一途すぎる硝子の少女 ~メジロアルダンと私だけのトレーナー~   作:東雲カイル

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差し伸べられた手と、溢れる想い

トレセン学園の廊下の窓から差し込む午後の陽光が、メジロアルダンの水色の髪を淡く染めていた。

 

このトレセン学園でトレーナーと出会い、共に歩み始めてから、およそ一年が過ぎようとしていた。共に過ごした季節の数だけ、彼女の心は穏やかに、そして深く満たされていった。今日は、トレーニングがオフの日。アルダンの体調に配慮し、トレーナーが組んでくれた、大切な休息日だ。だが、アルダンにとってオフの日は、一日の終わりを待つよりも、トレーナーとの二人きりの時間が、何よりも待ち遠しい日でもあった。

静かな学園の廊下を歩きながら、アルダンの心は軽やかだった。足取りも軽くトレーナー室へ向かう。そこは学園の喧騒から隔絶された、二人だけの"聖域"。

トレーナーが仕事に集中している傍らで、アルダンが用意したお気に入りの茶葉で紅茶を淹れる。その湯気の中で、彼がどんな表情を見せるのか、どんな言葉をくれるのか。

 

(今日クラスメイトから聞いた話をしたら、トレーナーさんはどんな風に反応してくださるかしら。今日は少しだけ私のわがままで、トレーナーさんをからかってみましょうか)

 

胸の奥に灯る静かな高揚を抱え、アルダンは微笑んだ。アルダンにとって、自分の選んだ茶葉でトレーナーを「おもてなし」するのは格別に感じている。そして、ほんの少しからかって、「アルダンには敵わないや」と言いながら困っている彼の姿を見るのも、アルダンにとっては何よりの喜びだった。

アルダンは歩きながらも、その口元から笑みがこぼれるのを止められない。

すれ違う後輩ウマ娘たちのひそひそ声があがる。

 

「ねえ、アルダン先輩、なんだか今日、嬉しそうじゃない?」

「トレーナーさんと会えるからでしょ?あの二人、本当に夫婦みたいだもん」

「でも、まだ付き合っていんじゃないの……?」

「え、そうなの……?あんなに仲良さそうなのに?」

 

学園の一部では、メジロアルダンと彼女のトレーナーの関係が「夫婦のようだ」と囁かれていた。

アルダンとトレーナーが並んで歩くとき、その距離はごく自然で、長年寄り添った夫婦のように寄り添っていた。アルダンが何かを言えば、彼はすぐに顔を向けて優しく応え、彼の言葉にアルダンは自然と微笑む。互いの視線が交差するその瞬間には、言葉を必要としない穏やかな信頼が満ちていた。

些細な仕草や表情から滲み出る、トレーナーがアルダンへ向け、アルダンがトレーナーへ向ける、揺るぎない愛情と、互いへの深い理解。

まるで、互いの存在が息をするのと同じくらい、当たり前になっているかのようだった。

トレーナーが自分にだけ向ける慈愛に満ちた眼差し、些細な変化にも気づいてくれる温かい言葉、そして何より、誰よりも自分を信じてくれるその揺るぎない優しさ。

それこそが、アルダンにとっての最も確かな幸福であり、トレーナーの隣こそが、いつだって自分だけの特等席だった。

しばらく廊下を歩いて角を曲がった、そのときだった。

 

「なるほど、それで第3コーナーでインを突けなかったんだね。外から回る時は、コーナー手前でもう一段ギアを上げる意識を持ってみよう。君の脚質なら、直線でも十分追い込めるはずだよ」

 

(えっ、この声は……、トレーナーさん……?)

 

朗らかで、落ち着いた、そしてどこか甘さを含んだ声。

思わず、アルダンの足が止まった。

少し先の廊下で、彼女のトレーナーが、見知らぬウマ娘と話している。

 

淡い栗毛のショートカット。まだあどけなさの残る顔立ちに、きらきらと輝く瞳。そのウマ娘は、頬を赤らめながら、一生懸命に身振りを交えて話していた。 トレーナーは腕を組み、真剣にうなずいたあと、ふと笑みを見せる。アルダンの心臓が、ひやりと冷えた。

 

「大丈夫。君ならきっと次はうまくいく。焦らず、まずは基礎からやっていこう」

 

(……トレーナーさん、笑ってらっしゃる)

 

ごく自然なやり取り。けれど、アルダンの胸の奥に、ひやりとした、粘つくようなものが流れた。それは氷のようで、しかし熱い。心臓を鷲掴みにされたかのような、苦しい感覚。

 

(トレーナーさんは、誰に対しても誠実で、公平。それはわかっている。指導者として当然の振る舞い。 立場に甘えることも、線を越えることもない、まっすぐな人。それでも……っ)

 

アルダンはそっと手を握りしめた。美しい指先が、白くなるほどに。

 

(……私の知らないところで、あんな表情をなさるのですね。私だけに見せると思っていた、あの優しい笑顔……)

 

この胸を締め付ける苦しみは、決して初めてではない。

今までも、何度となく、トレーナーが誰かに向けた優しい笑顔を目にするたびに、私の心に静かに、しかし確実に育ってきた歪んだ愛着が、その醜い芽を伸ばしてきた。そして今、その芽は、私自身の理性さえも侵食しようとしている。

 

(どうして、あんなに優しく微笑むの……?)

 

その笑顔が、私以外の誰かに向けられている。

そう思うだけで、胸の奥が粘つくようなものが流れる。

 

独り占めしたい。

 

トレーナーさんの一挙手一投足、その全てを私だけのものにしたいと、醜い感情が心を支配しようとする。こんなにも愛しているのに、この感情は、まるで欲張りな子供のようだ。メジロの名を背負う令嬢として、常に品位を重んじてきたはずなのに、トレーナーさんのこととなると、途端にこんなにも器の小さな自分を曝け出してしまう。

こんな感情を抱く自分が、たまらなく嫌だった。

トレーナーさんに、こんな醜い部分を知られたくない

 

 

――もし、知られて、嫌われてしまったら。

 

 

私はきっと、生きていけない――

 

 

 

そのとき、後ろから小さな足音が近づいた。

 

「ア、アルダンさん……?」

 

振り返ると、友人のサクラチヨノオーが、心配そうに立っていた。

 

(チ、チヨノオーさん……!? もしかして私の顔を、見られてしまいました……!?)

