五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
産婆どのは、あの人が引いてきた二頭目の馬から、道具箱ごと降りた。ずぶ濡れの割に、声はからりと乾いている。
「三週早い? 赤子の決めた日取りが、正しい日取りですよ。十月十日なんてのは、大人の側の目安です」
その一声で、家の空気から、恐れのぶんだけが抜けた。職人の声というものは、それ自体が薬なのである。産婆どのは手を洗い、産屋に入り、戸を閉める前にひとつだけ注文を出した。
「湯と布はそのまま。外の連中は――静かに騒いでな」
静かに騒ぐ、という難題を、家はそれぞれの流儀で果たした。竈の前には女主人がふたり。わたくしが湯加減を計り、ソランジュ様が薪を足す。あの人は土間で薪を割り続け、割り終えると積み直し、積み直し終えると、また割った。伯爵どのは湯を運び、バルテルは四通目の式次第を書き、若は戸の前で耳だけを立てている。四通目の題は『御無事のお生まれの場合』だそうである。書き上がる前に本物が来ますように、と家中が妙な祈り方をする。
道中の首尾を訊いたら、割った薪を数える顔で「一本目は崖が落ち、二本目は水の下でした。三本目が、生きておりました」とだけである。詳しい武勇伝は、産婆どのが産屋の中から代弁してくれた。回り道のぬかるみで替え馬に乗り換えたの、迎えに来た大男が濡れた熊かと思ったの、そういう声が戸越しに漏れてくる。武勇伝と産の掛け声が、同じ調子で続くのである。
わたくしは、湯の合間に戸へ寄って、名前を呼んだ。
「フェリシア。朝が近いわ。フェリシア」
あなたの名前は、あなたが生まれる前から、わたくしが決めて、先に呼んでいたのよ。今夜のこれは、ある意味再現である。名前を呼ぶたび、湯気の向こうの背中がひとつ、こちらに繋がる。呼び続けた三十年の名前が、今夜だけは、綱の太さをしている。いつからか、ソランジュ様も戸の脇に椅子を寄せて、両手を組んでいた。祈りの手つきは、家それぞれである。
窓の外が、藍色から灰色へ、灰色から乳の色へ変わっていく。雨の名残が軒で数を減らし、家じゅうの音が、少しずつ夜の底から浮いてくる。嵐のあとの雲が切れて、東の空の底が薄く金色に剥がれ始めた頃――
産声が、した。
高くて、細くて、それでいて家じゅうの音を全部黙らせる声である。土間の薪割りが止まり、四通目の式次第が床に落ち、若がひと声だけ吠えて、伏せた。わたくしはと言えば、竈の前で膝から力が抜けて、気づけばソランジュ様と腕を支え合う恰好である。支え合ってから顔を見合わせて、同時に息を吐く。
「女の子だよ。……ほら、もう怒ってる。いい声だ」
湯を使わせ、布にくるみ、母親の胸に置いて――それから産婆どのは、次は祖母の番だと言って、わたくしに包みを寄越した。
軽い。三十年前の記憶より、軽い。軽いのに、この腕の中の目方より重いものを、わたくしは持った覚えがないのである。湯上がりの赤子の匂いがした。朝日が、布の白に薄い金色を差している。赤い顔をくしゃくしゃにして、握った拳を振り上げて、この世に着いたばかりの人が全身で抗議をしている。指を寄せると、五本の小さい指が、わたくしの人差し指を掴んだ。
……握力である。理屈も作法も知らない、ただの握力である。それが、効いた。
奪われた、と呼んできた三十七年だった。先に断っておくけれど、わたくしはいまも、あの離縁を赦していないし、離縁を寄越した人を赦す予定もない。それとこれとは、別の棚である。ただ――あの三十七年の中で、わたくしは娘を産み、育てた。その娘が今朝、この子を産んだ。この握力は、あの歳月の奥から来ているのである。取り返すのは、母として生きた歳月だけ。それだけでよい。それだけが、どの宝石より重いのだ。十七で嫁いだ朝、わたくしは、家と家の橋になるのだと教えられた。橋は、渡られるだけのものである。今朝のこれは、橋ではない。手と手が、じかに繋がったのである。
「……わたくし、人様の名前を忘れないのが特技ですのよ」
腕の中の人に、最初の挨拶を申し上げる。
「あなたの名前だけ、まだ存じ上げませんの。……ふつつかな祖母ですこと」
名のない客は、返事の代わりに、あくびをした。大物である。汗の張りついた娘の額を、拭いてやる。産み終えた手が、わたくしの袖を軽く握って、離れた。よくやったわ、の代わりに、その手をひとつ握り返す。母娘の間で、これで話は済むのである。
それから、家の者の対面は、順繰りである。伯爵どのは泣いた。堂々たる泣きっぷりである。あの人は、最後だった。抱いてみるかい、と産婆どのに促され、元近衛隊長は直立不動になったのである。
「……自分は、四十年。抱き上げるのは、泣いている子だけでありました」
「今日からは、寝てる子も抱けるんだよ」
腕は、完璧な揺りかごの形をした。形は完璧で、顔は敗残兵である。赤子は、その腕の中で、あろうことか熟睡した。
朝の光の中、湯気の失せた台所に、ソランジュ様と並んで立った。夜通し、同じ竈を回した仲である。
「エレオノール様」と、その方は初めて、わたくしを名前で呼んだ。「式次第に、ない朝でしたわね」
「ソランジュ様。……ですから、良い朝ですのよ」
台所に、朝日が入る。あの人が黙って茶を三つ淹れ、二つをわたくしどもに置いて、自分は白湯である。こういうところなのだ、この人は。湯呑みの並びが、ふたつと、ひとつ。この配置の律儀さを、わたくしはたぶん、一生からかい続ける。
昼過ぎ、ひと眠りして居住まいを正した伯爵どのが、深々と頭を下げて言った。
「名付けの書は――お義母様の字で、書いていただけませんか?」