五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
リンデ湖は、空を溶かして薄めたような色をしていた。
朝の街道が松林を抜けた途端、視界がまるごと水になったのである。乗り合わせた子供が歓声を上げ、わたくしも半分だけ同じ声を出しかけて、やめておいた。五十四歳には五十四歳の作法がある。代わりに、窓枠を握る手にすこし力がこもった――それくらいは、見逃していただきたい。
松の匂い。桟橋の板の、日に焼けた熱。遠い岸は昼の靄に淡く、水と空の境目が曖昧である。水鳥が
『湖で泳ぐ』――十九歳の字。
「先に申し上げておきますけれど。わたくし、泳げませんの。一度も泳いだことなどないんですもの」
「存じております」
「あら、なぜ?」
「昨夜、『泳ぐ』とおっしゃった時点で顔に書かれておりました。ご安心ください。備えました」
護衛殿は例の大きな旅嚢を解き始めた。革の浮き袋。毛布が二枚。焚き付けの束。折り畳んだ紙には、医者の住所が三軒。
「浮き袋なんて、いつの間に」
「昨夜、村の革屋に相談を」
「相談。……この体格の元近衛に、夜、戸を叩かれる革屋の身にもなってごらんなさいな」
「代金は、正札どおりです」
そして医者の住所の紙を几帳面に開く。
「湖の北と、東と、南です」
「西は?」
「西は、湖ですので」
真顔である。わたくしは笑いを噛んで、袖をまくった。古着の上下は、今朝がた宿の女将に借りたものだ。
「泳ぐの? あんたが?」
女将は目を丸くして、それから何がおかしいのか、肩を揺らして笑いながら、奥から引っ張り出してきてくれた。洗いざらしの麻は日なたの匂いがして、貴婦人の水浴び着より、よほど潔い代物である。絹は、着る体裁だった。守っていたのは肌ではなく、家の格である。麻一枚のほうが、肌にはよほど正直だ。
桟橋の若い娘たちが、くすくすと囁き合うのが聞こえる。「あの歳で泳ぐ気よ」と。わたくしは帽子を取り、丁寧に一礼して差し上げた。
「ええ。泳ぎますわよ? ふふっ」
娘たちは毒気を抜かれた顔になり、それから、グッと親指を立ててなどしてくれた。若い人は、素直でよろしい。
帽子を脱いだ頭に、湖の風がじかに触れる。視線というものは、浴びてみて初めて量が知れる。三十五年、わたくしが怖れていたのは水ではなく、こちらのほうだったのである。……怖れていたものが、応援してくれる日もある。
十九の夏を、思い出す。避暑の湖で、日傘の下から指先だけ水に浸けたら、義母の声が飛んできたのだ。侯爵夫人となる方が、肌を晒すなどあってはならないと。
日傘は重く、手袋の中は汗ばんで、あの夏の水の冷たさを、わたくしは指一本ぶんしか知らない。三十五年間、指一本のままである。あの声の主は、とうに墓の下においでである。それなのに、声だけが肩のうしろに住み続けている。声の主より、声のほうが長生きをする――先延ばしというものの正体は、案外、これなのかもしれない。
――さて、答え合わせといこう。
浅瀬の水は、ぬるい絹のようだった。足首、膝、腰。一歩ごとに身体から重さが抜けていく。水底の砂が足の指の間で崩れ、小さな魚が銀の針のように散る。重さというものは、脱いでみて初めて、着ていたことが分かるのである。護衛殿は腰まで水に入り、教練の声で言った。
「まず、水に身体を預けます。力を抜いて、後ろへ」
「後ろへ? 沈みますわよ」
「支えます。……溺者救助は、近衛の必修です」
「あなた、必修ばかりの人生ね。ふふっ」
すっと水に首まで潜り、ゆっくりと水に身を任せながらそのまま後ろに伸びていく――――。
「怖くは、ありませんか」
「あら。支えてくれるんでしょう?」
彼は一度まばたきをして、それきり何も言わなくなった。請け合ったことを疑われない――それがこの人にとってどういう値打ちなのか、わたくしはまだ知らない。知らないまま、手だけが先に、この人を信じている。三十七年、わたくしの手は誰かを支える側で、預ける稽古を一度もしてこなかった。その手が、である。
軽口の途中で後ろへそっと水底を蹴った。一度目は鼻に水が入って盛大に咳き込み、二度目はもがいた拍子に教官殿の顔へ水面ごと手のひらを叩きつけた。水をしたたらせた彼の眉が、生まれて初めてというふうに、ふっと緩む。笑うなら声を出せばいいものを。
「三度目です。息を吸って、止めて――空を見る」
三度目は、夕暮れ。人が引けて、入り江が静かになってからである。水面は夕陽を薄く延ばして、金と茜のあわいで揺れている。岸の松で夕蝉がひとつ鳴いて、やむ。
浮いた。
耳の下で、水がことことと鳴っている。空が、近い。茜色の雲が一枚、ゆっくり形を変えながら流れていく。まぶたの裏まで夕陽の色で、遠くの歓声は水を通ってまるくなる。身体を張っていた糸が、一本ずつほどけていくのが分かる。十九のわたくしが日傘の下から見上げた空より、ずっと近くて、ずっと広い。肌を晒すなという声は、岸よりもっと遠くで、もう波音と区別がつかない。目尻から水がひとすじ、こめかみを伝って湖へ戻っていった。あれは湖の水だったということに、しておく――。
どれだけ浮いていたのか、上がる頃には唇が薄紫になっていて、彼が無言で毛布と上着を重ねて掛けてきた。上着は重く、日なたと革の匂いがする。焚き付けの束が、ここで役に立つ。火が起き、湖が藍色に沈み、対岸の宿に一つ二つ、明かりが点る。わたくしは十九歳の字を炎に預けた。撥ねの若い字が、めくれて、灰になる。あの夏のわたくしへ。――水は、あたたかうございましたよ。
「残り、三十二枚」
「……お見事でした」
「ええ。五十四歳、湖で泳ぎましたわ。――浮いただけ、とも言いますけれど」
「浮けば、泳ぎです」
教官殿のお墨付きが出たので、そういうことにする。焚き火がぱちりと爆ぜて、彼が薪を足した。
「次は、手足を動かして進みたいわね」
「本日は浮くまで、が計画です」
「あら。計画は、破るためにありましてよ」
「……前向きに検討します」
「まあ。宮廷語がお上手になって」
濡れ髪のまま宿に戻ると、玄関先に見覚えのある旅装が仁王立ちしていた。娘である。旅の埃を頬に付けたまま、眉だけは母親そっくりに吊り上がっている。
「お母様。……保護しに、参りました」
「あら、フェリシア。いいところに来たわね。明日は釣り――」
「保護ですと申し上げております!」
湖の夜風が、娘の声だけを大きく運んでいった――。