 

アルダンの心臓が跳ね上がった。普段は落ち着いているはずの呼吸が乱れ、動揺が全身を駆け巡る。チヨノオーの表情が、わずかに強張ったのをアルダンは見逃さなかった。普段の自分とは違う何かを、友人に悟られてしまったのかもしれない。

普段は慈愛に満ちたその瞳が、今はまるで獲物を射抜くような鋭さを帯びていた。

 

「どうしたんですか? お顔が、少し……」

 

「いえ……少々、疲れが出てしまったみたいで……。ちょっと、これからトレーナー室で休もうと思います……」

 

アルダンは、内心の醜い感情を隠すように、そして何よりチヨノオーに悟られたくない一心で、懸命に表情を整え、微笑んでみせた。一刻も早くこの場を立ち去りたい、その焦りが心に募る。

 

「わ、わかりました……無理しないでくださいねアルダンさん」

 

チヨノオーは何か言いたげな表情を一瞬見せたが、すぐに心配そうな顔で頷いた。

 

「ありがとうございます、チヨノオーさん」

 

アルダンはそう短く告げると、足早に歩き出した。チヨノオーは、その背中を心配そうに見送る。

けれどその歩みは、わずかに重かった。

 

 

──遡ること数分前

 

 

学園の廊下にて、メジロアルダンのトレーナーと栗毛のウマ娘が話し込んでいた。

 

「大丈夫。君ならきっと次はうまくいく。焦らず、まずは基礎からやっていこう」

 

「わかりました、頑張ります!」

 

そのとき、トレーナーの視線がふと、廊下の向こうへと向けられた。微かに眉間に皺が寄る。

 

「ん?」

 

栗毛のウマ娘が、そんなトレーナーの様子に気づき、小首を傾げる。

 

「どうしたんですか?」

 

トレーナーは真面目な表情で、まだ誰もいない廊下の角をじっと見つめていた。目には捉えられない。だが、漠然とした異質な気配が、その場に漂っていたような気がした。

ほんのわずか、しかし確実に、そこに"誰か"の視線を感じたような。

ふと、付けている腕時計で時間を確認すると、トレーナーははっとした。

 

(……しまった、そろそろアルダンが来る時間帯だ)

 

「……ごめん、そろそろ次の予定があるから、今日はここまでにしよう。続きはまた今度会ったときに聞かせて」

 

「あ、分かりました!こちらこそ呼び止めてすみません、ありがとうございました!」

 

トレーナーは軽く手を挙げながら、栗毛のウマ娘に背を向け、足早に廊下を進み始めた。

 

(アルダンを待たせていなきゃいいが、それよりさっきの違和感の正体は何だ……?)

 

トレーナーの足取りは、いつもの穏やかさとは異なり、どこか焦りを帯びていた。

 

 

 

   ◇ ◇ ◇

 

 

 

学園の中庭へと続く廊下に出ると、アルダンは思わず、開けた場所に設置されたベンチに吸い寄せられるように腰を下ろした。

まだ胸の奥に焼き付くのは、トレーナーが、あの栗毛のウマ娘に向けていた優しい笑顔だった。

 

(私にいつも見せてくださっていた笑顔……)

 

その光景が脳裏に何度もフラッシュバックし、心をきつく締め付ける。

 

(イヤ……どうして、私がこんなにも心を乱されなければならないのでしょう……)

 

これまでトレーナーは、どんな時もアルダンのことを最優先し、その優しさ、笑顔、言葉の全てを彼女に惜しみなく向けてくれた。厳しいトレーニングの合間に見せる労いの微笑み、体調を崩した時に見せてくれた、あのひどく心配そうな眼差し、そして些細な談笑の時に、まるで子供のように屈託なく笑う顔……

その一つ一つが、アルダンにとっては何よりも大切な宝物だった。

 

(すべて、私だけのものだと信じていたのに……)

 

トレーナーさんを独占したいという醜い感情が、胸の奥から湧き上がってくる。そんな自分を、アルダンは深く嫌悪した。

 

(このままの顔で、トレーナーさんに会っても良いのでしょうか……)

 

自分の顔がどんな表情をしているのか、この感情が映し出されているのか、今は確かめる術がない。

 

(この嫉妬に塗れた心を、あの方に見せるのは、あまりにも醜い……)

 

会うのをやめて、一人でこの感情と向き合うべきか。けれど――

 

(会わないと……私が、私でなくなってしまう気がする)

 

(この胸を焦がすような不安も、この息苦しい感情も、あの方の優しい言葉と笑顔に触れなければ、どうにもならない……)

 

そう確信した途端、体が震えるほどの焦燥感に襲われた。

アルダンは意を決してベンチから立ち上がった。トレーナー室へ向かい始めたが、その前に一つだけ立ち寄る場所があった。

 

学園の女子トイレ。

洗面台の前に立つと、アルダンは深く息を吐き、鏡に映る自分を見つめた。やはり、瞳には深い影が落ち、口元は固く引き結ばれている。先ほどサクラチヨノオーに会った時よりは幾分か和らいだものの、決して普段の穏やかなメジロアルダンの表情ではなかった。。

 

「大丈夫ですメジロアルダン。普段通りに」

 

自分に言い聞かせるように、そっと頬を叩く。もう一度、深く呼吸をする。ゆっくりと、いつもの優雅な笑顔を、まるで仮面のように顔に貼り付けて、アルダンは女子トイレを後にした。

そして、再びトレーナー室へと向かい始めた。

 

 

 

   ◇ ◇ ◇

 

 

 

トレーナーは自分のデスクに戻ると、いつものようにPCを開き、事務作業に取り掛かっていた。ただ、廊下で感じた漠然とした違和感が尾を引いて、どこか落ち着かない様子だった。

やがて、小さくノックの音がした。

 

「どうぞ」

 

柔らかな、それでいて揺るぎのない声で応える。ドアが開くと、メジロアルダンが静かに姿を現した。ドアが開くと、メジロアルダンが静かに姿を現した。その表情は、いつもの優雅さを装っているはずなのに、どこかこわばっているように見えた。

アルダンは何も言わず、部屋の中央に設置してあるソファへと歩いていく。持っていた鞄を足元に置き、姿勢を崩すことなくソファに座ると、整えられた膝の上に両手を重ねた。

 

そして――黙ってトレーナーを見つめる。

 

その瞳には、普段の穏やかさとは違う、今にも助けを求めるかのような、どうすればよいかわからない子供のような迷いが浮かんでいた。

今にも助けを求めるかのような、どうすればよいかわからない子供のような迷いが浮かんでいた。

無言で、「どうか、来てください」と訴えかけているようだった。

 

女子トイレで自分に「普段通りに」と言い聞かせたはずなのに、トレーナー室のドアを前にしても、その心は一向に落ち着かなかった。この溢れんばかりの感情を、どう扱えばいいのか、彼女にはもう分からなかった。

トレーナーはそんなアルダンの様子を見て、直感的に悟った。

先ほど廊下で感じた、あの漠然とした違和感の正体――それは、他ならぬアルダンが生み出したものだと。トレーナーはPCを閉じてアルダンが座ったソファへ歩み寄り、アルダンの隣に座った。

