五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
湖水地方へは、乗合馬車で三日かかる。街道は麦畑の間を縫い、車輪が白い土埃を立て、開けた窓からは干し草と日向の匂いが吹き込んでくる。鶏籠を抱えた農婦と、薬売りと、眠りこける学生の間に、岩のような護衛殿がひとり。鶏はしばらく彼を警戒して鳴いていたが、半日で諦めて静かになった。学生の頭が揺れて彼の肩に着地しても、彼は微動だにしない。荷物のように運ばれる巨躯である。存外、旅慣れた顔でもあった。
その中日。宿場の朝、〈夏〉といつでもの袋を混ぜて引いた札が、これだった。
『鐘を三度聞き流して、朝寝坊する』――二十歳の字。
「……これはまた、難物ですこと」
白状すれば、わたくしは三十七年間、夜明けに目を覚まさなかった朝が一度もない。誰より早く起きて、誰の一日も詰まらぬように段取るのが女主人の勤めである。朝食の順、花の指図、便りの返事、客の席次。身体はとうに、そういう楽器に調律されている。調律したのは、ほかならぬわたくしである。狂わせるのも、だからわたくしの仕事だ。
護衛殿は真顔で紙を広げ、作戦を書き出し始めた。就寝時刻の逆算。湯の温度。夕食は消化のよいもの。部屋は西向き。雨戸の目張り。
「近衛の夜襲対策より綿密ね」
「休むのも任務のうち、と教わりました」
書き上がった紙が、こちらの返事も待たずに壁へ貼り出される。掲示の位置まで水平だった。
「眠れないときは、羊ですの?」
「近衛では百二十まで数えて、駄目なら諦めます」
「諦めてどうなさるの?」
「起きて、備えます」
結論から言えば、初日は惨敗である。鐘の一つ目より早く、かっきりと目が開いた。薄闇に天井の木目まで見える。廊下の向こうでは、護衛殿がとうに起きて床板を鳴らしている気配がする。お互い様であった。
二日目、目張りと厚い帳で部屋を洞窟にしてもらったが、結果は同じ。真っ暗闇の中、天井のあたりだけが律儀に明るくなった気がして、目が開く。階下では朝支度の当番の足音が響き、馬房で馬が身じろぎ、井戸の滑車が今日最初の桶を上げる。客たちはまだ誰の予定も始めていない。わたくしだけが、起きている。この静けさを、わたくしは三十七年、たったひとりで聞いてきた。誰にも頼まれない見張り番である。見張るもののない静けさは耳に広すぎて、うっすらと寂しい。……あの朝々を、ずっと勤勉とだけ呼んできたのだから。
「敵は雨戸ではありませんわね。……わたくしの中に、住んでいるの」
「難敵ですな」
「ええ。三十七年飼っていたから、よく懐いていますの」
三日目の朝も、やはり夜明けに目が覚める。――だから、そのまま布団の中にいた。
鐘がひとつ鳴る。誰かの朝食の心配が頭をもたげ、布団の中で握りつぶす。ふたつ。今日の花はどうしましょうと立ち上がりかける膝を、また寝かせる。みっつ――。
聞き流した。三十七年ぶんの「起きなければ」を、枕の下で聞き流したのである。布団の中は、パンの中身みたいにあたたかい。帳の隙間から光の帯が一本だけ忍び込み、床の上をゆっくり這っていくのを、目を細めて眺める。誰の予定でもない光である。夢うつつのどこかで、料理番の娘の焼き菓子の匂いがした気がする。次に目が開いたら、窓の光が昼前の色をしていて、階下から昼餉の匂いが上がってきていた。勝ったのは眠りではない。選ぶ権利のほうである。布団の温みの底で、夜明けに起き続けた三十七年ぶんの朝たちへ、そっと暇を出す。長らく、ご苦労さまでした。……もう、並ばなくてよろしいのよ。
昼からは、もう一枚。こちらは引いたのではなく、選んだ札である。同じ根っこの望みは、まとめて使ってよい――決めごとの主はわたくしなので、決めごとはいつでも増やせるのだ。『市場で値切る』――二十一歳の字。買い物はすべて使用人の仕事で、自分の銅貨で自分の林檎を買うのが、あの頃の夢だったのである。
昼下がりの市場は、日除け布の下に夏をぎゅっと詰め込んだような場所だ。
結果から申し上げると、わたくしは林檎を相場より高く買いかけた。
「おまけしてくださらない?」
「べっぴんさん、うちは正札商売でね」
「では二つで――あら、お釣りは結構よ」
「奥さん、それ値切りの逆!」
隣の乾物屋まで笑い出す始末である。三十七年、釣り銭を待ったことがないのだから仕方がない。そこへ護衛殿が、黙って店先に立った。腕を組みもしない。ただ、立っただけである。店主の目が泳ぎ、
「……あなた、何をなさったの?」
「何も。立っていただけです」
「その顔で立つのは、武器ですのよ」
帰り際、小間物屋の店先で木苺色の髪紐が目に留まり、意味もなく一本買った。用のないものを買うのは、これも生まれて初めてである。護衛殿は当然の顔で荷を持ち「値切りはもうなさらないので?」と首をかしげてきた。店主たちへの配慮らしい。
夕方の市場は、焼き栗と革と土の匂いがする。日が斜めになり、日除け布の影が長く伸びて、売り声が少しずつ仕舞い支度の調子に変わっていく。縁台で彼がナイフで林檎を割り、大きいほうを寄越した。皮がぱりりと鳴って、白い切り口から酸っぱい香りが立つ。半分の林檎は、丸ごとより甘い気がする。理屈は、知らない。
◇
同じ頃。モンフォール邸の広間では、新しい奥方様が使用人の総見に臨んでいた。
「ええと、あなたは……その、背の高いほう」
名を呼ばれなかった三十年勤めの侍女頭の眉が、ぴくりと動く。広間の空気が一寸だけ冷え、誰もそれを取りなさない。名前など追い追いでいいわ、と新しい奥方様は扇の内で考えている。廊下の花は、三日前から替わっていない。誰が替えさせていたのか、この屋敷でそれを知る人は、もういない――。
◇
夜、宿場の裏庭で二枚まとめて火にくべた。二十歳と二十一歳が、仲良く灰になる。夜気は刈った草の匂いがして、火の粉が二つ三つ、舞い上がっては夜に溶けた。お待たせして、ごめんなさいね。
「残り、三十三枚」
明日は湖である。夏の袋には、まだ夏の札が残っているのだ。