五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

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8. 剣は一度だけ、様になるまで

 翌朝の札は『剣を一度だけ、様になるまで振る』――三十二歳の字である。

 

 読み上げると、護衛殿は数拍固まってから、無言で宿の裏手へ消えた。戻ってきたその手には、木剣が二振り。

 

「……なぜ、旅嚢からそれが出てきますの?」

 

「訓練は、日課ですので」

 

「二振りも?」

 

「予備は、基本です」

 

 ちなみに予備のほうは柄が細く、妙にわたくしの手に馴染む。聞けば、お茶を飲んでいる間に削り直したのだという。仕事の早い人である。

 

 宿の裏は物干し場で、湖の朝靄(あさもや)がまだ薄く残り、朝の光が敷布越しに白い。女将が心得顔で桶をどけてくれた。そのまま縁台に腰を下ろしたのは、見物料のつもりらしい。

 

「では、伺いますけれど。『様になる』とは、どういうことですの?」

 

「いい一振りは、音がまっすぐです」

 

「音?」

 

 彼は木剣を無造作にひとつ振ってみせた。ぶん、という太い音が、朝の空気を裂いて通る。敷布が遅れて揺れた。なるほど、まっすぐな音である。

 

「曲がった振りは、風がほどけます。まっすぐな振りは、風が鳴きます」

 

「詩人ですのね」

 

「教練の受け売りです」

 

 三十二の年を、思い出す。領境の街道に賊が出た冬である。屋敷にも夜、不穏な物音があって、男たちが得物を持って走り、わたくしは子供部屋の扉の前に、燭台(しょくだい)を握って立っていた。あの夜の廊下は長く、蝋燭一本ぶんの明かりの外は全部闇で、自分の心の音だけがうるさかったのを覚えている。守られる側の椅子から、一歩も動けないと知った夜である。せめて一振り、様になる振り方を知っていたら――あの燭台は、もう少し軽かったろう。守られる側には、守る人の背中しか見えない。背中は頼もしいが、遠い。あの夜のわたくしは、燭台の重さの中に、その遠さからくる心細さも一緒に握っていたのである。

 

 稽古が始まった。

 

 まず、握り。卵をひとつ包むように、と言われて握ると、今度は柄の中で手が遊ぶ。それから、足。膝は使うが、頼らない。振りかぶりは、耳の横まで。

 

「振るのは腕ではありません。腰です。腕は、通り道です」

 

「腰。……五十四歳の腰に、ずいぶんな注文ね」

 

「五十四歳の腰は、四十年勤めた自分の腰と同い年です。動きます」

 

 妙な励ましだが、妙に効く。素振りを十、二十。手のひらが熱くなり、腕の筋肉が、もう文句を言い始めている。手のひらの付け根には、豆がひとつ、できかけていた。三十七年、絹の手袋の下で守られてきた手である。豆の場所が、妙に誇らしい。わたくしの手は、いつも誰かのために先に動く手だった。花を直し、席次を書き、薬湯の盆を運ぶ。自分のためだけに熱を持ったのは、この手にとって、これが初めてなのである。振るたび、音が濁る。風がほどける、の意味が身体で分かってくる。

 

 十本ごとに、縁台の女将が水を出してくれた。見物料であるらしい。膝が、こき、と小さく鳴ってしまう。

 

「あら、膝が鳴ってしまいましたわね」

 

「聞こえませんでした」

 

「あら、耳まで紳士」

 

 三十を過ぎたあたりで、彼が後ろへ回った。

 

「失礼します」

 

 断ってから、手が添えられる。右の手首に、それから肘に。大きな手は乾いていて、剣ダコの位置まで律儀である。振りかぶりの角度が、二寸ばかり直された。

 

 ――それきり、二人とも妙に無口になった。

 

 敷布が風にはためく音と、木剣の音だけが、物干し場に規則正しく響く。湖から渡った風で、敷布が一度、帆のように大きく膨らんだ。無口の中身を、わたくしは検分しないことにする。物干し場の風は、検分には少しやわらかすぎる。手首に添えられていた熱だけが、稽古と関わりのないところで、妙に長く残る。残った熱に、名前を付けそこねる。稽古の熱、ということにして棚へ上げたけれど、棚に上げた自分の手つきが、いちばん怪しい。縁台の女将が、にやにやしているのが視界の端に映る。見なかったことにして、口をキュッと結んだ。

 

 四十一本目だった。

 

 ぶん――と。

 

 太く、短く、まっすぐな音が、わたくしの手の先で鳴ったのである。手応えというものは不思議で、当てる的もないのに、腕から腰まで一本の芯が通った心地がする。芯は、通ってみて初めて分かる。三十七年、わたくしが立っていられたのは、姿勢のおかげではない。あれは芯ではなく、型だった。型は外から着せられるもので、芯は、内から通すものである。

 

「あら。……今の、聞こえまして?」

 

「はい。――様になりました」

 

 教官殿の判定は簡潔である。わたくしは木剣を掲げて、しげしげと眺めた。

 

「もう十本ほど、振りたい気分ですけれど?」

 

「紙には、一度だけ、とあります」

 

「……紙のご指示なら、仕方がありませんわね」

 

 それから、木剣を返しながら伺ってみる。

 

「あなたは……いまでも、その、お強くていらっしゃる?」

 

「三人までなら、今でも」

 

 指が三本、律儀に立てられる。

 

「あら、具体的。四人目からは?」

 

「走って逃げます。あなたを担いで」

 

「……担がれる前提ですのね、わたくし」

 

 荷物あつかいには抗議したいところだが、あの旅嚢と同列なら、存外大切にされる気もする。抗議は保留にした。

 

 夜、物干し場の隅で火を借り、三十二歳の字を燃やした。昼の音をまだ覚えている手のひらが、火に照らされてほの赤い。紙の端がめくれ、若くもない字が一瞬だけ照り返して、素直に灰へ折れる。……武器がほしかったのでは、ないのだ。あの夜ほしかったのは、廊下の闇にひとりで立たされない、という当てだったのだと、いまなら分かる。隣で黙って火の番をする、岩のような影をちらりと見る。当てというものは、三十七年遅れで来ることもあるらしい。

 

 燭台を握っていた夜のわたくしへ。――もう、震えなくてよろしい。震えたところで、武者震いと言い張ればよいのです。どこかの誰かのように。

 

      ◇

 

「残り、三十枚」

 

 翌朝である。袋を混ぜ、新しい一枚を引いたわたくしの手が、止まった。

 

『昔の友達に、いま会いに行く』――三十五歳の字。

 

 護衛殿が、湯気の立つ茶碗を持ったまま、こちらの顔を覗き込む。

 

「……どちらへ、参りますか」

 

「この町ですのよ。……多分、歩いて四半刻(しはんとき)

 

 近いほど、遠い場所があるのである――。

 

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