普段なら気安い姿勢で座るが、背筋を伸ばし、膝に手を置くような、真面目な話を聞くときの姿勢になっていた。

 

そして、いつもの落ち着いた声でアルダンに語りかけた。

 

「アルダン、どうしたの? 少し顔色が悪いようだね」

 

アルダンは、その優しい声を聞いた途端、堰を切ったように、震える声で告げた。

 

「……先ほど、廊下で見ました」

「もしかして、さっき栗毛のウマ娘と話をしていたところ?」

「……はい」

 

トレーナーは、アルダンがすぐ近くで、彼と栗毛のウマ娘のやり取りを見ていたことを確信した。

アルダンの瞳が一瞬だけ翳りを見せた。

彼女の指先が、わずかに、しかし確かに震えているのをトレーナーは察する。

 

「新入生の子から相談を受けていたんだ。デビューを控えて不安を感じている子でね」

「その方と……とても、丁寧にお話されていましたわね」

 

アルダンの声に、微かな、しかし確かな棘が混じった。

 

(違う……。こんなこと、言いたいんじゃないのに……!)

 

アルダンの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

トレーナーさんはどんな顔をしているだろう。困っているだろうか。不快に思っているだろうか。しかし、一度口から出た言葉は、もう止められない。

 

「若い娘は……時に思いがけない方向に、憧れを抱きます。特に、『優しすぎる方』には、です。貴方のような方は、本当に……」

 

(イヤっ……! イヤっ……! 止まって、わたし……!)

 

アルダンの声に、微かな非難の色が混じり始めた。トレーナーの表情は変わらず穏やかだったが、アルダンにはトレーナーの瞳の奥に、ほんのわずかな困惑が浮かんだように見えた。

 

(嫌われる……っ! 止まって、わたし……! なぜ……止まらないの……!?)

 

自己嫌悪が津波のように押し寄せ、胸が苦しくなる。

 

「……彼女たちの心を、易々と魅了してしまうということを、ご自覚がありませんか?」

 

(違うっ……!!!)

 

アルダンの言葉は、もはや問い詰めるような、ほとんど叫びに近い響きを帯びていた。しかしその激しさに、トレーナーの表情は微動だにしない。ただ、ひたすらにアルダンの言葉の真意を探るかのように、その瞳を真っ直ぐに彼女に向けていた。

 

(違う……っ! 違います……っ! ただ、トレーナーさんに……トレーナーさんにだけ見てほしいのに……っ!)

 

トレーナーは、アルダンが抱える感情の深さを、改めて肌で感じ取っていた。これは単なる嫉妬ではない。トレーナーへの、あまりにも強い偏愛が生み出す苦しみだと。

 

「……あの笑顔も、他の誰かに向けているのを見るのは、私には……っ!」

 

言いかけて、アルダンは言葉を止めた。ハッとしたように、大きく目を見開く。まるで、口からとんでもない言葉が飛び出したことに気づいたかのように。その瞬間、彼女の顔から血の気が引いていく。これ以上口に出せば、取り返しがつかなくなると感じた。

 

(ああ……っ、見ないで……っ! こんな醜い私を、トレーナーさんに……っ! お願い……っ、見ないで……っ!)

 

喉の奥がひりつき、込み上げてくる感情を必死に押しとどめる。微動だにせず、ただひたすらに自分を見つめ続けるトレーナーの瞳に、自分の醜い姿が映し出されているように感じられ、絶望感が募っていく。

その瞬間、アルダンの瞳から、堪えきれなくなった一粒の雫が、すっと頬を伝い落ちた。

それから次々と、真珠のような涙が溢れ出し、彼女は慌てて顔を伏せた。

自分の顔を、醜い感情に歪め、涙で濡らした姿を、トレーナーに見られるのがたまらなく嫌だった。肩が小さく震え、沈黙が部屋に満ちる。

 

「……っ、う、うぅ……っ……ごめんなさい……っ、こんな醜い……私を……っ……」

 

アルダンは震える声でそう告げると、俯いたまま、座っていたソファから立ち上がろうとした。一刻も早く、ここから逃げ出したい。

 

「……今日は……っ、もう……帰ります……っ……」

 

この醜態を、もうこれ以上トレーナーに見せたくなかった。しかし、アルダンの手首が、優しく、しかし確かな力で掴まれた。

 

「待って、アルダン」

 

トレーナーの声は、ただ優しさに満ち溢れているような響きを持っていた。

しかし、アルダンは顔を上げられなかった。

 

「ごめんなさい……っ、これ以上あなたに……、醜い姿を見せたくないんですっ……」

 

トレーナーはアルダンの手首を優しく引き寄せながら、静かに、しかし強く言った。

 

「アルダン。僕は、大丈夫だから。どうか、あと少しだけ、ここにいてくれないか」

 

促されるまま、アルダンは再びソファに座り直す。

トレーナーは掴んだままだったアルダンの手首からそっと指を滑らせ、彼女の白い手を包み込むように握った。

 

「アルダン。ちょっと、僕の目を見続けてほしい」

「えっ……」

 

突然の、不可解な言葉に、アルダンは戸惑った。しかし、トレーナーの声に込められた揺るぎない優しさに逆らうことはできなかった。トレーナーに顔を向け震える瞼をゆっくりと上げ、潤んだ瞳でトレーナーを見つめる。

最初、涙で滲んだ視界では、トレーナーの顔がぼんやりとしか見えなかった。だが、トレーナーの瞳は、真っ直ぐに、吸い込まれるように深く、アルダンの目を捉えていた。その瞳には、困惑も、呆れも、嫌悪も、一切なかった。

あるのは、ただ、ひたすらに温かく、そしてすべてを受け入れるような、深い慈愛だけだった。

 

(……あ、トレーナーさんも、私を見ている)

 

その事実に気づいた瞬間、アルダンの頬に熱が集中した。羞恥心が、一気に胸の奥から込み上げてくる。

 

「……ト、トレーナーさん……?」

「もう少し、顔を近づけてごらん」

 

トレーナーはそう言って、わずかに身を乗り出した。アルダンもまた、導かれるようにトレーナーに体を寄せた。二人の顔の距離は、息がかかるほどに近かった。あと数センチで、唇が触れそうなほどに。

トレーナーの深みのある瞳が、すぐ目の前にあった。

その瞳の中に、涙の跡は残るものの、恥ずかしそうに頬を染め、戸惑いと期待が入り混じった表情を浮かべる自分の姿が、はっきりと映っていた。

 

(……私が、私自身を、トレーナーさんの瞳の中に見ている……)

 

余計に、恥ずかしくてたまらなくなった。同時に、先ほどの悲しむような表情が無くなり、どこかホッとしたような安堵感があった。

トレーナーは、優しく微笑みながら、問いかけた。

 

「ねえ、アルダン。僕の目には、何が映っているように見える?」

 

アルダンの心臓が、トクンと大きく鳴った。この状況で、そんな質問をするトレーナーに、羞恥と同時に、抗いがたい魅力を感じてしまう。

 

「……私が……映っています」

 

震える声で、ようやくそう答えるのが精一杯だった。トレーナーは、ふっと息を漏らすように笑った。

それは、アルダンが何よりも愛する、慈愛に満ちた笑顔だった。

 

「そう。僕の目には、君しか見えていない。この世界で一番、愛おしい君が……ずっと、僕の瞳の中にいるんだよ」

 

その言葉は、アルダンの心を、稲妻のように貫いた。

 

(……え……?)

