五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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7. 傘は、置いてまいりました

 湖に、雨が来た。

 

 朝のうちから山の色が鈍り、昼前にはもう、桟橋の板がまだらに黒い。今朝引いた札は、あつらえたようにこれである。

 

『傘を差さずに、雨の中を歩く』――二十四歳の字。

 

 袋を混ぜたのは、わたくしである。仕込みではない。運というものは、たまに芝居がかるのだ。

 

 護衛殿は旅嚢から油布の外套を二着、長靴を二足、手拭いをひと束、当然の顔で並べた。

 

「本降りになります。止むのを待つのも、作戦のうちです」

 

「あら。この札はね、待ってはいけない札なの」

 

「……濡れますが」

 

「濡れるのが、望みですのよ」

 

 彼はしばらく黙り、外套を一着だけ畳み直した。わたくしに差し出しかけたぶんである。物分かりがよろしい。

 

 二十四の年を、覚えている。夏の客間で、刺繍を膝に、窓の外を見ていた。にわか雨に洗濯物を取り込む娘たちが、悲鳴だか笑い声だか分からない声を上げて、庭を裸足で駆けていく。濡れた前掛けを絞りながら、みんな笑っていたのだ。わたくしは絹のドレスで、午後のお客の席次を考えていて、窓硝子一枚向こうのあの雨に、指一本触れられなかった。……その夜に書いたのが、この札である。硝子というものは、薄いくせに、身分の厚みをしている。触れば冷たいだけの一枚が、あの頃のわたくしには、越えられない壁より確かだった。壁なら、乗り越える気にもなれたでしょうに。

 

 外に出る。

 

 雨は夏のぬるい雨で、最初のひと粒が額に当たった時だけ、少し冷たい。あとは、ただ賑やかである。ひと粒目が肌で弾けた瞬間、三十年ぶんの「いけません」が、音を立てて濡れていく。世界とわたくしの間から、硝子が一枚、抜き取られたのである。抜いたのは、ほかでもない、この手だ。乾いた道の土埃の匂いが最初のひと降りで立ちのぼり、すぐに洗われて消えていく。木々の葉が鳴り、軒が鳴り、湖は一面、水面を叩く音で白い。遠くの鐘の音まで、水を含んで丸くなる。往来の人は軒下から呆れ顔で見ている。旅籠の女将は追いかけてきて手拭いを押しつけ、それから諦めて笑った。

 

 桟橋の突端まで歩いた。板は滑るので、一歩ずつ。湖と空の境がとうに消えて、世界がまるごと、やわらかい水音の中である。祭りの揚げ菓子、市場の林檎、湖のぬるい水。この夏、わたくしの「初めて」は、いつも肌のほうから来る。頭は三十七年ぶん賢しらでも、肌は正直に、十八のままだったらしい。

 

 髪が頭に貼りつく。旅着が重くなる。靴の中で、指がくちゅくちゅと鳴る。五十四年生きて、雨とはこんなに量のあるものだったのか、と思う。露台の雨も、馬車の窓の雨も、景色でしかなかった。景色は、こんなふうに首筋を伝わない。

 

 軒下から子供が二人、歓声を上げて真似に飛び出してきて、すぐ母親に回収されていった。ごめんなさいね、変なお手本で。

 

 隣では、護衛殿が油布の外套を着ないまま、律儀に濡れている。

 

「あなたは着てよろしいのよ?」

 

「……職務中ですので」

 

「濡れる職務なんて、聞いたことがないわ」

 

「本日、拝命しました」

 

 真顔である。雨垂れが、その眉の古傷を伝って顎で落ちる。わたくしは前を向いて、少し笑った。

 

「風邪をひきますよ」

 

「ひいたら、寝込むだけよ。誰の予定も狂わないの。……素敵でしょう?」

 

「…………はい」

 

 返事まで、たっぷり三拍あった。あの三拍はきっと、素敵という言葉の検分に使われたのである。

 

 隣で誰かが濡れている、というだけのことが、雨の量を半分にする。守られるのとも、仕えられるのとも違う。ただ、同じ側にいてくれる人の濡れ方である。二十四のわたくしが窓の内から見た娘たちは、きっとこれを知っていたのだ。

 

 顔を上へ向けると、雨が瞼を叩く。口を開けたら、雨粒がひとつ、舌の上で消えた。味はしない。それでも、二十四歳のわたくしがどこかで手を叩いている気がする。

 

 宿へ戻ると、女将が湯を沸かして待ち構えていて、二人まとめて叱られた。生姜湯を飲まされ、髪を拭かれ、火の前に座らされる。叱られるというのも、存外あたたかいものである。三十七年、わたくしには叱られる立場というものがなかった。女主人は、叱る側の椅子にしか座れないのである。生姜湯は喉に熱く、身体を一気にほてらせた。ほどいた髪から雨の匂いがして、火の爆ぜる音の向こうで、湖がまだサラサラと鳴っている。

 

「そういえば、札は――」

 

 濡れては大変、と懐を探ると、札入れごと油紙にくるんであった。今朝、出がけに包んだ覚えはない。

 

「……あなたの仕業ね?」

 

「はい。雨の日は、紙が先です」

 

「わたくし、段取りでは負けたことがありませんのよ」

 

「存じています。……ですから、紙のことだけは、自分が」

 

 言い方に不思議な具合の矜持が乗っていて、わたくしは礼を言いそびれた。代わりに、乾いた札を火にくべる。二十四歳の字が、雨の日にちゃんと乾いたまま燃えるのだから、世話の焼ける護衛殿である。濡れても構わない側の人生は、思っていたより、ずっと手がかかって、ずっとあたたかい。

 

「残り、三十一枚」

 

 窓の外では、まだ雨が湖を叩いている。今夜は、いい音で眠れそうだ。

 

  ◇

 

 同じ頃、王都の離宮の庭園では、夏の園遊会が開かれていた。

 

 芝の緑に、白い卓布。銀器が夏の光を弾き、貴婦人の裾が花のように開いて、その中心に、王太后マルグリットの席がある。新しいモンフォール侯爵夫人イヴェットは、この日が初のお披露目である。

 

 彼女は、微笑みの作り方なら知っていた。知らなかったのは、挨拶の順である。王太后より先に、若くて話しやすそうな公爵夫人へ膝を折り、扇の海がいっせいにさざめいた。イヴェットは気づかない。気づいていないことにも、気づかない。お年寄りの席は、あとでゆっくり――その「あとで」が、この庭で何を意味するかも。

 

 マルグリットは何も言わなかった。ただ、菓子の皿を静かに置き、隣の女官へ、ぽつりと問うたのである。

 

「……エレオノールは、息災か」

 

 それだけである。けれど王太后の一言は、どんな早馬よりも速い。その夜のうちに三つの夜会を渡り、翌朝には王都中の客間で、こう囁かれることになる――離縁されたのは、果たしてどちらのほうかしら、と――。

 

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