五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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40. 名付けの書は、表向きの一枚

 七日目の命名の儀は、仲秋の入りの、よく晴れた午後である。伯爵家の本邸は白い石造りで、午後の光を受けると、壁が薄い蜜の色になる。居並ぶ式次第――ただし客の欄には、この七日で頁がひと頁、書き足されている。下町の坂の家の一同、という頁である。書いたのは、大奥様その人だ。あの方の変化は、いつも言葉でなく、書式で来る。

 

 広間に入って、わたくしの目は勝手に働き始めた。花の高さ、椅子の間合い、給仕の動線。三十年、こういう儀を回す側だった目である。回す側の目は、どうやら死ぬまで治らない。治らないまま、今日は席に案内された。祖母君の御席、と名指しの椅子である。祝われる側の椅子、支度される側の席。あの屋敷に一脚もなかったものが、この家には、わたくしのぶんまで用意されている。腰を下ろすだけのことに、少し、息が要った。席の隣は、ポーレット夫婦である。大奥様の席次は、家格の順ではなく、あの夜、湯を沸かした順に並んでいた。

 

 玄関先ではバルテルと伯爵家の家令どのが、互いの式次第を検分し合い、双方一歩も引かずに引き分けた。セドリックは李の実の砂糖漬けの小瓶を「屋敷の李です。……わたしが登って、もぎました」と産後の妹に差し入れて、当主格の顔のまま、耳だけ赤い。

 

 祭壇の前で、伯爵どのが娘の隣に立ち、赤子を掲げて、名を披露した。

 

「オーロール。――南の古い言葉で、夜明けの意にございます」

 

 披露の声に、家令ふたりが同時に深く頷き、頷き合ってしまったことに、双方むっとしている。

 

 掲げられた当人は、秋の光に眉をしかめ、それから諦めて寝た。嵐の明けた朝に来た子だから。それだけで、良い名である。良い名だけれど、と娘が種を明かしたのは、あとで囲んだ茶の席だ。

 

「もうひとつ、ありますのよ。わたし、『いつか』の反対の言葉を、探しましたの」

 

「……あら」

 

「いつか、は伏せる言葉でしょう。夜明けは、毎朝来ますわ」

 

 一本、取られたのである。三十七枚の箱の母は、茶碗で顔を隠した。隠しきれた自信は、ない。湯気の向こうで、娘が笑っている。伏せる言葉を三十七年数えた家系は、どうやらわたくしの代で終いになる。終いにしたのは、わたくしの旅で、名を付けたのは、娘である。母娘二代がかりの、これは仕事なのだ。

 

 命名の書は、祭壇脇の小机で書く。頼まれた席である。良い紙と、良いインクと、家中の目。インクの匂いは、離縁状の朝より薄く感じる。匂いは同じはずだから、薄くしたのは、こちらの胸のほうである。わたくしはペンを取る前に、指を一度、開いて閉じた。

 

 この手は、伏せる願いを三十七枚書いた手である。裏返しの一枚を、箱の底に敷き続けた手だ。その手がいま、生まれて七日の人の名前を、家中に表を向ける一枚に書く。願いだけは、代筆が利かない。けれど名前は、皆で呼ぶものだから、誰の字で書いても、呼ぶ人みんなのものになるのである。

 

 オーロール。

 

 ペン先の音は、乾いて、静かだった。離縁状の朝と、婚姻簿の午後と、同じ音である。同じ音で、三度、まるで違うものを書いた。三度目のこの音が、いちばん良い。書き終わりの撥ねまで、手は震えなかった。震えなかったことを、少しだけ自慢に思う。あの人が斜め後ろで、書き上がっていく字を微動もせずに見ていた。あとで感想を求めたら、「良い名であります。点呼で呼べば、朝が明るくなります」という武骨な絶賛である。

 

 モンフォールの家からは、家令の名で祝いの品がひと箱届いた。それだけである。

 

 茶の席の終わり、ソランジュ様が、わたくしを廊下の端へ招いた。人払いをするように声が半分になって、書式の鎧が、この方から一枚だけ外れる。

 

「あの、白い紙の作法を。……教わりたいの」

 

 箱の講義は、短い。決まりはひとつ、書いたら七日以内に使う。成就したら、その日のうちに燃やす。残った数は、数えない。大奥様は聞き終えて、しばらく廊下の窓の外を見て、それから、その場で白い紙を一枚、所望なさった。

 

「五十八ですのよ、わたくし。いまさら、と笑ってくださっても」

 

「あら。わたくしの箱は、五十四からですわ」

 

「……四年早くお話したかったわ……」

 

 書かれた文面を、わたくしは見ていない。見なかったけれど、翌々日、坂の家に文が来たのである。

 

 ――首尾、(つつが)なく。孫を、式次第の外で、ただ抱き申し候。存外、泣かれませんでした。札は竈にて。作法、たしかに拝受いたしました。

 

 成就の報告まで書式なのが、あの方らしい。式次第の外で抱く、という願いを、式次第の家の主が書く。三十年、正しさで家を支えてきた人が、正しさの外の抱き心地を、五十八の年に初めて知ったのである。箱というものは、こうして知らない家の竈へ、一枚ずつ渡っていく。

 

 同じ日の夕、離宮の紋の文も届いた。一行である。

 

 ――冬、雪見のついでに、ひ孫のような夜明けの顔を検分に参る。貸しの回収である。

 

「……どういう伝書網ですの?」

 

 命名から二日で、離宮まで名前が届いている。恐るべき友を持ったものである。恐るべき友の膝を、この冬は若と赤子が取り合うことになるわけだ。勝敗の予想は、しないでおく。

 

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