 

トレーナーの瞳の中で輝くのは、確かに自分。

しかし、『一番愛おしい』と、ここまでストレートに、これほど甘く告げられたのは、初めてだった。

全身の血液が、耳の先まで一気に駆け上るような熱さを感じ、鼓動が激しく打ち始める。

ドキドキという音は、きっとトレーナーにも聞こえているに違いない。呼吸が浅くなり、視界がじんわりと霞む。トレーナーの瞳の奥に広がる、限りない優しさと、揺るぎない愛情が、アルダンの心を洗い流していくようだった。

トレーナーは、アルダンの熱を帯びた頬に、そっと手を添えた。

その手のひらは、少しだけ冷たく、それがまた、高鳴る心を落ち着かせるように心地よかった。

 

「君がさっき言った『醜い顔』なんて、どこにも見えない。君はいつも美しく、そして僕にとっては、どんな表情も、どんな感情も、すべてが愛おしい、大切なものだよ」

 

彼の優しい声が、深く、アルダンの心の奥底にまで染み渡る。

 

「君の喜びも、悲しみも、そして……今日見せてくれたような不安も。僕が全部受け止める。だから、決して一人で抱え込まないでほしい」

 

トレーナーの言葉は、アルダンが抱えていた全ての不安と自己嫌悪を、優しく溶かしていった。溢れるほどの安堵感と、彼への無限の愛情が胸を満たし、瞳から再び温かい雫が溢れ出した。それは、先ほどまでの苦い涙とは違う、純粋な喜びの涙だった。

 

「……トレーナー、さん……っ」

 

アルダンは、もう何も言葉にできなかった。

ただ、トレーナーの温かい胸元に、縋るように顔をうずめた。トレーナーの腕が、優しくアルダンの背中に回され、抱きしめられる。

温かくて、強くて、そして何よりも安心できる、トレーナーの腕の中。

 

(……ああ、なんて愚かだったのでしょう。こんなにも、トレーナーさんは、私を……)

 

全てを許されたような温かさが、アルダンの心を包み込んだ。

トレーナーはしばらくの間、アルダンが落ち着くまでそっと抱きしめていた。やがて、アルダンの震えが収まり、呼吸が穏やかになったのを感じて、彼は静かに問いかけた。

 

「ねえ、アルダン。もう一つ聞いてもいいかい?」

「……えっ?」

 

アルダンはトレーナーの胸に顔をうずめたまま、彼の腕の中に身を預けていたが、その声に反応して、顔を少しずらし、首を微かに傾げた。トレーナーの胸元から上目遣いに覗き込むように、潤んだ瞳で彼を見上げた。

 

「さっき、『僕の目を見続けてほしい』と言ったとき、君の瞳には何が映っていた?」

 

アルダンは、トレーナーの胸にうずめていた顔を、ゆっくりと上げた。まだ涙の跡が残る瞳が、恥ずかしそうにトレーナーを見上げる。

 

(当然、トレーナーさんが映っていたに決まっているではありませんか……)

 

そう心の中で呟きながらも、言葉にするのは、なぜだかとても気恥ずかしかった。

 

「……と、トレーナーさんが……」

 

蚊の鳴くような声でそう告げたアルダンの頬が、じんわりと赤く染まっていく。

 

「……あの時、貴方の瞳は、とても真剣で……私を心配しているようにも見えましたが、それ以上に……ただただ、私を受け入れようとしてくださる、深い優しさに満ちていました。普段の、からかいに乗ってくださるようなお顔ではなく……なんというか、もっと……」

 

アルダンはそこで言葉を切った。その時のトレーナーの顔を思い出すと、胸の奥が締め付けられるような、甘く、切ない感情が込み上げてくる。

 

「……貴方が、私を……この先、どのような私になっても……決して、手放さないと……そう、決めてくださるような……」

 

言葉にすればするほど、あの時のトレーナーの表情が鮮明に蘇り、再び頬の熱が増していく。自分の醜い部分を見せてしまった後で、あんなにも深く、そして真剣な眼差しを向けられていたのだと思うと、恥ずかしさで身悶えそうになる。同時に、トレーナーがそこまで自分を思ってくれているという事実に、心が震えるほどの感動を覚えた。

トレーナーは、アルダンの熱を帯びた頬にそっと触れたまま、優しく問いかけた。

 

「そっか。そう見えて、アルダンは……どう感じた?」

「ええっ…!?」

 

アルダンは、トレーナーの真っ直ぐな視線から逃れるように、わずかに視線を泳がせた。その問いは、彼女の心の最も繊細な部分に触れてくる。それでも、溢れる感情を抑えきれずに、震える声で、しかしはっきりと告げた。

 

「……トレーナーさんが、私の全てでいらっしゃるのだと……改めて、心の底から感じました。トレーナーさんがいらっしゃるからこそ、私は、私でいられるのだと……トレーナーさんこそが、私の止まり木なのだと……」

 

その言葉に、トレーナーは目を細め、静かに頷いた。

 

「そっか……」

 

そして、ふと、トレーナー自身の頬が、じんわりと赤く染まっていく。アルダンは、トレーナーのその珍しい姿に、思わず見入ってしまった。

 

「……改めて言葉にして言われると、なんだか……恥ずかしいね」

 

トレーナーはそう言って、照れくさそうに、でもどこか嬉しそうに、はにかんだ。普段、アルダンのからかいに困ったように微笑むばかりのトレーナーが、今は純粋な照れに染まる姿に、アルダンはふっと口元を緩めた。

そのくすりと静かだった笑いは、トレーナーの肩がわずかに震え、喉の奥からくぐもった笑い声が漏れ始めると、つられて、アルダンも堪えきれずに笑い出した。

 

「ふふふ、トレーナーさんったら! 本当に、面白いお顔をなさるんですから!」

 

普段の上品な立ち振る舞いとはかけ離れた、まるで小さな子供のように、声を上げて笑うアルダンの姿は、トレーナーの前でしか見せない、純粋な無邪気さに溢れていた。

 

二人は見つめ合い、互いの顔に浮かぶ羞恥心と、それ以上の愛おしさから、大声で笑い合った。部屋に満ちる温かい空気が、二人の絆を、以前よりもずっと強固なものにしたことを物語っていた。

