひとつ、まるごと直立不動にする。
報せを受けてからの三日間、家の者はそれぞれの流儀で備えた。わたくしだけが、備えなかった。あの方をお迎えするのに要るものは、掃除と、火と、それから普段どおりの顔である。普段どおりの顔がいちばん難しいことは、家中の男たちが証明してくれている。
バルテルは式次第を三通作った。到着の場合、遅延の場合、それから「若が陛下の膝に乗った場合」である。コンラートは夜明けから詰所の位置を
「西は?」
「西は、坂ですので」
どこかで何度も聞いた問答である。聞くたびに思うのだけれど、この人の地図には、方角がいつも三つしかない。
当日の陛下は、女官の古着の外套で、裏の坂から歩いて見えた。供はひとり。玄関で外套を脱ぎ、家の中をひと巡り眺めて、仰ったのである。
「……狭いの」
「ええ。声のよく通る家ですの」
「褒めておる」
狭い、が褒め言葉になる日が来るとは、あの離宮の広間で膝を折っていた十六のわたくしに、教えてやりたいものである。声の通る家、と申し上げたのは謙遜ではない。この家では、台所の湯の音まで客間に届く。届いてよい音しか、この家にはないのである。
火鉢を挟んで、毛布を掛けて、酒は
陛下の御前に銀器のない膳を出す日が来るとも、思っていなかった。それでいて、手が震えない。三十九年前の酌の震えは、畏れの震えだった。いまは畏れの代わりに、火鉢の炭が二人の間で燃えている。
雪は、あつらえたように昼から降り始めた。猫の額の庭が、見る間に白くなっていく。雪は音を連れてこない。連れてくるのは、静けさの底上げである。往来の車輪が遠くなり、物売りの声が丸くなり、家の中の小さな音だけが、順に浮かび上がってくる。炭の音、酒の注がれる音、若の寝息。
陛下は懐から、小ぶりの文箱を出された。二枚目が雪を待っていた、あの箱である。今日の一枚が、卓の上に表を向けて置かれた。
『雪見の酒を、友と飲む』
「……友、と書いたが」
陛下は茶碗を置いて、こちらを見ずに仰った。
「そなた、構わぬか」
「あら」わたくしも、庭の雪を見たまま申し上げた。「友ですわ。三十九年かかりましたけれど」
「長いの」
「ええ。でも陛下、良いお酒は、時間がかかるものでしょう?」
「理屈だの」
理屈ですわ、と胸の内で認める。理屈で言えば、王太后と出戻りの平民の妻が、火鉢を挟んで同じ茶碗の酒を飲む雪の昼など、あってはならないのである。あってはならないものは、あってみると、大概おいしい。
それきり、しばらく、雪の音だけになった。雪の音というのは、音がないという音である。火鉢の炭が、ちり、と鳴る。若が陛下の膝に頭を載せ、三通目の式次第が発動し、バルテルが卒倒しかけ、陛下が「苦しゅうない」で全部を済ませた。不敬罪すれすれの頭を、陛下の手が、ごく自然に撫でている。犬を撫でる王太后というものを、王国で何人が見たことがあるだろう。バルテルは職務上、見なかったことにする顔をして、それでも口元だけが緩んでいた。
酌をして差し上げようとしたら、逆に酌をされた。王太后陛下の酌である。断る作法を、わたくしは習っていない。
「十六のそなたは、酌の手が震えておった」
「……覚えておいでですの?」
「わたくしは、忘れぬ。それだけが取り柄でな」
名前の覚え方を教わったのは、この方の御前である。わたくしの特技の師匠なのだ。三十九年前の、震える手の酌を、この方は覚えていてくださった。名前を覚える、行方を忘れない――わたくしの取り柄と呼んできたものは、みんな、この方の御前で仕込まれた型である。型は、いつか情の入れ物になる。今日の茶碗が、その証拠だ。
夕暮れ、陛下は札を火鉢の炭で、ご自分の手で燃やされた。灰が、火鉢の縁で小さく舞う。燃やす手つきに、迷いがない。五十年、堀の内で匂いだけを受け取ってきた方の、これが二枚目である。三枚目からは、もっと速くなる。願いというものは、叶え癖がつくのである。
「……よい昼であった」
よい昼、の一言に、五十年ぶんの目方が乗っている。帰り際、供の女官が、文をもう一通、卓へ置いていった。
お見送りの坂の途中、陛下は一度だけ振り返って、家を眺められた。何も仰らない。仰らないまま、外套の襟を立てて、雪の中を歩いて行かれる。上背のあるお年寄りが、供をひとり連れて、坂を下りていくだけの後ろ姿である。……あの後ろ姿を、わたくしはたぶん、忘れない。
家に戻って、預かった文を開くと、一行である。
――秋には、そなたは祖母になるそうな。
「…………あら」
娘からの報せが、母より先に離宮へ回っている。どういう伝書網なのか。笑ってから、少し、しんとした。祖母。わたくしが、祖母である。
「おめでとうございます」
「ええ。……ええ、そうね。おめでたいのよ」
言葉が、追いつくのに少しかかった。胸の中で、知らない部屋の戸がひとつ開いた気がする。名前のまだない小さい人が、秋に来る。わたくしの箱の話を、いつか、あの子にもするのだろうか。書いたら、すぐ使うのよ――講義の一行目だけは、もう決まっている。雪はまだ、降っている――。