 

(……ああ、もっと早くトレーナーさんに頼っていれば、こんなに苦しい思いをすることもなかったのですね……)

 

笑い声が静まると、アルダンは再び、深い安堵のため息を吐いた。

そして、名残惜しそうにしながらも、見上げていた顔をゆっくりと彼の胸元に預けた。温かい体温と、穏やかな心臓の音が、まるで子守唄のように響く。先ほどまでの激しい感情の起伏が嘘のように、アルダンのまぶたがとろりと重くなった。

安心しきったようにトレーナーの胸に体重を預けるアルダンを、トレーナーは慈しむように優しく抱きしめ返した。

その大きな手のひらが、アルダンの頭をそっと撫で、彼女の髪をそっと梳く。

 

(ああ、なんて心地良いのでしょう……このまま、ずうっと……)

 

アルダンの心は、満ち足りた幸福感に包まれていた。

 

 

 

   ◇ ◇ ◇

 

 

 

どれくらいの時間がそうして流れただろうか。部屋には穏やかな静寂が満ち、互いの温もりだけが確かな存在を告げていた。アルダンはすっかり落ち着きを取り戻し、トレーナーの胸元に深く身を預け、まるで夢の中にいるようだった。

ふと突然、トレーナーの優しい声が降ってきた。

 

「……アルダン。君に、お願いがあるんだけど」

「は、はい……。なんでしょうか?」

 

アルダンは少しだけ顔をずらし、首を微かに傾げ先ほどと同じように上目遣いでトレーナーの顔を見た。

 

「もし、良ければ――紅茶をいれてもらえないかな」

「……えっ?」

 

アルダンの瞳が、ほんの一瞬だけ驚きに揺れた。

いつもアルダンが気を利かせて紅茶を入れていたが、今日はトレーナーからアルダンに頼むという、初めての出来事だったからだ。

 

「今日ちょっとバタバタしててね……仕事も詰め込みすぎたし、少しだけリフレッシュしたくて。君の淹れてくれる紅茶が、今一番癒やしになるんだ」

トレーナーは、疲れたように首筋を軽く押さえる。

 

「君は頼まれていないのに、ここに来るたびに紅茶をいれてくれて嬉しいんだよ。実は……こうして君にお願いするの、初めてだよね?」

「……ええ、確かにそうでしたね」

「……やっぱり、君がいれてくれた方が断然美味しくて。香りも、味も、雰囲気も。自分で何回か試してみたんだけど、どうもうまくいかなくて」

 

その言葉に、アルダンの胸がきゅっと鳴った。

 

(……やっぱり、ずるい人)

 

頬が、わずかに熱を持つ。

 

「……分かりました。少々お待ちくださいませ」

「あ、待っている間、ちょっと仕事してて大丈夫?」

「はい、準備が整いましたら声をかけますね」

 

微笑みをたたえながら、アルダンは静かに立ち上がる。 彼女の所作には、名家の品が自然に滲む。ポットを温め、茶葉を選び、湯の温度を見極める手付きはまるで舞踏のように流麗だった。トレーナーの疲れを癒やそうと、とっておきの洋菓子も添えようと準備する。 やがて、紅茶のやわらかな香りが、トレーナー室をふんわりと満たす。

 

 

 

   ◇ ◇ ◇

 

 

 

「トレーナーさん、お待たせいたしました」

 

アルダンは湯気の立つ紅茶のカップと共に、可愛らしい小皿に盛られた洋菓子を差し出した。

その小皿には、見るからに繊細で上品な、初めて見る種類のクッキーが宝石のようにいくつか並んでいた。

焼き色の濃淡まで計算されたような芸術品で、添えられたロゴマークに見覚えはなくとも、そのたたずまいから高価な品だと一目で分かった。

二人はソファに移動し、横並びで座る。トレーナーはゆっくりと紅茶を受け取る。

 

「おや、洋菓子まで。気が利くね、アルダン。これはまた……見慣れないクッキーだね」

「ふふ、先日、屋敷に戻ったときにいただきました。トレーナーさんに食べていただきたくて」

「うん、ありがとう。……では、いただき、ます」

 

トレーナーはわざとらしく上品にそう告げてから、カップに口をつけた。だが、その飲み方はどこか“らしく”ない。ソファの背に体を預け、脚を軽く組みながら、カップを片手でくるりと回すように持つ。

ラフで、どこか気の抜けた――でも妙に落ち着いた所作だ。

 

対照的に、アルダンは自身のカップに手を伸ばすと、背筋を伸ばしたまま、繊細な指先を揃えて取っ手を持つ。

小さく上品な所作でカップを口へと運び、紅茶の香りを静かに享受する。

名家の令嬢たる品格が、その一挙手一投足に滲み出ていた。

 

その、対極的な二人の飲み方に、アルダンはふふっと微笑んだ。

 

「トレーナーさんったら、普段そのようにくつろいで飲んでいましたか?」「確かにそうだね。普段はデスクで飲んでたけど、ソファで一人で飲むときはこんな感じなんだ。君の前だからいいかなって思って。幻滅しちゃった?」

 

アルダンは小さく目を見開くと、ぷい、と顔を背けた。その白い頬は、わずかに朱に染まっている。

 

「もうっ! 幻滅なんてとんでもないです!」

 

そう言いながらも、アルダンの口元は隠しきれない笑みで緩んでいる。

ちらりとトレーナーを見やると、トレーナーは困ったように眉を下げていた。

 

「むしろ……私の前でしか見せてくださらない、そんな素のお顔を拝見できるなんて、光栄です。それに……私だけの特別なトレーナーさん、という感じがして、少し……いえ、かなり、嬉しいんですよ?」

「……参ったな、アルダンには敵わないや」

 

トレーナーは苦笑しながら、けれどその瞳は優しげに細められていた。

 

「……トレーナーさん。私の前だからいいとおっしゃいましたが、それ、口説いていると受け取ってよろしいのでしょうか?」

「うーん、違うとは言わないけど、言い過ぎとも言わないかな」

「ふふ。私の前でだけ、そんなに気を抜かれるなんて……まるで、ご主人様の前でだけ見せる、忠犬のようではございませんか?」

「それ、誉め言葉?」

「もちろん♪」

 

ふたりの笑い声が、穏やかに室内に響いた。

少し静けさが戻った頃――

 

「それにしても、本当に美味しいなこの紅茶……」

 

紅茶を口に含みながら、トレーナーがぽつりとつぶやく。

 

「アルダン、今度よかったら、僕にも紅茶のいれ方を教えてくれない? 君の特製ブレンドとか、何か秘密の配合があるんだろう?」

「……ふふっ」

 

アルダンが唇に指を添えて、いたずらっぽく笑った。

 

「それは……秘密です」

「え?」

「トレーナーさんには、私の紅茶を味わっていてほしいんです。……それだけで、十分でしょう?」

「はは……それもそうか」

 

笑いながらも、トレーナーは少しだけ驚いたような顔をする。アルダンはその視線から目を逸らし、そっとカップの縁を見つめた。

 

(……この紅茶の味を知っているのは、私とトレーナーさんだけ。そして、これからもずっと――そうでありますように)

 

それからの時間は、どこか特別だった。 ふたりの会話は尽きることなく、笑い声が何度も室内に響いた。

少し時間が経過した後、突然アルダンは何か思い出したかのように話を始めた。

 

「トレーナーさん、せっかくのクッキーですよ。お味の感想も聞かせてくださらないと、用意していただいた母に申し訳が立ちません」

 

アルダンは可愛らしい笑顔でそう言いながら、小皿に盛られたクッキーの一つをそっと指でつまんだ。トレーナーの目の前までそれを運び、優雅な仕草で「あーん」とトレーナーの口元に差し出す。

 

「え、アルダン? 自分でも食べられるよ?」

 

トレーナーは一瞬戸惑ったが、アルダンの真剣な、それでいてどこか面白がっているような瞳に、観念したように小さく口を開けた。クッキーがトレーナーの唇に触れるか触れないかのところで、アルダンは悪戯っぽく微笑み、素早くクッキーを口元から引き離した。

 

「いけません、トレーナーさん。そのようにはしたない召し上がり方をなさるのですか?」

「は、はしたないって……」

「お口は、しっかり開いてくださいませ。……はい、あーん」

 

今度はトレーナーの口元に、寸分の狂いもなくクッキーが差し入れられた。サクサクとした食感とともに、バターとアーモンドの香ばしい風味が口いっぱいに広がる。

 

「お、美味しいねこのクッキー」

「本当ですか?良かったです♪」

 

トレーナーの感想を聞くと、アルダンは満足そうに頷いた。

 

「では、次はトレーナーさんの番です。私にも、お一つ、あーんしてくださいませ?」

「っ……!」

 

アルダンの提案に、トレーナーは目を丸くした。予想外の展開だったのだろう。しかし、断れる雰囲気ではない。

トレーナーは自分のカップをテーブルに置くと、小皿からクッキーを一つ取り、アルダンの口元へ差し出した。

アルダンは真っ直ぐトレーナーの瞳を見つめながら、そのクッキーを口にしようとした……その時だった。

 

スッ、とアルダンがクッキーではなく、そのクッキーを持ったトレーナーの指先に顔を寄せた。

そして、ゆっくりと、トレーナーの指をそっと口に含んだのだ。

チュ、と微かな吸い付くような音が、静かな室内に響いた。

熱を帯びた、吸い付くような感触に、トレーナーは息を呑んだ。

反射的に、僅かに背筋が伸びた。トレーナーの瞳は大きく見開かれ、困惑の色を隠しきれない。それでも、その視線はアルダンの瞳から離れようとしない。

 

「ア、アルダン……?」

 

指の腹を、僅かに、舌の先が這うような感覚。直接的なキスではないが、その行為は、充分に親密で、挑発的だった。普段の品行方正なメジロ家の令嬢とはかけ離れた、蠱惑的な表情がアルダンの顔に浮かんでいた。

僅かに潤んだ瞳はトレーナーを見つめ、甘く蕩けるような笑みが唇に浮かんでいる。その湿った唇の奥には、わずかに舌の先が見え隠れしていた。

トレーナーの顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。アルダンはトレーナーの動揺を楽しみながら、満足げに指を離し、何事もなかったかのように微笑んだ。

 

「……トレーナーさんの指先、とても美味しそうでしたので」

 

アルダンの妖しいほどの甘い声が、静かな室内に響く。トレーナーは言葉を失い、完全に固まってしまっていた。

トレーナーは、未だ口元から離されたばかりの指先を見つめながら、困惑と苦笑が混ざったような表情を浮かべた。その顔はまだ赤く染まったままだ。眉間には深い皺が寄り、戸惑いを隠せない。

しかし、その瞳の奥には、アルダンへの深い愛おしさが揺らめいている。

 

「君は、一体いつから……そんないたずらっ子になったんだい?」

「ふふ、トレーナーさん。それは、『貴方様の色』に染まった瞬間からですよ」

 

アルダンは艶やかに微笑み、その瞳は挑戦的な輝きを宿していた。

アルダンは、艶やかに弧を描いた唇の端を、ゆっくりと舌先でそっとなぞった。トレーナーの指の感触を反芻するかのように、わずかに濡れた唇が妖しく光る。

その視線は、未だ完全に固まったままのトレーナーの困惑した顔を捉え、満足げに細められた。一瞬の間が、沈黙の中に熱を帯びて満ちる。

 

「先ほどの埋め合わせ、少しはできましたでしょうか?安心させていただき嬉しかったのですが、私だけが恥ずかしい思いをするのは不公平ですものね?」

 

アルダンは上気した頬をわずかに赤らめながらも、瞳の奥には確かな愉悦を宿していた。その視線はトレーナーを離さず、彼の反応を面白がるように、くすりと妖しく笑った。

そして、身を乗り出すと、トレーナーの顔にそっと顔を近づける。その時、アルダンはトレーナーの腕に手を伸ばし、優しく、しかし確かな力でその二の腕を掴んだ。

トレーナーの顔はまだ熱を持ち、赤みが引いていなかった。

トレーナーの瞳はアルダンの動きを追うように見開かれ、完全に警戒態勢に入っているのが見て取れる。だが、トレーナーは微動だにせず、ただアルダンの美しく、そしてどこか危険な輝きを宿した瞳を真っ直ぐ見つめ返していた。

そこには、戸惑いと、されるがままの諦め、抗いがたいアルダンへの強い引力が同居している。

 

「まあ、トレーナーさんったら。顔が真っ赤で熱そうです♪ 私が冷やして差し上げます」

 

そう言って、アルダンはトレーナーの額に、そっと自分の額を合わせた。

ひんやりとした肌の感触が、熱を持ったトレーナーの皮膚に心地よい。

まるで、どこか赤子をあやすかのような優しげな動作。

だが、その距離感は、あまりにも近すぎた。

アルダンの甘い吐息が、トレーナーの頬をくすぐる。

 

「っ……!」

 

アルダンの瞳は、トレーナーの真っ赤な顔色を間近で観察するように細められ、愉悦の色を深くしていた。

その口元は満足げに弧を描き、高貴な笑みを浮かべている。

 

「もう、トレーナーさんったら。そんなに固まってしまわれて……わたしがいないと、本当に隙だらけですよ♪」

「……アルダン」

 

掠れた声で、トレーナーがアルダンの名を呼んだ。その声には、困惑と、ほんの少しの諦めが混じっていた。

 

「ああ、君が傍にいてくれるなら、本当に助かるよ。だって、君は僕にとって、誰よりも必要な存在だから。君以外に、僕の隣にいてほしいウマ娘なんて、どこにもいないんだからね」

 

トレーナーのまっすぐな言葉に、アルダンはピタリと動きを止めた。額を合わせたままの、甘く密着した体勢で、彼女の美しい顔が、まるで熱を出したかのように真っ赤に染まっていく。瞳は大きく見開かれ、先ほどまでの妖しい輝きは鳴りを潜め、ただ純粋な驚きと、そして途方もない幸福感が溢れ出していた。

 

「えっ……?」

 

ほとんど声にならないほどの、か細い吐息のような声が漏れる。アルダンはゆっくりと、まるで信じられないものを見るようにトレーナーから身を引いた。ソファの背に、ぐっと体を押し付ける。先ほどまでの妖艶さは消え失せ、羞恥に染まった頬は艶やかな長い髪の陰に隠れる。

その表情は、普段の自信に満ちたメジロ家の令嬢とはかけ離れた、ただの無垢な乙女のそれだった。

 

(……そんなことを、しれっと仰るなんて……!)

 

アルダンの胸が熱くなり、制御できないほどの歓喜と羞恥が同時に押し寄せた。トレーナーの腕を掴んでいた手に、無意識に力がこもる。

 

「……っ、もう、トレーナーさんっ! ずるいです!」

「えっ?!」

 

顔を真っ赤にしたアルダンは、そのままトレーナーの胸に顔を押し付けてしまった。トレーナーは、突然の行動に驚きながらも、優しくその頭を撫でた。アルダンは、そのまま少しの間トレーナーの胸に顔を埋めていたが、やがてそっと顔を上げた。

上目遣いでトレーナーを見上げると、トレーナーは穏やかな眼差しでアルダンを見つめ返している。

その瞳に宿るのは、変わらぬ深い愛情と、ほんの少しの困惑。

アルダンは、先ほどのトレーナーの言葉を、もう一度心の奥底で反芻した。

(私だけが、必要な存在……私以外に、隣にいてほしいウマ娘はいない……)

 

その確かな言葉が、じわりと全身に幸福な熱を広げていく。

先ほどまでの、からかいと羞恥、そしてわずかな不安など、あっという間に消え去ってしまった。トレーナーの腕の中にいる自分自身が、こんなにも満たされている。この温かさ、この安心感。トレーナーの言葉が、何よりも確かな『特別』をくれた。

アルダンの口元に、自然と笑みがこぼれた。それは、心からの、偽りのない、柔らかな笑顔だった。

 

「ふふ……」

 

アルダンのその笑顔につられるように、トレーナーもまた、優しい笑みを浮かべた。その表情は、アルダンの挑発に困り果てていた先ほどとは打って変わり、ただただ穏やかで、幸福そうだった。

 

 

 

   ◇ ◇ ◇

 

 

 

トレーナーは少し顔を上げると、ふと、壁掛け時計に視線を向けた。小さく目を見開き、すぐに表情を曇らせた。

 

「アルダン、そろそろ門限の時間だよ……」

 

トレーナーの呟きに、アルダンはトレーナーの胸元に顔をうずめたまま、小さく身動ぎした。体はいつでも立ち上がれるはずなのに、動くことができない。トレーナーの温もりが、彼女を離したくないと訴えかけていた。

 

「トレーナーさん……」

 

アルダンの声は、普段の凛とした響きとはかけ離れた、とろけるような甘さを含んでいた。顔をほんの少しだけ上げ、上目遣いで彼を見上げる。その瞳は、子供のように無邪気で、しかし隠しきれない女の気配を宿していた。

 

「もう少しだけ……こうしていたいです、ダメですか?」

 

トレーナーは、アルダンの真剣な瞳に応えるように、ゆっくりと瞬きした。その表情に、わずかな戸惑いと、深い愛情が浮かび上がる。そんな彼の様子を見て取ると、アルダンの瞳が潤み、さらに言葉を重ねた。

 

「もっと、トレーナーさんに甘えたいのです……」

 

切なる願いを込めた声に、トレーナーは迷うことなくアルダンの目を真っ直ぐ見返した。彼の瞳は、どんな時も変わらない、静かで落ち着いた光を湛えている。

 

「明日も会えるよ、アルダン」

 

トレーナーの声は、ゆっくりと、諭すように響いた。

 

「それに、君の体調も大事だ。あまり無理をさせたくないからね。僕のスケジュールにも、ちゃんと君の時間を一番に、たっぷりと入れてあるよ」

 

その言葉に、アルダンの耳がピクリと反応した。微かに肩を落とし、諦めるように息を吐きながらも、その瞳には確かに満ち足りた光が宿っていた。

トレーナーが自分の体調を気遣い、そして何よりも自分のために時間を割いてくれている。トレーナーの言葉の端々から、自分が彼にとって何よりも優先される存在だと改めて認識させられた。

 

(……私が、トレーナーさんにとって一番……)

 

その確信が、アルダンの心を深く、優しく満たしていく。立ち上がるべく、ソファにかけた足を動かし始めたその時、アルダンはふと立ち止まった。

振り返り、まだどこか名残惜しそうにトレーナーを見つめる。

 

「あの……トレーナーさん」

 

アルダンは少しだけ頬を染めた。

 

「今日みたいに、私が、もし……取り乱してしまっても、また、トレーナーさんに甘えても、よろしいでしょうか……?」

 

トレーナーは、アルダンの少し不安げな問いかけに、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。

 

「もちろん。君が僕を必要としてくれるなら、僕はいつでも君の傍にいる。だから、安心して甘えておくれ。」

 

トレーナーの言葉は、アルダンの心の奥底に深く響いた。

 

「……っ、トレーナーさんっ……!」

 

アルダンは感極まったように、再びトレーナーの胸に飛び込んだ。今度は先ほどのような羞恥やからかいの感情ではなく、純粋な喜びと安堵が彼女を突き動かしていた。

しばらくして、アルダンはゆっくりと顔を上げた。その瞳はまだ潤んでいたが、そこに宿るのは、今まで見たことがないほどに穏やかで、幸福に満ちた輝きだった。アルダンはトレーナーの腕をぎゅっと掴んだまま、名残惜しそうに、しかし確かな眼差しで問いかけた。

 

「トレーナーさん……このまま、ずうっとこうしていたいですけれど……また明日も、会えますか?」

 

トレーナーは優しくアルダンの手を握り返し、微笑んだ。

 

「大丈夫、また明日会えるさ」

 

アルダンの瞳に、じわりと安堵の色が広がる。

 

「ふふっ……、わかりました。トレーナーさんのそのお言葉を胸に、今日は寮に戻ります」

 

ようやく彼女は身を引き、立ち上がって足元の鞄を手にする。先ほどまで絡み合っていたような足取りとは打って変わり、軽やかな足取りだった。二人はトレーナー室の扉の前まで移動したが、アルダンが一度トレーナーに振り返った。

 

「おやすみなさい、トレーナーさん。今日はその……、ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」

「うん。おやすみ、アルダン。また明日ね」

 

トレーナーは片手で小さく手を振った。

それを見たアルダンは、先ほどの甘い記憶を反芻するように、頬をじんわりと赤く染めた。その表情は、来た時のような不安や緊張はどこへやら、内側から満ち足りた幸福感が溢れるように、うっとりと緩んでいた。

トレーナーの控えめな手振りに応えるように、アルダンも小さく、しかし心のこもった手振りで応え、名残惜しそうにトレーナー室を後にした。

扉がパタンと音を立てて締められる。トレーナー室にはトレーナーが一人残された。

 

その後、トレーナーはソファに深く身を沈め、大きく息を吐いた。トレーナー室には、彼一人だけが残されている。ソファのサイドテーブルに残されたクッキーの小皿を手に取り、一口食べる。

 

(……アルダン。やはり、今日は様子が違った)

 

トレーナーの表情から、先ほどの甘やかな雰囲気は完全に消え去っていた

脳裏に、普段の彼女の姿が鮮やかに蘇る。いつもは誰に対しても分け隔てなく穏やかで、慈しむような眼差しを向ける。「清楚」という言葉がこれほど似合う存在は、他にそうそういない。そしてレースとなれば、炎のような情熱を秘めてスタートゲートに立ち、どんな逆境にも微塵も動じず、結果にこだわる。そんな彼女が、今日に限ってどこか不安げに見えたのだ。

 

(……僕が、他のウマ娘や女性と話しているのが嫌だったのか?)

 

今日の午後に少しだけ言葉を交わした栗毛のウマ娘の顔がよぎる。育成者として当たり前の、何気ない交流に過ぎなかったはずだ。けれど――その“当然”が、アルダンの心を乱す原因になっていたのだとしたら。

 

(……やはり、嫉妬、なのか)

 

トレーナーの思考が、その単語に辿り着く。今までも、アルダンから向けられる好意は理解していた。だがそれが、これほどまでに彼女の感情を揺さぶるものだったとは――。

しかし、トレーナーの中にはもう一つの疑問が燻っていた。

今日のアルダンは、何かを問いただすというより、ひどく混乱し、トレーナーに何かを訴えているようにも見えたのだ。

 

(……本当にただの嫉妬なのか? 彼女は一度、ひどく悲しむような顔をして、その場から立ち去ろうとしていた……あれは一体?)

 

思考の沼に深く沈み込み、答えを探そうともがくが、まるで掴みどころがない。トレーナーは、ふう、と大きく息を吐き、ソファの背もたれにぐっと体重を預け、天井を仰ぎ見た。

 

「……今後、女性への振る舞いを気を付けるべきか。それとも、もっとアルダンを見るべきか……」

 

誰もいないトレーナー室で一人、そう呟いた。ふと、スマートフォンが震える。

ディスプレイには「チヨトレ」――サクラチヨノオーのトレーナー――の名前が表示されていた。トレセン学園に来た時からの同期であり、気心の知れた友人だ。

通話に出る。

 

「もしもし、どうしたの?」

『ああ、突然すまん。今少しいいか? チヨから聞いたんだが……アルダンのことで話がある』

「……アルダンのこと?いいよ、大丈夫」

 

トレーナーの心臓が、微かに跳ねた。やはり、今日のアルダンは、周囲にも異変を感じさせていたのか。

 

『今日、学園の廊下でたまたまチヨとアルダンが会ったんだが、「アルダンさんの目が怖かった」とチヨが言ってたんだ。普段、あんな風に感情を露わにすることなんてないから、チヨもすごく驚いていたんだ』

「……」

『気にしすぎかもしれないが、念のため伝えておく。チヨがわざわざ俺に言うってことは、よっぽどの話だと思ってな』

「ありがとう。……実は今日、こっちでも少し感じてたところだ」

『そうなのか……。まあ……、あまり思いつめすぎんなよ。アルダンは真面目だからこそ、一途すぎるところあるからな。お前に向ける情熱は、他の誰よりも、きっと……計り知れないものがあるだろうから』

「分かってる。気をつけるよ」

『おう、それじゃあ』

 

通話を終えると、再び視線は静まり返ったドアの方へ向いた。

先ほどまでそこにいたアルダンの残像が、目に焼き付いている。控えめな仕草、甘える声、すがるような視線――どれもが、いつものアルダンとは少し違っていた。

 

(……嫉妬。そして、それだけではない、何か自己嫌悪に近い感情……)

 

トレーナーは、壁掛け時計に目をやった。時刻はすでに夜遅いが、実は明日までに終わらせないといけない作業が残っている。

 

「ああそうだ、仕事をそのままにしていたんだった」

 

残業は避けられないが、なぜかトレーナーの顔に疲労の色はない。むしろ、どこか清々しいような表情が浮かんでいた。

 

「さて、と」

 

トレーナーは小さく呟いた。

アルダンが淹れてくれた冷めた紅茶が残るカップと、クッキーの小皿を手にしてソファから立ち上がった。その足取りは、先ほどまでの重苦しい思考とは裏腹に、どこか軽い。デスクへと向かい、椅子に深く腰を下ろしてPCを立ち上げた。

トレーナーは、仕事の合間に、カップに残った冷たい紅茶を一口、また一口と口に運んだ。冷えた紅茶も、甘く優しい味がした。そして、サクサクとしたクッキーをゆっくりと味わう。その一つ一つが、今日の出来事を鮮やかに思い出させた。

 

ふと、クッキーを摘まんだ自分の指先が目に入る。

途端に、あの時、アルダンが指を口に含んだ瞬間の、微かな吸い付くような感触と、熱を帯びた舌の先が這うような感覚が蘇ってきた。反射的に指先がピクリと震える。その時の心臓の高鳴りを思い出し、トレーナーは思わず息を飲んだ。

不意打ちだったが、不快感は微塵もない。むしろ、アルダンの大胆さと、彼女が自分に見せた無防備なまでに甘えた姿に、言いようのない愛おしさが込み上げてくる。

 

「……まったく」

 

トレーナーは小さく呟くと、先ほどの頬を赤く染めたアルダンの姿を思い出し、口元にやわらかな笑みを浮かべた。そう言って、彼は再びPCの画面に視線を戻し、カチャカチャとキーボードを叩き始めた。

 

 

 

 

 

「そういえばこのクッキー、濃密で甘いな。……まるでアルダンみたいだな」

 

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